「バイタル正常、意識も良好ね。お疲れ様」
労いの言葉を吐く表情は反転して冷たい。
アウターギアが“活動状態”から“待機状態”へ移行したのを見届け、固いベッドで寝たせいか強張った身体を倦怠感と共にゆっくりと起こす。
見渡せばバインダーや書類を手にした研究員達が次々と部屋から出ていっている最中で、彼らの眼中にはリュウは映っていない様子。大事なのは実験であり被験者である自分には興味がないことに、胸が少しだけ褪めた。
「リュウさん。身体に異変は無いですか?」
微かな頭痛に顔をしかめる中、聞き心地のよい涼しげな声がすぐ隣から聞こえる。見ればナナが立っており、気遣いに揺れる蒼い眼差しがぶつかった。
「ナナ、俺が起きるまで待っててくれてたのか?」
「5分と16秒待っていました。顔色が優れないですね、もう少し休みましょう」
目に入った微笑みと、心配そうにこちらを見上げる瞳。
出会ってから数週間、今まで見た事の無い少女の顔だ。口調もどこか饒舌で言葉の端からは普段のような読み取れない雰囲気は無い。年相応に感情を見せる可憐な少女の表情だ。
「ナナは平気なのか? あんだけ機体を派手に動かして、疲れたりはしてないのか」
「疲れは……あります。ありますが睡眠を取れば回復する程度の疲労です。お疲れ様でした、リュウさん」
「お……おう、ありがとう。ナナお前少し変わったか? そんなに気遣いを前面に出すようなキャラだったっけ? ……あぁっ!もしかして今までが距離を取ってたって事か!? そんな近付きづらかったか俺」
「そんなことないです。私が変わったのはリュウさんのお陰ですよ、今までは出力が上手くいかなかった為に感情を表現する事が難しかったのですが、今回の“Link”を経てある程度は改善された模様です」
「俺が何かしらナナの助けになったんなら嬉しいけど。──リホ先生、今回の実験は成功……なんですか」
浮かんだのは撃墜間際にトウドウが発した言葉だ。
────『“力の犠牲”は大きいわよ』
意味なんて考えるまでもない。ナナとの“Link”を使用したチートにも等しい戦闘で相手を容易く倒してしまうその言葉の意味は、自分が積み重ねてきた時間を否定することと同じだ。罪悪感と虚無感と喪失感、それらいっぺんが今も頭に渦巻いて仕方がない。
「成功ね。実験相手はトウドウ先生だったでしょ?それを言わなかったのは謝るわ、そういう事情なの」
「いや、別に……。トウドウ・サキ、あの人は無事なんですよね?」
問いに俊巡するよう返答が詰まった。
リュウとナナは“Link”した状態で撃墜してしまった場合は命の危険があるという条件だが、相手も何かしらの制約があった可能性もある。
リホは思う節があるように顎に手を添えて視線を床へと落とした。
「無い筈よ。それは私が預かるところでは無いけれど、確実に言えるのは命に別状は無い事。恐らく精神面も健康よ」
言葉に含まれた意味は理解できなかったが、額通り受けとれば大事ではないらしい。それでも、無事で良かったと喜べるほどリュウは人間が出来ていないと自覚している。
“電脳世界”内ではリュウを殺すつもりで仕掛けてきた相手に少なくとも温情は無く、死ぬまではいかなくとも何かあったのでは夢見が悪い、ただ単にそういう問題だ。
自分ながら割り切った考えだなと驚く。褪めた思考が次々と先ほどから浮かび、余計な選択肢が小削がれていくような、そんな思考。
「そう言えばナナ、聞きたいことがあるんだけど」
「? なんでしょうか」
「──────“電脳世界”で俺とナナが使ってた機体、何ていう機体なんだ?」
その言葉を聞いたナナの顔は、どう表現したら良いのか。
