こんな事を言うのもなんだけど、楽しかった思い出がある――――
次々に倒れていく、両の里の忍達。確かにこの戦いでは、辛い出来事が沢山あった。
御霊は血に染み、絆は刃に分かたれ、闇に潰えし真心が泣いたかもしれない。
だけど、私達の里の忍者たちは……どいつもこいつも、本当に馬鹿ばかりで。
揃いも揃って……、もう呆れる程に愉快な連中だったのだ。
いつも私の背中を支え、隣を歩き、泣いているならばもう無理やりにでも笑わせに来た。力づくで泣き顔を笑顔にしに来た。
そんな記憶しか、今は思い出せない。楽しかった思い出しか、頭に浮かんでこない。
お気張りなされぃ、朧さま――
頑張って下され、弦之介さま――
信じております、朧さま。弦之介さま――
そんな想いと、楽しかった思い出だけを残して。忍達は皆、闇へと消えていった。
私達の幸せを心から願ってくれていた。抱えきれない程の大きな愛をくれた。
ならば、わたくしがこれから成すべきは、いったい何にございましょう?
わたくしの望む結末とは、どういった物にございましょう?
ただひとつ、このわたくしの持つ、譲れぬ気持ち。
――――それはやはり、『愛する者よ、死に候らえんな!』にございましょうか。
……………
…………………………
………………………………………………
「わしは二代目半蔵が一子、響八郎。
そなたは憶えてはおらぬだろうが、一度わしはそなたと会うた事がある。
まだ幼き頃の事じゃが……」
五月七日、早朝。
この日、服部響八郎は、旅籠にいる朧の元を訪ねていた。
本日の夕刻、朧は此度の忍法争い最後の戦いを控えている。その顔は俯き、表情は伺えない。
「此度の事……。そなた達一族を死地へと追いやった我ら服部家を……、
さぞ恨んでおろうな」
響八郎はこれまで、この忍法争いを影より見守って来た忍だ。……いや、正確には「見守ろうとは頑張っていた忍」で、いつも戦闘になるとその煽りを受けて(?)死なぬ程度の大怪我を負わされ続けていた。
だからもう、ろくに忍者たちの顔すら見れてはいなかったのだが……。
しかしながら朧たちの事情、そして失った物の大きさは察するに余りある程だ。
「……詮無き、事ゆえ」(陽炎ちゃんは『服部ぜったいブッ殺してやる』と言うておりましたが)
「……ッ!?!?」
朧は気付かず声に出してしまっていたが、耳の良い響八郎には、全部聞こえていた。
「とっ、ところでそなた、刀は持ち合わせておるか?!
いやっ、よいよいっ! ではこれを使うとえぇ! 無銘なれど業物じゃ!!」
響八郎は半ば押し付けるようにして、立ち合いに使う刀を渡す。
「……かたじけ、のぅ」(他にも陽炎ちゃんは『服部の姓ついてるヤツ、全員ちん切りの……
「 な、何か望む事はあるかっ?! 今となっては、たいした事はしてやれぬやもしれんがっ!! 」
「……なにも……ございませぬ」
「そ……そうか」
出来る事なら土下座でもなんでもさせて頂きたい気持ちであるのだが……。討ち死にならともかく、ご子孫を残せなくなるのは非常に困ってしまうのだ。この若い身空で。
申し訳ないやら怖いやらで居たたまれなくなった響八郎は、静かに立ち上がり、この場を去ろうとする。
――――しかしその時、突如“ある思い付き“が朧の頭に浮かぶ。
「……ッ! 響八郎さま! しばしお待ちをッ!!!!」グイッ!
「――グゥエッ!!」
思わず響八郎の襟元を引っ張ってしまい、立ち去ろうとしていた響八郎の片足が浮いた。カエルみたいな声も出る。
「響八郎さまは、足は速ぅ御座いますね? ならば是非ひとつ、
伊賀の屋敷より取って来て頂きとぅ品が御座いますれば!」グイグイ!
