【完結】エゴの救世主   作:ryure

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それは勇者の失敗ではなく

 ある日、俺たちはロウじいさんに大事な話があると集められた。俺たちというのは、マルティナと、魔法使いの双子ベロニカとセーニャと、騎士ゴリアテと、同じく騎士グレイグだ。

 その場にはマヤとホメロスもいたが、ロウじいさんが呼んだ訳じゃない。だがいても構わないとも言う。無関係ではないから、と。ロウじいさんが暮らす小さい小屋の中にこれだけの人間がいると狭いが、わざわざここに野次馬は来ないだろう。誰が何をしていたって誰も咎めることはない。

 

 俺とマヤはせめてもの場所の確保のために小さい時のようにベッドの上に二人まとめて乗せられた。小柄な双子も背の低いタンスの上に並んで乗せられた。体感したことがない過密だ。

 

「ロウじいさん、それで話ってのはなんだ?」

「救世主さま、のことなんじゃよ」

 

 すかさず、セーニャが言う。

 

「救世主さまは、今出かけていらっしゃいます」

 

 みんな分かっている。だからこそのタイミングだろう。ここ最近、出かけていない方が少ないじゃないか? 夜だって毎日帰ってくるわけじゃない。ご飯を作って待っていたペルラさんに、毎日帰れるかわからないからって、大好物を断っていたくらいだ。

 

 最近救世主さまは傷を負って帰ってくることが多くなり、外から何とかという町の孤児院の人間をそっくり連れてきたっきりとんと人間を連れてくることがなくなった。様子は確かにおかしいが、だからって、致命的になにか変わるだろうか?

 

 ロウじいさんが、わざわざなにか話すくらい、何かがあるって言うのか?

 俺たちはうすうす、ロウじいさんと救世主さまに並々ならぬ関係があるとは思っている。それは悪い意味ではなくて、きっと本当は歓迎すべきことだと。

 だが、その仮説は何度も俺は頭の中で否定している。どうやったって、それは「ありえない」。年齢がありえない。状況がありえない。どうやったら生まれたての赤ん坊が成人そこそこの、歳を取らない少年になって、ロウじいさんの前に現れるというのか。

 

 証拠になるのは救世主さまがロウじいさんの娘によく似ているってだけのこと。マルティナも言っているからそれは正しいだろうが、それ以上のことはない。他人の空似ですべて済む。まさかロウじいさんがそんな信憑性のないことでわざわざ俺たちを集めたりすることもないだろうに。

 

「外の世界に危機が迫っているというのはみんな気づいているじゃろう」

「……外に出たいって言うのなら俺たちが何をしたって、ロウじいさんでも無理だぜ。世界はもうすぐ滅ぶんだから」

「あぁそうじゃの。だが出る必要があるのならば、あの子もわしらを出さざるを得ないはず。その為には確証が必要じゃ。あの子にバレないように、してほしいのじゃ」

 

 あの子、とは救世主さまのことだ。いつからかロウじいさんは彼のことを「あの子」と呼ぶようになった。外見ならば祖父と孫だから違和感はない。ロウじいさんの亡くなった孫を想って呼んでいるのは周知の事実だ。

 そういえば、テオじいさんもそんなところがあったな。

 

「方法はどのようなものにするのですか? 救世主さまは、箱庭の誰よりも強い。彼に気配を悟られずに何かをするというのは難しいかと」

 

 珍しくこんな、箱庭の調和を乱すことにホメロスは異論がないらしい。ここの繁栄のために知識を、と争いの絶えない外でも通用するくらい使う頭がいいホメロスは……何せここのやつらは基本的に非戦闘員で、しかもほとんどがもともと平民だったから、貴族が知っているような何かの運営ができるやつなんてほとんどいない……極度に平穏を愛している。

 グレイグと同じ場所からほんの数日の差でやってきたと、曖昧な記憶ながら覚えているが、その数日で一体何があったのか決して語らないし、救世主さまも何も言わない。とにかく酷い目にあったのだろう。

 それはともかく、ホメロスが味方になるなら頼もしい。

 

「実行はカミュじゃ。カミュならば近寄れるし、警戒もされんじやろう。夢見の花で眠りを深くし、その上からラリホーを更にかける。必要ならば麻痺も使うべきじゃな……なんとかしてあの子を眠らせ、動けない状態をほんの少し作ってほしい」

「麻痺ぃ? 救世主さまにそんなこと出来るかよ! 俺は降りるからな」

「必要ならば、じゃ。必要ないとおぬしが思うのならば最初からそのような手段はなかったことにしても良い。やることは左手の手袋を外して、手の甲を確認するだけじゃ。あの子に気づかれないように」

「……」

 

 左手か。幻と現を見せる救世主さまの力はそこから放たれているように見える。そういや、今まで一度もあの革製の抜き指手袋を外しているのを見たことがない。だが、その下に何があるって言うんだ?

