では。
闇から踏み出して来た聖職者に、繍は覚えがあった。
髑髏のアサシンのマスター、言峰綺礼。脱落を装い、教会に匿われている曲者だ。
繍より先に、凛が一歩踏み出した。
「綺礼、あんたなんでここに?」
「お前を見ていた私のアサシンが伝えてきたのだ、凛。間桐桜を拐った刀のアサシンとその主が、君と接触している、とな」
「……」
では、遠坂凛には最初からアサシンの監視があって、繍たちはその網に引っかかってしまった、ということなのだろうか。
我が事ながら、不運な話である。やっぱり幸運値に呪われている。
「戻るぞ、凛。君を安全な場に送ろう。それに刀のアサシンよ。間桐桜を残して去ると言うならば、こちらも敢えて追いはしない……。見ての通り、私のアサシンは複数。乱戦ともなれば、お前の主がどうなるか、わからぬ訳はあるまい?」
淡々とした言峰綺礼の言い分は、単純だった。
つまり桜を引き渡すならば見逃す、というのだ。
無言になった以蔵と繍をどう思ったか、言峰はひとつ首肯した。
「間桐桜、こちらに来たまえ。怖い思いをしただろうが、安心しなさい。もう大丈夫だ。私は、中立の教会にいる神父だ。逃げ延びた君の父上も、君を待っていることだろう」
鉄面皮のまま、言峰が片手を差し出す。
しかし、桜の体はかたかたと震え出した。
「い、いや……!」
「桜?桜、どうしたの?」
凛の声も聞こえないふうに、桜は首を何度も振った。手に持っていた袋も落とす。
痛いほど強く、繍の腰にしがみついてきた。
「いや……いや!あそこは、いやです!わたし……わたしは、ここにいたいんです!」
しがみつかれ、繍のほうが面喰った。
拐って来た、その張本人の側にいたいと、この子は言うのだ。
怖い目に遭わせているのだろうな、という自覚はあった。
何せこちらは、名前しかまともに教えないような正体不明の呪術師に、人斬りのサーヴァントだ。
小さい子と関わったことなんてろくになく、特別優しくした覚えもない。愛想も自信がない。
確かに桜の体の中の蟲は追い出したし、気脈を整えたが、あれとて放っていたら衰弱しそうだったからやった、当たり前すぎることだ。
だから、離れるとなったら帰っていくだろうと思っていた。それなのに、これだ。
─────それだけ、間桐が怖かったのか。
これはどうしたらいいのだろうなぁ、と妙に冷えた頭で繍は考える。
言峰とやらが一体どんな顔をしているのかと彼を見、繍は再び驚いた。
怯えて、震えて、嫌と何度も繰り返す小さな桜。
それを見て、言峰は奇妙な顔をしていた。
表情はまったく変わらないけれど、瞳の奥に何か一瞬だけ閃くものが、
その束の間の光を見たのは、繍だけだった。
凛は桜を見ていたし、以蔵はアサシンを睥睨していたのだから。
繍だけがそれを見止め、口を開いた。
「……神父。お前は、何を楽しんでいるんだ?」
「何?」
「桜を見て、何を笑ったのかって聞いているんだ。何が楽しい?」
こいつ滅茶苦茶に胡散臭い、と繍は眉をひそめた。
言峰を見たとき、凛は一瞬ほっとしていた。遠坂家にとって、確かにこの男は味方らしい。
だけれど、この男のサーヴァントであるアサシンは、アインツベルンの城でセイバーのマスター、衛宮切嗣を庇ってもいる。
アーチャーとセイバーと、髑髏のアサシンが同盟でも組んだというのだろうか。
────それは、笑えないな。
そうなったら、生き延びられるわけがない。
先ほどから、以蔵は刀をいつでも抜けるように構えている。令呪を使えば、多分繍と彼だけなら傷を負わずに離脱できるだろう。
しかし桜がいるとなれば、離脱は各段に難しくなる。何せ、多勢に無勢である。
桜を、置いて行くのが最良だ。だけれど、幼い子どもの手は小さくて重かった。
「何を、馬鹿なことを」
言峰が、顔をほんの少し歪めた。
「馬鹿なことであるものか。お前はこの子を見て、何を楽しんだ?人の苦しみを見てそんな……悦を感じる聖職者に、怖がってる子を、はいそうですかと引き渡せるかい?人攫いのボクらより、お前のほうが格段に危なそうに見えるよ。大体、脱落したと嘘を吐き、教会に匿われているマスターが何故この子を引き取りにやって来るんだ!この、大嘘つきが!」
