では。
洞窟を抜けた先の空間、中空に開いた黒い穴から涙のように流れ落ちる黒い泥、その下に、小さな人影があったのだ。
白い髪だけが、黒い空間の中で浮いて見えた。
絹糸のような髪が流れている。髪をくくっていた紐は、どこへか行ってしまったらしい。
それはただ無心に、自身の周りにこぼれ落ちる泥を眺めていた。
元の色といえば、その白い髪だけ。あとは無惨にも変わり果てていた。
白い肌の上には蜘蛛の巣の入れ墨のような、赤い線が縦横に走っている。右の目から真っ直ぐ顎にかけて、涙のような赤いものが一筋、走っている。纏っているのは、黒く長い単衣のように見えた。
黒い泥を素足で踏みしめて立つ姿は、美しいがひどく恐ろしかった。
穴の底のそれが、ふい、と首を巡らせて穴の縁に立つこちらを見る。
そのまま何の前触れもなく、気づけばそれは宙を踏みしめて、目の前に立ち現れていた。
鎌首をもたげた蛇のように伸びた泥の、その上に立っているのだ。
「ふぅん。アサシン、セイバー、ランサーが残ったのね」
人らしいあたたかみが抜け落ちた、薄ら寒くなる声だった。
「答えろ、貴様はアンリマユなのか?」
黄金色に輝く剣を突きつけられても、それは貼り付けたような笑みを消さなかった。
ふわりと、小さな姿が宙を舞って、剣の切っ先を避けた。とん、と少女は岩が剥き出しの地面に降り立つ。衣の裾が翻る。
「そうとも言えるし、違うとも言えるわ。わたしは聖杯の意志。ただ、わたしは既存の人格を殻として被らなければ、誰とも意志の疎通をはかれないの」
今のわたしは、とそれは自分の胸に手を当てた。
「この人間に記録された人格を借りたの。でもわたしの言葉は、そのままこの、佐保繍のものと考えてくれて、構わないわ。だから」
だから、のその先を聞く前に、以蔵は刀を抜いていた。
袈裟がけに振るわれた一刀を受け止めたのは、古い青銅の鏡だった。
刀を弾いた丸鏡は、意志を持つかのように動き、少女を護るためかその周りを浮遊する。あれも見覚えがある。
遠くを見るのに、繍が使っていた古道具だ。
「ひどいわ、あなた。人が話している途中に斬ろうとするなんて」
「……そん体から出て行かんか、化けもんが」
こてり、と少女が首を傾げた。
明るい茶色だったはずの瞳は、白目の部分までもが黒一色に染まっていた。光など欠片も映さないような、漆黒の瞳だった。
元の瞳の面影は、まったくなかった。
「だめよ。だってこれがないと、わたしはどこにも行けない。何も喋れない、語れない。誰にも何も、届かないの」
呟くように、それが語る。
「だから、返さないわ。これ、この体、具合がいいもの。だってこの人間、まるで空っぽ。万人に都合が良いようになるよう造られた、願望器みたいな在り方だもの。成り立ちからして、
くすくすと、少女が口元に手を当てて言う。
繍の顔を使い、声を使い、体を使い、それは徹底的に繍そのものを嘲笑った。
「ほうじゃの。確かに、そん体の中におるやつは阿呆じゃ」
間が悪い、要領が悪い。
おまけに極めつけな自分勝手。
自分がもしも消えたら、それが他人の心にどういう痕を残すことになるのかをまるっきり忘れて動く。
家族が死んでからの一人ぼっちが、そんな寂しい人間をつくったのかもしれない。しかしそれにしても、馬鹿なのに違いはなかった。
「そいでもわしのマスターじゃ。連れて帰る。桜にも謝らせる」
多分、桜は以蔵のことも怒るだろう。守ることに一度、失敗したのだから。
それは仕方ないにしても、自分ひとりだけが怒られるのは、真っ平であった。
「わしにもそいつにも、やることがこじゃんとあるき、すっと去ね、化けもん」
ふぅん、とそれが鼻を鳴らした。
