では。
イリヤは、四階の本の部屋に大興奮だった。
繍本人はあまり漫画を読まないのだが、以蔵や桜が本を欲しがった場合、まずだめとは言わないのだ。酒はかなりの頻度でダメ出しが出るが。
「すごいわ!あっ!これもあるの!ねえサクラ、あれもあとで読んでいい?」
「いいです。持って行ってくれても大丈夫です」
「ありがとう!」
本の部屋には、壁まで届く本棚四本に、上から下まで本がびっしり入っていて、藺草の布が敷かれた床の上には、クッションや背の低い机がいくつか置いてある。
本棚の中身は、漫画から図鑑から絵本から小説から、種類は様々だ。
本屋に行けば、大体以蔵が自分の見やすいもの、見て楽しいものをあれこれ持って来て、桜が選んで、繍が買うのだ。
といっても繍は別に金だけ払うのではなく、自分も読んでいるし、読書そのものは好んでいる。
ただ、一人だと欲しいという気持ちが起こらないから、何も買わなくなるらしい。
仙人か、と以蔵が呆れていたが、桜もちょっとその通りと思う。
「えっと、あっちが寝る部屋で。さっきの部屋が工房です」
「え、あそこだったの?」
「はい。わたしの勉強する部屋も、あそこなんです」
勉強というのは言うまでもなく、呪術のほうになる。もちろん、学校の勉強も見てもらっているけれど。
「桜、お酒も置いてあったわよね」
「……あれは岡田さんのです」
「刀のアサシンの?……あいつ、お酒飲むんだ」
「煙草もします。外で、ですけど。あ、でもこの前繍さんが煙管をあげてからは、そればっかりです」
凛の顔がヘンになった。
鳩が豆鉄砲をくらったときみたいに。
「桜は……あの人の家、継ぐの?」
あの人が誰を指すのか、わからないわけはなかった。
「……いいえ、継がないと思います」
というより、継げないのだ。
佐保の家は特殊が過ぎて、魔術刻印すらない。強いて言うなら、魂自体が魔術刻印の代わりだそうだ。
当人たちすら遡れないほどの昔に、神霊と交わした契約により、魂を磨いてきた家で、桜は魂も起源の在り方も違う。だから、継がせられないと繍ははっきり言った。
ちなみに、継がせることはできないけれど、でもうちにある秘術のいくつかをボクよりも上の領域で完璧に収めたなら、それだけで多分ひとつ新しい家をつくれるようにはなるよ、だそうだ。
……時々、繍の頭の中は本当に人間なのかと言いたくなる。
知識だけあって大半は使えないから持ち腐れだよ、なんて言うけれど、あの頭の中にある知識の量を知られたら、それだけでもう封印指定がかかるのではないかと思う。
「繍さんの家はとっても古いから、たくさん古い術はあるんです」
そういうものの中で、桜が一番熱心に習っているのは、影を使う術だ。
これがきみの属性に近くて相性が良いから、と繍は言う。
カタチはないけれどあるもの、それが桜の属性、『架空元素・虚数』。
だから、カタチはないけれど、この世に光がある限り広がる『影』を、桜はイメージとして捉えやすいとかなんとか。
元々、カタチはないが存在はしているもの、つまり魂を高めてきたのが佐保の家だから、繍も『なんとなく』でカタチのないものを扱う感覚は掴めるという。
属性が虚数ではないから、『影』は扱えないらしいが。
術を教えてもらえるようになってそろそろ三年だが、今桜は自分の影の中に黒狗を入れて自分で出し入れすることや、影を長く伸ばして物を掴んだり、切ったりすることができる。
自分はカタチあるものを斬ることだけしかどうせできない、と酒が入るとうそぶく以蔵は、桜の影から出たり入ったりする黒い小犬や、影で切り裂かれぱっくりと縦に割れたビール瓶を見て、酔っぱらいのリスのような顔をしていたが。
「繍さんが教えてくれるのは、わたしがちゃんと、自分につぶされないで生きていけるように、です。何かしようと思っていなくても、何が起きるかわからないのが異能者の運命だからって」
