では。
目を開けて最初に見たのは、額に皺を刻みまくった以蔵と、ぽろぽろと涙をこぼす桜だった。
背中には固いコンクリートが当たっている。自分は、壁に背を預けて座らせられているようだった。
視界に翻る髪を一房掴んで見て、繍は自分に何があったかを理解した。
「いろ、とられたか」
そう無意識に呟いたら、まぁ、以蔵の顔は更に凄い、というよりも酷いことになるし、桜は声を上げてくしゃくしゃと泣き出すし、いよいよ以て収集がつかなくなった。
おまけに、服は元の色がわからなくなるほどの血塗れで、その血が固まりきっているものだから、誠に襤褸のような有様である。
コートのほうは穢れを弾く術式が働いたのか、血こそついていないが、シャツとズボンはもう着られたものではない。
というかこの出血量、明らかにヒトの致死量を遥かに超えていまいか。だというのに、服に破れ目が一つもない。
つまりこれらの傷すべて、自分の体が内側から弾けかけたせい、ということになる。
神代の気配を直に浴び、体が壊れかけたところで、蘇ったとしか思えない。
つまり黄泉平坂に行く寸前で、狗神に引き戻されたらしい。
狗神以外の他者の魔力は何も感じないのだから、彼らの力だけで『治され』たのだろう。
その代償で、ついに髪は本来の色を根こそぎにされた。
体の中身も───どこがどう、とは、まだはっきりとわからないが───何割か組み替えられたものの、治された。
そんなところか。
「あの、ねぇ、お二人さん、落ち着いた?落ち着いたなら、岡田さん、顔怖いんだけども。般若か夜叉か羅刹になってるよ」
「目ん前で、マスターにほいほい死なれかけて平気でおれるか!ばあたれが!」
「その通りだね!悪かったっ!」
繍は、秒で土下座をした。
清めの儀なし、祝詞なし、瞑想なし、霊脈なし、何にもなしの状態で、半端にカミに体に入り込まれたため、反動で死にかけたのである。
当代の当主で巫女だから、これで済んだのだ。そうでなければ、体は一瞬で弾け飛んで、挽肉になっていたろう。
神代の空気など並みの人間ならば、体内に吸い込むだけで、臓腑が潰れて死ぬような劇物だ。
サーヴァントとはいえ、百年少し前の人間である以蔵も、下手をすれば危ないくらいだ。
契約のラインから、以蔵のほうに神霊の欠片が流れ込んだりせず、心底良かったと思う。
元はと言えば、カミが怒るほど不遜な言葉を吐いたどこかの英雄王のせいであるが、まさか本当に出て来るとは、予想外過ぎた。
「こっちだって、呼びたくて呼んだわけじゃないんだってばぁ……」
土下座を止めて顔を上げると、桜が紫の残像になって飛びついて来た。
後ろによろけて尻餅をつく。桜は鳥もちでくっついたように、凄い力で物も言わずにしがみついて来た。
見上げると、以蔵は相変わらずの怖い顔で繍を見下ろしていた。
「当たり前じゃ!わざと呼びよったら、たたっ斬っちゃる!」
「何その理不尽!ボクに死ぬなって言っときながら、それは酷い矛盾だぞ!」
ぎゃあぎゃあぎゃあ、と伽藍の廃墟に吠え合う声が響いた。
それだけ心配されていたのだろうなぁ、と怒り顔の以蔵を見ながら、胸元でくっつき虫になってしまった桜の頭を撫でながら、思う。
服が汚れちゃうよ、と言っても、桜は聞かないのである。諦めて、この子のしたいようにさせることにした。
守ると約束した相手が、当面の保護者が、一瞬で血塗れの襤褸雑巾のようになるのを、この歳の子に見せたのは、あまりに酷だった。
本当に、可哀想なことをしてしまったと思う。
繍とて何も望んで、襤褸雑巾になった訳では無論ないのだが、それが何の慰めになるのだろうか。
泣き止むまで背中をさすることくらいしか、できることはない。
幼い子どもをあやしたことなど、ろくにないのである。
弟がいたはずの以蔵に、目線で助けてと言ったが、額を指で弾かれた上、ばっさりあっさり無視される羽目になった。
「鬼ぃ」
「人斬りに何を言うがか」
「まぁ、落ち着いて考えたら、鬼よりかは怖くない君に、鬼呼ばわりは無いね」
「なんじゃとこら」
繍は人斬りより鬼が畏く、鬼よりもカミが遥かに畏く、だから、人斬りは彼らより怖くはない。
そういうものである。
