巻の一
冬の陽光が硝子を突き抜けて、散らかった部屋と、その中心で丸まって眠る人間を照らしていた。
床の上に投げ出されている手足は細く、茶色い裾長の革コートの中にくるまっているために、更に華奢で小柄な印象が拭えない。
すぅすぅと落ち着いた息の音を、日の光で暖められている部屋に響かせ、書物を枕に羊皮紙や黄ばんだ紙に描かれた地図を布団にし、床の上で眠っていた。
すっきりとした目鼻立ちは整ってはいるが、男とも女ともつかないある種の透明さがあって、どこか捉えどころがない。その顔貌よりも特徴的なのは、床に広がった髪である。
頭の頂から毛先へ伸びるに従って、徐々に黒から灰色、白へと色味が抜け落ちていくという不思議な髪をしていたのだ。
陽光が揺蕩う部屋に、突如、甲高いベルの音が鳴り響く。
目が見開かれ、焦点の合わない薄茶の瞳が部屋を睥睨した。そのまま耳元に置かれた目覚し時計を叩いて止め、身を起こす。
コートの裾を引きずりながら部屋を横切り、窓を両手で押し開けた。
そのまま窓枠に肘を付き、コートの人物は広がる街を見渡した。
早起きの街には既に、行き交う人や車の姿がある。
「おはよう、冬木」
寝ぼけ眼で一人呟く。
それから、やおら両手で頬を叩いた。
渇いた音がさして広くもない部屋で鳴る。
鼻腔をくすぐる冬の空気を吸い込んでから、繍は部屋の片隅に置かれた草色の帆布でできた鞄を持った。
左肩に肩紐を引っ掛け、一通り部屋を眺め渡してから繍は部屋を出かけ、扉をくぐる一歩手前で駆け戻り、床の上に放って置かれていた革手袋を掴んだ。
そのまま、後も見ずに外へ出て行く。後には人の気配がなくなった、散らかる部屋だけが残されていた。
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欝々とした灰色の空が広がる冬木の街中を、繍はひとり歩いていた。
黒と灰と白という特徴的な色の髪は一つに束ねられ、体格よりも大きな長いコートの裾は冬の風に翻っている。肩から下げた体格に不釣り合いな大きな鞄も相まって、ひとり気ままに旅をしている学生のようである。
「いい……街とは言えないなぁ。……ああ、何でこの街はこう暗いんだろう」
さしたる特徴はないながらも、整ってはいる顔をしかめながら、繍は街を歩く。
その手には、丸い青銅の鏡が握られていた。その鏡であちらこちらを映しながら、繍は冬木の街をそぞろ歩きしているのだ。
佐保繍という人間は、世間には魔術師と名乗っている。
名乗ってはいるが、扱う術は西洋から渡り、日本に根付いたものではない。
カミに仕え、カミを祀る術者だったのが、時代の流れでよりどころを失い、世俗に下った家だった。本来は神官であり、この日本という国の言葉で言うならば、呪術師である。根源への到達という、一般の魔術師が抱く悲願も佐保の家にはない。
五年前に、たった一人の肉親で、育ての親だった祖母を病で失ってから、繍は佐保の家の当主となった。
今でもふと、胸の奥に開いた穴を風が吹き抜けていくが、この頃はようやく、祖母の楽しかった思い出を偲べるようになっていた。
今の暮らしはといえば、気楽なものである。魔術の探求の旅の傍ら、魔術協会からの依頼をこなすフリーランスの魔術師というのが、繍の立場だった。
しかし、協会からの依頼には荒事も混ざる。千年以上も、深山のおおらかな時の流れに身を任せて来た神官の末裔には、荒事というのは気性の上で向いていなかった。有体に言って、疲れてしまったのである。
だから、繍はしばらくぶりに故郷に帰ったのだ。落ち着ける土地、長く住める場所を見つけるために。
元の家も何もかも、祖母が亡くなったときに、親戚の手で切り餅のように分けられてしまっていた。
尤も、既に神秘の類とは縁の切れていた彼らは、その手の遺産には全く手をつけなかったのだが。
「落ち着いて暮らそうと思ってた矢先にコレ、だものなぁ」
そうしてまた、日の本を巡り歩いているときに辿り着いた土地、それが冬木という街だった。
地脈の格は高く、土地をめぐる魔力も質が高い。海に近く、川が流れているという土地柄も、繍の好みに合っていた。
昔、祖母と暮らしていた北国の街に似ていたのだ。
