では。
いいでしょう、とセイバーはすぐに頷いた。
「切嗣が令呪を使えば、私は聖剣を使わざるを得ませんから」
これ以上長引かせると、己のマスターが令呪で聖剣を解放させるだろうとセイバーは語った。
人間一人が死んで、街一つが助かるのだから、真っ当な人間ならそちらの方法を取る。
自分とて、かかっているのが繍の命でなかったらそうしたいところだ。
だからか、怒りは感じなかった。感じる余裕が、消えているだけかもしれないが。
「行きますよ、アサシン、ランサー」
そう言って、セイバーは聖剣を両手でしっかと構えた。
「
突きから放たれたのは、風の槍だった。
押し寄せて来た泥の壁を、風が突き破る。開いた穴の奥に、小さな体が見えた。
ゆらりゆらりと、出来の悪い操り人形のように揺れている。黒の瞳がぎゅるりと細まり、その周辺に百を超える氷と泥の槍が出現した。
「ランサー!」
「承知!」
槍が放たれる寸前、セイバーの開けた風穴にランサーが
突風の塊が駆け抜けたその後ろ、そこにできていたのは謂わば風の通り道だった。
放たれたセイバーの一撃に呼吸を合わせ、そこに飛び込んだランサーは、隼さながらの速さで前へと進んだ。
だがそれでも、泥を統べる少女へは届かない。
剣の一振りで、槍がランサーへと放たれる。槍に手足を貫かれる直前、ランサーは全身を振り絞って自身の魔槍を投擲していた。
「覚悟ッ、アンリ・マユッ!」
穂先が触れた魔力を打ち消す魔槍、それは防ごうと持ち上がった壁を貫き、すり抜け、少女の身を守る鏡に突き刺さった。
滑らかな青銅鏡と、真紅の槍とが真正面から激突する。
火花が散り、少女が顔をしかめた。
ぴしり、と鏡に一筋のひびが走る。
ぴしぴし、とたちまちに罅は蜘蛛の巣の形に広がり、分厚い鏡はぱりんと甲高い音だけを残して、砕け散る。
だが、槍兵の渾身の一撃は、そこまでだった。槍は力を失い、少女の足元に転げ落ちる。
「ここまで、か……」
同時に、その持ち主も倒れていた。氷と泥の槍が、その四肢と心臓を貫いていたからだ。
ランサーを串刺しにし、しかし少女は、はたと動きを止める。
ああ、そうだろう。
何せ、直前まで気配を捕らえていたはずの
まるで気づいていない細く白い項が、
そこへ目がけて、刀を振り下ろす。
「ア、サシンッ……!」
「ちぃっ!」
だが、直前で鞭のような勢いで少女が振り向いていた。
構えられた剣に、刀が弾かれる。少女の頬を一筋、赤い滴がつぅ、と伝い落ちる。
どちらの血だと思う間もなく、口角を吊り上げ、嗤ってみせた。
「捉えたぞ、アンリ・マユ」
岡田以蔵は、閃くような速さで刀を振った。
少女の体を使う『
反りのない剣が刀を防ぎ、暗い空間に幾度も金属同士がぶつかる甲高い音が響く。
懐深くに飛び込まれたことで、アンリマユは呪術も泥も、扱えなくなっていた。
以蔵は執拗に攻め立て、距離を取ることも新たな術を組み上げることも、思考を割くことすら、決して許さない。
刀の間合いの外に逃げられれば、打つ手がなくなるのだ。それを誰よりよくわかっているだけに、逃がすまいとひたすらに刀を振るう。
少女の護りであった鏡は既に、ランサーによって砕かれていた。少女を守るものは、最早手に握った剣、一振りしかなかった。
互いの武器が、ぶつかり合った。
髪が切れ、着物が切り裂かれる。
頬が浅く斬られ、斬られたところから焼けつく痛みが入って来た。毒か、それとももっと悍ましい何かの術なのか、わからない。
だがそれでも、以蔵は己が嗤っていることを感じていた。
刀の先に、敵がいる。
斬るべきものが、すぐそこに、後数歩踏み込めば刃が届く僅かな距離にいるのだ。目の前にいるこれを、殺せばいい。
あの黄金の英雄に、圧倒的な力でねじ伏せられ、叩き落されたときとは違う。
手を掴みそこね、泥の中に落ちるのを見るしかなかったときとも訳が違うのだ。