桜を膝の上に乗せたまま、繍は目の前の以蔵に尋ねることにした。
「岡田さん、ここはどこで、今は何時?」
「あんロード先生の使っちゅう廃墟で、今は明け方じゃ。おまんはどこまで覚えとるがか?」
「アーチャーが……英雄王が、杯の中身を顕現させるも構わないと言って……姫神様がボクの体を使ったところまで、かな」
正確に言えば、血を吐いたところまで、だ。
自分の体が最後、どうなったかは覚えておらず、服に残った血の量からして、大層酷い有様ではあったのだろうと、朧気ながら推し量るだけだ。
自分の口が語り、手が動き、教会を吹き飛ばした。
思い出せば今更に、かたかたと、全身が瘧にかかったように震えた。
気にも留めていなかった夜気の冷たさが、血で濡れて乾いた服から、肌に染み込んで来る。
震える手を余ったコートの袖に覆い隠そうとして、ぐいと手首を掴まれた。
顔を上げれば、以蔵の顔が見下ろしていた。節くれだった手が伸びて来て、目を覆われた。
手から感じ取れるのは、毛布の中の暗闇のような、あたたかさだった。
「もうわかったき、思い出さんでえい。おまんは頑張った」
「なにを……なにを、ボクは、がんばれたっていうの?」
振り払いたくない闇の中、繍は言った。
ちょっと、ほんのちょっとだけ、自分の声が歪んでふやけて、おかしなふうに聞こえたけれど、気のせいだと思うことにした。
「おまんは、死なんかった。ここで生きちゅう」
「……それだけじゃないか」
「十分じゃ。そいで、十分ちゃ。えいか、おまんは生きとおせ。ほいたらわしらは勝ちなんじゃ。だからのう、繍」
──────泣いてもえいんじゃ。
ぐ、と喉が鳴った。
眼の底が、燃えそうなほど熱くなる。
以蔵の手でつくられた暗闇が優しくて、胸の前に抱えた桜の体温があたたかくて。
──────ああ、本当に、泣きそうだ。
けれど、その手首を掴んで、繍は手を引き剥がした。
闇が晴れるのは、本当に残念だったけど、でも、仕方ない。
「泣かない。全部終わるまで、ボクはもう絶対泣かない。泣いてやらない」
「ばあたれ」
「だって、涙で目の前が曇ったら、何にも見えなくなっちゃうだろうが」
涙をこらえる理由は、それだけで十分だった。
以蔵が、深く深く、ため息をついた。
ばあたれ、とまたも襟巻きで覆った口の中で呟いている。
この人斬り、短気なくせに、案外と罵り言葉の語彙が貧弱であるなぁと、繍はその襟巻きの端っこをちょいちょいと引っ張って弄びながら思う。
多分、この人の罵りが上手くないのは、口より先に手を出して殴るか、或いは斬るかしていたからだろう。だから一度死んだ後でも、こうなるのだ。
そう考えると、なんだか妙におかしかった。とはいえまさか、ここで笑うわけにはいかない。そんな場合でないことは、流石にわかる。
「それで、ボクが倒れて、そこから何があって、ここまで来た?」
「……ほうじゃのう」
どっかと、床に転がる平たいコンクリ―トの板の上に腰を下ろして、以蔵は口を開いた。
まず、冬木教会がアーチャーの射撃で吹き飛んだこと、アーチャーはあの波紋から呼び出した黄金の空中舟を使い、マスターと言峰綺礼と共に、離脱したことを語った。
この時点で、繍は頭を抱えそうになった。
「教会が、吹っ飛んだ?」
「おん。粉々ちゃ。けんど半分は、おまんがやったようなもんぜよ」
「知りたくなかったなぁ!」
「あとはあん爺の神父がおったじゃろう。あれは、行方がわからんき。もしかしたら挽肉になりよったかもしれん」
「追い打ち勘弁して」
聖堂教会膝下の神の家を、日の本の神霊に半分憑依された巫女が、その力を振るってぶっ壊しました、神父も行方不明です、などと報告されたら、面倒なことになる気配しかない。
あいつらは、異教徒と異端に厳しすぎる。
聖杯戦争が終わったら、冬木から必ず雲隠れしてやると繍は今決めた。
「続けるぜよ。バーサーカーとマスターはどうなったか見ちょらんが、死んだようには思われんがじゃ」
「うん。……円卓最強のサー・ランスロットだし、存命に期待しよう」
マスター共々、そこは切に願う次第である。
「セイバー共は、マスターとあん女を回収して逃げたぜよ」
「なるほど。じゃあ、ライダーとランサーたちは?」