たまたまで、第四次聖杯戦争に巻き込まれて、何度も死にかけた人間の言うことである。説得力があった。
でも桜は、ただの呪術使いにはなる気はない。呪術師になって、繍と同じものが見たいと思う。
だって繍にしろ以蔵にしろ、引き止める誰かが必要な、危なっかしいところのある人たちなのだし。
「へぇ、そうなんだ。じゃあ、わたしと同じね」
床の上のクッションを抱きながら、イリヤが言った。誰からと言うでもなく、三人で床の上に円を描いて座る。
「イリヤさんも?」
「イリヤでいいわ」
「……イリヤも、そうなんですか?」
「そうよ。アインツベルンの魔術はお母様から習っているわ。でも、それは危なくないようにお守りとして教えてくれるの。だって、お母様たちが帰って来てくれた。もうあのお城の、長いお仕事は終わったんだから」
今年で確か、十二歳になるはずの小さな体の少女は、無邪気に笑った。
「まぁ、アンタのお父様はよくいないけどね」
「凛のイジワル!キリツグにはまだ大事な仕事があるけど、でもいつもちゃんと帰って来るんだから!」
ぽこぽこ、とクッションで凛を叩きながら、イリヤはぷくりと頬を膨らませた。
「じゃあアンタ、なんで冬木から出てきたのよ」
「……キリツグが悪いんだもん。ずうっと前から待ってたのに、わたしと遊ぶ約束、忘れちゃったから」
忘れられたことが許せなくて、ちょっと遊びに出てきたという。
凛も一緒に。
「リンもお父様と喧嘩したんでしょう?」
とたん、凛のツインテールがしおしおと下がったように見えた。
「……そうよ」
「それでサクラに会いたくなって、ここまで来たのよね。いいじゃない、いい機会なんだから、好きなようにおしゃべりしなさいよ。だっていつも、サクラと上手く会えなかったってわたしの部屋でごねてるんだから」
「い、イリヤスフィール!」
「え?」
秋の林檎のように赤くなった凛の顔を見たら、それが本当であることは疑いようがなくって、だから桜は、ヘンな声を上げてしまう。
「そうだったんですか、姉さん?」
う、と今度は凛がクッションに顔を埋めた。こんなに真っ赤な顔を見るのは初めてだった。
─────だって会うときはいつも、凛の側には遠坂の人たちがいて、それで。
あ、そうか、と桜はわかった。
姉はいつも明るくて正しくて、そしてなによりお父さんのことが大好きだったから。
「姉さん、あの……遠坂の、お父さんと喧嘩したって、どういうことなんです?」
だから頑張って、桜のほうから聞いてみる。
今は繍も以蔵もいないけど、でも遠坂のお父さんとお母さんだっていないのだ。
遠坂と間桐の子どもではなくて、凛と桜でいられる。
凛の手が、クッションを握りしめる。
「あのね……」
ぽつりぽつりと、小さな口から語られる言葉は、書物の並んだ部屋の中に、静かに降り積もっていった。
ホットプレートに次々並べられていく餃子と、黄色い卵と玉ねぎ、ワカメが浮いた中華風スープ。それにトマトとレタスのサラダとふっくらした白飯は、大いに人気だった。
いきなり、いつもの三人を飛び越して五人に増えた夕食の席だが、繍も以蔵もけろりとしていた。
「トウコが来よったときに比べりゃなんちゃあないき。遠慮せんと食え」
以蔵が言ったその言葉が答えである。
「前なんて、週三で突撃して来たもんね。未だにおかずは持ってかれてるし。うちが払ってる利息分、飯代に当ててやろうかなあ」
四年前に、繍は蒼崎橙子にひとつ依頼をした。
今現在、目の前でご飯を食べている岡田以蔵というサーヴァントの、肉体となる人形を造ってほしいと依頼したのだ。
半霊体のサーヴァントは、マスターからの魔力供給がなければ生きられず、現世での命の在り処をマスターに依存する。