──────斬る。
それですべて、終わりに出来る。
これは、この少女の形をしたモノは、己が斬れる
物を考えるための頭があり、動くための手足があり、人であるならば、人斬りに斬れないわけがない。
「死に晒せぇ!」
繍ではない誰かの剣を使う、アンリマユの顔が歪んだ。
そうだろう。剣の技をいくら変えようが、どれだけ型を切り替えようが、はっきりと押されているのだから。
「おんしゃあが、剣でわしに勝とうなんぞ、片腹痛いんじゃ」
上から刀を振り下ろす。少女は頭の上に剣を掲げてそれを受け止めた。
己のほうが背が高い。
必然、少女を見下ろすような形になった。剣と刀の交差の下に、細面の能面のような顔がある。
大きな真っ黒い目の中に、血で汚れた男が映っていた。男は目をぎらぎらと光らせ、嗤っていた。
「その顔をしちょったら、わしの剣が鈍ると思うたがか?」
生憎である。
斬っていいと、いいや、斬ってくれと、繍が言った。
斬れと言われたならば、人斬りはそれが何であろうと、誰であろうと斬ってみせる。
自分という人間は、所詮そういう者なのだ。
口が吊り上がる。
見下ろした少女の瞳の奥に、極薄く怯えの光が走ったように見えた。
その顔で、その瞳で、繍は決して自分を見なかった。
ほら、といつだって躊躇いなく腕を伸ばして来た。
こちらが掴まなかったら勝手に引っ張って、進もうよと懲りずに言ってきた。
あっちに行こう、こっちに行こう、と其処此処を共に歩いた。
馬鹿だとか、阿呆だとか、憎まれ口も随分と沢山、叩いてやった。謝るつもりはない。全部、本当のことを言っただけであるから。それでも、あの時間は決して嫌いではなかった。
ひどいなぁ、と口では言いながら、繍も楽しそうだった。
気兼ねもせず、屈託もなく、血のにおいが溶け込んでいる冷え冷えとした街の空気を吸っても、命のやり取りを何度繰り返しても、それでも楽しそうだった。めげなかった。
なにせ、
桜を拾ってからも、何も変わらなかった。繍は何も、変えなかった。
片手で、刀を握る以蔵の手を、もう片方の手で、この世の何もかもに怯えて震える桜の手を、引いていた。
─────だから、はやく、戻って来い。
今は、繍に怯えられてもよかった。
怖がられても構わなかった。
それでこいつが助かるならば、死なずに済むのなら、いいのだ。
「わしは、剣の天才じゃ」
呼吸の乱れた、刹那より短いその隙。
以蔵の刀が、剣を弾き飛ばした。
両刃の大剣が、くるりと宙を舞う。胴体ががら空きになった。
左胸、ちょうど心の臓がある辺り。黒く凝り固まる、濃い霞が蟠っていた。以蔵には視えないはずのものが、今このときだけは視えていた。
腕を伸ばし、肩を掴む。僅かでも力を込めれば、折ってしまうほどの薄さだった。
決して逃さないよう掴みながら、逆の手に握った刀を、その胸に深く差し込んだ。
蛍火に静かに燃える刀身の、その半ばまでを突き通した。
刀が、何かを斬る。否、斬った。
だが同時に、腹に殴られたような衝撃が走った。
以蔵は下を見る。
泥の腕が、腹を貫いていた。それを認識した途端に、口元に、鉄臭い塊がこみ上げる。
足元がふらついた。膝が折れかける。だのにまだ、目の前のこのヒトガタが、倒れていない。殺し切れていない。
口からごぽりと血を吐いた。赤黒いものがぼたぼたとこぼれて、岩肌を汚す。
痛みはなかった。しかし足が動かなかった。あと一歩が、どうしても踏み出せない。
動けというのに、足が前に出ない。
握った柄が、吐いた血で滑った。指先から力が抜けかけたそのとき、別な力が加わった。
「ボク、の────」
冷たくやわらかい手が、血まみれの手の上に重ねられる。
顔を上げれば、そこには
片目は黒一色に塗り潰されたまま。
白い肌の上に走る、禍々しい赤い線も変わらない。しかしもう片方の目にだけは、茶色い瞳が戻っていた。
