冬の街にて、人斬り異聞   作:はたけのなすび

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では。


巻の二十九

 

 

 

 

 英雄王、と言峰綺礼は言った。

 その名が示すのは、ただ一人の英霊だった。

 

 即ち、世界最古の英雄、古代ウルクの王、ギルガメッシュ。

 言峰綺礼の漏らした言葉を聞き拾い、掴んだ真名は余りに途方もなかった。掴んだところで、どうしろというのだ。

 

 その英雄王が、今、マスターばかりの教会に降り立ったのだ。

 

「英雄王、何故ここに来られたのですか!?」

「貴様如きの言に、何故我が従うと思った、時臣。神の求道者が、ついに異教の巫女にまで答えを求めるとなれば、我が見極めをつけるは必定であろう」

 

 それだから、この場に姿を現したのかと理解すると同時、繍は念話を繋げた。

 

『アサシン!』

 

 ほとんど同時に、黒い姿が繍の目の前に実体化。着地するより先に、言峰綺礼に斬り掛かった。

 髑髏のアサシンの白面が、刀と神父の間に滑り込む。声もなく髑髏のサーヴァントは斬り捨てられて消滅するが、その隙に神父は飛び退った。

 血が滴る、抜き見の刀を手に引っ下げた以蔵は、繍の方を振り返った。

 

「呼ぶんが遅いき!」

「それは本当にすまないが、怒るのは後にしてくれ!」

 

 今不味いのはあっち、と繍はアーチャーを指した。

 教会には、各々のマスターの側にサーヴァントが姿を現していた。バーサーカーだけは、姿を見せてはいないのだが。

 

「アーチャー、何のつもりだ。今はマスターたちの話し合いだったはずだ」

 

 セイバーが凛とアーチャーを問い詰めるが、アーチャーは傲然とした態度を崩さない。

 

「それがどうしたというのだ。聖杯戦争など、既に無いも同然。今我を興じさせるのは、汚物を湛えた杯などではない」

「何だと!?」

 

 激昂したセイバーの手を、アイリスフィールが抑えた。

 それにしても不味い、と繍は思う。アーチャーは、一体何をしたいのだ。

 

「綺礼よ、そこな巫女によって、本性を暴き立てられた感想はどうだ?」

「英雄王……貴様」

「雑種とはいえ、現世においてアレはなかなかに澄んだ魂を持つ。紛いではなく、真作の神の手によるものだ。代を重ね、純度を高めた清水の如き魂。貴様の煩悶、懊悩を、根本的に理解できぬ類の者だ。酷薄にも、解のみを与えることしか、アレはできん」

 

 どうしてそれを、と繍は手をきつく握った。

 佐保家の転生のことは、血族以外では以蔵にしか言ったことはない。

 神性を宿す紅の瞳が、繍を射抜いた。

 

「隠し通せると思ったか。神の気配を色濃く纏う魂が、まさかこのような争いに紛れ込むなど、見るに堪えぬ喜劇かと思ったわ。しかも、召喚したのは血に飢えた野良犬。我と相対する資格を持つ英雄ですらない」

 

 だが許そう、と英雄王は言った。

 

「求道者に解を与える役目として、貴様の眼は使えた。節穴の時臣や、父というそこの神父より、余程な」

「……なぁ、おい英雄王。既に此度の聖杯がまともなものでないことは、余も坊主から聞いて知った。それで貴様は、どうするつもりなのだ?」

 

 征服王の顔は厳しい。ウェイバーはその背中に庇われながら、うろうろと目をさ迷わせていた。

 

「さてな。まだ決めてはいないが……この世に降臨させるも、吝かではないな」

「っ!?」

 

 前後を忘れて、繍は叫んでいた。

 

「あなたは何を言っている!この国に……日の本に、そのようなもの、降ろしでもしたら……!」

「この街など、瞬く間で呪いに沈むであろうな。何せ、『この世すべての悪』の名を与えられたモノだ。その次は国か?捨て置けば、何れこの世を呑むだろうさ」

 

 だが、それの何が悪い、と英雄王は告げた。

 