それを克服するために、生きた人間の体と同じものを依頼したのだが、当然のように凄まじく値が張ったという。
なにせ、人間ではなくサーヴァントの、つまり人のまま人の枠を越えて、精霊種となった
これで神代の頃の半神半人の英霊などだと、どんな金額になっていたのか想像もしたくないと、繍は言っていた。
以来、繍と以蔵は蒼崎橙子に借金を返しているし、何かと仕事を任されたりしている。
桜の叔父である雁夜も、ケイネスの伝手で橙子に依頼したのは同じだが、彼はあくまで欠けた体の補修で、間桐家の遺産をいくつか売ることもできたので、借金するには至らず、叔父として桜の小学校の学資は彼が出している。
時々ここへも顔を見せに来て、桜にお土産をくれたり、以蔵や幹也と飲んだりするくらいはやっているが、彼も本拠地は冬木に置いていた。
まだ完全に解体しきれていない大聖杯を利用するものがいないか、御三家の一角として目を光らせているのだ。
桜の名ばかりの父もまだ冬木にいるらしいけれど、ライダーに家を燃やされてから、魔術はもう二度と見たくないのだそうだ。
「アオザキの人形師に、受肉したサーヴァント、千年超えの巫者の家の当主……ミフネっていろいろ危ないんじゃないの?キョウカイに狙われない?」
もぐもぐと狐色に焼けた餃子を頬張りながら、イリヤが言う。
「うん、どっちのキョウカイにもばれたらよくないことになるだろうね。でもちゃんと隠れていたら平和だよ、ここは」
「ちっくと目を離しよったら、あやかしいことばかし起こる街じゃがの」
「そうだね。でもまぁ、どこへ行っても何かは起きるものだしね。そしてきみは、さりげなく野菜を桜の皿に入れようとするんじゃない」
こら、と繍は呆れ顔で、以蔵はふんと横を向いた。
だけれどこれもまぁ、この家ではいつものやり取りだ。
繍の料理はおいしいのだ。
家が元々付き人だから、掃除洗濯針仕事料理、一通り仕込まれて育ったという。おまけに本人が世話焼きなのだ。
このままだと、繍がダメ人間製造機になりそうなのが桜の最近の悩みだ。
「あ、それからね。凛にイリヤ。迎えはまだ、しばらくかかるってさ。それまで、お願いだからこの家でじっとしていてくれって。遠坂と間桐と衛宮の家から電話が来たよ」
「迎えって……誰が来るの?」
「まだわからないよ。どたばたしてるらしくて」
とにかく連絡が来るまではここでのんびりしてていい、と言われ、凛とイリヤが顔を見合わせていた。
二人がここに来た理由も何もかも、繍はわかっているらしい。
わかっていて、だけど何も聞かない。
「明日は土日で、桜の学校もお休みだしね。一緒に遊んで来たらいいよ。まぁ、ボクたちは仕事してるけど」
「……アンタって、普段何やって働いてるの?」
「んー、色々。橙子さんからの依頼とか、自分で探したあれこれとか、あと時計塔で最近友人が講師やってるから、そこの教室の教材づくりとか、生徒さんの課題の添削とか。Eメールって便利だよね」
「時計塔の?」
そうだよ、と繍は凛の皿に餃子を二つ三つ放り込んだ。
「知ってるかな?ライダーのマスターだった、ウェイバー・ベルベットっていう魔術師。最近、師匠から教室ひとつ任せられてあれこれやってるらしくて」
「おまんは使う者の才はないが、教える者の才はあるちゅう話じゃったのう。ほいでまた大喧嘩じゃ」
「ウェイバーがそれでキレ気味にやる気出して、何故か仲裁してたボクが呪術関連の教材を作ることになって、定期報酬もらえるようになったんだよね」
「金が貰えるがはえいことじゃ」
「そりゃそうだが」
あれは謎の事件だった、と繍は次々餃子をプレートに並べながら言う。
繍は自分の皿が空でも気づいていないときが多いけれど、放っていても以蔵が勝手に盛りつけていくから、桜は安心している。