「お゛ごっ! ……の゛っ! 死ぬ゛ッ……!!」
後ろにひっくり返った響八郎が、グイグイと引っ張られ首つりみたいな状態になっている。
それに気付かないまま朧は、ひたすら誠心誠意、響八郎へとお願いをするのだった。
……………
…………………………
時刻は夕刻となり、ここは駿府城の西方にある“安部川“のほとり。
そこには現在、この果たし合いの立会人を務める服部半蔵、そして阿福らが集まっていた。
「我らが伊勢へ参る途中……この争いに立ち会う仕儀となりましたのは、まったくの偶然。
この果し合いに我らが何の手も加えておらぬ事を、くれぐれも大御所さまへの
証人となって頂きとうござりますれば……」
「承知しており申す」
やましい所でもあるかのように早口で申し開きをする阿福。それを半蔵が、素っ気なくあしらう。
(し、信じておるぞぅ朧よぉ~ッ! そなたなら出来るっ! 出来まする!!
朧はほんに強き子じゃ! この阿福が、しっかり見守っておるぞよぉぉ~~っ!!)
弦之介、朧ともに無傷でこの日を迎える事が出来た。健康体そのものである。
普通で考えれば乙女である朧が身体的には不利なのだろうが、そんな常識で忍同士の戦いは測れない。それは阿福も充分に心得ているつもりだ。
なにやら共に過ごす内、ものっすごく朧へ情が沸いてしまった阿福。もし万が一朧が敗れそうになった時には、もう阿福も家来衆を引き連れて突っ込んでいってやろうと思っている。
さっき家来にこっそり小刀も借りたのだ。「大奥の女なめんなよ! シクヨロ!」といった塩梅だ。
「……それにしても、朧はまだ来ぬのかえ? 随分と準備に手間取っておるようですが……」
「傍に響八郎を付かせており申す。朧どのの準備が出来次第、この場へ案内して来るでしょう」
「まぁそうですね……乙女ですものね。 殿方と違い、なにかと準備は必要と
なってきますればっ! 弦之介なんぞ少しくらい待たせておけば良いのですっ。
そのまま川で風邪ひいてたも! 体調くずしてたもっ!!」
なにやら思っている事がそのまま口に出ているが、気が付かないふりをしてあげる半蔵。
「……父上、朧どののご準備が整いまして御座います。
ただいまより入場つかまつるが、皆様方よろしいか?」
その時、見事に音も立てる事無く、響八郎が半蔵の傍に控えた。
「ん……? 準備が出来たのなら、是非もない」
「はよぅ! はよぅ呼んで参らぬか!! 朧ぉ~~っ!!」
「――承知致しましました。では……」
響八郎はなにやら「ん゛っ! ん゛っ!」と喉の調子を整える。そして辺り一帯に響き渡る程の大声で、こう宣言する――
『――――伊賀鍔隠れ衆、お幻さまが孫! 朧!! ご入場ぉぉ~~~~うッ!!!! 』
…………………………
\ ♪ ぶぅぅぅえぇぇぇ~~~~~~~~~~~っっ♪♪♪ /
「 !?!? 」
「 !?!? 」
辺り一帯に大音量で“雅楽“の音色が響く。この場に似つかわしくないその音に、服部と阿福は目を見開いて驚愕する。
「……こ、これは笛の音色?! 太鼓の音色も?!」
「いったいなんじゃこの音楽は!! これはまるで、祝言を挙げる時の…………」
阿福がその言葉を言い終わる前に、雅な篭の中より、朧の姿が現れる。
――――決戦の場に舞い降りし乙女。それは眩いばかりの“白無垢“姿であった。
…………………………
どこからどう見ても、文句のつけようもない“花嫁“。
伊賀のお幻より贈られし花嫁衣裳に身を包んだ朧。
甲賀伊賀、両の里から祝福されし願いの形……。
愛する殿方に全てを捧げ、永久(とこしえ)に添い遂げる乙女の誓い……。
その純白を身に纏う朧が今……、“花婿“、甲賀弦之介の元へと舞い降りた――――
…………………………
「…………朧、どの」
白無垢を身にまとい、ゆっくりこちらへと歩み寄る朧。その歩く姿はまさに白百合の如し。
この上なく美しく、はかなげなその姿に……、弦之介はもう言葉も出てこない。
(アンガー……!)
(アンガー……!)
そしてそれは、周囲で見守る者達とて同じ。阿福と半蔵などは顎が地面に突き刺さらんばかりに開いており、弦之介のそれとはちょっとだけ違う感想のようだが。
もうここまでの事をやられてしまうと、阿福達はグゥの音も出ない。
ちなみに雅楽の演奏などは全て、服部一族の皆さんにご協力頂いていたりする。
「弦之介さま……参りまして御座います」
「……あぁ。綺麗じゃ朧どの。……天女と見まごうてしまう程に」
この場に人目がある事も忘れ、ド直球のストレートを投げる弦之介。
「おっ……! お恥ずかしゅうございまする、弦之介さま……!
