冬の街にて、人斬り異聞   作:はたけのなすび

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では。


巻の四十八

 

 

 

 

 

 薄ぼんやりした闇を透かして、声が聞こえた。妙にくぐもっていて聞き取りづらく、何を言っているかまではわからない。

 腹の辺りがあたたかく、心地よい。ぬるま湯に浸かっているようだった。

 少し離れて、また声がする。誰かが話し、誰かが答えた。

 

「────ありがとう」

 

 その一言だけが、やけにはっきりと聞こえた。

 それと同時に、意識がふわりと浮かび上がる。霞がかかっていた耳に、ようやく音がはっきりと届いた。

 鳥の声がした。瞼の裏が明るくなる。

 眩しい朝日である。だが、目を開けるのも身を起こすのもひどく億劫で、目をきつく瞑った。

 周りには殺気も敵意もなく、静かだ。今少し寝ていたところで、構わないはずだ。

 そういえば、頭の下にあるこのやわらかいものは、なんなのだろう。

 

「いつまで寝ているのかなぁ。もう起きてるんだろうに」

 

 紗に包まれたような眠りに、あともう少しで戻れるというところで、上から声が降って来た。

 額に、そっと手が添えられる。ひんやりとした、気持ち良い手だった。

 全身が強張った。

 目を開けたら、この声の主が誰かを見なければならない。

 本当にそこにいるのだろうか。死んではいないのだろうか。目を開けたら、消えてしまわないのだろうか。

 確かに、心臓を刺した。抉った。斬った。

 心臓を刺され、生きている人間がいるものなのだろうか。

 あのときはそれが正しいと信じたが、本当に自分は間違えていなかったのだろうか。

 

「おーい、もう起きてるのはわかってるんだよ。息の調子が変わったんだからさ」

 

 だが容赦なく、ぺしぺしと頬が叩かれた。まったく痛くなく、むしろくすぐったかった。

 

「ちょっと本当に起きてほしいなぁ。ボク、このままだと立てないんだよ。ねぇ、岡田さんってばさぁ!」

 

 声に泣きが入った。渋々ながらも目を開ける。

 逆さまの、見慣れた顔がそこにあった。

 

「お腹は大丈夫かな?穴は閉じたし、内臓も戻ったと思うんだけど」

 

 片手をひらひら振る、佐保繍がいた。

 

 ほどけた白い髪が顔全体にかかり、明るい茶色をした二つの目が以蔵を見下ろしている。薄い赤のひびのような痣が、額から左の眼を縦に通って、顎の先まで伸びていた。

 涙が伝った跡のように見えるが、当人はまったく、泣いていない。

 躊躇いなく、腕を伸ばしてその頬を掴んだ。

 ぐい、と白い頬を両側から引っ張る。

 薄皮餅のようにやわらかい頬は、よく伸びた。

 

「ひょっと、ひゃに!?」

「ほたえな。確かめちゅうんじゃ、大人しうせえ」

「なにを!?ひゃんとボクだよ!」

 

 仕方無しに指を放してやると、繍は不服そうに口を尖らせた。

 

「あー、もう。やっと起きたって安心してたのに、いきなりこれはひどいんじゃないかなぁ」

「こっちの台詞じゃ。わしはまだ怒っとるからの」

 

 赤くなった頬を両手でさすりながら、繍は決まり悪げに目を逸らした。

 

「おいこら、目ぇ逸らすな。どういてあがなのっぴきならんときになるまで、わしを呼ばんかった」

「ボクらまで気にかけてる余裕、ランスロット卿相手になかったでしょうが。……いや、あのときは、本当に悪かったと思ってるよ。咄嗟に呼びたくなったのが、きみだったんだ」

 

 自分の頬から手を離して、繍は以蔵の額に手を当てた。瞳を覗き込んで来る。

 

「心配かけて、ごめんなさい。何度も助けてくれて、ありがとう」

 