驚きと恐怖が一瞬顔を走り、やがて悟ったような微笑みがリュウへと柔らかに投げ掛けられる。
「Hi-ガンダムですよリュウさん。つい先日まで作られていた、リュウさんだけのガンプラです」
思い返してみるが、今いちピンとこない単語に顔をしかめる。記憶の琴線に触れない少女の言葉にリュウは返す声を持たなかった。
少女の手はきつく握られる、服の裾をぎゅっと巻き込みながらリュウに見えないよう。きつく、きつく握られた。微笑みかける表情はどこまでも優しく、気付かれないように少女は拳を戦慄かせた。
※ ※ ※ ※ ※ ※
相も変わっていない部屋の有り様。
いや、よく見れば床に乱雑と捨てられた資料の数が増えているか、とトウドウは旧知の友人を見る目を細める。
「部屋の散らかりは部屋主の心を映すと言うけれど、本当ならリホの心はどれだけ荒んでいるのかしら」
「生徒に欲情してる変態に言われたくないわね、音声データ改竄しといたから気を付けなさいよ。下手したらクビどころか留置所行きよ────無事だったのね」
机に積み重なる書類の山が1枚、また1枚と高さを増していく。リホが延々と作業をしている中、部屋の隅に追いやられた移動式の椅子を転がして適当に座り、もう1度部屋の隅へと視線を向けた。
最も低い座高まで下げられた椅子の高さ、そこに座るとしたら幼い子供くらいだろうと、たわむガーターベルトが伸びる脚を組んで眺める。
ふと、影が揺れた。トウドウが入ってくる前からそこに居たのか、部屋の影から少年が現れ弾む足取りで椅子に腰を掛けた。
真紅の相眸と烏木の髪を揺らし、少年が無邪気に笑顔を見せる。
「まったく、僕に感謝してよねトウドウ先生! 機密処理の為に先生の記憶を消せって言われたんだよ、それなのに僕ってば先生を想って嘘の報告したんだから。良い子だなぁ~僕」
「今更何者かなんて問いはしないわ。ただ、記憶を消さなかったのはそちらにとってもリスクでしょう、私が誰かに口を割らないとは限らないわ」
「ハッ、リスクとかそういう難しいこと考えないで欲しいなぁ、もっと楽しくいこうよ先生~。僕が記憶を消さなかったのは、先生が気付いちゃった自分の気持ちを忘れてほしくなかっただけ」
鼻で笑う少年の顔は心から楽しそうにトウドウの顔を覗き込んだ。
無遠慮な視線を無視し、言われた言葉を思い返す。
「気付いた自分の気持ち……」
コトハ・スズネへの執着は今尚胸で燃えている。彼女を手にいれる為なら一切を投げ打つ覚悟も変わらないし、彼女以外の全ての存在はトウドウにとって一定の価値だ。
そのコトハ・スズネを手に入れる最大の障害であるリュウ・タチバナは今までずっと気に入らなかった異物であり、真っ先に排除すべき人間、その筈だった。
「なのに……どうしてかしらね」
「え。聞かせて聞かせて! あの人間に対してどんな心境の変化があったの!?」
「あの子の心は間違いなくこの先折れるわ。そしてこの世の地獄を見るでしょう……けどね、それでも絶望的な状況でタチバナさんが這い上がってくるような事があったら、その時は」
……きっと。
その時はきっと、私はタチバナさんにも恋心を抱いてしまうでしょう。歪む口元を隠しもせず妄想に身を悶えさせる。そんな私の顔を見て少年のぱぁっと笑顔が弾けた。
「トウドウ先生楽しそう~! やっぱ人生楽しまなきゃだよねっ! ────そうそうサツキ先生。次の実験だけどさ、僕が出るよ」
驚くほど冷ややかな声音だった。
今までの陽気な抑揚が掻き消えて、無表情の顔に真っ赤な瞳がぎらつきながら。
「──────エリゴスを出撃す。器の用意、よろしくねっ」
ぐにゃりと、異質なものに変貌するように。
少年の顔は楽しみに満ちた、狂楽の表情へと再び戻っていた。