「うぅん……」
「おはよう、イレブン。よく眠れたか?」
カミュの柔らかい声がする。僕はもぞもぞと布団の中で身じろぎする。起こしに来たのがベロニカだったら既に布団を引っペがされているのに、カミュはなんとなく僕に甘い。どうしても起きなきゃいけない時はザメハしてくれるくらい。
あ、いや、別に、マルティナだってきっと同じくらい甘いけれど、年上のお姉さんに甘やかされることがどうにも気恥ずかしくって、カミュほど素直に甘えることは出来ない。さしずめ、カミュは僕の相棒であり、そして兄のような存在なんだ。
「おはよう……久しぶりによく寝た気がする……」
「そりゃ良かった」
ぽんぽんと布団が叩かれる。ゆっくり起きろよ、という意味だ。僕はまだ重いまぶたをなんとか持ち上げた。視界は眠くて眠くて仕方がないからか、少し霞んでいる。
青いひとが、こっちを見て笑っているような気がする。ええっと、何かがおかしいような。……カミュって、そんな色の服だっけ? いつものカーキ色のパーカーじゃないし、盗賊王の衣装でも、海賊王の衣装でもないし。見たことないけどそれ私服? じゃあ今日は休みにしたんだっけ?
それに、ここはどこ?
寝ぼけた僕を見てカミュは起こすのを諦めたのか立ち上がった。まばたきすると、ゆっくり視界がはっきりしてくる。まるで普通の街の人のような格好のカミュは部屋から出ていこうとして、動作を止めると、ちょっと振り返った。
「疲れているだろ、まだ休んでいてもいいんだぜ。そんで起きたら俺たちとゆっくり話をしようぜ。話すことは山ほどある。なぁ、イレブン」
「話すこと……」
頭の中のモヤが晴れない。これさえすっきりしたら分かる気がするのに。寝ぼけた僕の顔が相当間抜けだったのか、カミュはおかしそうに笑う。なのになんとなく、悲しそうに、笑ったような気もする。
「じゃ、待っているぜ」
カミュが出ていって、扉がパタンと音を立てた。
僕はゆっくりと体を起こすと、何も無い部屋をぼんやりと見つめていた。なにかおかしなことはないか点検しながら。
魔王の剣はちゃんとある。一度粉々になった剣は、もしものためにあの時欠片を集めておいたからこれは僕が打ち直した特別製で、これなら何度遡ってもホメロスの闇の力で阻まれることは無いし、負荷に負けて砕け散ることもない。
それにしてもこの部屋のタンスは大きいな。僕たちの荷物が全部入るんじゃないかな。
だんだん、寝ぼけた頭もはっきりしてきて、何か酷い忘れ方をしているような気がしてきた。とはいえ、僕は何度も何度も十六歳を繰り返している。外見の年齢が時間に固定されていなければ、随分外見に違いが生まれて、みんなに不審がられてしまうくらいに。
どれが、いつ、話したことなのか。僕にはもうわからない。記憶なんていつも混濁している。気を付けているのは、決して僕が時間をさかのぼってきた存在であることを言わないこと。絶対に誰かの既視感を掘り下げないこと。下手に刺激してあの凄惨な記憶、それも場合によっては自分の死すら思い出すようなことになったら、いけないから。
さて。今はいつだ? ここはどこなんだ? ここ、宿屋じゃないよね?
「昨日、何したっけ……」
すごく眠い。眠気が尋常じゃない。僕は諦めて布団にもう一度潜った。重くなっていく瞼をそのままに、ゆっくり考える。カミュがあんなふうにゆっくり落ち着いていられるってことは、今は多分、魔導士ウルノーガを倒した後。いつものように邪神を倒す目処が経っていて、ちょっと休もう! みたいな、そういう僕の中での数少ない小休止。
……本当に?