弦之介さまの方こそ、いつも凛々しゅうございますれば……“きむたく“にございまする」
いやんいやんと身をくねらせる白無垢の朧。残念ながらきむたく云々に関しては「はて?」と弦之介には通じていないが、二人の周りには今ハートが舞っている。結界忍術か。
「この日が来るのを……、ずっと待ち望んでおりました」
「あぁ……実に、待ち遠しゅう御座った」
そして互いに見つめ合い、手を取り合う二人。その目からスキスキビームをフルバーストしているお二人であるが、これは彼らの瞳術とはなんの関係もない。
もし甲賀伊賀忍法に“石〇ラブラブ天〇拳“的な奥義があるのならば、今この場でも使って見せる物を。それが残念でならない。
「弦之介さま……? 実はひとつ……、朧は弦之介さまにご提案したき事が……」
「ん? 何に御座るか朧どの?」
「これを……。弦之介さま、伊賀にお忘れにございましたゆえ」
朧は懐から“弦之介の笛“を取り出し、彼へと手渡す。
「これは……。かたじけのぅ、預かっておってくれたのじゃな」
「はい♪ 必ずお渡しせねばと、肌身離さず持っておりました♪
そして今日、朧は、弦之介さまと――――」
「――――承知致した。では朧どの、こちらへ」
……………
…………………………
川のほとりに、清涼な笛の音が響く。
「……な、何をやっておるのじゃ……あの二人は」
弦之介の笛の音色に合わせて、白無垢姿の朧が優雅に舞う。
「いや、拙者には……若者の考える事は……とんと……」
その姿をただポケ~っと見守っている阿福と半蔵。二人には知る由もないが、これは二人が逢瀬の度に稽古を積み重ねてきた演目。
甲賀と伊賀の和睦を願う、笛と舞い。
弦之介の真心にそっと朧が寄り添う、二人の願いそのものの形――
(――――あぁ、幸せに御座いまする、弦之介さま)
朧の見せる美しい表情に、見ている者達は思わず息を呑む。誰もこの二人から目を離す事が出来ずにいる。
舞いと笛から伝わる、二人の想い。その清らかさと儚さに、心奪われる。
(お婆さま、伊賀のみんな……、朧は成し遂げましてございまする。
もうなにも、思い残す事はございませぬ――――)
…………………………
やがて舞と笛の音が止み、川のほとりが静寂を取り戻した頃。
乙女は心からの幸せをその表情に浮かべ、ゆっくりと愛する人へと向き直った。
「弦之介さま、ありがとうございまする。朧は今……幸せにございまする」
頬を桜色に染め、笑みを浮かべる朧。先ほどの息を呑むような美しさではなく、それはまるで花の咲いたような笑顔だ。
「こんなにも嬉しい気持ちは、生まれて初めてにございます。 このような果報者、
きっとどこを探してもおりませぬ。……ぜんぶ、弦之介さまから頂いた気持ちです」
頬から、一筋の涙が零れる。
それでも朧は、自分に出来る最高の笑顔で……。
「弦之介さまは、暖こぅございまする。こんなにもわたくしを、幸せにして下さいました。
だから…………、朧はもう、充分にございます」
「朧どの? …………ッ!!」
「最後に、ひとつだけお願いしたき事が。――――“生きて下さいませ“、弦之介さま」
「…………ッ!! 朧ッ!!」
純白の衣装が、突如赤色に染まる。
弦之介が駆け寄るよりも少しだけ早く。朧が自らの胸に、短刀を突き立てた。
……………
…………………………
ずっと考えていた事が、あるので御座いまする。
いったいどうすれば、“弦之介さまを死なせずにすむのかを“――――
……ぶっちゃけた話、わたくしには察しがついていたので御座いますれば。
あぁ……きっとこの優しいお方には、わたくしを斬る事は出来ないのだと……。
お傍におれば、嫌でもわかりまする。
どれだけ想うておったと思うのですかわたくしが。弦之介さまをどれだけ。
本日お姿を拝見した瞬間、それはもはや確信に変わりました。あぁこのお方は今日、斬られる為にここに来たのだと。
ご自身をわたくしに斬らせる為……、ここにやって来たのだと。
……もうですね、ふざけるなという感じにございますれば。
米利堅(メリケン)言葉で言う所の“ふぁっく おふ!“にございますれば。
どんだけ真面目なのですかと申し上げまする。「真面目かッ!!」と申し上げまする。
乙女に何をさせるおつもりなのですかと、小一時間申し上げまする。
弦之介さまでなかったら、わたくしの怒りが天地に木霊する所でございまする。残念ながら人を殴りし経験は、わたくしまだございませんけれども……。