 その飾り気ないが真っ直ぐな言葉が、精一杯なのだということはわかった。

 どうせ後で、散々桜やあの魔術師先生や、青瓢箪なライダーのマスターに叱られるだろう。自分からはこれくらいで、勘弁してやることにした。

 第一、疲れているし面倒くさい。桜からの説教くらいは、二人で聞いてやるつもりではいたが。

 

「……今日はもう勘弁しちゃるわ」

「うぇ。ボク、また明日も怒られるの?」

「桜とウェイバーとロード先生が、見逃してくれると思うとるがか?」

「思わないよ……思えないよ」

 

 それだけ大勢に心配をかけていた自覚はあるだけ、こいつはまだマシだった。

 繍の背後には、緑の葉を残す木々が見える。鼻に届いた枯れ草のにおいからして、森の中のようだが、見覚えはなかった。

 

「で、ここはどこじゃ?」

「柳洞寺の裏だよ。お寺は一応無事に残ったんだ。山崩れは起きてるし、大洞窟はエクスカリバーのビームで埋もれちゃったけどね。ところで、もう起きられる?」

 

 そういえば、己は今、仰向けに寝かされているのだと気づいた。

 腹に空いた穴は、塞がれたらしい。

 サーヴァントの体だから、繍には治すのは簡単だったろう。しっかり着物まで直されている。

 痛みはなかったが、まだ違和感はあった。とはいえ、起きられないこともない。

 後ろから、背中を押されて起き上がる。

 ともかくも座れば、尻の下で布の擦れる音がした。見れば、朝露に濡れた草の上に敷かれているのは、繍の長い上着だった。

 上着を以蔵の敷物にした本人の服は、焦げたり裾が千切れたり、破けたりとひどい有様である。靴もどこかにやってしまったのか、素足だった。

 

「いやさすがに、怪我人を地べたに寝かしてはおけないだろう。薄いコートだけど、無いよりましだよ」

 

 と、飄々としたものだから、無言で上着を頭から被せてやった。見ているほうが寒い格好はやめろと言うのに。

 

「で、体は何ともないんか?」

「うん、大丈夫だよ。誰かが全然起きてくれないから、足が痺れたくらい」

 

 足の痺れは、以蔵に膝を貸していたせいである。確かに顔色は良いし、瞳の形も色も元通りだった。

 だが、まったく元の通りではなかった。顔の左に一筋残った、赤く細い痣である。

 視線に気づいたのか、繍は痣を撫でた。

 

「ほんとに大丈夫だよ。セイバーがね、さっきアヴァロンをほんの少し貸してくれたから」

「あばろん?」

「『全て遠き理想郷(アヴァロン)』だよ。アーサー王の最後の宝具にして、聖剣エクスカリバーの鞘。持ち主でなくとも、持てば傷を癒やし、老化を停滞させるんだ。少しだけ借りられたから、ボクからはもう、傷は消えてる。この痣は……うん、後で説明するよ」

 

 鞘はそこにあるけど、と繍が指差す先には、岩に立てかけられた剣の鞘があった。

 黄金と青、二色に彩られた美しい造りをしている。しかしその持ち主の姿は、どこにもなかった。

 

「アイリスフィールさんたちに、返しておいてほしいんだって」

「そんセイバーはどうしたが?」

「還った。聖杯は壊したから、この時代での役目は終わりにするんだって。でも、きみにありがとうって言ってたよ。ランスロット卿を止めてくれたから。災いの器を完成させる手助けをさせないで、済んだから」

「わしは勝手に斬っただけぜよ」

「それでもありがとう、だってさ。私からの感謝などいらないだろうが、伝えておいてほしいって言ってた」

 

 あの騎士王が既に消えていたことは、意外ではなかった。

 ぼんやりと聞こえた穏やかな感謝の言葉は、きっとセイバーだったのだろう。

 

「強くて、優しい王様じゃったのう」

 

 うん、と繍が相槌を打った。

 

「じゃあ、帰ろうか……と言いたいんだけど、その前に刀、貸してくれないかな。黒と白、引き離さないと」

 

