全ての鎮守府がブラック鎮守府となった。
瀕死の重傷を負った時雨は無人島で一人何者かと思い出話をする。
一方の明石たちの鎮守府はある駆逐艦娘を発見する。
鎮守府のとある一室。
真っ白なカーテンが舞い上がり、ほのかな潮の香りを運んでくる。微かに聞こえる潮騒で時雨は目を覚ました。
「知らない天井だ」なんてそんなことは思わなかった。それよりもありえないという言葉が頭の中にあふれていた。
だってそこは…『時雨がいた鎮守府』だったからだ。
ベッドの上から部屋中を見回したが間違いなく白露型の部屋だった。読みかけの雑誌。湯気の立つコーヒー。元気よく『いっちばーん!!』と書かれた掛け軸。辞書のような厚さの宿題とノートと鉛筆。そしてそこには平仮名で『ゆうだち』と書かれていた。そういえば夕立はよく教官である足柄に宿題忘れのペナルティーを課せられていた。窓の景色を見ても間違いなく見慣れた景色だった。沖合にはローソクのように見えることからローソク岩と呼ばれている岩がある。てっぺんにある監視小屋は常に明かりが灯され灯台の役割も果たし、この鎮守府のシンボルとなっている。
「あ!起きたっぽい?」
時雨が窓を眺めているともう聞くことができないと思っていた懐かしい声が聞こえた。時雨が振り向くとそこには笑顔の夕立が立っていた。
「夕立…」
時雨は止めどなく涙があふれた。
「夕立…夕立だ…夕立がいる…!…」
時雨は夕立に抱きついた。力一杯、その感触を、体温を思い出すかのように力強く抱きしめた。
「ちょっと!痛いっぽい!時雨、どうしたの?」
「夕立…もう会えないかと思ってた…幽霊じゃないよね?」
「ひどいっぽい!ほら、ちゃんと足もあるよ!夕立、幽霊なんかじゃないっぽい!」
夕立は戯けるように片足を上げて足があることを示した。時雨はもしかしたら今までのは全部悪い夢だったのではないかと考えた。現に夕立は目の前にいるし、他のみんなの私物も散乱している。
「ちょっと、疲れちゃったな。もう少し横になってるよ。」
「じゃあ夕立とお話ししよ!」
「うん」
それから30分ほど話をした。ほぼ毎日のように顔を合わせているはずなのによくもまあ、こんなに話題が出るもんだと時雨は思った。
「提督は今どうしてる?」
「絶賛説教中っぽい」
「え?」
時雨は嫌な光景がフラッシュバックしてきた。説教といえば提督が暴行を加えていた。嘔吐するまでだ。
「誰が叱られてるの?」
時雨は恐る恐る聞いて見た。
「提督。大淀さんのお説教を受けてるっぽい。」
時雨は安堵した。安心したら笑いがこみ上げてきた。大淀さんの顔が暗く眼鏡だけが光っているのと、提督が正座をして冷や汗をかいている姿が想像できるからだ。
いつも通りの光景だと思った。
窓の外を向くと漁船が大漁旗を掲げて走っていた。深海棲艦が支配しているとは思えないような平和な風景がそこにはあった。
「ねぇ、夕立。」
「ん?なぁに?」
「ほかのみんなはどこにいるの?」
時雨は何の気なしに聞いてみた。ほんの頭の中に浮かんだ疑問を時雨ではない誰かが時雨の口を使って聞くような感じである。夕立は答えた。
「………忘れちゃったの?」
「ん?」
時雨は夕立の声のトーンが変わったのに気付いたがそれでも窓を向いて風にあたっていた。夕立は冷たく凍るような口調で答えた。
「みんな……死んじゃったよ?」
「え」
あえて文字で表現したが、時雨の声は消え入るような様々な感情が入り混じった表現しがたい声だった。時雨はゆっくりと目を見開く
「…冗談だよね?みんな死んだって」
「冗談でそんなこと言わないっぽい」
「大淀さんは提督室にいるって言ったよね?」
「大淀さんはもういないっぽい」
「…だって、今までのは全部」
「夢じゃないっぽい」
「…だって…こんなに部屋も海もきれいじゃないか!あの頃のとは全然違うじゃないか!」
「全部時雨が作り上げた幻想っぽい」
「嘘だ…嘘だ…嘘だ…嘘だ…」
「現実を見たほうがいいっぽい」
「嘘だ!!僕が今見ているのが現実だ!今僕がいる場所が世界だ!!」
「嘘じゃないっぽい」
時雨はすべての感覚を拒絶するかのように頭を抱え込んだ。あの悪夢が現実だったなんて思いたくない。考えたくもない。時雨はひときわ声を荒らげた。
「だって!!夕立がここにいるじゃん!!!」
「夕立も、死ンじゃッタっポい」
それはもう時雨の知る夕立の声ではなかった。例えるならば、ホラー映画のゾンビが話すような気味の悪い声である。
時雨は冷や汗が止まらなくなった。そして何かの匂いが臭ってきた。
(この匂い…まさか…あの時の…)
時雨は最初は何の匂いかがわからなかった。だが、記憶を遡っていきその正体に気付いた時、時雨は震えが止まらなくなった。
時雨は恐る恐る振り向いていく。脳内では「見てはいけない」「振り向いてはいけない」と危険信号が流れる。だが、体が言うことを聞かないのだ。
振り向くとそこに『夕立』はいた。
だがそこにいたのはさっきまでいた夕立ではなかった。時雨の顔が一気に青ざめていった。そこにいたのは『あの日の夕立』だったのだから。