自分の嫌いな野菜まで入れているのはもう、諦めることにした。
「じゃあイゾー、あなたは?」
「こいたぁやトウコの護衛じゃ。なんもないときゃそこらの道場で刀振っちゅう」
「使わないと、刀は錆びるもんね」
「よう言うぜよ。人斬りに人以外をなんべんも斬らしよって」
こつん、と丸めた拳で繍の肩を軽く叩いて以蔵が言った。
イリヤが首をちょっと傾ける。
「ふーん、聖杯戦争を勝ち抜いた暗殺者の英霊とそのマスターってどんな怖いのかと思ってたけど、あなたたち、随分フツウなのね」
「あはは。勝ち抜いたっていうより、生き残ったって感じが強いんだけどね。もう二度とごめんだよ、ああいうの」
その普通が大変だった、と桜は黄身が溶けてたんぽぽ色に見えるスープをレンゲですくい取りながら思う。
繍はくすりと微笑み、以蔵はひょいと肩をすくめると食器を重ねて立ち上がった。
「上で刀振っちゅう。なんかありゃ呼べ」
「はーい。あ、君の寝床使っていい?」
「好きにせぇ」
それっきり、シンクに食器を放り込んですたすたと出て行く。
入れ替わりのように、凛がこつんと額をテーブルの上にぶつけていた。
「ね、姉さん?」
「ええ……平気よ、桜。ちょっとこう、お父様から聞いてたイメージが崩れただけだから、がらがらっと……」
「本当に、ボクら冬木でどういう扱いなんだよ。ボク、もうあそこには近寄ってないから知らないんだけど」
四年前以来、繍は冬木市を訪れていない。
聖杯戦争終盤で彼女が受けた顔の傷は、ただの傷ではない。
魂に根づいた、とても怖い呪いだった。並みの人間どころか、魔術師ですら触れれば発狂するほどの。
その呪いの大元は、冬木の大聖杯から生まれていた。
だからか、ある時を堺に冬木市に近寄ると、繍の顔の傷はじくじくと痛むようになってしまったらしい。
まだ冬木の大聖杯は、完全に解体されていない。
セイバーの一撃で大聖杯のあった洞窟はほとんど崩れたし、間桐と遠坂にもう第五次聖杯戦争を起こす気はないのだけれど、まだ大聖杯の一部が洞窟に残っているのだ。
ケイネスから術式の話を聞き、その完成度を惜しんだ時計塔の一部がそれの除去を渋っているとか、盗み出そうと画策しているとか、今度は時計塔の監修の下で再開すべきとか、アインツベルンがまだ諦めていないとか、色々あるそうだ。
たまに電話してくる繍の友人、ウェイバーと、元師匠のケイネスはよくそれで愚痴っている。
あいつらは、アンリマユの呪いを直に見なかったから、そんな呑気なことが言ってられるのだとか、非才の者より血統が良い者のほうがあそこまで愚かになるとは思わなかった、とか。
大聖杯なんてさっさと壊しちゃえばいい、と桜は思う。
あれがなかったら以蔵はこの時代に来れなかったらしいけれど、今はちゃんと人間の体があるのだから、もうなくても大丈夫だ。
そこにあるだけで繍が痛いと思う器なんて、ばらばらに砕いてひとつ残さず消してしまえばいいんだから。
「桜、どうかしたの?」
「なんでもないです、姉さん」
と、桜はそこで繍がにこにことこっちを見ていることに気づいた。
「繍さん?」
「んー。いや、こうしてみたら凛と桜はやっぱり似てるなあって。顔形とか、雰囲気とかね。こう、魂の気配みたいなものがさ」
「え、シュウって魔眼持ちなの?」
「持ってないよ。でも、うちは魂には敏感なんだ。きみは特に、君のお母さんとそっくりだね、イリヤスフィール」
嬉しそうに、イリヤはふふんと胸を張った。
「さてきみたち、お風呂はどの順で入るかな?それに、今日はもう早く寝たらいいよ。疲れたろう?イリヤに凛」
白い髪の女性はそう言って、にこりと微笑んだのだった。
御三家娘のほのぼの話。
ちなみに収入あるのでヒモではない。
ヒモではない(二回目)