冬になれば、雪に振りこめられて、街中の音が雪に吸い込まれてしまうような場所だったが、開けた海と街を縦に走る川は、幼い繍の遊び場だった。一日中だって眺めていられたし、毎日遊んでいたって飽きなかった。
しかし、冬木を一巡りした繍は、留まる気が失せてしまっていた。
「何ですぐに気づかなかったんだ……」
冬木といえば、どこかの西洋魔術師が持ち込んだ大規模魔術儀式、聖杯戦争の開催地ではないか、と思い出したのである。
もう随分と昔、まだ幼かったころに一度だけ祖母から聞かされたことがあった。
いつも穏やかだった祖母が、その話をするときは、珍しく嫌悪の情を露わにしていた。
聖杯戦争とは、過去の英雄たち七人を、サーヴァントという最高位の使い魔として現世に呼び出し、聖杯という万能の願望器を起動させる大儀式である。
儀式には七騎のサーヴァントが、七人の魔術師によって呼び出される。魔術師はマスターと呼ばれ、サーヴァントとは主従関係となるのだ。
その七組十四人で、聖杯を求めて殺し合うのだ。
どうして願いを叶えるのに、殺し合わなければならないのか。それで叶う願いなんて、誰も幸せになどならない、なるはずがない、という祖母のきつい物言いを、今でも繍ははっきりと覚えている。
霧深き山に住まい、カミの声を聴き、荒ぶるモノを鎮め、ただ時の流れとカミに寄りそうことだけを縁にしていた頃の暮らしを克明に覚えていた祖母である。
仮初とはいえ、死人を蘇らせることも厭わしかったのだろう。或いは、聖杯戦争そのものと何かの因縁があったのかもしれないが、今となっては誰にもわかりはしない。
それだのに、うっかりとその儀式のある土地に孫が迷い込んだと知ったら、どう思うだろう。
「退散するに限る。こんなとこにいたら生命が幾つあったって足らないよ」
一通り冬木の街を歩き回った後、街を流れる未遠川を土手の上から見下ろしながら、そう呟いた。
呪具たる鏡は、既に肩から下げた鞄の中に仕舞い込まれている。それで以て、街中を照らしながら歩き回った繍は、何となく地脈の流れを察知していた。
この街を儀式の苗床にし、土地から生み出される魔力を吸いこみ、それによって聖杯という呪物を召喚するのだろう。
土地のカミを奉じ、土地とそこにいる生命に寄り添い生きて土地を生かし、いずれは死して、土に骨を埋めて来た佐保の家の者からすれば、とんだ滅茶苦茶な儀式だった。
「宿なしのボクにあれこれ言う資格はないけど、これはないわー。せっかく良い土地だと思ったんだけどなぁ」
この土地に住まい、これから引き起こされる魔術儀式に巻き込まれる人々の未来を思うと、何も思うところがないではないが、所詮流れの、土地も持たない流れの術者には、何かできようはずもない。
これで聖杯にかける願いなりなんなりがあれば話は別だったかもしれないが、そのような悲願は、持ち合わせていなかった。
強いて言うなら、幼い頃に売り飛ばされてしまった家と土地を取り戻したいくらいのものだが、取り戻したところで、そこにかつてあった日々が戻ることは、二度とない。
「さらば冬木、もう二度と来ない」
橋の上から河面に向けて、虚しい言葉を吐く。
そのままとっとと荷物の残りを回収するため、仮の宿へ向かおうと足を向けた、まさにそのときだ。
目の前の道路を、黒塗りの高級車が通り過ぎて行った。一瞬のことで、中に誰が乗っていたのかまでは、伺い知ることができない。
しかし、こと気配を読むことに関して優れた感覚を持つ繍には、車中からこぼれていた魔道の気配に覚えがあった。
「先生?」
呟いたときには、車の姿はとっくの昔に小さくなっていた。
身体を術で強化すれば車を追うこともできようが、一般人の目がある通りで人間離れした動きなどしたら、後々面倒くさいことになる。
仕方なし、繍はそのまま車の気配を辿ることにした。
「勘違いだったらいいんだけど、なぁ……」
多分無理だろうな、と思う。
憂鬱な呟きは、風に吹き散らされて誰の耳にも届かなかった。
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世界を放浪していた五年の間、繍が最も長く滞在したのは英国だった。
扱う術が全くの別系統とはいえ、神秘に携わる以上、協会に繋ぎをつけておくべきだという祖母の教えに従い、一番に渡った国がそこだったのである。