 鞘ごと抜いて渡せば繍は刀を抜き、二振りとも膝の上に置いた。

 白い指が、刀身をするりとなぞる。

 途端、ぽんと軽い音がして、刀から二つの光の玉が飛び出た。

 玉は草地の上に転がり、むくむくと色づき、形を変える。数秒の後、草の上にいたのは白と黒の毛玉だった。

 

「なんじゃ?」

「黒と白だよ。力を使わせ過ぎたから、節約モードに入ったみたい」

 

 刀を鞘に収めてから、ほら、と繍が黒い毛玉を持ち上げた。

 ふかふかと丸っこい体から伸びるのは、やたらと短い四本の足である。三角形の耳まで、毛に埋もれてろくに見えない。

 元の凛々しい猟犬の姿とは、似ても似つかなかった。大体このちんちくりんで、本当に犬なのだろうか。

 白い毛玉のほうは、とても忌々しそうに以蔵を睨んでいるように見えた。

 鼻で笑ってやると、がじがじと指を齧って来た。とはいえこうなると、可愛げはあるから腹は立たなかった。

 

「なんて言うんだろ、こういう犬……えーと、そうだ、あれだ。ポメラニアン」

「ぽめ?」

「ポメラニアン。西洋の犬だよ。まさか、秋田犬がポメラニアンになるとは」

 

 かわいい姿にさせちゃったなぁ、と繍は黒い毛玉を顔の前まで抱き上げた。

 ぺろり、と黒犬が小さい桃色の舌でその鼻先を舐めた。くすぐったそうに、繍が笑い声を上げる。いつにない、明るさだった。

 

「遊んじょらんで帰るぞ」

「はーい」

 

 繍が手を叩くと、二つの毛玉犬はするりと消えた。

 よっ、と繍が立ち上がる。アヴァロンとやらを、静かに両手で持ち上げた。普通に歩くつもりなのだろう。

 が、繍は素足なのだ。瓦礫だらけになった、柳洞寺の階段と崩れた山門が頭を過った。

 仕方ないとがりがり頭をかいた。

 抱えたアヴァロンを優しく撫でていた繍の前で背を向け、膝をついてしゃがんだ。

 

「ほれ、乗りぃ」

「ん?」

「何度も言わすな。背中貸しちゃる。そん足で山を下る気か」

 

 言われてようやく、繍は自分が素足であることに気づいたらしい。

 

「確かにこれじゃ危ないか」

「わかったらしゃんしゃんせえ」

「でも、鞘はどうしよう?」

「……なんとかせえ」

「えー……」

 

 結局、鞘は繍が背中に括り付けた。服の中に、紐が残っていたらしい。

 そのまま背負って、寺へと歩き出す。

 倒壊を免れた寺の中は、つい先ほどまで死闘の舞台になっていたとは思えないほど、静謐な空気に満ちていた。

 境内に人の気配はなく、ただ小鳥の声が朝の澄んだ空気を震わせている。

 小聖杯をケイネスが封じていたはずの場所にも、何も残っていない。繍も何も言わなかった。

 

 崩れかけの山門をくぐり、階段に差し掛かると、以蔵の胸の前に回された繍の手が、右へ左へ揺れた。

 一度、この手を掴み損なった。掴もうとして、押し返された。掴めなかった手は、目の前で泥に沈んだ。

 背に負っているのは乾いて軽い、あたたかい体だった。ついさっき、確かに心臓を貫いたはずの体である。

 これまで自分が刀を振るった相手の中に、心臓を貫かれて、生きていた人間がいただろうか。

 

 急に、踏み締めている石畳が、抜けていくような怖さを感じた。

 

 この石段を降りきってしまったら、背中の重みはどうなるのだろう。

 今の、この嘘のような穏やかな朝日の中に、溶けて消えたりはしないだろうか。気づいたら背中が空っぽになっていた、なんてことはないだろうか。

 そんな思いが、ちらりと胸を掠めた。

 

「大丈夫だよ。ボクは、ここにいる。君もここにいるんだよ、岡田さん」

 

 耳の近くで、やわらかな声がした。

 