「ライダー、そしてセイバーよ。貴様らも思ったことはなかったのか?今のこの世は、弱者に優しすぎる。生きる価値もない雑種が蔓延り、この世の生を謳歌する。鬱陶しくて見るに堪えぬ、とな」

「だから、()()()と言うのか?」

「それも一興よな。何せ、事は人が悪を求め生み出した神の化身。さぞ、人を殺すことに優れているであろう」

 

 なんだ、この英雄は。

 何を言っているのだ、この半神は。

 

 訳が、わからなかった。

 

 今を生きる人々が、脆弱で、見るに耐えないほどに醜くて、それゆえに滅ぼす。

 言葉の意味は理解できても、そこに流れる常識が、余りに遠い。

 

 ただ弱いことは、この最古の英雄にとっては、罪でしかないのか。

 

 ─────巫山戯るな。

 

 どくん、とやけに響く鼓動が聞こえた。

 

 繍の額に、叩かれたような衝撃が走ったのは、そのときだ。

 ()()()、と体がぶれる。後ろに突き飛ばされてよろけ、しかし、繍は倒れなかった。

 

「おい、マスター!?」

 

 以蔵の声が聞こえる。しかし、答えたのは繍であって、繍ではなかった。

 

「そのような蛮行、許さないわ」

 

 自分の口が、勝手に動くのを感じる。体が二つにぶれたように、自分の意志で動かせなかった。

 髪を束ねていた紐が、呆気なく千切れる。背中に髪が広がるのを感じた。

 魔力とも何ともつかない途轍もない気配が、自分の体────否、魂を中心にして体内を駆け巡り、吹き上がった。

 アーチャーの瞳が細められる。

 

「ようやく顔を見せたか、女神よ」

 

 それに対し、体は勝手に動いた。

 指を揃えた右手を横に一閃、それだけで教会の壁が、屋根が、祭壇と十字架ごと障子紙のように切り裂かれ、吹き飛ばされる。

 屋根ははぎ取られ、尖塔は叩き落され、敷地の木はへし折られて空に舞い上がった。

 一瞬で廃墟となる教会。月光と夜風に、一同は晒された。

 サーヴァントに庇われていないバーサーカーのマスターが、木の葉のように吹き飛ばされる。

 

 英霊たちすら後退させる、宝具並みの威力を持つ風が、教会を蹂躙した。

 それを、何の詠唱もなく、手の一振りだけで起こしたのが、自分の体であることに繍が最も驚いていた。

 だが、繍は直後に喉元にせり上がるものを感じた。口を手で押さえ、たまらずに膝をつく。

 鉄臭い液体が、口からごぼごぼと溢れた。

 手のひらを見れば、血で赤黒く染められていた。

 アーチャーの声が、遠くから反響して聞こえる。

 

「その器は脆すぎて、権能のひとつも満足に使えんようだな。脆弱な女神如きが我を阻もうなどとは、片腹痛い」

 

 繍は口を利けなかった。血が、後からあとからせり上がり、溢れ出る。

 臓腑が焦げ付きそうなほどの、異様なまでに激しい怒りが、自分のものでない感情が脳を焼くの味わっていたが、同時に体内の魔力が、制御不能なほどに荒れ狂っていた。

 体外からの魔力の取り込みと、体内の魔力精製。

 二つの機能が意志を離れて滅茶苦茶に動き回り、回転し、体が今すぐばらばらになりそうな激痛が走る。

 

「は、ぁ……ぐ、っ……!」

 

 束の間だけ現れた『誰か』が引き起こした揺らぎは、体内どころか、魂までを揺らしていた。

 蹲ったまま、目だけを動かし見れば、桜を乗せた黒の輪郭も、陽炎のように揺らめいている。白は、符から出てくる気配がなかった。

 

 腕を、誰かに掴まれた。肩を誰かが支えて叩いて、うるさいくらいに名前を呼ばれる。

 とても強い力と声で、それにとてもあたたかい。

 だけれど、縋る力すら腕に残っていなかった。

 

「マスター!」

 