 それはそんなに重要なのか? 睡眠薬を盛ってまですることなのか?

 

 だが、最近どうにも睡眠すら削ってまで外へ行く様子はいただけなかった。彼がぐっすり眠ってもらうのに貢献できるっていうなら、やぶさかじゃない。そのついでに手袋をひっぺがすくらいならまぁ、してもいい。外へ行こうとするなとは言われたが、手袋をひっぺがすなとは言われていないしな。

 小さい頃は手袋越しに頭を撫でられるのが不満だったな。だが、なんとなく、本人にそれを告げたことはない。俺が言えるようなことではないような気がして。

 

「……それで?」

「左手にある印を覚えて、わしのところで絵で出来る限り再現する。それだけで良いのじゃ。あの証があるならば、あの子が……」

「ロウさま、でもイレブンは……」

「勇者の奇跡が、時間の順番を飛ばし、あまつさえ止めてしまうことがないとは言いきれんのじゃよ、姫や」

「まてよ、救世主さまがじいさんの孫かどうか、まだ疑っていたのか?」

 

 ロウじいさんはゆっくりと頷く。そのユウシャの奇跡とやらで、本来あの時赤ん坊のロウじいさんの孫があの十六かそこらの姿になって、それから十六年も止まったままっていうのもありえるっていうのか?

 そんなこと、ありえるわけない。そんなありえないことをロウじいさんが真剣に考えるようなユウシャって、一体何者なんだ? どこから力を得ているんだ?

 ロウじいさんの孫ってことは、間違いなく人間の子なんだろう? 神父の語る天の使いではなく、俺たちと同じように血と肉で出来ている一人の人間なんだろう?!

 

 だが、現実に救世主さまは俺が三つのときから十九になるまで微塵も成長していない。髪や爪は普通に伸びるが、髪型を変える気はないらしく、顎元で切りそろえたままで、その姿はちっとも変わらない。

 服装を変えていることはあるが、箱庭の中ではいつだってだんだんぼろぼろになっていく、ロウじいさんの国の兵士の服をいつだって着ている。服だけは昔よりも時間によって古びてきていて、着ている本人が全然変わらないのがひどく浮いている。

 元々かなりぼろぼろだったのに、今はもう、繕ったあとが酷く目立つ。だから外に行く時には別の服を着ていることも多いが、それでもあれを着ているからお気に入りらしい。

 

 たまに寝ぼけている時には何故か、ペルラさんのところの村で着ているような服を着ている。それも昔っから同じやつを着ているんだ、丈が足りなくなることもない。そんな人間的な成長から切り離されている存在なんだぜ、救世主さまは。

 まぁ救世主さまの力の出処もユウシャと同じで分からないけど。俺には分からないけど、だけども、みんな救世主さまが力を持っていることに違和感があったことなんてない。だって「そういうもの」だろ。

 

「俺がすることは眠った救世主さまの手袋をめくって、そこにある印を見て、それをじいさんに伝えるだけってことか……」

「頼まれてくれるかの?」

「……それくらいなら、いいか。最近救世主さま寝ていないしな。それで、救世主さまが仮にイレブンというじいさんの孫ならどうするつもりなんだ? 感動の再会にはずいぶん遅くねぇか?」

 

 救世主さまの正体を突き止めたい気持ちはわからなくもないし、生き別れた家族ならなおさらそうだろうが。

 なら、別に呼ぶのは俺だけで良くねぇか? なんでこんなに人を集めたんだ、夢見の花を盛りたいなら料理をするヤツらに頼めば、救世主の寝不足を心配しているヤツらは普通にやるだろうし、なんなら俺がやったっていい。こんなに人を集める理由が分からない。

 