僕の中の僕が囁く。そんなに呑気にしている場合なの? 小休止? そんなふうにいつまで経っても呑気だから仲間を死なせてしまうんじゃないの? 今も時間を惜しんで少しでも稽古を重ねて強くなるとか、生存に向いた装備を考えるとか、した方がいいんじゃないの?
それもそうか。自問自答にしては尤もだ。目をつぶったまま僕は起き上がる。目が覚めるようにぐいっと伸びをする。
するとなんだか僕は両手に違和感があった。
手を見る。そこにはなぜかカミュの手袋がはめてあった。カミュに手袋を貰ったのは、二周目だからかなり前。でもそれは仕舞いこんでいた。だって同じ手袋が二つもあるのはおかしい。なのにこれをはめるようになったのは? 最近じゃないの?
何でしているんだっけ。カミュに不審がられるのは分かっているんだから、付けないようにしていたのに。どうせすぐウルノーガは倒せるから、正体を隠すために紋章を隠す意味は無い、のに……?
紋章を隠す意味?
紋章を、隠す意味!
あぁ思い出した、隠しているのは僕が勇者じゃなくて、「救世主」だからだ!
そしてカミュは僕をなんて呼んだ? 救世主ではなく、名前を呼ばなかった? 僕が寝ぼけていただけ? いいや、確かだ、イレブンって、あの声で、昔のように!
カミュは僕の手によって箱庭に閉じ込められて、味わってきたすべてのことを目隠しされた。だからカミュは海賊のところにいたことがないし、盗賊じゃないし、だからこの手袋を持ってないし、僕の名前も知らないはず!
なぜ? どうして?
僕は扉に体当たりするように家から出た。素足のまま、寝起きのぐちゃぐちゃの頭のまま、テオじいちゃんのコートに皺を寄せたまま、走る。カミュの家に向かう。足の裏に直接触れる草がチクチクする。でもここには足を切るようなとがった石すらない。そんな、危険さえないところなんだ。だから僕は構わず走る、走る!
ノックも忘れて、僕は扉を蹴破った。中には、僕が来ることを分かっていたらしく、かつての仲間たちが勢揃いしていた。彼らは僕のめちゃくちゃな格好に目を丸くして。
カミュは今の僕にはよく見慣れているけれど、らしくないごく普通の格好のままにやりと笑う。あぁ憎らしいほど不敵な笑み。盗賊カミュがお宝を見つけた時の顔。
僕たちが、面白おかしく、魔王に指名手配されていた頃のようだ。ベロニカたちとサマディーへ向かったあの頃、そして何も知らずにラムダへ向かって命の大樹を目指し、未来を明るく思い描いていたあの頃! 僕は何も知らなくて、カミュの贖罪の理由も勇者の使命も、何もわかりやしなかった。
あぁ、呑気なかつての僕の手を、引いてくれる人。僕の相棒、僕の運命、どうか笑いかけないで。
「ようイレブン、よく眠れたか? その様子だと、」
「いつからなの! ねぇ、いつから、君たちは思い出してしまったの!」
遮って、叫ぶ。この場所は僕のエゴ。君たちは自由なはずだったのに、僕のエゴだけを理由にして閉じ込められた。なのに、前のようにあたたかい表情を、こうやって向けられるなんて、絶対におかしい。僕は、恨まれるようなことをしたはずなのに、どうして!
セーニャが、自分と同じ背丈のベロニカと一緒に微笑んだ。シルビアはウインクする。マルティナは慈愛を込めて微笑んだ。ロウじいちゃんは、僕の形相をものともせずにこちらに歩いてきて、小さい子どもをなだめるように背中をぽん、と叩いた。
あたたかかった。
グレイグが椅子を持ってきて、今にも暴れだしそうな僕を座らせた。なんとなく視線を感じて顔を上げると、マヤちゃんとホメロスが物陰からこっちを見ていた。マヤちゃんは僕のめちゃくちゃな格好を見て信じられない様子でぽかんとしていて、ホメロスは視線に気づくと僕からそっと目をそらした。
僕は悟る。少なくともここにいるみんなには何周目のものかは分からないけれど、記憶があると。どうして? どうやって? 何もわからない。今まではそんなこと、一度もなかったのに!