「こん建物のどっかで作戦話しおうとるき。おまんが起きたら来い、ちゅうてたな。あんロード先生、額にしようまっこと深いしわがあったのう」
絶対怒られるやつだ、と繍は今度こそ頭を抱えた。
それにしても、である。
「見事に、話し合いの席がぶち壊しだ。卓袱台返しどころじゃなくて、卓袱台粉砕じゃないか」
「しゃあなしちゃ」
主に、英雄王と姫神様のせいである。
雁夜とも時臣とも、ろくすっぽ言葉を交わすことができなかった。
実の父は、変わり果てた間桐桜を見ても、駆け寄らなかったのだ。
動揺してこそいたけれど、魔術師の当主としての体面を、取ろうとはしなかった。
時臣が聖杯戦争のマスターや魔術師としての体面を一時だけでいいから捨てて、駆け寄って来ないかと、そうでなくてもせめて声をかけはしないかと、繍はどこかで期待していたのだ。
もしそうだったなら、間桐家のことを伝えた上で、桜を元の家に帰せないかと思っていた。
魔術を正しく教えてくれる家でなければ、桜には必ず災いが降りかかる。雁夜が望む『普通』を与えるだけに留めるのは、この子には残酷すぎるのだ。
こんな、住居も覚束ない怪しい人間に連れ回されるより、家族と家があるほうがいいのは、間違いないのだから。
なのに、それは余りに甘い考えだったのだ。
もしかしたら、時臣も話し合いの後で桜に声をかけるつもりだったかもしれない。
が、こうなってしまえば、もう何もかも、どうなるかわからないのである。
「なんで、人間、もっと楽に生きられないんだろうねぇ」
つい、言わでもの愚痴が口をついて出た。
「……え?」
「君のことじゃないよ、桜。ごめんね、怖いもの見せてしまって」
いい子いい子と頭を撫でて、ぎゅっと抱きしめた。
泣きすぎて真っ赤になった頬を、桜は繍の肩に押しつける。
その肩を抱いてやりながらふと前を見ると、以蔵はまたも眉間にしわが寄っていた。そのうち取れなくなるかもしれない。
「楽やなんやと、おまんが言うな。おまんが」
「ありゃ」
確かに家訓のために、平穏に楽に生きるという道から全力で遠ざかりまくるなのが、佐保家である。
それは千年の間、一柱のカミに仕えて転生し続け、この先もそうあり続けるだろう自分たちの、魂に深く根付いた
その前提が崩れ去りでもしたら、最早繍は何者にもなれない。
仕方ないのである。
人斬り以蔵が人を斬るように、佐保繍とはそういう者なのだから。
そもそも、人間を殺すより生かすほうが、何倍も難しい。
生かそうと動く佐保家の者たちの柵が、増えていくのは道理だった。
何せ、生きているだけで、己から枷や鎖を生み出していくようなものなのだから。
こんな生き方になったのは、カミと結んだ初代当主のせいであるが、ここまで来ると、その誓約が重いものなのかすら、繍にはよくわからない。
「君には、やっぱり苛立たしいよねぇ」
「なにがじゃ」
「うーん、何でもないや。じゃ、先生たちのとこへ行こうか。黒、来て」
ぽふん、と符から飛び出た黒狗は顕現するなり、浮いたまま繍の真白の髪に鼻をくっつけて、無事を確かめるかのように嗅ぎ回った。
「ボクは大丈夫だよ。心配してくれてありがとう。白は呼んでやらないけど」
くぅん、と低く鼻を鳴らした狗神は、コンクリートの上に四肢を踏ん張って立った。
その背中に、繍は桜を乗せた。それから自由になった両手で、髪を括り直す。
鏡をきちんとは見ていないが、これは間違いなく白一色になったと思しかった。
前髪を指で弾いて、繍は以蔵を振り返る。
「で、先生たちってどこにいるんだい?ここ、迷うんだけど」
「犬の鼻で探しゃあえい」
「それもそうだ」
くだらないことを言い合いながら、廃墟の奥へと進む。
さて、一体時計塔きっての天才は、闇夜に何を考えているのだろうと、ふと思った。
#####
「状況は、限りなく最悪に近い」
開口一番、廃墟の一角に陣取るケイネスは言った。
「ありゃ」
「当たり前だろ。大体オマエ、昨日何があったのか、説明しろよ」
ウェイバーの言葉に物凄く面倒そうに、繍は顔をしかめて、少しお道化た口調で言った。
「ロード、ボク、ホルマリン漬けは嫌なのですが」