「ボクの、体を、ボクの手を、使って─────」
自らの胸に突き刺さった刀の柄、それを繍は、以蔵の手に自分の手を重ねて掴んでいた。
「この人を、傷、つけるなぁぁぁあっ!」
自分の胸に、半ばまで突き刺さった以蔵の刀を、繍は握る。握ったまま、さらに奥深くまで刀を刺し通した。
鎺元まで、刀が食い込む。
繍の心の臓を貫き、背中から刀の切っ先が生えた。
全身に纏わりついていた黒い衣のような霞が砕けて剥がれ落ち、茶色いコートの裾が翻る。
刃に絡んで、泥が吹き上がった。華のように泥が咲き、黒い霞が繍の体から離れ、宙へ溜まる。
自分の胸に、深々と刺さった刀。それを繍は勢いよく抜き放った。血は出なければ、肉も切れていない。
ひどく重たい痛みだけが、心臓のひと打ちごとに体を打ちのめす。それを、歯を食いしばって無視する。
以蔵の体からは、既に力が抜けていた。
何しろ、腹が貫かれているのだ。
内臓がこぼれ、腹に開いた穴から骨と肉が覗いている。ひゅうひゅうという細い息だけは続いていたが、目は薄く開かれたまま固まり、意識がすでに無い。
力が抜けたせいでずしりと重いその体を背に庇い、繍は宙に浮かぶ黒い穴を睨み上げる。
片手で持った刀の鋒を向け、もう片ほうの手で印を描く。
「
裂帛の気合と共に刀の鋒から光が奔り、泥へと突き刺さり、砕け散る。
それを受けた泥の動きが、硬直した。
片手で刀を握ったままにし、印を解いた片手で仰向けになった以蔵の肩を抱き直し、繍はその体を担ぎ上げた。
振り向いて叫ぶ。背後にいる、騎士王に向けて。
「セイバー!」
「心得ました!そこから離れなさい!」
黄金の剣に、呪いにまみれた洞窟の中でも決して色褪せない眩い輝きが収束する。
以蔵の体を担いだまま、繍は走った。セイバーの横をすり抜け、洞窟の外へ向かう。
降ってくる岩を避け、走る、走る走る走る。
地面の割れ目を飛び越し、身体強化の術をこれ以上ないほどに使う。手足の腱からぶちりと嫌な音がしたが、無視した。
洞窟の入り口に辿り着いたその瞬間、繍は振り返る。泥と対峙するセイバーには、毛ほどの揺らぎもなかった。
涼やかな声が、凛と響く。
「束ねるは星の息吹、輝ける命の奔流────」
魔力が渦を巻き、髪を揺らした。セイバーの、ブリテンの騎士王が持つ、星の聖剣へと集っていく。
繍の縛りの術を引き千切った泥が、蠢き、揺らぎ、巨人の姿を取る。
おおう、おおう、という音が、反響して聞こえた。繍にはそれが、泥の化物が発する泣き声のように聞こえた。
或いは、穴だらけになった洞窟を吹き抜ける風が起こした、ただの音だったのかもしれない。
それでも繍には、ついにこの世へ生まれ出ることがなかった胎児の、泣き声に聞こえた。
「受けるがいい、────
黄金の光が、巨人へ届く。
視界が焼かれる寸手のところで、繍は首を捻り、前を向いた。
「振り返るな!前だけを見て、走りなさい!」
「うんっ!」
背後から、セイバーの声が届く。
光に飲み込まれ、焼かれ、砕けて千切れていく泥の巨人と黒い穴の最後は、見なかった。
爆風に背中を叩かれ、崩れる洞窟を走る。踵のすぐ後ろで、岩ががらがらと崩れて行くようだった。
道が揺れて、転びそうになって、セイバーに手を引かれる。それでも、背中に担いだ体は落とさなかった。
坂道を駆け上がり、飛び出す。澄んだ空気がふわりと鼻先に薫った。
足の下にしっかりした地面を踏む。それと同時に、膝から力が抜けた。
自分が、顔から倒れて行くのを感じた。
手を前に出さなければならないと思うのに、手も足も鉛になったかのように動かせなかった。
背中に背負った体の重みと微かなあたたかみを感じながら、繍は石ころだらけの地面の上に倒れ込んだのだった。
初めてまともに気配遮断スキルを使用して攻撃した相手が、自分のマスターという話。
最後まであと僅か。お付き合い頂ければ幸いです。