では。
外典の一
人生の幸不幸はつり合いが取れる、という話がある。
それが嘘なのかは知らないけれど、自分の人生には幸せなときと、不幸せなときがあると思うのだ。
最初は幸せだった。
優しい母に、大好きな姉。あまり遊んでもらったことはないけれど、それでもあたたかい父。
大切な家族だった。大好きだったのだ。
その次は、今までで一番つらいときだった。
他所の家に貰われて、今日からここの子になるんだと言われた。
そこではムシグラに突き落とされて、痛くて辛いということ以外、何にもわからなくなった。
そのムシグラは、ある日唐突に焼き払われた。
そこから連れ出してもらったときのことは、正直なところほとんど覚えていない。
誰かに名前を呼ばれたこと、体を優しく撫でられて、綺麗にしてもらったことだけは覚えているけれど、それだけだ。
ムシグラから連れ出してくれたのは、なんとも奇妙な二人だった。
人斬りと名乗る、黙っていたら怖い若い男の人。
最初は医者だと言い、次には巫女だと言い、要するに掴みどころがない若い女の人。
彼らがマスターとサーヴァント、という契約関係にあると知ったのは、それから随分と後だった。
つまり、使い魔とその主のはずなのだが、彼らの間にどちらが上だとか下だとかいう感じはなかったのだ。
なんとなくで隣にいるけれど、片方が危ないことをしたら、もう片方が手を出してちゃんと引き戻す。
そんな約束をしているような、不思議な感じだった。
彼ら二人は何度も怪我をし、血だらけになっていた。それでも自分を連れて行ってくれた。
ムシグラから連れ出してくれた後も、一緒にいていいと言ってくれたのだ。
幸せだと、思った。
もう痛いこともなくて、ムシグラに戻らなくてもよくなった。
怪我ばかりしていたあの二人も、もう戦わなくてよくなったと、微笑んでいた。
それから、もう四年。
間桐桜は、この幸せはまだ、壊れていないと思っている。
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久しぶりに学校の帰りに立ち寄った事務所は、前来たときと同じように、広いくせにがらんとしていた。
元々ここは、伽藍の堂という名前がついているから、ぴったりと言えばそうなのだけれど。
それでもやっぱり、ちょっと空間が勿体ないと思うのだ。
「あら桜、こんにちは」
「はい、こんにちは。鮮花さん」
事務所にはソファがあって、今日はそこに黒い修道服のような制服を着た女の人が、座っていた。
分厚い本を何冊も重ねて、さらさらと中身を書き写している。
桜の歳上の友達は、今日も魔術の修行に励んでいるようだ。
「鮮花さん、人の幸せってなんなんでしょう」
ランドセルをソファに置き、尋ねてみる。
長い黒髪を揺らして、黒桐鮮花は顔を上げた。
「いきなりどうしたの?学校の宿題?今どきの小学校って、そんなコトまで教えるの?」
「いいえ。小学校でそんな抽象的なこと、しませんよ。だってあそこは、正しいことしか教えちゃダメなんですから」
ふぅん、と鮮花は持っていたペンで、額をこつこつと叩いた。
「……ねぇ、桜。あの人たちが出かけて何日経ったっけ?」
「……今日で、ちょうど十日です!」
「あー、やっぱりかぁ。今回は危ないからって、置いてかれちゃったものね。それ、初めてよね」
よしよし、と隣にやって来た鮮花は、桜の頭を撫でてくれた。
「明後日帰ってくるのよね。今回はあの二人、どこまで行ってるんだっけ」
「えっと……ロンドンに行くって言ってました」
「……ロンドンってことは、行き先は時計塔?」
はい、と桜は頷いた。
「あの儀式のあれこれがあるから、呼ばれたそうです」
「あの儀式、ねぇ……」
何かを考えるような素振りをしつつ、鮮花は立ち上がった。
「それで寂しくなって、幸せのコトなんて考え出したのね。大丈夫よ。だって、あの二人なら幽霊のほうが怖がるし、猟奇殺人犯のほうが素足で逃げるわ」
「鮮花、一体なんの話をしてるんだ?」
聞こえてきた第三者の声に、鮮花が兎のような勢いで振り返った。
「に、兄さん。聞いてたんですか?」
「猟奇殺人犯のところだけだ。ああ、こんにちは、桜ちゃん」
「こんにちは、幹也さん」
黒い髪に黒い眼鏡、黒い服という黒ずくめの格好が、不思議と怖くも暗くもならない人、黒桐幹也が、事務所に入って来た。
彼は、黒桐鮮花の実のお兄さんで、それから鮮花の好きな人だ。もちろん、恋人的な意味で。
なんだかややっこしいけれど、それが黒桐兄妹なのである。
ちなみに今、桜は幹也の家でお世話になっている。
保護者の二人曰く、黒桐くんは無害という概念を突き抜けているから、と。
「それにしても鮮花、おまえ桜ちゃんとなんの話をしてたんだよ」