だけど、今の記憶もちゃんとあるらしい。そして今の経験の方が確からしい。と、僕は願う。だからホメロスは「気まずい」顔をしたんだって。
僕は、ここに連れてくる人を執拗に選んでいた。つまり、いわゆる「悪人」は救わなかった。僕が救いたいと思った人しか選ばなかった。僕にその人を本当に改心させて、変えられると自惚れることはできなかったから。
ホメロスはどう見積もっても、僕らにとっては「悪人」だったろう。世界から見ても闇に堕ちた存在だったろう。でもグレイグにとってはそうじゃない。そして僕が遡ったのは幸いにもホメロスが闇に魅入られる前だった。
僕はもう何ひとつ、後悔の種を作りたくなかった。
だから、勇者の紋章を使ってホメロスには強烈なマヌーサに似た幻覚を見せた。命を懸けて僕らを守り、六周目で命を落としたグレイグに報いるために。
あぁ、それはベロニカの幻覚を見せたホメロスにだって詰られても仕方ないようなものを見せたんだ。彼が決して、穏やかに暮らすこと以外のことを考えないような、僕が見てきた滅びを混ぜこぜにしたような……最悪なものを。
僕はそこから救った救世主となりおおせて、まだ若かったホメロスが悪夢から覚めれば、ここはなんの危険もない箱庭なのだ。僕は手を差し伸べて、まだ若い彼はもちろん、危険から解放された安堵で何も知らずに手を取る。
当然、彼は安心する。すべては悪い夢だったのだと思うかもしれないけれど、ここにいることが、普通に連れてくるよりも貴重なことに思えるように僕が仕組んだことに気づかずに。目の前には、その醜悪な悪夢によって無事だったかもわからない親友が、五体満足でいる。
魔に堕ちゆく城から救い出された唯一の同胞で、親友で、自分のことを心底心配してくれる相手がいる。僕がグレイグを連れてこれば、感動の再会だ。二人の仲を強固なものにして、二人の棘を切り落とせば、かつての二人ではもうないかもしれないけど、二人は死なず別れずそばに居るだろうと思ったんだ。
マルティナはわざと、ホメロスが落ち着くまで近づけさせなかった。でも、マルティナはここに来て、ここで育ったものだから、二人になんら強いることは無い。
僕は知りうるかぎりの手段を使って、ホメロスという人格をめちゃくちゃにして、無理やりこちら側に留めさせた。
ホメロスは、ウルノーガの操る君主もなく、競い合うことのない平穏なところで親友とともにいれば、本当にただの青年だった。頭が良くて、ちょっと皮肉屋な人であるだけだった。それは彼本来のものなのだろうか。もう分からない。僕はそもそも彼の人となりを人伝にしか知らないから。
僕の知っているホメロスは、きっとかつてのグレイグの親友とは別人なのだろう。
僕はみんなの元の生活と、個性を奪い尽くして、危険な目に遭わないように生かした。生かしただけだ。
あぁ、かつての世界で辛かったこともあったろう。悲しみだってあったろう。やるせないことも、後悔も。それらからすべて守ったように見える僕は救世主に見えるだろう。でも違う、僕は同時に、かつて存在した幸せを奪い尽くし、平坦な何も無い平穏にすり替えただけなのだ。
そしてこれはホメロスだけに言えることじゃない。こんな感じに僕は、連れてきた人の際立ったところを削り取って、箱庭の穏やかな住人に仕立てあげた。みんなだって、別人みたいなものなんだ。
だからマルティナは武術を欠片も知らないし、ベロニカもセーニャも、僕と出会った頃くらいの魔法の技量しかない。下手に戦える技量があったら巻き込んでしまう可能性があるから、僕は、平和を与えてみんなから戦う力を取り上げたようなものだ。
僕はここをできうる限り平和にしたんだ。魔物は元々いないけど、他に何に尽力したかって、連れてくる人を選びに選んだんだ。ここでいさかいが起きないように。何周もした世界で見てきたんだ、本当に心が澄んだ人はどんな場所でも諍いを起こさないと。だから僕はエゴの塊なんだよ。