「仮にあの子がイレブンなら……外の世界には邪神が復活しているはず。そしてあの子は一人で戦うつもりということになるんじゃ」

「邪神?」

 

 聞き覚えがない。とはいえ俺は外の世界に関しては完全に無知だ。読み書きはロウじいさんに教わったし、外のことはうわさ程度にたまにしか聞かない。頭の出来も飛び抜けていいやつらがいるんだ、明らかに凡庸だ。

 

「勇者が覚醒する時、また闇も目覚める時。イレブンが生まれた時点で勇者の証は左手にあった。世界には必ず、闇が生まれている。実際ここに救済された人間の殆どは魔物に襲われたところを助けられているじゃろう。

 本来、きちんと魔よけをしているところに住んでいるならば魔物が襲ってくる事はないのじゃよ、カミュ。これは魔物が活発化している証拠じゃ」

 

 救世主さまはいつだって一人で外に行く。外で戦って、救済すべき人間を見つけたらここに連れてくる。いつだって一人で、戦っている。だから俺たちはせめて、ここに帰ってきた時には少しでもその疲れがとれるように、ここで安らげるようにしている。

 ロウじいさんは救世主さまの手伝いをすべきだって言うのか?

 

 だが、ここには救世主さまを助けられるほど強い人間はいないじゃないか。少しなら戦えるやつらはいる。城で兵士をやっていたそこの二人や、騎士のゴリアテ……じゃなかった、芸人のシルビアがそうじゃないか。

 だけど、それは、常日頃から剣の鍛錬をし、魔物と戦っている救世主さまと見比べてみれば圧倒的に劣るっていうのが完全な素人の俺でも分かるんだぜ?

 それなのに着いて行ったら邪魔になるだけじゃ、無いのか? 助けられるものなら助けたいが、邪魔になるくらいなら最初から着いていかない方がいい。

 

「カミュ。わしたちはきっとそろって何かを忘れている。わしはそれが何か結局思い出せなんだ。だが忘れていることは思い出した。カミュ、おぬしならきっと思い出せる。『救世主さま』ではない、あの子の本当の姿を知っているはず。カミュ、おぬしならば」

「本当の姿……」

 

 ふと、シチューを食べている時の無邪気な笑顔が思い出した。うたた寝をしている幼い姿も。そういう、無防備な姿が次々と脳裏をよぎり、それはなにかに重なるように思えて……その何かはわからないのだけど。

 

 耳元でカミュ、と呼ばれたような気がした。彼の声で。

 

「……イレブン?」

 

 振り返る。紫の服を着た「イレブン」の微笑みが幻になって消える。高潔な救世主さまではなく、年相応に微笑む姿。

 イレブン。今までロウじいさんの亡くなった孫の名前という、俺にとって曖昧で、他人で、ただの記号だった言葉が酷くいとおしい友のもののように思えた。

 幻覚が消えたあとにあるのはただの木の壁。なのに俺はそこにすがり付きたくなった。ひとりで行くな、と言いたくなって。

 

 どこへ? 救世主さまが「イレブン」なら、必ずここに戻ってくるはずだ。どうして俺は不安になる? 「イレブン」がどこかに失われてしまうことを恐れているんだ?

 違和感を覚えたのは俺だけじゃなかった。ベロニカは居心地悪そうにもぞもぞとして、体の違和感を訴えた。もっと小さかったはず、とか。その姉にセーニャは涙を流して縋り付く。ベロニカがいなくなってしまうように感じたと言って。

 二人はここに来る前も、そして箱庭にいるあいだもずっと一緒にいた。どうして二人は不安を感じるんだ? 双子なのに、片時も離れていないのに、どうしてだ?

 

 その俺も隣にいるマヤが俺を不思議そうに見ているのがとんでもなく奇跡のように思える。マヤが、息をして、そこでごく普通に健やかに成長している。俺は嬉しくなって、かけがえのない事だと思った。なのに、喪失感が止まらない。俺には大切な存在がもう一人、いたはずなのに。

 

「……どうじゃ、カミュ。いいや、皆。多かれ少なかれ、なにか思うところがあったのではないか?」

「わかりません、ロウ様。私には、ただ、『あの子』を今度こそ守らなくちゃって……『今度こそ』?」

 

