では。
帰りたい、と思うときがある。
疲れたとき、ふと遣る瀬無い気持ちに襲われたとき、目の前にある何もかもを放り出して、懐かしくてあたたかな炉端に戻りたいと思うのだ。
無論、繍はそうと思うだけで口にすることは─────全くとは言わないが────ほぼ、ない。
そもそも帰る家は売られてしまっているし、誰か待たせている人がいるわけでもない。
それでも、たまには思ってしまうし、ともすれば口にもでる。
「帰りたいなぁ、もう……」
「どこにじゃ。家なんぞ売られてしもうたやろ」
「ごもっともな指摘をどうもありがとう……」
容赦ない物言いに、繍はテーブルに突っ伏したくなった。ふと思い出して、横に座る青年の方を向く。
「待った。どうして君がそれを知ってる?」
以蔵は答えずに、襟巻きを口元まで引っ張り上げた。ふいと視線が横に向く。
「君にそんなことまで言ってないだろ。何で売られたって知ってるの」
「言うとるぜよ。己で気づいとらんだけじゃろ」
そんなわけないだろうに、と繍が掴みかかって襟巻きを締め上げようとしたときだ。
「……仲、良いんだな。オマエら」
呆れた目をした、飲み物を両手に持った少年と、千切れんばかりに分厚い胸板で広げられたTシャツを着た赤毛の巨漢が、戻って来る。
繍と以蔵は、住宅地で遭遇したライダーたちに引っ張られるようにして、新都に戻っていた。
そしてそのまま、お好み焼き屋にいる。
腹を割って話すには食事を共にすれば良い、というライダーに押し切られてこうなったのだが、何故彼が敵のこちらを捕まえて、腹を割って話そうとするのかがわからない。
物珍しき異国の食事だと、目を輝かせてメニューの上から下まで注文しようとするライダーの姿に、隣のマスター・ウェイバーは白目をむきかけていた。
「ウェイバー、ボクはボクと連れの分しか払えないからね」
「そ、そんなケチ臭いこと言うわけ無いだろ!」
マスター二人が小声で言い合う間も、やたらとはしゃいで、次々メニューから料理を頼み続けるライダーである。
食が細い繍は一枚食べれば済むし、以蔵は食べる気がそもそもないのか、押し黙って茶の入った湯呑を傾けてばかりだった。
付き合え、と征服王にずるずる引っ張られてこんなところまでやって来たが、ついてきたことが間違いだったのではと、繍は水を啜りながら思った。
丸まった背が軽く叩かれる。見上げると三白眼が眠り猫のように細められていた。
「しゃあないちゃ。あれじゃあ逃げられんかった。腹括ってしゃんとせぇ」
「……はい」
「まぁ、おまんが腰抜かさざったらえがったんやがな」
「腰までは抜かしてないっ」
ライダーの覇気に呑まれて、動けなくなってしまったのは事実だったが。
ライダー・イスカンダルは、これまで繍がまともに関わった以蔵とは、全く違う雰囲気の英雄だった。
豪放磊落で、誰憚ることなく真名を名乗り、ひと目で神由来の代物と知れる雷を纏った戦車で天空を駆け回る。
誰が見てもわかる、英雄らしい益荒男だった。
それが目の前で、日本のテレビゲームの派手なロゴ入りTシャツと、特大サイズのジーンズを身に着け、手が巨大なせいでおもちゃのように見えるヘラでお好み焼きをひっくり返そうと挑む姿は、もう、何も言いたくなかった。
─────この人がアレクサンドロス大王なのか。
「おう、アサシンのマスターよ。貴様はこの国の人間なのだろう。このヘラというのはどうやって扱えば良い?」
しかし、巨漢にきらきらと好奇心に輝く目を向けられて、繍は先程とは違う理由で内心引いた。
「ライダー!オマエちょっといい加減にしろよ!何のためにこいつら連れてきたんだよ!」
ついに堪忍袋の緒が切れたのか、ウェイバーがぱんばんとテーブルを叩く。余ったヘラがかたかた音を立てて揺れた。