他のみんなはどうであれ、どう考えたって苦難の連続だった人生を、僕に会えたからこれで良かったんだと告げたカミュのその人生を、ただのまっ平らなものに変えたことは後悔していないのだから、僕はきっと善なる者であるはずがない。
僕は、僕の一番の罪は、相棒の手だけはどうしても離せなかったことだろう。何かしらのトリガーを引いてしまう危険性を理解していてもカミュには干渉してしまった。きっと、幼い頃からカミュは僕に干渉されて鬱陶しかったろうけど、僕は。
僕は知りえなかった相棒の幼少期を見て、その日々が穏やかであることを喜んだ。僕は兄妹が暴力に悩まされることなく、また寒さや空腹に苦しむことのないことが嬉しかった。慎ましい二人の生活にあったはずの確かな幸せを奪い尽くしながら、喜んだんだよ。
僕はそんな中で成長した君に肯定されたかったんじゃないさ。認められたかったんじゃないさ。ただ、君の、僕をいつだって助けてくれた君だけは、幸せに過ごしているか、ずっと確認していたかった。僕を助けてくれた、道しるべの星みたいな君が穏やかであれと、願っていたから。
君は僕より小さかった。幼い時の栄養が足りてないんじゃないかって心配した。だから絶対に飢えさせなかった。君は、かつて僕を守るために庇ったね? だから、そんなことを微塵も考えないように、僕は君から力を取り上げて、僕はここで努めて強い救世主であるように心掛けた。
僕は勇者であることを隠した。ウラノスの言う、運命とは僕が勇者であると分からなければ始まらない。当然、贖罪そのものがないのだから運命も何も無いのだけど、僕は勇者ではないのだという顔をして生きていく。
絶対に、君と運命が交差しないように。カミュが死ぬことがないように。そう心の底から願っているのに、僕はカミュの手を離せない。矛盾して、おかしいのに、僕はカミュが妹と笑っているのを遠くで見守るのではなくて、近くで見ていたかった。
僕はカミュの手袋をしたままの手をきつくきつく握りしめた。みんなの記憶が戻ったのは、僕がそうやって自分に甘かったからじゃないかって。
僕が箱庭を作ったのがそもそもの間違いで、みんなと一切関わらずに一人で戦えばこうならずに済んだのではないかと。
他のみんなだって、あぁ、ベロニカとセーニャなんて、特に干渉してしまった。二人が引き離されないか不安で不安で、それを理由にして。二人が幸せに笑っているなら、僕はいくらでも戦えた。僕は、二人によく話しかけていたし、二人は僕のことを優しく受け止めてくれた。二人は僕の心配に反して穏やかに育った。間違っても、勇者を守るために命を犠牲にするような魔法を覚えない環境で。
ラムダで育っていないのだから、あの頃の二人ではないのだろう。僕がみんなをめちゃくちゃにしてしまったから。でも、僕はその時たしかに心おだやかだった。まだ頑張ろうって思えた。
あぁ、でも失敗したんだ。僕は救世主になりえない。勇者としてさえ、失敗してきたのだから。僕は不完全だ。
「……大丈夫か、イレブン」
「大丈夫なもんか……」
「なぁ、もう、分かったんじゃないのか。俺たちは欠片もお前を恨んじゃいないし、むしろ感謝してる。思い出してしまったんじゃない。そう願って、思い出したんだ。記憶を取り戻せたのは俺たちだけの力じゃないが、それでもきっかけは自分たちで望んだことだ」
カミュ。君は優しい。他のみんなだって優しい。ここに僕が連れてきた人間はみんな温かい人たちばかり。僕はきっと誰にも糾弾されない。
あぁ君なら望むだろう。君たちなら、思い出すことを望むだろう! 僕を気にかけてくれる優しい人たち! 勇者ではなく僕を見てくれる人たち! 僕の代わりに戻りたいと言った人たち!
