では。
英雄王、と言峰綺礼は言った。
その名が示すのは、ただ一人の英霊だった。
即ち、世界最古の英雄、古代ウルクの王、ギルガメッシュ。
言峰綺礼の漏らした言葉を聞き拾い、掴んだ真名は余りに途方もなかった。掴んだところで、どうしろというのだ。
その英雄王が、今、マスターばかりの教会に降り立ったのだ。
「英雄王、何故ここに来られたのですか!?」
「貴様如きの言に、何故我が従うと思った、時臣。神の求道者が、ついに異教の巫女にまで答えを求めるとなれば、我が見極めをつけるは必定であろう」
それだから、この場に姿を現したのかと理解すると同時、繍は念話を繋げた。
『アサシン!』
ほとんど同時に、黒い姿が繍の目の前に実体化。着地するより先に、言峰綺礼に斬り掛かった。
髑髏のアサシンの白面が、刀と神父の間に滑り込む。声もなく髑髏のサーヴァントは斬り捨てられて消滅するが、その隙に神父は飛び退った。
血が滴る、抜き見の刀を手に引っ下げた以蔵は、繍の方を振り返った。
「呼ぶんが遅いき!」
「それは本当にすまないが、怒るのは後にしてくれ!」
今不味いのはあっち、と繍はアーチャーを指した。
教会には、各々のマスターの側にサーヴァントが姿を現していた。バーサーカーだけは、姿を見せてはいないのだが。
「アーチャー、何のつもりだ。今はマスターたちの話し合いだったはずだ」
セイバーが凛とアーチャーを問い詰めるが、アーチャーは傲然とした態度を崩さない。
「それがどうしたというのだ。聖杯戦争など、既に無いも同然。今我を興じさせるのは、汚物を湛えた杯などではない」
「何だと!?」
激昂したセイバーの手を、アイリスフィールが抑えた。
それにしても不味い、と繍は思う。アーチャーは、一体何をしたいのだ。
「綺礼よ、そこな巫女によって、本性を暴き立てられた感想はどうだ?」
「英雄王……貴様」
「雑種とはいえ、現世においてアレはなかなかに澄んだ魂を持つ。紛いではなく、真作の神の手によるものだ。代を重ね、純度を高めた清水の如き魂。貴様の煩悶、懊悩を、根本的に理解できぬ類の者だ。酷薄にも、解のみを与えることしか、アレはできん」
どうしてそれを、と繍は手をきつく握った。
佐保家の転生のことは、血族以外では以蔵にしか言ったことはない。
神性を宿す紅の瞳が、繍を射抜いた。
「隠し通せると思ったか。神の気配を色濃く纏う魂が、まさかこのような争いに紛れ込むなど、見るに堪えぬ喜劇かと思ったわ。しかも、召喚したのは血に飢えた野良犬。我と相対する資格を持つ英雄ですらない」
だが許そう、と英雄王は言った。
「求道者に解を与える役目として、貴様の眼は使えた。節穴の時臣や、父というそこの神父より、余程な」
「……なぁ、おい英雄王。既に此度の聖杯がまともなものでないことは、余も坊主から聞いて知った。それで貴様は、どうするつもりなのだ?」
征服王の顔は厳しい。ウェイバーはその背中に庇われながら、うろうろと目をさ迷わせていた。
「さてな。まだ決めてはいないが……この世に降臨させるも、吝かではないな」
「っ!?」
前後を忘れて、繍は叫んでいた。
「あなたは何を言っている!この国に……日の本に、そのようなもの、降ろしでもしたら……!」
「この街など、瞬く間で呪いに沈むであろうな。何せ、『この世すべての悪』の名を与えられたモノだ。その次は国か?捨て置けば、何れこの世を呑むだろうさ」
だが、それの何が悪い、と英雄王は告げた。
「ライダー、そしてセイバーよ。貴様らも思ったことはなかったのか?今のこの世は、弱者に優しすぎる。生きる価値もない雑種が蔓延り、この世の生を謳歌する。鬱陶しくて見るに堪えぬ、とな」
「だから、
「それも一興よな。何せ、事は人が悪を求め生み出した神の化身。さぞ、人を殺すことに優れているであろう」
なんだ、この英雄は。
何を言っているのだ、この半神は。
訳が、わからなかった。
今を生きる人々が、脆弱で、見るに耐えないほどに醜くて、それゆえに滅ぼす。
言葉の意味は理解できても、そこに流れる常識が、余りに遠い。
ただ弱いことは、この最古の英雄にとっては、罪でしかないのか。