立て板に水の勢いで、捲し立てる。
冷静な判断を下されないよう、彼の気を逸らす詭弁である。中身などはどうでもいいのだ。
この聖職者に暗い嗜虐心があろうがなかろうが、どっちでも構わない。
「何を、戯言を!」
しかし、繍の言葉の何かが気に触りでもしたのか、取り澄ましていた言峰の顔が、仮面でも剥がれたようにはっきりと歪む。
主の動揺に呼応するように、髑髏のアサシンたちが距離を詰めて来る。
凛は震えていた。以蔵と彼らの放つ殺気は、小さな子にはきついだろう。
しかし桜は、そんなことも感じていないふうに縋りついて来ていた。
手を離さないで、置いて行かないで、と無言で、けれど全身で訴えている。
念話を繋げた。
『逃げられる?』
『……犬コロは出せるがか?』
『出せる』
『そいつに桜を守らせえ』
『了解。令呪、使うよ』
『そうせえ』
包帯を巻いて隠した、右手の刻印。
それに魔力を込めた、そのときだ。
遠く、遥かな夜闇の彼方から、一筋の金の閃光が飛来した。
繍には何もわからなかった。
感じ取れたのは、爆風と轟音だけ。
気づけば、傍らにいたはずの以蔵の姿が消えていた。
「アサシン!」
振り返る。
数メートル後ろに佇む太い木の幹に、岡田以蔵が縫い留められていた。
左肩を刺し貫いているのは、棘が生えた金色の短い槍。明らかに宝具であるそれを見て、吹き出す血を見て、繍の呼吸が一瞬止まった。
駆け寄ろうとしたとき、辛うじて風切り音を耳が捉える。
咄嗟に、桜を凛の方に向けて突き飛ばした。
繍にできたのはそこまで。
全身に叩きつけられた爆風に、体が軽石のように吹っ飛ぶのを感じた。
「ぐ、あ……ぁ」
背中が何か硬いものに叩きつけられ、息が詰まる。意識が一瞬、途切れた。
頭を庇い、受け身だけは取ったが、全身に走った衝撃が、すぐに動くことを許してくれない。
顔の上に、何か熱いものがぽたぽたと零れ落ちてくる。
瞼を押し開けば、それは赤い────自分のものではない人の、血だった。
「……い……おい!……繍!」
「生、きてるよ……。そんなに、焦らないで」
顔に溢れてきたのは、以蔵の血。
木に縫い留められた彼の、足元に吹き飛ばされたのだ。
震える足に力を込めて、立ち上がる。打ち付けた全身は酷く痺れていて、上手く動かなかった。
「ほう。頭を落としてやろうと思ったが、避けたか。野良犬の分を弁えれば、楽に殺してやろうと思ったが、それすら不要と見える」
遠くから、冷たい声がする。
冷たい夜気が突然重くなって、体にのしかかってくるようだった。
「なん、じゃとぉ……!」
肩を貫いている槍を、以蔵は抜こうとしたのだろう。だが、今度は右手の中心を、飛来した短剣が刺し貫いた。
魂斬る絶叫が、夜の公園に響いた。
耳を塞ぎたくなるのを堪えて、繍は以蔵の腕を掴む。頬に血のついた片手を添え、夕日色の瞳を覗き込んだ。
「アサシン、霊体化、しろ」
霊体になってから実体になれば、少なくとも槍と剣の縛めからは逃れられる。
夕焼けの瞳に、焦点が合う。
ゆらり、と以蔵の体の輪郭が揺らめいて、けれどすぐに元に戻る。それだけだった。
霊体化ができなくなっていた。
「愚か者。霊体となって逃げることなど、この我が許すものか。野良犬は大人しく、そこで見ているがいい。逃げようなどとは、考えるなよ」
冷たい声の主を、ようやく繍は見た。
黄金の髪を靡かせ、鮮血の紅い瞳をした、ぞっとするほど美しい容貌の青年が、そこにいたのだ。
港で以蔵を吹き飛ばし、宝具で貫き、蹂躙した、あのアーチャーだった。
あの仰々しい黄金の甲冑こそ纏っていないが、その背後には金色の波紋が展開されている。あそこから宝具を射出するのが、彼の攻撃方法だ。
その砲門は今、すべてが繍と以蔵に向けられていた。
動けない。
逃げられない。
令呪を起動させるより速く、式神を喚ぶより速く、アーチャーは動くだろう。