 マルティナの困惑した声。見知らぬ記憶に怯えるように、だが懐かしそうに。

 周りを見回すと、自分の手をじっと見つめるホメロスは、見たこともないほど険しい顔をして考え込んでいた。おっかない顔をして子どもたちがわらわらと逃げてしまった時よりも怖い顔だ。隣にいるグレイグは自分のペンダントを握りしめながら、やはりよぎる既視感の正体を必死で探っているらしい。

 

 シルビアはすっと立ち上がって、板についてきた明るい笑顔になった。

 

「確かめないことにはどうしようもないわね」

「そうだよな……」

「救世主ちゃんがイレブンちゃんだって分かったら、ちゃんとお話しましょう! どっちにしたって怪我して帰ってくるのに放っておくことは出来ないもの!」

 

 ここに連れてこられる人間は、何かしらの悲劇や恐ろしさを経験してきている。いくらここが穏やかであたたかくとも、最初は馴染めずに怯えて、心を開かないやつも多い。

 幸せや笑顔を忘れたそいつらを笑顔にするのがシルビアの役割で、夢だ。

 そのシルビアが笑顔にする対象に救世主さまだとしても「イレブン」が含まれていることが、とても自然なことのように思えた。

 

 目をつぶると、幻の中の「イレブン」が背を向けて立っている。俺は彼に無言で呼びかけると、その空のような青い目はこちらに向いて、少し笑う。

 そして彼は大仰な黒い剣を背負い、白く眩いオーブに向かって美しい剣を突き立てるのだ。それを、もう、そんなことは「やめさせなければ」ならない。俺があんなことを言わなければ、すべて始まらなかったのだから。

 

 ……この、胸の内から湧き上がる言葉の意味も、もうすぐきっと、分かるはずだ。

 

 

 

 

「ふぁ……」

 

 たらふくシチューを食べ、夢見の花入りの茶を飲んだ彼はひどく無防備に小さな欠伸をする。俺はすかさず食器を片付けにかかる。すると夢見の花の効果が出始めたのか、普段なら一緒に片付けを手伝ったり、子どもたちになにか話をしたりするのが日課のはずなのにとろんとした目で背もたれに寄りかかった。

 何も知らない箱庭の住人には、「救世主さまは特にお疲れのようだ」と言ってある。別に嘘はついていない。

 だから子どもたちも今日は話をねだりにこないし、大人たちは救世主さまの外見の幼さから微笑ましく見守る。ご飯のあとに眠ってしまうわが子を見るように、今ばかりは神聖視することもなく、子どもたちを見るときと同じような顔をして。

 

 彼が少し近寄らないメンバー以外で主に事は決行する。思えば、近寄らないのは大人ばかりだ。それも、ここに来る前から成人している人間のことを彼は少し、避けている。

 それを逆手取るようで悪いが、害することを知らない無邪気な子どもの顔をして、セーニャはさらに眠りに誘うべく優しい竪琴の音色を奏で始め、ベロニカはあたたかい膝掛けをそっと掛けた。

 マヤは「お気に入り」として最初からぴったりと「イレブン」にくっついている。示し合わせた通り、マヤが眠そうなふりをすると、「イレブン」は緩慢な動作でマヤの頭を撫でながら、つられるようにうつらうつらしはじめる。

 

「あら、マヤちゃんもう眠いの?」

「うん……おねぇちゃん」

 

 打ち合わせ通りのマルティナとのゆっくりした会話に反応した「イレブン」はゆるゆると目を開けると、つられるように僕も眠い、と子どものように言った。そしてそれとなく近づいていた俺を見つけると、マヤを寝かしつけてくるように言う。

 が、俺たちが彼に盛ったのは本来戦闘中の敵すら眠らせる夢見の花。安静状態で使えばそりゃあよく効くだろう。既にほぼ夢うつつの「イレブン」は言葉を最後まで紡ぐこと無く眠りに落ちた。

 椅子からずり落ちそうになるのを受け止める。俺にも簡単に支えられた。その体が軽いと嘆くべきか。俺が大きくなったととらえるべきか。俺でも背負えるのだから作戦が決行しやすくなったと思うべきなのか。

 たった一人で、少なくとも俺たちを家族と呼び、その命を背負って戦っているのに、こんなに軽い。

 

「……成功だな」

「静かにな、マヤ」

「おう」

 