─────巫山戯るな。
どくん、とやけに響く鼓動が聞こえた。
繍の額に、叩かれたような衝撃が走ったのは、そのときだ。
「おい、マスター!?」
以蔵の声が聞こえる。しかし、答えたのは繍であって、繍ではなかった。
「そのような蛮行、許さないわ」
自分の口が、勝手に動くのを感じる。体が二つにぶれたように、自分の意志で動かせなかった。
髪を束ねていた紐が、呆気なく千切れる。背中に髪が広がるのを感じた。
魔力とも何ともつかない途轍もない気配が、自分の体────否、魂を中心にして体内を駆け巡り、吹き上がった。
アーチャーの瞳が細められる。
「ようやく顔を見せたか、女神よ」
それに対し、体は勝手に動いた。
指を揃えた右手を横に一閃、それだけで教会の壁が、屋根が、祭壇と十字架ごと障子紙のように切り裂かれ、吹き飛ばされる。
屋根ははぎ取られ、尖塔は叩き落され、敷地の木はへし折られて空に舞い上がった。
一瞬で廃墟となる教会。月光と夜風に、一同は晒された。
サーヴァントに庇われていないバーサーカーのマスターが、木の葉のように吹き飛ばされる。
英霊たちすら後退させる、宝具並みの威力を持つ風が、教会を蹂躙した。
それを、何の詠唱もなく、手の一振りだけで起こしたのが、自分の体であることに繍が最も驚いていた。
だが、繍は直後に喉元にせり上がるものを感じた。口を手で押さえ、たまらずに膝をつく。
鉄臭い液体が、口からごぼごぼと溢れた。
手のひらを見れば、血で赤黒く染められていた。
アーチャーの声が、遠くから反響して聞こえる。
「その器は脆すぎて、権能のひとつも満足に使えんようだな。脆弱な女神如きが我を阻もうなどとは、片腹痛い」
繍は口を利けなかった。血が、後からあとからせり上がり、溢れ出る。
臓腑が焦げ付きそうなほどの、異様なまでに激しい怒りが、自分のものでない感情が脳を焼くの味わっていたが、同時に体内の魔力が、制御不能なほどに荒れ狂っていた。
体外からの魔力の取り込みと、体内の魔力精製。
二つの機能が意志を離れて滅茶苦茶に動き回り、回転し、体が今すぐばらばらになりそうな激痛が走る。
「は、ぁ……ぐ、っ……!」
束の間だけ現れた『誰か』が引き起こした揺らぎは、体内どころか、魂までを揺らしていた。
蹲ったまま、目だけを動かし見れば、桜を乗せた黒の輪郭も、陽炎のように揺らめいている。白は、符から出てくる気配がなかった。
腕を、誰かに掴まれた。肩を誰かが支えて叩いて、うるさいくらいに名前を呼ばれる。
とても強い力と声で、それにとてもあたたかい。
だけれど、縋る力すら腕に残っていなかった。
「マスター!」
答えようとして、ひゅるり、と意識がどこか深いところに吸い込まれる。音と匂いと、周囲の何もかもが遠くなる。
この街に来てこんな目に遭うのは二度目か、と自嘲したくなって、それきり闇に、一度目よりも深い闇へと、意識が落ちた。
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ずるり、と血で汚れた腕が滑った。
べちゃり、と雪のように白い髪が血溜まりに落ちて、耳障りな音を立てた。
ぶちぶち、ぱきりぱきり、と、何かが千切れて折れていく音が、目の前に倒れた体から聞こえる。
それは、人間の体が、内側から壊れていく音だった。
血の管が、肉が、臓物が、骨が、ぶちりと切れて、ぐずぐずと崩れて、ぱきぱきと折れて、それらすべてが体のナカでぐちゃぐちゃと混じり合って行く、音。
それが、嫌に大きく響く。
死、という言葉が頭を過った。
死ぬ。自分のマスターが、刀を預けると約束した相手が、目の前で。
「い、いやぁぁぁっ!」
空気を震わせたのは、甲高い子どもの声。
狗から飛び降りて、縋り付いて泣いている。
壊れかけの人形のようにされるがままだった小さな体が、人間のように声を振り絞って、泣いて叫んでいる。
その服がどんどん赤く染まっていく。
赤を見て、以蔵の目が覚めた。
この傷は、己には治せない。
そんなコトは、人斬りにできない。
人を斬るしか、できない。
─────では、誰を斬れば、いい?
─────誰を斬れば、こいつは生きられる?