そうして、また僕は誰かを失ってしまうの? もう失うのは嫌なのに!
僕は、もう、たくさんなんだ。誰かが死んでしまうことが、誰かが大切な人を失って悲しむことが。僕のせいじゃないと言われながら、その実、僕が不甲斐なかったということでしかない。僕がもっともっと強ければ! それなら!
君の手を離せたならば、僕は、失わずに済むのだろうか?
「イレブン、あなたがくれた穏やかな時間、私たちは大好きだったのよ。お願い、後悔しないで」
「そんなの、僕がここしか知らせなかったからだよ」
「違う。私はすべて思い出しても、こんなに穏やかに過ごした時間は一度もなかった。
ロウさまと貴方を探した十六年が不幸だったわけじゃないけれど、ここで過ごした時間も同じようにかけがえのないものだったの。貴方は私たちのことを本当に愛してくれた。そうじゃなきゃ、こんなことできないわ」
「マルティナ、それはね、最初の四人だからそれが言えるんだよ」
僕は許されてはならない。真実を言わなきゃフェアじゃない。
僕は、僕は、救世主あらざる自分の姿についてちゃんと言わなきゃならない。
僕は救世主ではなく、また、勇者らしくもなくこの過去で罪を重ねたのだから。
「僕はね、目の前でお母様が亡くなったその瞬間、この時代に来たんだ。そして生き延びたおじい様とマルティナを探して、見つけた。赤ん坊の『イレブン』の存在を塗りつぶしたくせに救世主面をしてね。そのあと急いでクレイモラン地方に行ってカミュとマヤちゃんを探した。二人も見つけて、連れてきた。ここまではみんなが知っている通りだよ」
「……ここまでってお前、世界の崩壊と時系列が合わないと思ったら」
この世界は崩壊しちゃいない。だからほとんどあれらの悲劇は起きていない。でも、これから邪神が何をするかわからない。そんな不確定なことで僕はみんなの日常を奪い去った。
「そうさカミュ、僕が真の意味で救世主だったのは……ほかにホムラの四人だけ。でもそれも、僕が悲劇の前に火竜を倒したから連れてきたのはただのエゴさ。ヤヤクを連れてこなかった意味、わかるだろう?
ここに他者を切り捨てるような統率者はいらない。身分の差も、僕が『管理』する上では不要だったから。ここでは綺麗事がまかり通るのだから。
僕は、みんなに嘘と幻を見せてきた。特にソルティコの三人は危機的な目に遭うことはないから、魔物に侵略されたダーハルーネと幻覚を混ぜなきゃならなかったね」
僕は紋章を隠した手をさらにきつく握りしめた。僕のこと、失望してくれたらいい。そうしてみんなが僕の前から去って、生き残ってくれるならどれだけいいか。
皮肉なことに長いこと勇者の力を使っている内にちょっと変わったことまで出来た。マヌーサは使えないけど、似たようなことならできる。特に無抵抗な相手ならね。
あぁでも、最近はちょっと、調子が悪い。前ほど力がないというか、なんていうか、限界だ。僕自身は別段異常もなく平気だけど、勇者としてはもう。もう幻覚を見せるほどの余力はない。ニズゼルファの闇の結界を破る力が必要だから。
ダーハルーネの真実を言っても、シルビアの、前と変わらぬ優しい笑顔は、僕の言葉でもちっとも歪まず、変わらず、むしろ彼女は僕の頭を優しく撫でた。
僕は泣きそうになった。シルビアに嫌われることは、できそうにない。シルビア。優しいあなたに、戦わないで人々を笑顔にする道を選んでもらうことが出来るなら、僕はその分戦えるのに。