「ウェイバー、ここで騒ぐのは良くない。もう手遅れだけど、目立つ」
「飯処でほたえなや」
「おい、コレはボクがおかしいのか!?そもそもサオ!オマエ、なんでこんなとこでマスターやってるんだよ!魔術に興味なくして、国に帰ったんじゃなかったのか?」
立ち上がって人差し指を向けてきたウェイバーを、繍は半目で見た。
「こちらも聞き返したい。君、よりにもよってロード・エルメロイの聖遺物を盗んで聖杯戦争に参加なんて、まさか勢い任せとかその場のノリじゃないだろうね?ちゃんと考えての行動なんだよね?物凄く怒らせてたけど」
「そ、そんなワケないだろ!ボ……ワタシは、ワタシを認めないヤツの目を覚まさせてやろうと思っただけだ!」
してみると、ウェイバー・ベルベットが聖杯戦争に参加したのは、ひとえに時計塔での扱いに耐えかねてのことらしい。
ふん、と以蔵が横で鼻を鳴らす。当然のことだが、彼は魔術師の内情なぞ知るわけもない。
時計塔は、というより魔術師たちの世界は根っから権威主義である。
元々、魔術師は代を重ねて己の家の術を磨き上げ、根源へ至ろうという人間たちである。故に、一般には健やかに代を重ねれば重ねるほどに名門と呼ばれ、魔術師としての技量も高まる。
繍とて、痩せても枯れても千年以上続く家の歴史を背負っていたから、体系違いの時計塔にひとりで行っても、なんとか認められていたのだ。
そこへ行くと、ベルベット家は確かウェイバーで三代目であり、まだまだ歴史が浅い。
時計塔に繍がいた頃も、彼はよく魔術世界の体制そのものに憤慨していた。
名門と名のつく家の子弟は、ただ古いというだけで持て囃されるのに、自分のような新興な家の者は、たとえ才能があってもただ新しいばかりに冷遇されてばかりだ、と。実力的には劣っていないのに、と。ウェイバーからすると、ケイネスなどはその筆頭だろう。
ウェイバーの実際の成績の惨憺たる有様はさておくとしても、とにかくケイネスという魔術師は繍には恩師でも、ウェイバーにとっては己のやることなすこと何もかも認めない、鼻持ちならない権威主義の権化なのだ。
でも、と繍は真っ直ぐに怒ることのできるウェイバーを見ていると、過去に思ったことと同じことを思い浮かべた。
古いは古いで、良いことばかりでないのだ。
受け止めなければならないものは重く、己が倒れたら祖先の願いも、彼らの人生も、続いてきた何もかも、すべて無に帰すのだと、いつも考えていなければならない。
次代に術を引き継ぐまでの間、ずっとずっとそれを背負い、担い続けていく。誰にもその荷を預けられないし、預けてはならない。
先人たちから続いてきた歴史の、末を生きるとはそういうことなのだ。
ケイネスも、その重さを受け止めている。
富士の御山顔負けの高いプライドも、実績と名門の誇りに裏打ちされてのことなのだし、実際彼には、鼻持ちならなくなっても致し方ないほど魔術師としての高い技量はある。
どちらの想いもわかるだけに、時計塔のときから、繍の態度はウェイバーにはどちらにもつかない蝙蝠のように映ったらしく、繍もそう思われて仕方ないと自覚はあった。
だから微妙に気不味いのだし、ウェイバーの怒りを目の当たりにすると途端に口が重くなる。己が本質は魔術師でなく、結局のところは何処までも外様なのだと思っているだけに、尚更。
「それで、そんな顔するってことはオマエには、なんか願いがあったんだろうな?」
どすんと音を立てて席に腰を下ろしたウェイバーは、腕組みをして尋ねた。
「……いやぁ、その。別に、何も?」
「はぁ!?」
「だから、何も。色々成り行きがあったのさ。事故みたいなもんなんだよ。今のボクは」
真横で以蔵が湯呑をことりとテーブルの上に置く音を聞きながら、繍は頬をかいた。
