「ふむ、来たか」
射命丸文は、妖怪の山にひっそりと潜むあばら屋に呼ばれていた。いつ建てられたのかも定かではなく、外見はまさに廃墟と言っていいほどだ。それは外壁屋根すべてが苔むした佇まいがそう思わせるのだろうが、見ようによってはもはや神さびた社とでも表現できそうな状態だった。
「遠慮なしに腰かけて」
常人あらば、その顔触れが並んだだけで失神してしまう者もいるかもしれない。二人の権威と、威容と、そして神とも対等に張り合う程度の実力に。
一人は、妖怪の中でも屈指の実力を持つ天狗族を束ねる長、天魔。
一人は、すべてを手中に収める賢者にして、幻想郷の「主」、八雲紫。
異様な光景に、いつも泰然自若とした姿勢を保つ文でさえこの場でばかりは委縮している。
「さて、ここに来ていただいた理由、もう自分でわかるわね?」
「えっと、雛の件でしょうか」
「そう。射命丸文、貴女は彼女に対して意図的な救済を施した。それだけなら何も言うことはないわ。今回の問題は、その”意図的な救済”によって彼女のあるべき道を変え、幻想郷の均衡に揺らぎを発生させたことにあるの」
「場合によっては、お前を追放せざるを得なくなる。真実のみを語るがいい」
彼女の前には新聞記事が置かれた。それは紛れもない、先日刊行した「文々。新聞」から切り取られたものだ。見出しは「リボンから垣間見る、厄神の真実」。
流石に二人には何もかも見透かされているような気がして、文はこの新聞記事のことを洗いざらい話した。まとめれば、まず彼女は雛から「情報料」として奪ったリボンを赤蛮奇に買わせ、偶然転んだところを写真に収めた。この写真は別の目的で使う予定であったが、その後霊夢との戦闘を見てただ者では無いと察知した。今後、もし何かあったら……。そう思い、彼女は雛を幻想郷に留まらせることに決めたのだ。
決心した後、文は雛のリボンをつけた赤蛮奇が転び、首を地面に落とした写真を記事に貼り、「リボンにすらこれほどの厄があるのに、雛は厄をばらまくどころか自分にすら害がない」事を指摘。ここから「雛は厄を自制する高度な能力を持ち合わせているため厄神など人間に害を与える異形ではなく、むしろ今まで通り厄を受け取ってくれる幸神だ」と結論付けた。これにより雛は再度人々の信頼を取り戻しつつあったのだが--。
「何故雛を幻想郷に留まらせたのか。そして今まで通り人間たちの信頼を回復させようとしているのか。私には怪しく映るのよ。赤蛮奇とかいう娘の写真だって、咄嗟に撮れるもの? まあそれはまだ良いとして……、貴女がさっき言った雛が今後役に立つかもしれないってのはどういうことなのかしら」
思わず、目をそらしたくなる。でも、ここでそんなことをしたらそれこそ怪しい。かと言って、十八番の言い訳だって何一つ浮かびやしない。そんな状況を見てか、天魔が口を切る。
「八雲殿、確かに射命丸の行動にはいくつか不可解な点があるのもまた事実。しかし、それは日常茶飯。実力と持ち前の知恵で様々な危機を好機に変えてここまで来たこやつの思考は、未だに我でも理解できない箇所がある。となれば、思考を訝しむより彼女がここまで何も問題を起こしていないことに着眼してはいかがか」
「そうね、その知恵が”悪知恵”じゃなきゃいいんだけど」
「今回の件、差し出がましいことを言うようだが、私見としては射命丸に悪意はないかと」
ㅤそうだな、と文は念を押されるも、どうしていいのかが分からなかった。素直に頷いて良いのだろうか。
「今回は、見逃しておくわ。後にこういった紛らわしい事のないように。警告は以上」
ㅤ言葉が途切れた時には、紫は既に姿を消していた。スキマを家にでも繋いでいたのだろう。さらに考えていくと、自分がやったことはそんな怠惰な彼女をすら動かしたということになる。
「射命丸、これだけは言っておく。お前が介入した鍵山雛という存在はな、もともと生まれながらにして厄神なのだ。その昔、里の人々は彼女を恐れていたが、ある時代から逆さに祀り、無理矢理幸神として信仰した。人々はある時から彼女を厄神であることを忘れ去り、自身も自らが幸神であることを信じてやまなくなっていた。
ㅤよいか、鍵山雛は厄神だ。今も昔もしていることに変わりはない。ただ名前、認識が
◆
「山よ
雛の愛読本『万葉集』に載る歌が、いまのにとりにはとても身近に感じる。こういうことなのだろうか。時代を超え、多くの人に受け入れられるということは。分岐した世界、この幻想郷でも同書が生き残る所以はここにあるのだろう。「外の世界」で読まれなくなったという事実以外に、だ。
「これで、いいんだよね?」
それでも諦めきれない気持ちが、確固たる意志となった。彼女は木々に囲まれながら、頼りない足取りで歩を進めている。とにかく奥へ奥へと漸進したにとりは、とうとう妖怪の森の深奥部手前にたどり着いた。
その時、ちょうど疲れた体を癒すような、微風を感じた。次いで熱を放出し続けるうなじにもあたり、不快感がひと時の間和らいだ。
「やっと見つけました。こんなところで……、いえ、まあ、ご無事でよかった」
「ここまで来て、わたしにいやがらせしに来たの?」
気づいたら天狗に背後をとられていたという想定外の事実に、彼女は絶句した。しかしその次に出てきたのは、随分とトゲのある返答だ。文が急いで否定する。
「滅相もない! 私はただ、伝えに来ただけですよ。里の人々が、あなたの親友に対する考えを改めたってことをね」
「え、それって」
にとりは俄然気力を取り戻した。その脳内では射命丸文という人物も、天狗である以前に一人の情報屋ということが強調されている。だから嫌悪感も一切払拭された。
「ねえ、雛は……、そのことを、自分のことを知ってるの!?」
「わかりません。彼女の目撃情報は、あれから聞きませんからね」
「……そう。わかった。嘘じゃないんだね?」
「当然です。文屋は嘘に泣く生業ですから」
最後はにとりの表情すら見ることなく、文は「確かに伝えた」と言わんばかりの羽ばたきで飛び去った。残されたにとりは、今まで黒い靄がかかっていた目の前が急に開けた気がして、目をこすった。今度はみるみるうちに気力と涙が湧いてくる。
「これで、いいってことだよね、きっと」
気味の悪い森に、これ以上用はない。様々な要因から、にとりは勇み足で帰路を踏破していく。今まで自分を制してきた苦痛、こなしてきた難業すべてが報われた。まだ、体が適応できていない。笑っているのか、泣いているのか、自分で自分の表情もわからない。感情も、喜怒哀楽に分類できない複雑さをはらんでいた。
全てが雑多でもどかしい。でも、それがどうした。にとりの闘いは、これで終わりだ。
あとは雛を、待つだけ。
「待ってるよ、いつもの場所で。雛」
最後に勢いよく息を吸うと、水中を泳ぐような軽快さで森を駆ける。背後には落ち葉が舞い上がる。木々の間からこぼれる日がまぶしくもいとおしい。
その瞳に映るは――過去か。
明日か。