 答えようとして、ひゅるり、と意識がどこか深いところに吸い込まれる。音と匂いと、周囲の何もかもが遠くなる。

 この街に来てこんな目に遭うのは二度目か、と自嘲したくなって、それきり闇に、一度目よりも深い闇へと、意識が落ちた。

 

 

 

 

 

#####

 

 

 

 

 

 ずるり、と血で汚れた腕が滑った。

 べちゃり、と雪のように白い髪が血溜まりに落ちて、耳障りな音を立てた。

 ぶちぶち、ぱきりぱきり、と、何かが千切れて折れていく音が、目の前に倒れた体から聞こえる。

 

 それは、人間の体が、内側から壊れていく音だった。

 血の管が、肉が、臓物が、骨が、ぶちりと切れて、ぐずぐずと崩れて、ぱきぱきと折れて、それらすべてが体のナカでぐちゃぐちゃと混じり合って行く、音。

 それが、嫌に大きく響く。

 

 死、という言葉が頭を過った。

 死ぬ。自分のマスターが、刀を預けると約束した相手が、目の前で。

 

「い、いやぁぁぁっ!」

 

 空気を震わせたのは、甲高い子どもの声。

 狗から飛び降りて、縋り付いて泣いている。

 壊れかけの人形のようにされるがままだった小さな体が、人間のように声を振り絞って、泣いて叫んでいる。

 その服がどんどん赤く染まっていく。

 赤を見て、以蔵の目が覚めた。

 

 この傷は、己には治せない。

 そんなコトは、人斬りにできない。

 人を斬るしか、できない。

 

─────では、誰を斬れば、いい?

─────誰を斬れば、こいつは生きられる?

 

 だから、刀を抜いた。

 狙ったのは教会奥に木偶のように突っ立っている、魔術師ただ一人。

 直前で気づいたか杖が向けてくるが、そんなもの、人斬り以蔵にとれば亀の歩みより遅い。

 紅玉の握りの仰々しい杖は、無銘の刀の一振りで砕かれた。

 

「きさん、サーヴァントを自害させぇ。今すぐじゃ」

「そ、そんなことが!?」

 

 遠坂だか何とか言う、男。

 サーヴァントはすべてマスターから魔力を受けている。それが絶たれれば、消滅するのだ。

 魔術師だというこの男は、アーチャーの令呪を持っている。それに願えば、あれは死ぬのだ。

 ひゅ、という風切り音に反射で体を横に倒す。首の横を、剣が一本通り過ぎて背後の壁に突き刺さった。

 無数の剣群がアーチャーの背後に現れ、すべてが以蔵に向けられていた。

 

「我の前で、下らぬ諍いは許さぬ」

 

 英雄王がさらに指を振るえば、破壊された屋根の向こうの夜空に、何かが浮いていた。

 金色の、夜目にも派手な目立つ乗り物。舟、とでも言えばいいのだろうか。

 遠坂の襟に鎖が引っ掛かり、それ諸共英雄王は、金色の舟の上に乗り込んだ。

 ついでとばかり、あの神父まで舟へと引き上げられる。

 

「杯の中身を、我はまだ見極めておらぬ。競い合え、雑種共。でなくば、あれの中身を顕現させよう」

 

 舟の上から、傲然と、黄金の英雄はこちらを見下ろしていた。

 その舟影に向けて、飛び掛かる黒い影がある。

 

「バーサーカー!?」

 

 叫んだのは誰だろう、ウェイバーだろうか。黒い甲冑を軋ませる狂戦士の唸り声が、廃墟と化した教会に響いた。

 霞を吹き上げ、黄金の舟とそこに乗るアーチャーに食いつかんばかりに荒れ猛るバーサーカーに、上空から宝具の雨が降り掛かった。

 それも、掴み取れないような針ほどに細い無数の宝具である。殺到した宝具に、バーサーカーが苦悶の声を上げた。

 舟の上、アーチャーは唇の端を吊り上げ、嘲っていた。

 

 ─────この教会ごと、やる気ぃか!