「願いがないのにほいほい参加して、それで成り行きのまま召喚式のルール変更なんかに成功したのかよ。……オマエ、そういうとこホント変わらないな」
ウェイバーは呻くように言って、テーブルに肘をついて、顔を覆った。
「と……ごめん」
「わかってないのに謝るなっての!そういうとこだぞ!」
「そう喚くな、坊主。どうあれ、こ奴はサーヴァントを連れたマスターであろうが。であれば、学友だろうと敵である。逐一動揺しては追いつかんぞ」
節くれ立って太いライダーの指が、ウェイバーの額を弾いた。ぎゃう、と猫のような悲鳴を上げて少年は座席に沈んだ。
「では征服王にお尋ねしますが、敵であるなら私たちに何用でしょうか?」
「ん?別に用などないぞ。貴様らが王の器ともなれば、格をはかるためにそれ相応の酒の席でも設けるところだが、そうではあるまい」
「はぁ……」
「……ふん」
そういえば、セイバーは騎士王で、あのアーチャーも王なのだっけと、繍は白銀の鎧の少女騎士と、黄金の甲冑を着けた傲岸な男とを思い浮かべた。
「しかしなぁ、そこらを闊歩する者がいるとなれば、ひとつ願いを問うのも悪くなかろう。このお好み焼きという料理に詳しい者であるならば、尚更な」
「つまり、王の無聊を慰めろと」
「まぁ、そんなところだ」
断言されて、二の句が継げなくなる。
「おんし、ふざけちゅうがか」
「そう急くでない、刀のアサシンよ。貴様のマスターに願いがないと言うなら、貴様の願いはなんだ?それがために聖杯戦争を続けているのだろう」
ヘラを両手に握ったまま、眼光だけは鋭くライダーは以蔵を見た。
繍は以蔵を見る。言わないならば言わないで良い、という意味を込めていたのだが、以蔵は口を開いた。
「……受肉じゃ。こ奴が現世にわしを喚び出しゆうき、もういっぺん生きてみたい思うたが。そんだけじゃ」
「なんと、受肉と来たか。それで貴様は、何だ。何ぞこの世で覇でも唱えるつもりか?」
「さぁの。わしには難しいことはわからんし、今更やる気もないが。それに、こんマスターはそがな話は嫌いぜよ」
「ほう」
急に話を振られて、慌てて口に含んでいた水を飲み込む。
ライダーの赤い瞳が、今度は繍に向けられた。
澄んだ茶色の瞳と、赤い覇王の瞳が交わる。繍には視線をそらさないようにするだけで、必死だった。
視線が外れ、繍の肩から力が抜ける。
「坊主やランサーのマスターと同じく小さいのぉ、小娘。聖杯戦争に参加した猛者とやらは、皆このような術者ばかりか」
少なくとも、体の大きさの話ではないということはわかった。
この大英雄からは以蔵も己も、二人まとめて憐れまれているなぁ、と思った。そういう感情に、繍は敏いのだ。
巻き込まれた小娘と、その彼女が咄嗟に喚んだ脆弱なサーヴァント、とでも思われているのだろう。ほぼ合っているが。
征服王ほどの格の高い人間からどう思われようが繍には大して違いはない。それよりも、さっきから横の以蔵の目つきがとんでもない事になっていそうで怖かった。誰であろうと見下されるのは我慢ならないし、そのような者は斬ると言っていただけに。
それでなくとも、闇に紛れる人斬りと、凱歌を響かせてこその覇王。どう考えても相性が悪い。
「魔術師や呪術師と英雄は違いますよ、征服王。成り立ちも、願うところも、生きる道も、何もかも。でも、今はその魔術師が造った盃を取り合うのでしょう。あなたもそのひとりです」
以蔵の着物の袖をテーブルの下で掴みながら、繍は精一杯に笑顔をつくった。
「そりゃ道理ではある。余も現世に今一度覇を唱えるべく、こうして馳せ参じたわけだからな」
「覇を唱える?……まさか、もう一度世界征服を望むと?」
「応とも。余の願いはな、そのための受肉だ。征服とは、己が身体ひとつを張って行うもの。だが、幽体のような余には、それすらも不足している。これでは足りぬのだ」