「できないわね。だってわたし、生まれたいのよ。それにはまだ、不完全なの。生まれたい、生きたいと思うのは本能。それってそんなに、いけないこと?わたしはただ、生きるためにあなたたちを食べたいの」
「下手な問答する気ぃやったら、坊主んとこへ行け。わしはそいつを連れて帰るだけぜよ」
「戯言だな、アンリマユ。その体が、貴様にいいように使われる道理はない」
以蔵とランサーの言葉を聞いた瞬間、少女はくすりと嗤いを溢す。
嗤い顔の少女は、いつの間にか右手に両刃の長い剣を握っていた。
鍔のない真っ直ぐな剣の刃は、ぎらぎらと光を放っている。鏡以外にも、あんな物騒ものまで使えるらしい。
ああそういえば、自分の知っている術すべて使って来るだろうと言っていたのだ。
「道理?道理なんて、この世の何処にもないわよ。清廉な騎士さん。この世には、食べるか、食べられるかの違いくらいしかないわ」
少女の足元から、触手の束が蠢いて顔を出す。泥を従え、剣を握った化物は、とてもとても楽しそうに、艶めいて見えた。
「……似ちょらんの」
「うん?」
剣を握る少女が、以蔵の方を見る。
「あん繍が、そがあな艶っぽい顔ができゆうがか。アンリマユ、おんしゃあ借りたちゅうのに、ちぃとも似とらん。ぞうくそわるい偽もんは、しゃんしゃん消えんか」
「偽もの?真似しかできないあなたに、言われたくないわ。わたしはわたしで、本物よ」
ひゅ、と少女の姿がかき消える。
次の瞬間、彼女は以蔵の目の前に現れ、閃くような速さで剣を振り下ろしていた。
抜いた刀で受け止める。澄んだ音が空気を震わせた。
「アサシン!」
駆け寄ろうとしたセイバー、ランサーの足元に、触手が襲いかかる。
彼らは避けたが、触手は自在に襲いかかる。
手伝おうにも、こちらはこちらで馬鹿力に振り下ろされる速い剣を捌くのに必死だった。明らかに、筋力で負けている。
しかも、ただの力任せではない。技として成り立っている動きだった。
それは、元の繍には決して使えないれっきとした剣術である。しかも、明らかに道場剣法ではない。人を殺すための剣だった。
ぶつかり合う剣と刀の刃越しの顔からは、繍にあった甘さや弱さや躊躇いが、根こそぎ消えていた。
まるで面でも被っているようなその顔を見て、背筋に冷たいものが走る。
「おい!おまんは剣なんぞ扱えんちゅう話やなかか、繍!」
「それは、一番新しい『わたし』の話でしょう?過去のこの人間ならば、弓が得意なもの、剣が得意なもの、たくさんいたわよ」
つまり何か、過去の、というより前世の前世のそのまた前世の『繍』だった魂が使えた技を使っているということか。
「そがあなもんはなぁ!正気のときに!使わんか!」
苛立ち紛れに、力任せに相手の剣をかち上げる。少女の腕が持ち上がり、胴ががら空きになる。
その瞬間、中空から電撃が落ちた。
「避けろ!」
庇うように入ったランサーの槍が、雷を受け止めた。触れた雷は消えるが、少女も体勢を立て直して、兎のように後方へ飛び退った。
その背後に、セイバーが回り込む。
剣の峰が首筋に振り下ろされかける寸前、今度は少女を中心に爆炎が吹き上がった。
「セイバー!」
炎の中から、セイバーが吹き飛ばされて飛び出る。咳き込みながら、セイバーは立ち上がった。
「魔術ならば、対魔力で崩せるかと思ったのですが……」
「繍は魔術師じゃなか。呪術師じゃ!」
「……なるほど、どうりで。あれはどうやら、無尽蔵の魔力に任せて呪術を打っているようです。魔力切れは見込めません」
事実、最優のセイバーに攻撃を通している上、本人にちらとも疲れが見えない。
だが。
「攻め方が手緩いな」
「ほうじゃの」