 

「いかん!皆の者、退け!」

 

 ライダーの焦った声を耳が拾った瞬間、以蔵は跳んだ。

 戻るのは繍と、その体に取り縋って泣いている桜のところ。

 地面に倒れて、動かない繍の体を抱え上げた。かくり、と首と腕が揺れる。生温かい血が、着物に染み込んでくる。

 

 ─────死ぬな、死ぬな死ぬな死ぬな!

 ─────頼むから、死ぬな!置いていかんとうせ!

 

 桜の襟を、黒犬が咥えて背に放り投げたとき、教会に黄金の波紋から放たれた剣と槍が突き刺さった。

 

 この日、冬木市の教会が一つ、跡形もなく吹き飛ぶことになったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ─────やったら確実に、ボクが死ぬ。……いや、消えるのかな?

 ─────カミ降ろしなどしたら、ボクは魂が潰れて消滅だ。

 ─────輪廻から外れるのは、流石に嫌だよ。

 

 甘酒の入った器を片手に、笑うとも泣くともつかない顔で、あいつは言っていた。

 人を助ける以外の生き方を、知らないから、そうあれと望まれた生き方を繰り返すだけのつまらない奴で、それを良しとしているから、だから己は善人じゃないのだと、微笑みながら言っていた。

 

 微笑みながら言っていた。

 けれど、少し寂しそうだった。

 

 そう。

 喋っていようが、笑っていようが、桜を撫でていようが、いつでもどこか、ここではない遠くを透かし見ているような、寂しそうなやつだった。

 

 そいつが目を閉じて、気を失うのを見るのは二度目だった。

 

「なんだこれは!何がどうなってんだ!?体中の魔術回路が、滅茶苦茶じゃないか!」

「馬鹿者!回路どころでない、身体機能そのものが、超高濃度のエーテルにより崩壊寸前だ!これは一体、何に干渉されたのだ!」

 

 教会から飛び出して、辿り着いた廃工場。

 ライダーの戦車で、掬い取られるようにして教会から離脱したランサー陣営は、工場に彼らを案内した。

 以蔵も、彼らについて行った。

 もし繍を治せるのならば、彼ら以外にはいないだろうからと。

 恐らく、その考えは半分当たり、半分は間違いだった。

 灰色の石の床に布を敷いた床の上、仰向けに寝かされた繍の体を治す手立ては、彼らにもないのだ。

 白い服も茶色い裾長の上着も既に、赤い。血で、濡れそぼっている。

 こめかみか額も切れたのか、流れる血で、顔が朱に染められて行く。逆に、頬の色は白くなるのだ。

 顔は苦しそうに顰められて、手や足が陸の上の魚のように、痙攣している。

 ひゅう、ひゅうという笛のような息だけが、辛うじて続いていた。

 

 頭が沸騰しそうだった。

 刀があったところで、何ができるのだ。

 魔力ばかりが途切れずに、以蔵の体に流れ込んできている。それが一番、腹立たしかった。

 

「アサシン、お前の主は……」

 

 声をかけてくるのは、ランサー。

 何だと、睨んだ。

 以蔵の腰辺りにしがみつく桜は、もうずっと泣きっぱなしだ。

 声も上げないで、人形めいた顔で、ただぽろぽろと涙だけを大きな瞳からこぼし続けている。

 あの黒い犬は、工場に着いたと同時に消えてしまったのだ。

 

「岡田さん、し、繍さん、は?」

「……わからん」

 

 死ぬ人間は見てきた。

 己が殺した人間の顔も見た。

 だから分かる。

 あの体は、とうに死んでいるはずだ。

 血が流れすぎた。傷つきすぎた。

 なのに、まだ息をして、魔力を生み出している。

 

 ─────ボクは、そう簡単には死なないし、死ねないんだよ?