首に残る縄の跡。うっ血した頭。顔に残る涙の跡。全身に残る青あざ。手首に残る無数の切り傷。
部屋の様子も一変した。白いカーテンは破れ、純白のシーツは切り刻まれていた。壁には恨み辛みの言葉が一面にびっしりと夕立の血で書かれていた。その文字は時間経過のため黒く変色していた。
「ドうしテ、助けテクレなかッたノ?」
「あ…あ…」
「ネぇ、どウしテ?」
夕立はゆっくりと近づいて来る。時雨は後ずさりしようとするが時雨がいるのは壁際のベッドの上なのですぐ後ずさり出来なくなる。だが、時雨はそんなことも御構い無しに足を動かし続ける。
「来るな…来るな…」
時雨の目の前にまで夕立の傷だらけの顔が迫る。
「ユルさナい…!…」
その瞬間、夕立の姿は黒い蝶の群れに変わり、部屋は気づけばどこまでも黒い部屋になっていた。
「ここは…?」
時雨は立ち上がると、足元に嫌な感触を覚えた。足元を見ると底なし沼のような場所に沈んでいっているのに気がついた。
時雨が抜け出そうともがいていると、汚れた手が沼の中から飛び出してきて時雨の体や服を掴み、引きずり込もうとする。
時雨はその手がこの鎮守府で死んだ艦娘達であることに気がついた。
タ級に胴体に風穴を開けられて即死した霧島。
リ級に首をもがれて死んだ天龍。
ヨ級に雷撃され半身を失い痙攣を起こしながら死んだ利根。
駆逐棲姫に爆雷を口に捻じ込まれ頭部を爆破された伊58。
作戦が失敗すると憲兵隊に敵に情報を流したというあらぬ疑いをかけられ『懲罰』によって死亡した五月雨。
隼鷹を含む艦隊が自分を除いて全滅し、提督に暴言を吐かれ、入渠場で手首を切り自殺した飛鷹。
加賀の処刑を強要され屋上から飛び降り自殺をした赤城。
「みんな…うわっ!…やめて!お願いだから許して!…」
手を振りほどこうとするが握力がかなり強く全くと行っていいほどできない。
『ユルさない…ゆルサなイ…ユるさナイ…』
顔の半分ぐらいまで沈んだ。必死に顔を上げてなんとか呼吸を確保している状態である。その時目の前に再び夕立が現れた。時雨は藁にもすがる思いで話しかける。
「夕立!お願いだ…から!…助け…っ!……」
口と鼻が埋もれ、話すことができなくなる。必死に上げている右手で助けを求めた。
「さヨなラっぽイ」
時雨の顔が完全に埋もれる寸前夕立は静かに呟いた。時雨は完全に埋もれた瞬間意識が途切れた。
「んっ…うん…うぁ…んん!…うわぁ!はぁ…はぁ…」
時雨は一気に飛び起きた。荒い呼吸が整うと自分が知らない部屋にいるのに気がついた。
「ここは…医務室?…どこの?」
ここは全て眩しいぐらいに真っ白で清潔にされていた。時雨は間違いなく元いた鎮守府ではないと確信していた。あの鎮守府では艦娘に治療は必要ないと倉庫にされているからだ。
コンコンッ
時雨はノックの音に気づくと、そばにあった掃除用のホウキを手に取った。さっきの悪夢のせいで異常なまでに警戒していた。
すり足でドアにゆっくりと息を殺しながら近づいていく。
「入りますよー」
ドアノブが回り、開け放たれていく。
時雨は1秒1秒がはるかに長く感じられた。
「具合はどうですか?」
「うわぁぁぁぁぁ!」
バキッ!!
「あだぁぁぁぁぁ!?」
ドアが開け放たれた瞬間、時雨は目の前の人物に一気にホウキを振り下ろした。
ホウキは相手の頭にクリーンヒットし、音を立てて折れた。
時雨は力強く閉じていた目をゆっくりと開いた。そこにはピンク色の髪でセーラー服を着た女性がタブレット端末を手に、頭にたんこぶを作り、目を回して倒れていた。
数分前
明石は廊下を歩きながら、タブレット端末を見ていた。それもかなり険しい表情で。
「どうかされたんですか?」
紫髪の女性大鯨は明石と偶然出くわし、声をかけた。
「あっ大鯨さん。実はついさっき保護された子なんですけど…」
「ああ!たしか時雨ちゃんでしたっけ?」
「はい。それでどこの子なのか調べるために艤装に内蔵されているICチップを調べたんですよ。」
「そうなんですか。それで所属はどこだったんです?」
「大湊警備府。青森ですよ。」
「かなり遠い鎮守府から来たんですね」
「ええ。遠すぎるんです。」
「え?どういうことですか?」
「おかしいんですよね。補給履歴なんかも調べたんですが、ここに来るまで一度も燃料補給をした記録がないんですよ。大湊からここまで来るのに最低必ず1回は燃料補給が必要なのに…」
大鯨は首をひねった。そしてある答えにたどり着く。
「…う〜ん…!てことは!まさか!」
「ええ、『同族』の可能性が高いです。」
「で、でも!まだ確定したわけじゃないんですよね!?」
明石は一呼吸置いて話す。
「それをこれから確認しに行くんです。あ、ここだここだ。」
コンコン
「アレ?返事がありませんね」
「まだ寝てるんじゃないですか?」
「入りますよー」
このドアを開けた瞬間、ホウキで殴られることをこの時の明石は知る由もなかったのである。