英国で暮らしたのは、一年ほど。その間師事していた教師のひとりに、ケイネス・エルメロイ・アーチボルトという魔術師がいた。
九代を数える魔術の名門にして、魔術師の最高学府『時計塔』の花形一級講師である。
そんな彼の授業に、極東から鞄一つだけを背負ってやって来たチビの子どもがたまさか潜り込めたのも、その講師と直接言葉を交わす機会があったのも、幸運以外の何ものでもなかった。
佐保の家が、千年間も神秘を連綿と伝えていたと知り、繍が当時時計塔で取り組んでいた課題を見せると、ケイネスの態度は目に見えて柔らかくなった。
祖母を失った悲しみと、帰るところも失くしてしまった無力さをひと時だけでも忘れようと、何であろうと必死に学び、吸収しようとした姿が、生粋の貴族の出である彼から見ると、師匠であった肉親の死を契機にしてさらに魔導を極めんとする、克己心溢れる学徒に映ったらしい。
結局、その微妙な行き違いをしたままに、繍は籍を置いていた降霊科、ひいては時計塔からも離れた。学業に行き詰まったというより、これ以上降霊科にいても、求めるものが得られなくなったからだ。
それでも、未だ繍は彼を忘れてはいなかった。
こんな魔境になりつつある土地で、ロード・エルメロイが一体全体何をやろうとしているのか、確かめなければ収まらない程度には。
「久しいな、シュウ・サオ」
「ええ、はい。お久しぶりです、先生」
街中で見かけた車の気配を式神に追わせ、辿り着いた先は、高級ホテル・冬木ハイアットだった。
そこで名前を出したところ、繍は何の障害もなく、最上階のスイートにまで通されていた。
最高級の革製ソファの上に、膝をきっちり揃え背筋を伸ばして腰かける繍の目の前には、まだ若い、金髪を後ろに撫でつけた男が、ワイングラスを片手に揺らしていた。
「この国は、君の生まれ故郷だったな。時計塔を離れて以来、世界を巡っていたと聞くが、何か進展はあったのかね?」
時計塔の廊下で質問をしたときと、全く変わらない口調でケイネスは問うた。
「中華大陸では、太極との合一を目指す仙道を覗き見ることができました。が、僕には素養がなかったようです。しかし、幾つか降霊術にも通ずるものと巡り合えました」
「ほう」
「インド亜大陸では、マントラに触れました。ですが、やはり僕の肌には合いませんでした」
「だろうな。君の修めている術は、土着の神霊を奉じ、その力を借り受ける形で行使されている。では差し詰め、故郷に舞い戻ったのは、土地や、上質な霊脈を得るためか?」
「慧眼、恐れ入ります。その通りです。ロード・エルメロイ」
「だが、異国の術に触れたことは無益でもないだろう。時計塔を離れて尚、君の探求心が衰えていないようで何よりだ」
繍が深々と礼をすると、ケイネスは破顔した。その手には赤い刻印─────聖杯戦争の参加者の証である令呪が、刻まれていた。
つまり彼は、七人のマスターのひとりに選ばれたのだ。
「しかし良かった。君の名を聞いたときは、まさか挑戦者として現れたのかと思ったよ。教え子と戦うのは、気分が良いものではないからね」
「まさか。ボクには聖杯に選ばれるだけの願いも、気概もありません。土地を得ること、基盤を築くことは目標ですが、それは己の力でやり遂げなければ、意味がありません」
「結構。実を言えば私も、聖杯に託す願望はないのだよ」
だろうな、と半ば予想していた繍は内心で頷いた。
天才の名を欲しいままにし、ロードの名を冠し、聞けば近々降霊学科の学部長を務めるソフィアリ家の息女との婚姻まで決まったという。
故に、ケイネスという男に、聖杯に託さなければならないほどの悲願はないと思っていたのだ。
聖杯とやらは、悲願などなくても『素質あり』と思えば、令呪を与えて来るらしい。そこに、何某かの作為を感じないでもなかったが。
「では、先生は何故この極東の地にまで足を運ばれたのですか?」
「私は聖杯に選ばれたのだ。これを拒み、魔術師たちとの死力を尽くした闘争に背を向けては、アーチボルトの名が廃る」
貴族としてのプライドが、送られて来た挑戦状を捨てることを良しとしなかったというわけか、と繍は納得した。
加えてケイネスの時計塔での功績は華々しいの一言だが、『戦歴』というものを欠いている。研究の徒であることを鑑みれば至極当然なのだが、婚姻を間近に控えるとあって、箔を付ける目的もあるのだろう。