繍が、以蔵を捕らえている剣と槍を引き抜く間に、宝具で串刺しにされる。
アーチャーは何の気負いもなく近寄り、繍の目の前で立ち止まった。
「なかなかに、古き者の血を継いだ者と見える。しかし、まさかこの国の女神に仕えるべき者が、このような下らぬ争いに首を突っ込むとはな」
「ぐ……」
首を掴んで、持ち上げられた。
靴の爪先が、地面を空しく掻く。
万力のような手を引き剥がそうと爪を立てるが、岩を相手にしているようで、まったく力が緩まない。
以蔵と、桜の声が聞こえたように思うが、何を言っているかがわからなかった。
アーチャーの囁きばかりが、意識も定かでない頭に木霊する。
「連れている狗を出せ、雑種の小娘よ。そこな野良犬より、余程面白かろう。……ああ、だが、貴様一人では、最早それすらも満足にできぬか。神を祀るべき守り手が、随分と零落したものだ」
「な、んだって……!?」
「我の前で、隠し事ができると思うなよ。守るべき土地を追われた仕え人共の末路なぞ、哀れなものよな」
この野郎、と繍の目の前が怒りで朱く染まる。
顔も思い出せない二親、病院で死んだ祖母。
佐保繍という人間をこの世に送り出して、中身を形作ってくれた、もういない大事な人たち。
彼らすべてを哀れと言われて、怒らないわけがない。
声も出せず、ただ繍は憤りに満ちた瞳で、アーチャーの紅い瞳を睨み据えた。
「ほう。命乞いでなく、怒りを顕にするか。野良犬の主人にしては、愉快な者よな」
やおら、アーチャーは手を離した。
膝から地面に崩折れ、繍は咳き込む。
涙で滲んだ視界で見上げれば、黄金のアーチャーは興味をなくしたふうに背を向けていた。
彼が向かうのは、黒衣の聖職者、言峰綺礼の下だった。
「アレを殺さないのか、アーチャー。そも、何故ここに来た」
「無聊を慰めようとそぞろ歩いておれば、臭い野良犬の気配がした故、消そうと思ったまでだ。……だが、お前の本質を僅かなりと言い当てた慧眼に免じ、あの雑種の小娘はまだ生かす。良いな、言峰綺礼」
「私の本質、だと?」
言峰の黒い、虚の瞳が繍を睨めつけた。
何かを強く求めるようなその瞳は、ぎらぎらと光っている。
お前のことなんて知るか、と繍は言峰を睨み返して、もう一度立ち上がった。
立って、歩いて、動けなければ、以蔵も自分も死ぬ。
死ぬのは、嫌だった。
死なせるのは、もっと嫌だった。
それに比べたら、痛くて苦しいほうが────本当は、逃げ出したいくらい嫌でも、吐きそうなくらい怖くても────まだマシだ。
「答えろ、女。貴様は、私の中に何を見た?」
「鏡でも、見てろ……。セイバーとも、アーチャーとも、組んで、全員をだまくらかす奴の本質なんて、ボクが知るものか」
「ほう、綺礼よ、聞き捨てならぬな。貴様、セイバーを庇ったとはどういう了見だ?我は時臣から何も聞いておらぬが?」
立ち去りかけていたアーチャーが、興味を惹かれたように振り返る。
言峰は、いよいよこちらを射殺しそうな目つきになった。
アーチャーは鼻を鳴らし、肩をすくめる。
「まあ、よい。綺礼よ、あの雑種は、野良犬共々捨て置け。生かしておけば、この下らぬ戦いに興を増やすであろうさ」
「……いいだろう。だがアーチャー、間桐桜は連れ帰る。今度は邪魔をするなよ」
「好きにしろ」
アーチャーが顕現を解き、立ち去っていく。
彼の気配が消えるや、言峰の側にいた髑髏のアサシンの二体が、す、と闇に溶けた。
ほぼ同時に、冷たい刃が後ろから首筋に押し当てられ、繍は動きを止めた。背後に回り込んだ髑髏のアサシンの
微かな痛みが走り、生温かいものが首を流れる。薄皮が一枚、斬られていた。
「こんの……!」
「動くな、刀のアサシン。貴様のマスターの首が、落ちるところを見たくなければな」
後ろは振り返れないが、肉が引き千切れるような鈍い音がしていた。以蔵はきっと藻掻いて、剣を抜こうとしていたのだろう。
獣の唸りにそっくりな声が、聞こえていた。悔しげに、歯を折らんばかりに食い縛っている顔が見えるようだった。