弦之介さまは、自ら死のうとしていなさる。しかしわたくしの乙女の矜持的に、それだけは断固阻止の方向にございまする。
ならばどうするのかと申しますと、先ほど行った通り、わたくし自ら自害する他はありませぬ。
……しかしながら、それだけでは少しばかり、問題が残ってしまいますれば。
わたくし……、実はたまに自分の事を「もしや、“えすぱー“なのでは?」と思う事が御座いますのですが……。
恐らくなのですが弦之介さまは……、もしわたくしが目の前で突然自害をしたならば、きっとご自分も即座に『後を追って、自害をなさいまする』
…………これは決して、わたくしの自信過剰とかではなく……。
端的に言うならば、いわゆる『あの男なら、やりかねん』というヤツにございますれば。
弦之介さまのお考えなさる事を察するに……。おそらく『せめて来世にて一緒になろう』とかそんな風に思っちゃうに相違ありませぬ! 間違いございませぬッ!! ……真面目かッッ!!
この弦之介さまのお考えは、乙女にとって「恐悦至極ッッ!!」といえる程にはっぴーにございまする。めちゃめちゃ“ろまんてぃっく“にございまする。
……されど、それが気に喰わぬからわたくし、こうしてウンウンと悩んでおりますれば。
わたくしの望み……、それは此度の争いが始まってから一貫して“弦之介さまのご生存“
ただそれのみを心に想うて、今日までがんばって参りましたゆえ。それだけは断固拒否(2度目)にございまする。
今思いましたけれど、どれだけ自ら死のうとなさるのですか……弦之介さま……。
そこで一計を案じましたのが、此度の最後の言葉にございまする。
『生きて下さいませ』
……この一言を、きちっと最後に添えておくという事にございますれば!!
端的に申します所の「真面目かッ!!」であらせられる弦之介さまですゆえ、乙女の最後の望みであるこの言葉は、もう非常ぉ~に! 重ぅございまする!
矛盾しておるようですが、これは弦之介さまのようなお方にとって、まさに“死んでも守らねばならない“という類の物にございますれば。
……真面目かッ!! 真面目か甲賀弦之介ッ!!
そしてこの“ないす“な発想をもって、わたくしの願いは見事完遂。
わたくしの望みである、“弦之介さま生存るーと“、めでたく終了にございまする。
色々な事がございましたが、これでわたくしも思い残す事なく、皆の所へと逝けるというものです。
……しかしながら、正直なお話。わたくし自分の事を「ひどい女だ」と思いまする。
つまりこれは、すべてを愛する殿方に背負わせ、たったお一人で残してしまうという事に他ならぬのですから。
「そうか、つまり君はそういうヤツなんだな」と言われようと、申し開きも出来ませぬ。
ただ、これだけは……。これだけはわたくし、どうしても譲る事が出来ぬのでございます。
非難をされようと、黄泉路を迷う羽目になろうとも、この願いだけは決して譲れぬのでございます。
此度の争いより、弦之介さまが生き永らえる事。
その願いさえ叶うのならば、わたくしの全てを賭けられる。全て失って良い。
……なれば、この願いこそが、わたくしという人間そのもの――
想いが人を形作ると言うのならば……。
“伊賀の朧“という女は、これを成すが為、生まれてきたという事にございましょう――
……ゆえに、申し訳ございませぬ弦之介さま。まことに申し訳ございませぬ。
これだけ幸せにして頂きながら、たくさんの嬉しい気持ちを与えてもらいながら。なんとお詫びして良いものやら、言葉もございませぬ。
とても許されざる事と存じます。……されどどうか、健やかにあって下さいませ。
ひと時ばかりの、ふつつかな嫁で御座いましたが……。どうか、どうか生きて下さいませ、弦之介さま。
それだけがわたくし、伊賀の朧の――――たったひとつの望みにございます。
大好きです。弦之介さま――――
……………
…………………………
………………………………………………
…………………そんな事を想いながら、安らかに逝けると思っていたのに……。
「……朧ッ!! 朧ッッ!!」
こんなにも弦之介さまは、わたくしの死を悲しんでくれているというのに……。
「朧ッ!! ……返事をせぬかっ、朧ッ!!」
申し訳ない……。まことに申し訳ない……。でもこれ絶対、わたくしのせいじゃないと思いますれば。
(…………えっ?! なんで刀が「カシャコン!」って?!