鏡を宙に浮かせ、剣を手にして佇む少女。酷薄な笑みを貼り付けているが、黒一色の目の焦点は、どこにも定まっていない虚だ。
本当にあの泥を自在に操れるなら、自ら剣など振るわなくても良いはずだ。聖杯の泥は、サーヴァントの天敵らしいのだから。
見た目の派手な雷や炎など、出すだけ無駄である。
「恐らく、まだ泥の制御が完璧ではないのでしょう。あの体にアンリマユが馴染んでいないか、それとも本来の人格が抵抗しているのか」
両方だと思いたい話である。
確かに以蔵への魔力だけは、ずっと途切れないのだ。少なくともその点を、アンリマユはしくじっている。
「どうしたの、作戦でもお話しているの?」
少女が首を、かくりと傾けた。
その動きに合わせて、泥が持ち上がる。
ぐにゃりと歪んだ泥は巨大な蛇の形を取り、襲い掛かって来た。
三人ともが、跳び避けた。
黒い泥の蛇は岩肌を抉り、泥でできた顎を開き、牙を向く。荒ぶる尾やくねる胴体が洞穴の壁を叩き、砕き、がらがらと大小の岩を降らせた。
うねり暴れる蛇体を避けようとした以蔵の脚から、急にがくんと力が抜ける。堪らず、地面に膝をついた。
見れば以蔵の長く伸びた影に、あの少女が細く長い針を突き立てていた。
禍々しく、少女の形を借りた何かは嗤っていた。
「アサシン!」
ランサーの魔力を断つ槍が、影を叩く。脚に力が戻る。
動けるようになる一瞬先に、蛇の大口が頭上から降ってきた。
咄嗟に、頭の上に刀を横に掲げた。
ぐわりと開いた蛇の上顎と下顎の間に、刃を滑り込ませる。蛍火色の刀身は、湯豆腐でも相手にしたかのように安々と、泥の蛇を頭から尾の端まで切り裂いた。
真っ二つに別れた蛇は、最早動かない。ただの魔力の塊に、変わっていた。
己が、というより己の刀が成したことに目を見張る間もなく、ぐい、と襟首を掴んで引き上げられた。
「何を呆けているのですか!」
見れば、セイバーである。
小柄な彼女は以蔵の襟首を掴んで持ち上げるや否や、全力で自分より丈高い以蔵の体を放り投げた。
鞠のように投げ飛ばされ、それでもなんとか以蔵は受け身を取って転がる。刀だけは、絶対に手放さなかった。
見れば、たった今まで己がいたところは、泥の重さで崩れていた。
魔力を放出し、岩を蹴って、矢のような勢いでセイバーも跳んでくる。
ひとまずは、彼女に助けられたらしかった。
「なぁに、それ?」
安堵する間もなく、温度のない少女の声が向けられた。
瞳が、蛍火の燐光を放つ刀を、睨み据えていた。
「……きらい」
ぽつり、と声がした。
白い髪が、風に煽られたようにぶわりと広がる。
漆黒の瞳の中に明確な意志が、どろりとした、手で触れられそうなほどの敵意が宿っていた。
「きらい、きらい!きらいきらいきらい!それは嫌い!わたしをばらばらにするそれ、わたしを殺すその刀、大っ嫌いよ!」
繍とそっくりの声で大嫌いと言われるのは、なかなかに堪えるなと、そんな馬鹿なことが頭を過った。
「アサシン、何かまずいことをしたのか?」
「わしのせいやないき!そら、避けんかランサー!」
惚けたことを言うランサーを突き飛ばすようにすれば、そこに雷が突き刺さる。
子どもの癇癪のような叫びと共に、剣が空を切って振り下ろされる。雷と泥が、洞窟に雨あられと降り注いだ。
見る間に壁にひびが生まれ、雷は三人の足場を次々に叩き壊す。
この空間を、崩さんばかりの勢いである。
何がどうしたのか、あれは怒っているらしい。しかも、その引き金を引いたのがこの刀である。
「アサシン……そちらのマスターは、なかなかに苛烈なのだな。知らなかったぞ」
「今そんばあな話をするときか、色男!それに!あれは繍じゃなか!」
岩や泥、雷を避けながらも、『輝く貌』のランサーは、相変わらず涼しげに見えた。岩が当たったのか、額が切れて血が一筋流れているが、それもまた雅な化粧のようだ。