「間桐桜、こちらに来なさい。君は少し、混乱しているだけだ。休めば、彼らのことなどすぐに忘れるだろう」
言峰が、歩いて行く。
向かうのは、桜のところだった。凛も桜も、怪我こそしていないように見えたが、立てもしないのか、灰色のコンクリートの上にへたり込んでいる。
無理もない。平和な国の、まだ幼い子どもたちだ。
魔術師の家の者とはいえ、英霊同士の殺し合いの気配は、あの子たちには立っていられないほどに強烈過ぎた。
それでも、言峰の声を聞いて、桜は首を振った。
「い、いや……あそこに、もどるのは……いや、です!」
いや、いや、と何度も壊れた人形のように繰り返す桜の頭を、凛が掻き抱いた。けれど彼女も、何をどうしたらいいかわからない。
言峰と桜と、それに繍と以蔵の間で視線を彷徨わせている。
「さあ、来なさい」
言峰が片手を差し出した、そのときだ。
唐突に、言峰は身を屈めて飛び退るや、あらぬ方向へ奇妙な形の剣を投擲した。
キィン、と響く金物同士がぶつかり合う、異様な音。そして、一瞬前まで彼の立っていた場所の地面は抉れていた。
「やれ!バーサーカァァッ!」
黒い木立の中から、漆黒の鎧が飛び出す。近くにいた髑髏のアサシンを薙ぎ倒し、月光の下で狂戦士が雄叫びを上げた。
その傍らには、痩身の人影があった。
繍を捕らえるアサシンにも、動揺が走った。刃が、首から離れる。
今だ、と思った。
「滅ッ!」
叫んだ瞬間、繍の髪を束ねていた紐が千切れ飛んだ。
広がった髪が、髑髏のアサシンの目の前で爆発する。
目の前で炸裂した閃光に、髑髏のアサシンが怯む。繍はその拘束から抜け出すや、符を取り出した。
「白、黒、来いっ!」
たちまちに顕現した狗神は、一頭が桜の方へ駆け出す。器用に襟首を噛み、その背に乗せて駆け去った。桜、と呼んだ凛の腕は空をかいた。
残った一頭は、髑髏のアサシンへ牙をむき出して唸り、繍は以蔵の方へ駆け寄った。
「アサシン、歯ぁ食い縛れよ!」
声だけかけ、繍は以蔵の肩を貫いた槍の柄を掴んだ。
電気に打たれたような衝撃が手から腕へと突き抜けるが、この際構わない。
渾身の力で、槍を引き抜いた。穂先についた血が、頬に撥ねかかる。
続けてもう片方の短剣も引き抜き、地面に放り捨てる。金物が地に落ちる、重い音が響いた。
解き放たれた以蔵の手が、ふらついた繍の肩を掴む。
あたたかい手に触れられ、ぐらりと視界が傾く。しかしまだ、倒れられない。
「令呪を以て命ず!アサシン、ここから離脱しろ!」
右手の甲から、莫大な魔力が渦巻いて解き放たれた。
腹の下に手が差し入れられた、と思った次の瞬間には、繍は空にいた。
風が、耳元でびゅうびゅう鳴いている。
首を巡らせれば、見慣れた横顔。
頬は血に濡れて青褪めてこそいたが、ちゃんと熱の籠もった人間の体温が伝わって来て、繍はそっと息を吐いた。
「岡田、さん……生きて、るぅ?」
「口開くな!傷開くが!」
「ぼく、より、君が、ひどい、だろう……。ごめん、ねぇ。ぼくがへた、うっちゃった、から……」
「喋るな、ちゅうとろうが!」
以蔵に抱えられて、空を跳んでいるのだろうなとわかっても、体が上手く動かない。頭の芯が痛くて、考えが纏まらない。
魔力と気力の、限界だった。
乾いて口腔に貼り付きそうな、回らぬ舌を動かして、言葉を押し出す。
「白、についてって……。黒と、桜のいる方に、導いて、くれ、るから……」
「わかった!わかったき大人しうしとれ!」
そんな泣きそうな声で焦らなくたって、こんなことじゃ呪術師は死なないし死ねないんだよ、と言ってやりたかった。
だけれども、体が先に限界を向かえる。
ぷつりと、糸が切れるように闇が来た。
後はもう、何もわからなくなった。
一度の失敗が高くついた話。
前後編として区切るなら、これで前編が終わりです。
後編は今少しかかるかと思いますが、よろしくお願いします。
支援絵を頂きまして、あらすじの欄に掲載いたしました。
当作品主人公、佐保繍の普通顔と笑顔となっております。超可愛いです。
絵を下さった方に、多大な感謝を!