 自然と俺は眠っちまった救世主さまを家に連れていくことになった。幼い時は反対だったねぇと微笑ましげに口々に言われるが、それを軽く流して背負って進む。穏やかな寝息と子どものような体温。「イレブン」が何年生きているのかは分かりやしないが、その入れ物は間違いなく子どものものだった。

 ゆっくりと到着した「救世主さま」の家も、俺たちのそれとそこまで変わらない。強いていうなら家の周りにたくさんの花が咲いていることくらいか。殺風景な家に少しでも華やかさを、とみんなで植えたものだ。

 

 外の世界には鍵のある扉が沢山あるらしいが、ここには外界との境の扉とトイレくらいしかほとんど鍵がない。両手が離せなくて、半ば体当たりのようにして扉を開けた。

 万が一、鍵をかけることができる数少ないこの扉がしまっていた時のためにシルビアやホメロスが先に何とかしてくれるという算段も、少なくとも上手くいっているらしい。

 別に「イレブン」は俺たちに自分の家に入るなと言ったことはない。むしろ小さい時はよく遊びに行ったものだ。しかし最近は遊ぶような年齢でもないから、部屋の中を見るのは久しぶりだった。

 

 そこにあるのはベッドと机と椅子。それからやたらと大きなタンスと、黒くて大きい彼の剣だけがそこにあって、相変わらず物が無い。ベッドの上に乱雑にたたまれた寝間着だけが「イレブン」の生活痕で、それ以外は人が住んでいるような感じはない。タンスを開けると世界中から集めたような雑多なものがたくさん詰まっているのを知っているが、そこを開くことは滅多にないことも、知っている。

 ともかく、彼を絶対に起こさないように最大限の注意を払って、ベッドに寝かせる。ブーツを脱がせ、ベルトだけは外して服をくつろげ、布団を引っ張り出して被せると、もう他の子どもたちと「イレブン」の明確な違いが俺には分からなかった。

 あどけない顔、穏やかな寝息。だというのにこの手袋に包まれた手は常に俺たちを守り、安心させ、幸せをくれた。この小さな背で。

 

 俺は慎重に左手の手袋をずらした。手の甲にはロウじいさんが言った通り、不思議な形のアザがある。俺はそれをしばらく見つめ、それから手袋を元通りに戻して、そっと家から出た。

 アザを見た瞬間から俺の目から、涙が止まらなくなったのは参ったが、幸い夕飯でみんながひとところに集まっているために誰にも出くわさずにロウじいさんの家に着くことが出来た。

 

 俺は、あのアザを知っている。とても良く、知っている。それを記憶のどこかが思い出して、涙が出てきた。しかし俺にはわからない。恐らく、俺はそれを「経験していない」からだ。

 だがあと少し、あと少しで「イレブン」の真意を知れる。あと少しきっかけがあれば全てを思い出せる。

 俺は涙が止まるまで、玄関に入ってすぐのところで目元を押さえていた。おずおずと誰かが俺を中に連れていく。ハンカチを受け取り、涙を止めようとするがなかなか止まらない。あたたかな部屋の中、俺は、涙を拭いながら差し出された紙に紋章を描いた。

 

「勇者の紋章だわ……」

「間違いなく、イレブンの手にあった紋章じゃ」

「……」

 

 ユウシャが救世主さまで、救世主さまの名前はイレブン。すんなりと、しっくりと、胸の中にストンと落ちた。

 

「ではどうするのですか」

 

 ホメロスの、無表情。何かを思い出したのかもしれないが、隣にはグレイグがいて、彼らはここまで仲違いすることなく、ここにいる。切磋琢磨する必要がないここで穏やかに過ごしたこのホメロスは敵になる理由がない。

 ……敵になる、理由?