なぜに刃が「シャコン!」って、引っ込んだんですか?!?!)
現在、朧は弦之介に抱かれながら、冷や汗をダラダラかきながら必死で“死んだふり“をしていた。
(なんなのですか! この刀!! なぜに刺さらず「カシャコン!」なのですか!?)
「朧ッ! 返事をしてくれッ! 朧ッ!!」
朧は知る由もない事だが、彼女が自害に使ったそれは“例の業物“。刺そうとすると刃は引っ込み、ちゃんと血糊も出る伊賀自慢の一品である。
ちなみに弦之介は現在、彼の生涯で類をみない程の勢いで取り乱しており、それを間近で感じる朧が(……うっわー)と滝のような汗を流している。
幸いな事に気づかれてはいないようだが、彼女は今ギュ~ッと目をつぶりながら、高速で思考を回転させるのに必死だ。……ナンデ!? このかたなナンデ!?!?
せっかく本懐を遂げられたと幸せな気持ちでいたというのに、どうしてこんな事に。
実はこの時も少しばかり「弦之介さまに抱かれてる……うへへ……♡」とか思ってしまったりはしてたのだが、このあと朧が“ある事“に気がついてしまうことにより、事態はさらに急変する。
(くんくん♪ 弦之介さまって、なんだか血のような香りが致しまする♪
……って、え?! 血ぃぃ!?!?)
これは決して朧の血糊による物ではない。明らかな本物の血の匂いが、弦之介の身体からしてきているのだ。
そしてもっと言うと、弦之介の足元には今、赤い血だまりが出来ている。彼の着物は腹の所が真っ赤に染まっている。
(弦之介さま……、まさか……、まさか陰腹を?!)
“陰腹“とは、切腹の作法のひとつだ。今の弦之介は文字通りあらかじめ自分の腹を切っており、サラシを巻く事でごく一時的な延命だけをしている状態だろう。
(なんと……、なんと無残な真似を……ッ!!)
侮っていた。完全に彼の心根を侮っていた――――
自らを斬らせる覚悟のみならず、万が一をも無くす為に命の退路を断つ。
彼には、己を生かすつもりなどなかった。最初から朧を生かす事だけを考えていたのだ。
(……あぁ。…………あぁ……………………)
やがてしばしの時が経ち、傍から弦之介が離れていく気配がする。朧の身体を慈しむように優しく横たえてから、一度半蔵らの所にある人別帖の元に向かって行った。
しかし朧は深い絶望に覆われ、外界の事など何も考える事など出来ない。
弦之介は、死ぬ。
彼にはもう、生きる気力も、時間も残されてはいない。
やがてこちらへと戻ってきた弦之介が朧の身体を抱きかかえ、小さな声で「許せ……」と一言呟く。
そしてそのまま、冷たい安部川の中へと、身体を沈めていった。
………………
朧の頭の中では今、たったひとつの言葉だけが、繰り返しループしていた。
この世で許されなかったなら……せめて来世で添い遂げよう。そんな悲しくも儚き、願いの形。
(――――来世、邂逅……)
お幻と弾正。自分達の先祖たち。
みんなの顔が、瞼の裏に浮かんでは消えていった。
……………
…………………………
……………………………………………………
――――二人の身体が、川を流れていく。
その姿を、この場の誰もが息を呑んで見守る。
甲賀弦之介、そして伊賀の朧。
すでに事切れ、しかしとても穏やかな顔をした二人は、寄り添うようにして川を流れていく。
固く愛し合っていた二人。しかし今生ではついに添い遂げる事、叶わなかった二人。
ならばせめて来世でと、そう誓い合うようにして。
――ようやっと、一緒になれた。
――――もう決して、貴方と離れる事がないようにと。
この上なく美しく、そして同時に、胸が締め付けられるような光景。
しかし……。
……………
…………………………
( ………………だっしゃぁぁーーー!! オラァァァーーーッッッ!!!! )
朧は泳いでいた。必死に水面下でバタ足していた。
(死なせてたまるかと言うのです! お主この野郎! お主この野郎ッ!!)