だから、刀を抜いた。
狙ったのは教会奥に木偶のように突っ立っている、魔術師ただ一人。
直前で気づいたか杖が向けてくるが、そんなもの、人斬り以蔵にとれば亀の歩みより遅い。
紅玉の握りの仰々しい杖は、無銘の刀の一振りで砕かれた。
「きさん、サーヴァントを自害させぇ。今すぐじゃ」
「そ、そんなことが!?」
遠坂だか何とか言う、男。
サーヴァントはすべてマスターから魔力を受けている。それが絶たれれば、消滅するのだ。
魔術師だというこの男は、アーチャーの令呪を持っている。それに願えば、あれは死ぬのだ。
ひゅ、という風切り音に反射で体を横に倒す。首の横を、剣が一本通り過ぎて背後の壁に突き刺さった。
無数の剣群がアーチャーの背後に現れ、すべてが以蔵に向けられていた。
「我の前で、下らぬ諍いは許さぬ」
英雄王がさらに指を振るえば、破壊された屋根の向こうの夜空に、何かが浮いていた。
金色の、夜目にも派手な目立つ乗り物。舟、とでも言えばいいのだろうか。
遠坂の襟に鎖が引っ掛かり、それ諸共英雄王は、金色の舟の上に乗り込んだ。
ついでとばかり、あの神父まで舟へと引き上げられる。
「杯の中身を、我はまだ見極めておらぬ。競い合え、雑種共。でなくば、あれの中身を顕現させよう」
舟の上から、傲然と、黄金の英雄はこちらを見下ろしていた。
その舟影に向けて、飛び掛かる黒い影がある。
「バーサーカー!?」
叫んだのは誰だろう、ウェイバーだろうか。黒い甲冑を軋ませる狂戦士の唸り声が、廃墟と化した教会に響いた。
霞を吹き上げ、黄金の舟とそこに乗るアーチャーに食いつかんばかりに荒れ猛るバーサーカーに、上空から宝具の雨が降り掛かった。
それも、掴み取れないような針ほどに細い無数の宝具である。殺到した宝具に、バーサーカーが苦悶の声を上げた。
舟の上、アーチャーは唇の端を吊り上げ、嘲っていた。
─────この教会ごと、やる気ぃか!
「いかん!皆の者、退け!」
ライダーの焦った声を耳が拾った瞬間、以蔵は跳んだ。
戻るのは繍と、その体に取り縋って泣いている桜のところ。
地面に倒れて、動かない繍の体を抱え上げた。かくり、と首と腕が揺れる。生温かい血が、着物に染み込んでくる。
─────死ぬな、死ぬな死ぬな死ぬな!
─────頼むから、死ぬな!置いていかんとうせ!
桜の襟を、黒犬が咥えて背に放り投げたとき、教会に黄金の波紋から放たれた剣と槍が突き刺さった。
この日、冬木市の教会が一つ、跡形もなく吹き飛ぶことになったのだった。
─────やったら確実に、ボクが死ぬ。……いや、消えるのかな?
─────カミ降ろしなどしたら、ボクは魂が潰れて消滅だ。
─────輪廻から外れるのは、流石に嫌だよ。
甘酒の入った器を片手に、笑うとも泣くともつかない顔で、あいつは言っていた。
人を助ける以外の生き方を、知らないから、そうあれと望まれた生き方を繰り返すだけのつまらない奴で、それを良しとしているから、だから己は善人じゃないのだと、微笑みながら言っていた。
微笑みながら言っていた。
けれど、少し寂しそうだった。
そう。
喋っていようが、笑っていようが、桜を撫でていようが、いつでもどこか、ここではない遠くを透かし見ているような、寂しそうなやつだった。
そいつが目を閉じて、気を失うのを見るのは二度目だった。
「なんだこれは!何がどうなってんだ!?体中の魔術回路が、滅茶苦茶じゃないか!」
「馬鹿者!回路どころでない、身体機能そのものが、超高濃度のエーテルにより崩壊寸前だ!これは一体、何に干渉されたのだ!」
教会から飛び出して、辿り着いた廃工場。
ライダーの戦車で、掬い取られるようにして教会から離脱したランサー陣営は、工場に彼らを案内した。
以蔵も、彼らについて行った。
もし繍を治せるのならば、彼ら以外にはいないだろうからと。
恐らく、その考えは半分当たり、半分は間違いだった。
灰色の石の床に布を敷いた床の上、仰向けに寝かされた繍の体を治す手立ては、彼らにもないのだ。
白い服も茶色い裾長の上着も既に、赤い。血で、濡れそぼっている。
こめかみか額も切れたのか、流れる血で、顔が朱に染められて行く。逆に、頬の色は白くなるのだ。
顔は苦しそうに顰められて、手や足が陸の上の魚のように、痙攣している。
ひゅう、ひゅうという笛のような息だけが、辛うじて続いていた。
頭が沸騰しそうだった。
刀があったところで、何ができるのだ。
魔力ばかりが途切れずに、以蔵の体に流れ込んできている。それが一番、腹立たしかった。
「アサシン、お前の主は……」
声をかけてくるのは、ランサー。
何だと、睨んだ。
以蔵の腰辺りにしがみつく桜は、もうずっと泣きっぱなしだ。
声も上げないで、人形めいた顔で、ただぽろぽろと涙だけを大きな瞳からこぼし続けている。
あの黒い犬は、工場に着いたと同時に消えてしまったのだ。
「岡田さん、し、繍さん、は?」
「……わからん」
死ぬ人間は見てきた。
己が殺した人間の顔も見た。
だから分かる。
あの体は、とうに死んでいるはずだ。
血が流れすぎた。傷つきすぎた。
なのに、まだ息をして、魔力を生み出している。
─────ボクは、そう簡単には死なないし、死ねないんだよ?