「消えたりなんかしない。きみに殺されたわけじゃない。あのね、きみたちが……きみが、ボクを生かしてくれたんだ。疑ったらやだよ」

「……別に、疑うたわけやないき」

「ありゃ、そうなの?それならいいけどね」

 

 疑ったわけではない。怖くなっただけだ。

 だから嘘をついたわけではない。

 

「ほじゃけんど、そん顔の痣はどういた?」

 

 話を変えるつもりで聞けば、繍はああ、と声を上げた。

 

「時間が経ったら、多分消えるものだよ。……これは肉体じゃなくて、魂に染みついたものが可視化したんだ。あまりアヴァロンに魂には入り込まれたくなかったから、弾いたらこうなった」

「呪いをもろうたがか?」

「流石にあれだけ取り込まれてたらさ、かけら、も引き取らないで済ますのは、ちょっと、無理だった、みたい」

 

 声から力が抜けた。

 

「おい」

「だいじょうぶ、だよ。こいつはもう、消えかけだから。ボクの魂のほうが、つよい、から。まんぞくしたら、かってにはがれて、消える」

 

 これは、名前のない誰かだと繍はふやけた声で続けた。呪いの中で、アンリマユになった誰かの物語を見たのだと言った。

 

「むかし、むかしのことだよ。生きるのがつらいから、悪い神さまがほしくなったひとたちが、いて。でもそんなものいなかったから、どうしようもなくなって」

 

 辛い毎日に耐え兼ねた、ありふれた貧しい村人たちが、ただの人間を捕まえて、閉じ込めて、ひどく惨いやり方で殺した。

 降りかかる災いをすべて、その人間のせいにして、自分たちが安心するために。

 思いつくありとあらゆる悍ましい方法で、たった一人をいじめ抜き、殺しておいて、自分たちは口元を拭い、何食わぬ綺麗な顔をして暮らしたそうだ。

 聞くだに、胸の悪くなる話だった。

 

「人に都合のよいだけのかみさまなんて、いないよ。いるわけないよ。だから()()()、には、なぁんにも、なかったんだ」

 

 殺された人間の魂は残り続け、結局アンリマユという邪神の殻を被せられて、英霊になった。

 名前すら奪われた只人の中身を置き去りに、自らが悪に落ちたことで多くの人々を救った、反英雄として。

 

「ボクは、えらべた。かみさまにつかえるか、つかえないか。でもこのひとは、えらぶことも、できなくて、殺されて、名前もなくして、まつられてしまった」

 

 眠たげな声がまだ続いた。

 

「おぼえておいて、あげて。そういう誰かが、いて、ボクたちがころしたって、こと」

「ほうか。……おまん、もう寝ちょけ。疲れとうじゃろう」

 

 もぞり、と背中の上で繍が動いた。

 寝安い位置を見つけたのか、繍の声は一層低まり、ほとんど囁くようになった。

 

「黙ってきえたり、しないでね。どこかにいったら、やだよ」

「わかった。わかったから寝え」

 

 うん、とあどけない声を最後に、繍の体から最後の力が抜けた。

 すぅ、と息が深くなる。本当に眠ったらしい。項に、繍の頬が当たっている感触があった。

 自分の心臓を貫いた人斬りの背中で、こうもすやすやと寝付けるのは、図太いのかなんなのかと呆れた。

 

「わしは消えたりせんがじゃ、ばあたれ」

 

 軽い体を抱え直して呟く。

 繍のほどけたままの髪が、さらさら揺れる。白雪のようなそれを、朝日が優しく撫でていた。

 前を向けば、階段の向こうには何事もなかったかのような冬木の街が、日の光の下に広がっていた。

 あそこに住む人間の大半は、今晩起きていたことも、自分たちが哀しく悍ましい化物の極近くで暮らすはめになっていたことも、何も知らずに過ごすのだろう。

 そうでなければ、生きていけない。

 

 何も知らないが故に穏やかなあの街には、それでも残して来た子どもがいる。

 そこに帰るのだと思った。帰れるのだと、安堵した。

 

 ああ本当に、今日はやけに綺麗な朝日だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 





次エピローグです。

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