「焼かれたことのないイシの村を焼いたように見せかけた。デルカダールがウルノーガの魔の手に落ちていたのは本当だけど、僕は二人を連れて帰ってすぐにウルノーガを倒したから、本当はマルティナもふたりも帰れたんだ。僕は、ラムダに何一つ問題がないのに崩壊の悪夢を見せたし、ドゥルダの人たちには勇者であることを隠し通せる気がしなかったから連れてくることをあきらめた。それから……」
「イレブン様、もう、いいのです」
「セーニャ、僕は君たちの故郷を奪ったようなものじゃないか」
「そうやって嫌われようとしたって無駄なのよ。里ごと連れてきておいて故郷を奪ったなんてよく言うわね。それに私たちにも記憶がある。どんな手段を使っても死なせたくないということも理解できる。自分を責めないで」
「……ベロニカ」
どうして許そうとするの。赦してはいけないはずじゃないか。
僕のやってきたことは、君たちの全部を否定することだ。
「僕は失敗してきたんだよ?」
「それは同時に俺たちの失敗だ」
そんなはずあるか、カミュ!
「そんなことない!」
「ならばイレブン、失敗は死ぬ事なのか?」
黙りだったグレイグが、口を開いた。その目は静かで、僕は口をつぐんだ。そんなわけない。ベロニカの死が、ベロニカの失敗なものか。グレイグの死が、グレイグの失敗なものか!
「前回、俺たちはお前を死なせてしまった。勇者の盾としての使命を全うできずに、死なせてしまった。俺は酷く悔いた。世界に平和は訪れたが、俺たちには平和とは欠片も思えなかったものだ。そして俺たちは……」
「グレイグ、続きはあなたが言うことじゃないわ」
「……はい、姫様。出すぎたことを」
グレイグが口を噤んでさがる。マルティナはシルビアと入れ替わるように僕の前に立ち、屈んで目線を合わせた。
「そしてこれは私が言うことでもないの。イレブン、このあとまだ時間がある。だから聞きなさい、贖罪と懺悔を。そしてそれは、私たちのものでもある。
あなたを一人で苦しませてしまった。今まであなたの優しさに甘えてなにも知らずに過ごしてしまった。あなたはそれでいいと思うかもしれないけれど、どうか自分をそんなに軽視しないで。私たちは、あなたが大切なの。あなたは私の大切な仲間よ。そして私の可愛い弟なのよ、ずっと」
マルティナは僕を抱きしめた。その温かな体温は僕の冷えきった体を温めて、少し、体の力を抜いていく。
ここで育った小さな少女はとっくに大人になり、かつてのマルティナと同じように美しい人になった。そして、その心も変わらないんだ。
僕は、僕は、マルティナの腕の中でようやく独りじゃないって理解出来て、泣きたくなった。でも僕は勇者なのだから、一欠片の涙すら零すことなく、安心を享受していた。
何一つ、何一つ、解決したことはないのに赦されて。
僕はかつての仲間たちの記憶が戻ったことが怖かったのに、それ以上に安心して。
また失ってしまうんじゃないかと心の奥底で怯えながらも、もう震えは止まっていた。
「ねぇ……」
でも、まだ、怖かった。だからひどく小さな声しか出なかった。
「僕、僕、間違えたんだ。きっと、もっと、いい方法があった。でも、みんなをここに閉じ込めたこと、ちっとも後悔してない。それを、」
「俺が許す。誰が何を言ったって、俺は許す」
カミュが遮った。青い目はまっすぐで、僕はやっぱり泣きたくなった。僕はならいいか、と楽観的に思う。
君が許してくれるなら、もういいや、と。
「良いところだけかっさらわないでよ! あたしだって許すわよ。許すも何も怒ってないんだから!」
「そうですわ。ここで過ごした日々は、確かにかつて、私は望んだのですわ」