あの声が、耳の奥に蘇る。
そうして、ふわりと白い影が廃墟の闇に現れた。
桜の目が上に向く。
「あ……」
繍の腰についた血塗れの符入れから顕現したのは、不吉なほどに純白の毛並みを闇に光らせる、あの白犬だった。
傍らには、黒犬もいる。
桜の声を聞いたからか、頭を巡らせた白犬は、小賢しい目つきで以蔵と桜と、尾を垂れたままの黒犬を見た。
白犬と黒犬は軽々と、空気を踏んで繍の体のすぐ脇に浮き、ケイネスとウェイバーを睨む。白犬は繍の額に鼻面を押し当て、黒犬は桃色の舌で、繍の頬に飛んだ血を舐め取っていた。
ケイネスが顔を上げる。
「なんだ、こいつらは!?この気配は、まさか、幻想種……! 」
「主、お下がりください!」
白犬と黒犬の尾が振るわれ、巻き起こされた風に、ケイネスとウェイバーとが吹き飛ばされかける。
ウェイバーをライダーが、ケイネスをランサーがそれぞれ庇い、後退した。
以蔵は前に出ていた。
「おんしら、何をする気ぃか!」
知れたことだと、白犬が目の奥で嗤ったように見えた。
やめろ、と言いかけた。
以蔵には、言えなかった。
あの犬が姿を消せば、繍は本当に死んでしまうのだ。
静止の言葉は、喉の奥で凍りついた。
黒犬は少し哀しそうに、くぅ、と鼻を鳴らして、繍の胸、心臓のある位置に鼻面を押し当てた。
二頭の体躯から滲み出た淡い黄金色の燐光が、繍の全身に降りかかり、工場の闇を眩く照らし出す。
光が止んだとき、繍の顔からは、苦悶が消えていた。
「繍!」
叫んで、駆け寄って、抱き起こす。
触れても揺らしても、体の中が崩れていくあの恐ろしい音は、しなかった。
さらり、と手の中で滑る髪を見る。
灰色が残る、血に汚れていた髪は、月と星の光を弾くほどの、混じり気ない白さで輝いていた。
ばふ、と白犬は一声低く吠えて、姿を消す。
黒犬はくぅん、と喉奥で吠え声を漏らし、耳と尾を垂らして、これも同じく闇に溶けた。
後に残ったのは、傷だけが消え、肌と髪が白くなった少女の体。
それは悲しいほどに軽く、暖かかった。掻き抱いたら、壊れてしまいそうなほどに。
前髪が、細い吐息で揺れた。
「お、かだ、さん?」
側近くに、明るい茶色い瞳があった。
ぼんやりと、焦点の合わない眼のまま、繍は片手を伸ばして来た。
「なぁ、に?……きみ、また、ないた、のか?」
「泣い、ちょらんわ。こん、べこのかぁ」
あは、と泡が弾けるような笑い声が漏れた。
「うそ……だぁ。きみ、ぼくに、嘘をつくなって、いった、くせ、に……」
─────泣かせて、ごめんね、とやわらかい声が耳元で言う。
ゆぅらゆら。
不知火のように揺蕩う眼で、繍は以蔵の頬を撫でていた。
多分こいつは今、目が見えていないと、悟った。
「ねむ……い、すごく、ねむい、んだ……。ねて、もだいじょう、ぶ?」
「……おん、寝ちょけ。……なんちゃあない、なんちゃあないから、のう」
「そっ、か……。そっかぁ……」
頬に触れていた手が、するりと落ちる。
瞼がゆっくり閉じられ、茶色い瞳が隠れた。
出来うる限りの優しい手付きで、頭を擦った。これ以上壊れぬよう、壊さぬように。
一欠片の黒も残さず、白く染められた髪が、清水のように手の中で逃げた。
すぅ、と寝息が深くなるのを聞きながら、以蔵は繍を抱き上げたまま、立ち上がった。
ちょっと誰かのSAN値が危なくなったかもしれない話。
何の準備もしてないのに神代の空気に降臨などされたら、魂はともかく体がもつわけない。