「大したコトじゃありません。十日保護者と会えなくて寂しくなってしまった子を、励ましていただけです」
「ああ。それで猟奇殺人犯、ね。確かにあの人なら、そうかもしれないね」
穏やかなままに、幹也は入って来るとコーヒーを淹れ始める。その後ろからもう一人、するりと音も無く現れた人影があった。
「式さん!」
「ああ、なんだおまえ。来てたのか。桜」
和服をさらりと着流した少女、両儀式は、いつも気だるげで美しい猫みたいな人だ。
だのに今日は、なんだかひとつのことにすごく集中して考えているようだった。
式を見た途端に、鮮花の目が三角になる。
両儀式は黒桐幹也と仲がよく、黒桐鮮花は黒桐幹也のことが好き。
だからきっと、そういうことなんだろうと桜は思っている。
「式、なんであんたがここにいるのよ」
「随分な挨拶だな。オレが来ちゃまずいのかよ。それより聞け。さっき、変わったのを見たんだ」
「変わったもの?」
両儀式という少女にとって興奮が、だいたいいつも物騒なものと知っているから、桜はちょっと困った。
この前は確か、桜の保護者がここの所長に貸した古い小刀に、うっとりしていた。
何でも、持ち主も正確な年月を数えるのが面倒になったくらいの、とても古いものらしい。
あまりに嬉しそうな顔をしているから、貸した本人がその話を聞いて、若干引いたほどだ。
桜の保護者二人は、両儀式という少女と出会ったことはない。黒桐兄妹とは、ちょくちょく顔を合わせているのに。
どうしてなのか、いつもほんのちょっとのところで、タイミングが合わない。
ここの所長、蒼崎橙子の仕事を桜の保護者が請け負って出て行った三分後に、式がふらりと入って来た、なんて話はよくある。
表ですれ違ったわけでもなく、本当にお互いがお互いを認識していなかったのだ。
式は大概の人に興味を持たないから、話に聞くだけでいいらしいし、保護者のほうは無理に会おうとしたら縁がこじれるよ、とよくわかるようなわからないようなことを言っている。
つまりどっちも、会わなくていいと思っているのだ。
「まあ聞けよ。さっき街の喫茶店にいたんだ」
「誰が?」
「殺人鬼」
ガチャン、と幹也がコーヒーのカップを倒しかけた。
「な、なにも面白くないよ、式!」
「聞けよ。アイツ、死をこびり付かせてるのに、自分は死んでないんだ。一度死んで……いや、殺されたのかな?とにかく、死んでから戻って来たみたいなヤツさ。ここ、首のところなんかよく視えたのに、当たり前の人間みたいに茶を飲んで、こっちを見た。あんなの、初めてだったんだ」
自分の細くて白い首をとんとんと叩きながら、式は言う。
思ったとおり、やっぱり式の『興奮』は、桜には『物騒』というコトバに変わった。
「式、殺すとか死なすとか、物騒な話を桜ちゃんの前でするの、良くないよ」
「なんでだ。コイツも見た目通りじゃないぜ」
それはその通りといえばそうで、桜はなんとなく、こくんと頷くことにした。
だって保護者の片割れが、あれだから。
「ヘンなヤツだったよ。ぼっさぼさの髪で、崩れたスーツ着て、不機嫌そうに茶なんて飲んでさ。多分、得物は刀だ。それに、誰かを待ってる感じだったな」
「え」
その人には、すごく心当たりがあった。
見れば、黒桐兄妹も思い当たったらしく、鮮花は額を手で押さえているし、幹也は苦笑いしていた。
いやでもまだ、諦めるときじゃない。他人の空似ということもある。
三人の様子には気づかないのか、式はまだ考え込んでいるようだった。
「ああ、でも違うな。殺人鬼というより、アレは人斬りだ。うん、そっちのほうがしっくり来る」
「あの、式さん……」
そろりと桜が手を上げたときだ。
「おや、全員揃っているじゃないか」
事務所の奥から、女の人が現れた。
赤毛をポニーテールにまとめた、すらりとした女の人。
事務所の所長、蒼崎橙子。桜の保護者は彼女から、とてもとても高いものを買って、今でもまだそれの支払いが終わっていないというので、この近くに住んでちょっとずつ返している。
そのせいか、彼女はたまに桜たちの家にご飯をたかりに来る。美味しいかららしいけれど、こっちもよくわからないところがある。
そして蒼崎橙子は、魔術師だ。
「黒桐、今日は暇だろう。だが、頼みたい仕事ができた」
「なんです?」
片手に携帯電話を持つ気怠げな魔術師は、持っていた電話を机の上にコトリと置いた。
「説明が面倒だ。まずはコイツと喋ってくれ」
携帯の通話機能をスピーカーに切り替えて、橙子は肩をすくめた。
「もう喋っていいぞ、岡田。それで、どうしたって?」
『何度も説明さすな。あん阿呆が消えたがじゃ』
「ほう。それはまた大事だな。あいつの護衛をしていたんだろうに。いや、皆まで言うな。おまえ、さてはまかれたな」
『……』