ベロニカが笑う。セーニャが微笑む。そのセーニャの微笑みは髪を切った悲壮な決意と対になるように穏やかで、優しかった。
そうか。僕は、セーニャの望みを叶えることが出来たのか。ベロニカと過ごす、穏やかな日々を。
僕はくしゃくしゃに歪んだ顔を、なんとか真顔に戻すことが出来た。
「一つ、いいだろうか」
「いいよ、なんでも」
ホメロス。君に肯定が貰えると思っていないけれど。僕はなんだって受け止めようと思う。罵倒だろうか、非難だろうか。それとも、良く見積もって、そうせざるを得なかったという理解だろうか。
「なぜ、私を助けたんだ?」
「何故って、聞いたらきっと幻滅するけれど」
「構わない」
「僕はね、グレイグとあなたの幼少期を見たんだ。命の大樹の根を通じて。グレイグの為だからって、完全な悪を僕は救おうとは思えない。でもあなた、違ったでしょう。僕の遡った地点では、まだ魅入られる前で間に合った。間に合わなかったら連れてこなかった。それだけ」
「本当に?」
「何故疑うの。あなたは、別に……世界を滅ぼしたかったわけじゃなかったじゃないか。記憶があるあなたなら、グレイグがずっとホメロスを追い、ホメロスがグレイグを追っていたことを覚えているでしょう。だから僕はここを真っ平にした。あなたたちは何者にも比べられず、ただお互いがあるだけになった。価値を比べる者はいない。弱い心につけ込む者もいない。切磋琢磨する張り合いもない。そうしたら、あなたは闇に堕ちない。堕ちなかった。それだけ」
ただ、ごめんなさい。僕はあなたを救いたかったわけじゃなかった。
次がもしあるならば、僕はその時こそあなたを救うために動くだろう。あの時、僕はあくまで救いたかったのはグレイグだった。
僕は大して知らない人にそこまで親身になれない、どこまでも普通の人間だった。今は知った。だから救うだろう。
「僕さ、勇者には向いていないと思う。そう思わない? エゴの塊だものね」
ホメロスはちょっと笑った。
「お似合いだ、エゴの救世主」
「納得してくれて何よりだよ」
僕もちょっと笑った。僕は救いたくてたまらなかった人が、救いたかった人を救ったのだ。それをエゴと言わなくてなんというのだろう。
ホメロスはもう何も言わず、僕のその人間くさいところに納得してくれた。そう思う。どこか探るような目をして、でも、もう何も言わなかったから。
「今回が終わりならいいのにね」
「必ず、終わらせよう」
諦めないカミュ、君の方が勇者みたいだ。
「そうなったらいいのにね」
僕は、未来を見据えることだけは苦手だった。みんなの未来が幸福であれ、と願うことは出来ても、そこに自分の姿を見ることは出来ないんだ。
僕はそのあと、カミュの贖罪を聞いたけれど、僕はこう思っただけだった。僕はもう、戻ることには慣れっこだったから。
「次、僕だけが死んだならば、僕を取り戻そうとしないで」
僕は心から安堵した。僕は孤独から救われた。それでもう、十分だったんだ。
疲れすぎていた。繰り返し、繰り返し、死に絶望して、失敗を責めて、僕は戻る。過去へ、過去へ、くるくると。
僕は失敗する。みんなも失敗したらしい。でも、もういい。
どうせ次は戻れない。だから僕のことは忘れてほしい。僕は疲れてしまった。僕の戦いは、どちらにしろ最後なんだ。
僕はいつものように救世主然として微笑んで、引っ張ってもらえる手に安堵して、みんなをどうやって生かそうか、そればっかり考えていた。
あぁ、宿敵は、空にいる。空の黒い太陽に生贄を捧げる時だ。もうみんなを奪わせはしない。
2021/2/1 改稿