もう心の中でファックファック言いながら、「ズゴゴゴゴ!」っと全力で速度を上げていく。
弦之介に腕枕をされているような態勢で寄り添いながら、しかし今の朧という存在は、モーターエンジンの如くだ。
――――遠くへ、少しでも遠くへ!!
あの場にいる全ての者達から、見えなくなる所まで……。それだけを目指し、必死に足をバタバタさせる。
“伊賀のカッパ“と呼ばれし、このわたくし。
夜叉丸や蛍火に「うわ、朧さまはえぇ! きもっ!!」と言われしこの力……。命を燃やすは今にございまする。
たまに力点やら重心やらの問題か、進む方向がずれて弦之介さまの頭が「ゴイン! ゴイン!」と岩にぶつかったりいたしますけれど……それは今はご容赦願いたき所存にございまする。
血を失い、もう川に入ったその途端、崩れ落ちるようにして倒れてしまった弦之介さま……。このお方にはもはや、時間は残されていないのです。
(確かいつも持っているお裁縫道具が懐に! これでなんとかっ、傷を!!)
そんな物で弦之介腹の傷が塞げるかどうかは、わからない。だが今は、その可能性に賭けるしか道はない。
料理も忍法も出来ないわたくしですが、朱絹に「うわ、朧さま縫うのはやっ! きもっ!!」と言われし、このお裁縫の技術を信じるしか御座いませぬ。
なれば、一刻も早くこの場から離脱し、陸地にて弦之介さまのお身体をぬいぬいせねばッ!!
(……あぁ。…………あぁッ!!)
ご自身を斬らせて自ら死のうとし……、もしわたくしが死んだならば即座に自害を考え……、そして果し合いの前には、あらかじめご自分の腹を切っておく……。
……もうどんだけ死にたがるのですか! 貴方さまはッ!! 愛した人は“死に急ぎ野郎“にございますれば!! いったい何を駆逐なさるおつもりですかッッ!!
心臓を捧げよ的な歌が朧の脳内に鳴っていたかは定かでは無いが、とりあえず朧のバタ足の速度は、勢いを増していく。
(はぁいだらぁぁーーーーーッッ!!!!)バシャシャシャ!!
やがて努力の甲斐もあり、二人の身体は完全にあの場から見えない場所まで到達する。しかしながら辺りに、上がれそうな陸地がなかなか見当たらない。
「……どこかっ、……どこか上がれそうな場所はッ! 弦之介さまがッ!!」
身体は冷え、大量に血を流し、すでに弦之介の身体は限界に近づいている。
「……あぁ。……あぁ! ……かみさま……ッ」
泳ぐ。泳ぐ。泳ぐ――
力の限りに水をかき、祈るようにして辺りを見回す。それでも、朧の願いは決して届かない。
「がんばったじゃありませんか、このお方は……。
今まで必死にがんばってきたじゃありませんか……、弦之介さまは……!」
甲賀を想い、伊賀を想い……、心を切り裂かれながらも、必死にがんばってきたじゃないか。
この天然で真面目な、愛すべきお方を……、どうしてお救いする事が叶わぬのですか……?
『 ちっきしょぉーっ!! ちっきしょぉぉーーめぇぇーーいっ!!
朧は弦之介さまと、祝言挙げるんじゃぁぁーーーーいッッ!!!! 』バシャシャシャ!!!!
この水の平原で、たった二人きり。 ここが私達ふたりの、たどり付いた場所。
そしてきっと、ふたりの最後の場所。 ここが私達に許された、唯一の世界。
涙でもう何も見えない。もう何も、考える事が出来ない。
それでも朧はただひたすらに、力の限りに泳ぎ続けた。
弦之介と朧の、その身体が。
やがて力尽き、水底に沈みゆく、その時まで――――
……………
…………………………
(――――おぼろサン……おぼろサン。 今あなたの心に、直接語り掛けてござる……)
………………
そんな声が、突然脳内に響いた。