不機嫌そのものな男の人の声は、一旦止まる。
『そうじゃち言うとろうが。えいから聞け。トウコ、おんしゃあとこに桜はおるがか?』
「いるも何も。今横にいて聞いているところさ」
『は?』
ほら、と橙子に手招きされ、桜はようやく気がついた。
「岡田さんですか?あの、繍さんどうしちゃったんですか?」
『……』
「えっと、繍さん、白ちゃんは連れてってるんですよね?それなら、黒ちゃんはここにいますけど」
ばふ、と桜の足元に伸びた影から、黒い小犬が飛び出る。
最近こうして影の中にいすわるようになった、見た目生後半年ポメラニアン、中身推定十世紀越えの式神は、桜の肩に軽々飛び乗った。
式が目を丸くした。
『話が早いき助かるぜよ。そいつ連れて、喫茶店に来ぃ。あ……あーねんなんたらちゅうとこじゃ』
「それ、アーネンエルベじゃないの?」
『なんじゃおまん、黒桐の妹か?』
相変わらず、この人、横文字に弱い、と桜はこっそりため息をついた。
これで、英国ではどうやって過ごしたのだろう。連れがいなかったら、ロンドンの地下鉄から出られなくなること請け合いだった。
「そうよ。以蔵、あんた早く帰って来たんなら、さっさと桜ちゃんのところに来なさい。ずっと兄さんのところで待ってるのに」
『文句なら繍に言わんか。わしも困っちょるぜよ。雁夜と衛宮もほたえて敵わんき』
「なんだなんだ。さては繍のやつ、携帯を放ったらかしにしたな」
『……えいから、頼んだぞ、桜』
ぶち、と電話が切れる。
はぁぁ、という鮮花のため息が、とても大きく響いた。
「というわけだ。黒桐、桜をアーネンエルベまで送ってやれ」
「わかりました。桜ちゃん、それじゃ行こうか」
「は、はい!」
それにしても、とつい肩に乗った黒を見てしまう。
急に消えたって、一体どういうことなのだろう。元々、佐保繍はよくわからないところが多いけれど、勝手にいなくなるようなことは、今まで一度もなかったのだ。
お守りだよ、と三年前から預けてもらって、それからずっと側にいてくれる黒い小犬は、ビーズのようにきらきらした丸い目を、ぱちぱちと瞬かせた。
でも、桜には黒狗の声は聞こえない。声を聴きとれるのはただ一人、繍だけなのだ。
そうやって、黒桐幹也と間桐桜は、一緒に出かけることになった。
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喫茶店アーネンエルベの外にいたのは、これでもかと不機嫌な顔をした男だった。
目つきは悪く、洒落た喫茶店の前にいるのに、どこか路地裏の屋台で、ひとりカップ酒でも傾けていそうなやさぐれ度合だ。
耳に携帯を当て、片方の耳を指でほじくり、肩からは大きな竹刀袋を下げている。
あれの中身が
ピッ、と電話を切ると、彼は桜たちの方へ手を振った。
「おん、桜に黒桐か。よう来たの」
「岡田さんが呼んだんですよ。それにしても、繍さんがいなくなったって、どういうことですか?」
「言葉の通りじゃ。こん町に着いたら消えよったがじゃ」
「あはは……繍さん、神出鬼没ですもんね」
ふん、と以蔵が鼻を鳴らしたときだ。
「やあやあ皆。やっぱりここにいたんだね」
唐突に、横からひょっこりと白髪が見える。
雪のように白い髪の先だけを三つ編みにし、白いシャツと青のスカートを着た、小柄な女性。
すっきりと整った顔の中、ひと際目立つのは額から左眼を縦に通り、顎にまで伸びた一筋の赤い痣である。
化粧でも隠しようがない呪いの傷痕を持ちながら、浮かべる笑みは屈託がなく、夏の花火のようにとても明るい。
見間違えようのない佐保繍が、そこにいた。
「繍さん!」
ぱっと桜は思わず駆け出して、飛びつく。
細身ながらも意外と足腰の強い繍は、桜の突進をあっさり受け止めた。
「どこ行っとったがじゃ、こら」
「ち、ちょっと待ってってば。不可抗力!不可抗力だよ岡田さん!」
桜にくっつかれたまま、ひょいと肩を叩こうとする以蔵の手をすり抜けて、繍は自分の背後を振り返った。
「ほら。お嬢さんたち、出て来なよ。そこに隠れていたら、お話しもできないじゃないか」
街路樹の影から、二つの影から現れる。
ひとりは、白銀の髪を長く伸ばし、紅い瞳をきらきらと輝かせる、人形のような愛らしい少女。
そして、もうひとりは。
「こ、こんにちは。桜」
艶のある黒髪をリボンでツインテールにまとめ、赤いコートを着た碧眼の少女、だった。
「イリヤスフィールに凛。遠くからじゃ、声が聞こえないよ。岡田さんは顔は怖いし中身も怖いけど、そんなに抜刀はしないし、黒桐くんは見た目通り優しいから」
固まってしまった桜や以蔵と逆に、佐保繍はいつものごとく、飄々と子どもたちへと言葉をかけるのだった。
大体四年後なので、佐保繍19歳→23歳。