 

「元の記憶を、なんとしてでも思い出すしかあるまい。イレブンのことをわしらはすべて忘れてしまった。それでは、後ろから手を伸ばしても届くまい」

 

 手を伸ばす? ふっと、あの白い手が、紋章を光らせて現れたように感じた。

 白い光に包まれる顔が、何度も脳裏に過ぎる。無表情の顔、泣きそうな顔、せめて勇気づけようと笑った顔、そして、俺が冷たいイレブンの手を握って、あの美しい剣を持たせていて、イレブンは目を閉じている……。

 

 ぐったりした体を俺は無理やり立たせて、情けなく咽び泣きながら、返してくれと叫んで。戻りたいと思って。

 だが、オーブが割れた瞬間、抱きしめていたイレブンの体は消え失せた。「過ぎ去りし時」に戻れるのは勇者だけだからだ。

 俺は失敗した、多分イレブンは失敗し続けていた。

 だからって、一人で背負うことはないはずなのに。

 

 俺の知らない俺の記憶が渦巻く。記憶の奔流に堪えきれなくなって、頭を抱えて、その記憶がまた彼方へ流れていくのを引き止めようとする。

 あの紋章が輝く、勇者の紋章が、光って、あの青い瞳が俺に向かって微笑む。俺の喉は勝手に言葉を紡ぎ始める。何が起こっているのかわからなくなり、もがき暴れる俺を誰かが押さえつける。こんなふうに無理やり押さえつけられたことがあったような気がする。

 箱庭育ちの俺が、そんな経験をしたはずがないのに!

 

「イレブン、イレブン、お前はいつも他人のことばかり」

 

 俺の中の俺が言う。

 

「エゴなんかじゃない、お前はいつも、他人のことばかり、俺が死んでも、気にするんじゃない、お前は自分の幸せを」

 

 喉が詰まる。何回目かの「俺」の言葉は、「俺」自身が死ぬことによって中断されたらしい。

 

「過ぎ去りし時へ、俺も連れていってくれ!」

 

 目の前が黒に染まっていく。俺は、そうだ、俺は! 十一回目の、勇者の時渡り。勇者の亡骸を使って時のオーブを壊した大罪を犯し、そしてすべてを狂わせた。

 イレブンは生まれた直後に飛ばされて、元凶の俺は何も知らずに雪に埋もれていた。

 ひび割れていく、幻想の世界が。勇者の紋章はイレブンの手にあったが、嘆きの叫びは届いていた。夜だというのに空が明るい。窓から外を見ると、空には勇者の紋章が浮かび上がっていた。

 紋章はかつてよりも霞み、ひび割れ、それでもなんとかその形を保っていた。

 

 俺はふっと悟った。恐らく、イレブンの中の勇者の力は、想いの力ではなく、大樹に愛された子という意味の勇者の力は、回数を重ねる毎にすり減って、もう限界なのだと。

 だからこそ、もう失敗できないイレブンは、俺たちを外から隔離し、一人で挑もうとしているのではないかと。

 俺は目を開けた。俺を抑えていたグレイグの顔に髭がないことがおかしくて、小さくなっていないベロニカが見慣れなくて、俺の手ではなくイレブンの手に盗賊の手袋があることがおかしくて、俺は、悲しくて、イレブンを一人にしてしまった余りにも長い時間が悲しくて。

 涙が伝う。今度は静かに、涙は器から零れるように、流れる。イレブンを想って。

 

 幼い俺の頭を撫でる、イレブンの手があんなにあたたかかったのが、イレブンを置いて死んでしまった俺を赦してしまったように思えて、そしてイレブンの目がまだ諦めていないのことが、もはや、戦うことを止められなかったことが悲しくて。

 俺は相棒だったのに。勇者の、いや、イレブンの。隣に立てず、庇護されるだけの、子どもになって、平和の中で甘えた子どもになった。イレブンはずっと十六歳のまま、足踏みしているのに。

 

「なぁじいさん。俺がグロッタの南にキラキラしたものが見えたって、言わなければこうならなかったのか? ベロニカの代わりに俺が死んだ時、俺がイレブンに言葉をすべて伝えられていれば、イレブンは、孤独にならずに済んだのか? なぁ、あの時、イレブンを無理やりにでも止めることが出来たらこうはならなかったのか?」

 

 じいさんは首を振った。じいさん自身も四周目でイレブンを庇って死んだ。

 順繰りに俺たちは失敗し続けた。勇者が、ではなく。俺たちが失敗し続けたのだ。もう、止めなければならない。すべての終止符を打たなければならない。

 

 記憶がだんだん、帰ってくる。この期に及んで勇者の奇跡は俺たちを見捨てない。

 紋章から降り注ぐ光が俺たちにかつての力を取り戻させた。

 

 イレブン。今度は、終止符を打とう。

 

 宿敵は空にいる。




2021/2/1 改稿
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