征服王の高笑いが店内に響き渡る。繍は目を白黒させながら、ウェイバーの方を見やった。
彼は彼で、サーヴァントに掴みかからんばかりの勢いだった。
「お、オマエ、望みは世界征服じゃなかったのかよ!?」
「戯け。世界を盃なんぞに取らせては意味がなかろうが」
「……それはえいじゃが。そん盃はまことに願いを叶えちゅうんかの。わしのマスターは疑っとるが」
「は?」
「じゃろ、マスター?」
驚いたのはウェイバーだけでなく、繍も同じだった。以蔵には確かに聖杯戦争の仕組みへの疑いを言ったが、まさかそれを告げるとは予想外だったのだ。
「ど、どういうことだよ?」
「……」
ライダー主従からの視線が注がれ、繍は唇を噛んで俯いた。
確かに、繍は聖杯戦争そのものを信じられない。万能の願望器の降臨場所としては、ここは余りに地脈が淀んでいる。
何か、とてつもない化物の顎の上に立って踊らされているような、そんな気がしてくるのだ。
確証もない勘だが、元を辿れば巫者でもある術者の勘である。
「……オマエの勘って当たってたもんな。妙なところで。じゃあ、なんで聖杯戦争から降りないんだよ」
「え?だって、ボクが降りたら、アサシンの願いが叶わなくなっちゃうじゃないか」
繍は当然のことを聞かれたように首を傾げ、ウェイバーは苛立たしげに両手を振った。
「でも聖杯戦争を疑ってるんだろ」
「だから、聖杯を使わないで受肉の方法を探そうかって思って……」
今度はテーブルの下で繍のコートの裾が以蔵に引っ張られた。
繍がそこまで口にしたところで、ライダーの目が刃物のように鋭くなったのだ。
「できるのか、小娘」
「あ……と」
「どうなのだ?」
肉と野菜と小麦の焼ける音が、急に遠ざかるような威圧感だった。
手を握りしめて、繍は答えた。
「……やってやれないことは、ない、と思っている。そのためには要るものがある」
「なんだよ、それ?」
己のサーヴァントの威圧感に怯えつつもウェイバーは問い、繍は答えた。
「間桐の家に多分ある聖杯戦争の資料。御三家のうち、サーヴァントの召喚を担当したのはそこらしいから。ちゃんと調べたらもっとわかる何かがある。……今は、間桐の家は人食い妖怪の、蟲翁の巣窟だけど」
「はぁ?おいちょっと、この街どうなってるんだよ!?聖堂協会の監督役だっているのに、そんなの代行者が来たっておかしくないだろ!?」
「こん街の西洋の坊主どもが、アテになんぞなるわけないき。髑髏の面被りゆうアサシンが死んだちゅう嘘を、平気で吐いて、そんマスターを匿いよるやつらじゃ」
以蔵が口を挟む。
「髑髏の面のアサシンはアーチャーにやられて死んだんじゃないのかよ?」
「わしはあやつらを二人は斬った。倉庫んときも、もうひとりおった。後何人おるかは知らんが、三人で仕舞いとは思われんがじゃ」
話し過ぎじゃないのか、と以蔵を見上げると、軽く首を振られる。今は黙っとけ、ということらしい。
ウェイバーは蒼白な顔になっていた。
本来ならば、気配遮断スキルを持ち姿を見せずに暗躍するアサシンは、ステータスが低い分、マスター殺しを中心に動くのが定石になる。
髑髏のアサシンが死んだと思っていたのに実はまだ生きているとなれば、その脅威が復活したことになる。
ライダーは頬髭をしきりと擦っていた。
「なるほどのぅ。して小娘よ。その間桐の家とやら、所在は知れているのか?」
「ええ。それが?」
「知れたことだ。必要なものがあるなら奪うまで。それが征服王の略奪であるならばな」
ライダーの自信に満ちた言葉の意味するところが飲み込めず、繍は目を瞬かせた。
その様子を以蔵はよく光る鋭い目で黙って見ていた。
endは甲乙丙あるのですが、どこに行くかは定まってません。