以蔵の方に走る雷すら、赤い槍で打ち消すのだ。令呪で強化されているにしても、器用にもほどがあった。
「はは!己のマスターの顔が、艶めいているいないと文句をつけたお前に、言われたくはないがな!」
「文句が出るがはあたりまえじゃ!繍はあがあな顔で笑ったりせん!」
「何を呑気に騒いでいるのですか!諸共聖剣の錆にしますよ!」
黄金の剣を
なにやら彼女は、風を操れるらしい。
直に触れては動きを止められる泥相手に、風を叩きつけて弾き飛ばし、ひたすらに侵攻を許さない。
砲台のような騎士王を流石に攻めあぐねるのか、泥の動きが鈍くなる。
しかし近づこうとすれば、雷と炎がこちらを正確に狙い撃ちするのだ。
崩れてくる岩一つ一つにすら魔力が宿り、サーヴァントにも怪我を負わせる凶器と化していた。
セイバーが風を本体目掛けて打ち出しても鏡が飲み込み、跳ね返す。
呪術を最大限に使われることが、こうまで厄介とは思わなかった。
「不味いな。これでは俺とセイバーのマスターの魔力が尽きるのが先になろう。それにお前のマスターのほうも、そういつまでも魔力供給は続けられまい」
「……おん」
気づけば、ランサーと背中合わせに戦っていた。
槍が魔力を消し、刀が触れた泥は、色を無くして大気に溶ける。二つの武器と二人の使い手は、互いの隙間を縫い合って戦っていた。
確かに、犬たちが宿ったという刀は規格外の代物になってはいる。
だが、如何せん以蔵の刀は、元はただひたすらに頑丈な、斬るための武器である。
消せるのは泥だけであり、呪術は打ち消せない。
宝具ではないのだから、魔力を吹き飛ばしたり、セイバーの風のように魔力を放ったりすることはできない。
それでも、繍の体を使っている
雷の矢、炎の雨、氷の槍に、風の刃が、あの英雄王の宝具さながらの勢いで放たれるのだ。
桜の体から追い出した、間桐の蟲を焼くのに使った炎すら、次から次へと襲い来る。
宿主にされた繍の記憶を貪って放たれる技の、そのすべてが癇に触った。
「アサシン。ここらで、いっそ仕掛けてみるか?」
だからか、軽い口調のランサーの提案にも即座に答えた。
「乗る」
「その意気やよし。さすがアサシンのサーヴァントだ」
「阿呆か」
何がどうしたら、騎士が暗殺者に流石などという言葉を送るのだ。
胡乱な視線に気づいたのか、ランサーが獰猛な笑みを浮かべた。
「元々俺に、聖杯への願いなどない。主と共に戦い、勝利を捧げればそれで良かったのだ。聖杯は最早勝ち取れまいが、主の命を果たすという義務がある」
その義務に殉ずることができるのが嬉しいと、ランサーは魔槍で呪術を切り払いながら言う。
「お前は俺や、騎士道そのものを嫌っているらしい。理由は問わん。だが、お前とお前の主は、俺の主を救ってくれた。その礼だ」
「……話が長い。えいからおんしの考えを聞かせえ」
「そうだな」
からりと晴れた夏空のような快活さを消さないまま、ランサーは策を述べる。
それを聞き、つい、言わでものことが口を突いて出た。
「おんし、それでえいがか?」
「いい。代わりにアサシン、約束しろ。必ずお前のマスターを助けると」
返事代わりに、一声唸った。こいつなどに言われなくとも、そのつもりだった。
「セイバー!」
「なんですか!?」
「こっちゃ来い!一旦そいつら退かせぇ!」
「無茶苦茶を言いますね!」
言いながらも、一際強く剣を振るい泥を大きく弾き飛ばしてから、騎士王は電光石火で跳んでくるのだった。
黒化戦パート1の話
知識にはあるが魔力の関係で使えない大技+思い出すと今の人格が消えるので普段は封印している前世の技能、の使いまくり