「つまり、いの一番に封印指定を危惧するほどの何かを持っていたわけか。差し詰め……神霊クラスの霊的高位存在憑依を可能にする特殊体質、といったところか」
「そんなものです」
ふういんしてい、という言葉の意味は以蔵にはわからなかった。それは恐らく、ひどく面倒な何かであるのだろう。
繍が頷くと、ケイネスは金髪をかきむしった。かきむしりながら、絶叫する。
「ええい、この国はどうなっている!魔術師崩れの溝鼠に、ゾロアスターの反英霊、古代ウルクの英雄王!かと思えば、神霊クラスの霊媒体質者だと!何故!そのような者が!揃いも揃ってこのような僻地にひしめき合う!聖杯戦争とはこれほどのものなのか!」
「主、お気を確かに」
荒ぶるケイネスと鎮めるランサーに、繍はそれらと比べないでほしい、と呟いている。多分あまり変わらない。
「落ち着かんか、魔術師」
ライダーは変わらず、鷹揚に構えていた。
「あの英雄王の魂胆はわかる。杯の中身を顕現させる気でおるのだろう。そしてそのためには、余たちサーヴァントを倒さねばならぬ。あ奴は今後、仕掛けてくると見て間違いない」
「なんでそんなことするんだよ!意味がわからない!」
動揺を隠せない己がマスターの背を、ライダーは巌のような手で張り飛ばした。
「あのなあ、坊主。アーチャーが言っておったろう。この世は、ヤツからすれば醜悪なのだ。故に、ヤツは己が王として敷いた法に則り、それを正そうとする。やり方はともかく、そこに賭ける意気は、余とて理解できる」
「冗談ではありません。死した賢君より、生ける凡君のほうが、よほど生者には有難い」
ライダーに噛み付くように吐き捨てたのは、繍だった。
炯々と目を光らせて、紛れもない怒髪天である。
「あなた……怒っていたの?」
赤い髪の目立つ容姿の女、ソラウとかいうのが口を開いた。
「当然。何の断りがあって、外つ国の半神半人が、この
以蔵に流れる繍の魔力が、揺らぐ。
この怒りが引き金になって、昨日の事態を引き起こした。これと同じように怒り、勝手に降りてきたのがあのカミなのだ。
以蔵が身構えた瞬間、繍はからりと表情を改めた。
「といっても、ボク一人がいくら怒ろうが、所詮は蟷螂の斧だけどねぇ」
「あのな、サオ、アーチャーもだけど、オマエに降りたアレも、十分危ないだろ。なんなんだよ」
「アレ言うな。うちの姫神様だぞ。彼女はこの国に、本来宿る神霊だ」
「己が国を荒らされて女神が怒った、ということか。我らエリンの時代ならいざ知らず、こうも神秘が薄れた時代に、あのような存在が降臨するとは」
女難の相に見舞われたらしいランサーの訳知り顔が、やはり以蔵には腹立たしい。
「その存在も問題だ。アレだけ高濃度の魔力を浴び、肉体が完全に崩壊しなかったのは奇跡だぞ。魔術回路と身体にあれだけの損傷を受けた君は、とうに死んでいてもおかしくない。魔術刻印による肉体再生があったとしても、到底間に合わなかっただろう」
「魂は、かなり頑丈にできてるんですけど」
「だとしても、だ。敢えて問うが、アレを完璧な形で降臨させれば、あのアーチャーを屠れるか?」
刀の柄は、既に繍の手が押さえていた。
ケイネスも察知しているのだろう。ランサーが槍を顕現させていた。
「いえ、ロード。彼女は戦神でありませんし、そもそもギルガメッシュは神を打倒した英霊です。相性が悪いかと」
「逸話に縛られるのがサーヴァントだから、神を退けたアイツは、神霊への特攻があってもおかしくないってか?」
「そんなところだよ、ウェイバー。それに、完璧な降臨はボクでは不可能ですし、仮に成功させても恐らく抑止力が動きます」
「やはりか。となると、術者は間違いなく世界から排除されるだろう。それは私も望まない」
はあ、そうですか、と繍が何とも言い難い声で答えた。
「ふむ。となれば、やはり余らでギルガメッシュを攻め落とすしか、手はなかろうなぁ」
詰まる所は正面突破である、と征服王は宣言したのであった。
第四次聖杯戦争による倒壊建築物一覧に、冬木教会が追加。
諸々説明はまた今後。
以下は与太。見なくても構いません。
CBC礼装にいましたね、人斬り氏。
本編終えられたら、何か番外編書きたくなりました。
が、ここの巫女マスターが、バレンタインに参加したとしても、一体どうするのやら。