「もうサーヴァントを召喚されたのですか?」
「誤魔化さずとも良い。君の霊視能力ならば、既に気づいているだろう。────来い、ランサー」
ケイネスの言葉に応じて、光の粒子が集まったかと思えば、次の瞬間、彼の傍らに現れていたのは、丈高い美丈夫である。
端正な顔に刻まれた黒子を見た瞬間、繍は何かが己の精神に干渉するのを感じ、それを一呼吸で跳ね返した。
「……魅了の術、ですか?」
眉をひそめると、ケイネスは頷いた。
「ランサーにかかっている呪いのようなものでな。何、君なら問題なく
はぁ、と返事にならない声で答えながら、繍はランサーと呼ばれたサーヴァントを見た。
纏う神秘は、なるほど確かにこれまで見たことがないほどに濃密なもので、人間離れしている。
有体に言えば、全身の毛が逆立ち、肌が泡立つほどの恐怖を感じたのだ。
二の腕を摩る繍の様子を見て、ケイネスは薄い笑みを浮かべた。
「サーヴァントの何たるかを、問題なく理解できたようだな。これが七騎のクラスがうちのひとつ、槍の英霊・ランサーだ。ああ、真名はもちろん明かせないがね」
「……はい、よくわかりました」
─────これが英雄。人類史に名を刻んだ、英霊なのか。
このような存在が、七騎もぶつかる冬木の土地に、いよいよもって留まる理由はなかった。
表面上には何の変化も見せることなく、繍は決めた。
「では、先生。突然の訪問、失礼しました。ボクはこれにて去りますが、どうかご武運を」
「君に言われるまでもない。当然のことだとも。ああそうだ、君、もしや────」
「?」
腰を浮かしかけた繍の顔を見、ケイネスは思い直したように首を振った。
「いや、やめておこう。君があのような者の行方など、知る訳もないだろう。……送ってやれ、ランサー」
「は」
部屋を出る直前、繍は今一度だけ振り返った。
余裕と自身に溢れた師に、礼をしてのち廊下に出れば、槍の英霊は無言で先を進んでいた。
わざわざサーヴァントに送らせるのは、見張りの意味合いもあるのだろう。
この時期に、この冬木に足を踏み入れた魔術師ならば、マスターになろうと目論んでいたとて不思議はない。
繍は否定したが、口では何とでも言えるのだ。だから、敢えて自らの戦力を見せることで、牽制しているのだろう。
先生らしい、とフロアに仕掛けられたケイネスの魔術的防御を、ランサーの案内に従って潜り抜けながら思う。
「ここまでで結構です。ありがとうございました」
エレベーターに辿り着いてしまえば、下に降りるだけだ。
繍が一礼すると、ランサーは一言も発さずに軽く頷き、そのまま消えようとする。その背中に、思わず繍は声をかけていた。
「あの!ランサー!」
体の半ばが消えかけていた槍兵は、首だけを捩じって振り返る。
「ボクが言うまでもないことですが……先生を、よろしくお願いします」
ケイネスにしたときよりも深く、繍は頭を下げた。
「無論、必ずや我が主君に、聖杯を捧げると誓おう」
かけられた声に繍が頭を上げたときには、既にランサーの姿は消えていた。消える刹那に、厳しい表情を浮かべていたランサーの顔が、僅かに綻んだようにも見えた。
ともかく、ランサーの気配は既になかった。先ほどと同じように、霊体となってケイネスの側に戻ったのだろう。
あれだけの英雄を召喚できたのなら、心配など無用だろう。ケイネスの魔術の腕は、繍もよく知っている。
この儀式に招かれるのが、皆魔術師らしい魔術師ならば、彼が遅れを取ることはまずあるまい。
────それこそ、魔術師を情け容赦ない手段で屠る、かの悪名高かった『魔術師殺し』のような暗殺者でも現れない限り。
「……」
ふと、嫌な予感が胸を掠めた。
古にはカミの声を聴いていたという神官の血筋には、鋭い勘が備わっている。『魔術師殺し』のことを思い浮かべた途端に、勘が一瞬疼いた。
エレベーターを降り、ホテルのエントランスから外に出たところで、繍は摩天楼を見上げた。
空を突く高い塔の頂点で、今戦いを待ち望んでいるのは、恩師で────ただの一度も、実戦に挑んだことのない、貴族の御曹司なのだ。
夕暮れ時のぞっとするほど冷たい風が、繍の髪をくすぐって吹き抜けていった。
人斬りは23:00の次話で。
東洋英霊は冬木に呼べませんが、それは追々。