 

 あの声が、耳の奥に蘇る。

 そうして、ふわりと白い影が廃墟の闇に現れた。

 桜の目が上に向く。

 

「あ……」

 

 繍の腰についた血塗れの符入れから顕現したのは、不吉なほどに純白の毛並みを闇に光らせる、あの白犬だった。

 傍らには、黒犬もいる。

 桜の声を聞いたからか、頭を巡らせた白犬は、小賢しい目つきで以蔵と桜と、尾を垂れたままの黒犬を見た。

 白犬と黒犬は軽々と、空気を踏んで繍の体のすぐ脇に浮き、ケイネスとウェイバーを睨む。白犬は繍の額に鼻面を押し当て、黒犬は桃色の舌で、繍の頬に飛んだ血を舐め取っていた。

 ケイネスが顔を上げる。

 

「なんだ、こいつらは!?この気配は、まさか、幻想種……! 」

「主、お下がりください!」

 

 白犬と黒犬の尾が振るわれ、巻き起こされた風に、ケイネスとウェイバーとが吹き飛ばされかける。

 ウェイバーをライダーが、ケイネスをランサーがそれぞれ庇い、後退した。

 以蔵は前に出ていた。

 

「おんしら、何をする気ぃか!」

 

 知れたことだと、白犬が目の奥で嗤ったように見えた。

 

 やめろ、と言いかけた。

 

 以蔵には、言えなかった。

 あの犬が姿を消せば、繍は本当に死んでしまうのだ。

 静止の言葉は、喉の奥で凍りついた。

 

 黒犬は少し哀しそうに、くぅ、と鼻を鳴らして、繍の胸、心臓のある位置に鼻面を押し当てた。

 二頭の体躯から滲み出た淡い黄金色の燐光が、繍の全身に降りかかり、工場の闇を眩く照らし出す。

 光が止んだとき、繍の顔からは、苦悶が消えていた。

 

「繍!」

 

 叫んで、駆け寄って、抱き起こす。

 触れても揺らしても、体の中が崩れていくあの恐ろしい音は、しなかった。

 さらり、と手の中で滑る髪を見る。

 灰色が残る、血に汚れていた髪は、月と星の光を弾くほどの、混じり気ない白さで輝いていた。

 

 ばふ、と白犬は一声低く吠えて、姿を消す。

 黒犬はくぅん、と喉奥で吠え声を漏らし、耳と尾を垂らして、これも同じく闇に溶けた。

 

 後に残ったのは、傷だけが消え、肌と髪が白くなった少女の体。

 それは悲しいほどに軽く、暖かかった。掻き抱いたら、壊れてしまいそうなほどに。

 

 前髪が、細い吐息で揺れた。

 

「お、かだ、さん?」

 

 側近くに、明るい茶色い瞳があった。

 ぼんやりと、焦点の合わない眼のまま、繍は片手を伸ばして来た。

 

「なぁ、に?……きみ、また、ないた、のか?」

「泣い、ちょらんわ。こん、べこのかぁ」

 

 あは、と泡が弾けるような笑い声が漏れた。

 

「うそ……だぁ。きみ、ぼくに、嘘をつくなって、いった、くせ、に……」

 

 ─────泣かせて、ごめんね、とやわらかい声が耳元で言う。

 

 ゆぅらゆら。

 不知火のように揺蕩う眼で、繍は以蔵の頬を撫でていた。

 多分こいつは今、目が見えていないと、悟った。

 

「ねむ……い、すごく、ねむい、んだ……。ねて、もだいじょう、ぶ?」

「……おん、寝ちょけ。……なんちゃあない、なんちゃあないから、のう」

「そっ、か……。そっかぁ……」

 

 頬に触れていた手が、するりと落ちる。

 瞼がゆっくり閉じられ、茶色い瞳が隠れた。

 

 出来うる限りの優しい手付きで、頭を擦った。これ以上壊れぬよう、壊さぬように。

 一欠片の黒も残さず、白く染められた髪が、清水のように手の中で逃げた。

 すぅ、と寝息が深くなるのを聞きながら、以蔵は繍を抱き上げたまま、立ち上がった。

 

 

 

 

 

 

 





ちょっと誰かのSAN値が危なくなったかもしれない話。
何の準備もしてないのに神代の空気に降臨などされたら、魂はともかく体がもつわけない。

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