「傷つけたくはない」
この言葉は、決して非暴力的なものではない。だが、根本にはやはり平和主義的思想がよこたわる。それも間違いない。つまるところ、雛の心理状況は複雑怪奇。彼女は単純な妖怪ではない。それに、これから消えることになるのは「存在自体」ではない。「存在意義」なのだ。彼女が頑なに自分を「幸神」であるとして人々の意に従わなければ、延長線上にはいずれ消えゆく運命が大口を開けている。だから決して、この闘いを無視できない。
だから。
しばらく続いている雛の攻撃は、未だにやまない。ここで攻め手に回っても何の得も得られないと感じた霊夢は、ひたすら防御に徹する。その身に脅威はまるでなかった。
すると雛の回転が止まる。霊夢は反撃を目論むが、瞬時に体が動かない。目前を矢が過ぎ去るほどの束の間、四肢が頭の指令を無視していた。
霊夢は、懐に敵の侵入を許してしまっていた。一打目、じんわりとした感覚に怯むが、同じ攻撃を再度受けることはない。体のひねりと霊力の誘導により、雛の厄をまとった腕をいなす。すかさず左拳で殴打しようとするが、まるで手ごたえが無い。里の人達は驚きを隠しきれないようだが、やがて霊夢が幣で雛の猛攻を終わらせたことで安堵した。
「予想以上、スペルカードを使うか迷うわね……」
まだ彼女には小言を言う余裕がある。雛にはそれがない。執念が燃え続けている限り、彼女はもはや自分自身を忘れているようだった。
「くっ! あたれ!」
半面、その攻撃はまさに生まれてから今日までに形成された鍵山雛という人格、自分自身そのものだった。精神の憑依した攻撃は、強い凶気をもって霊夢を取り囲む。
「こんな、効かないわ……、よ!」
霊夢は自分の足元に厚い結界を敷き、それを幣で爆散させることで厄を相殺した。次に霊夢の目に映し出された雛の姿は、しかし先ほどよりも大規模な攻撃を企てている様だった。
思えば先ほども、自分はこのような罠にかかっていた。霊夢は自責の念を抱きながら、先ほどの要領で攻撃を相殺させるか、結界を張り凌ぐかの判断を瞬時に下す。彼女は二重に結界を張った。
そして、雛の身体が揺れる。厄が、体の輪郭をぼやかす。彼女の周りには、黒い渦が大きくうねっている。それに呼応して大気が歪み、圧が伝わってくる。これが雛の人格。幻想郷でも最高峰の実力を誇る巫女にぶつけても、恥じることがない力。霊夢を取り囲む厄が、矢継ぎ早に襲い掛かる。重い衝撃が身を揺るがし、結界が砕け散ったことを知る。鈍い痛みが腕に感じられた。まずい、とっさの判断で霊夢はスペルカードの発動体制に入った。相手の姿を見ずとも、これまでの経験からわかる。この場の空気を支配するのは相手の気。相手の色に染まったら、その戦況を打開しない限り一方的にやられてしまう。
「終符『終演の鐘』」
「させない! 黒白『陰陽破魔』!」
厄に鋭く凶悪な刃物が混ざった弾幕が、雛のラストスペルであった。全ての厄を用いたこの技は、吉凶禍福全てを超越した一撃だ。不吉な鐘の音に合わせて迫りくる弾幕。
霊夢は足遅れてスペルカードを放つ。動きの遅い雛の弾幕は、触れたものすべてから生の力を破壊する。対する霊夢の霊力は一撃必殺の要素を含んでいる。結界円から瞬く間に飛び去った光は、迫りくる厄を貫通して雛に命中。本来であれば後攻が不利になる弾幕での戦闘も、今回ばかりは霊夢が有利となった。
厄は黒い霧となり、蒸散する。雛は片膝を地面につき、立っているのもやっとという状態で止まる。
「行くわ。神霊『武御雷命』」
頭上には、一つまた一つと数を重ねるごとに大きく育つ弾がある。それは雷を集めた雷撃の塊というよりかは、雷そのものだ。
あの雷の弾は、こんなに離れているにとりのもとまで見える。前方では、今まさに博麗の巫女が親友だったその人物、雛にとどめを刺そうとしている。理解するやいなや、荒い息をさらに荒らげて、渾身に力を送り込む。ついに対象を捉えた。もうこの重荷を運ばなくてもいいのだ。彼女に力は雀の涙ほども残ってはいない。そのため倦怠感を利用してレバーを下げる。そして。にとりはついに、自らの発明品、霊力ジャマーを起動する。警告音とともに光が強くなる……。
彼女は確信していた。霊力ジャマーを用いれば、霊夢の力さえも一時的に無力化できるということを。
それに。
彼女は知っていた。この行動は――雛を助けるということは、雛との約束を破り去るということだということを。築いてきた信用を瓦解させるかもしれない。でも、雛ともう一度、他愛もない話がしたい。今まで通りの穏やかな暮らしに戻りたい。どうしてこうなってしまったのか。どうしてこんなにも、天は運命を湾曲させるのか。これまでの恨みや悲愴に満ちた感情、行き場のない怒りを以てして、にとりは約束を破るという決断に至った。
出会ってからこれまで一度も決めごとを破ったことはないし、何より二人の間には契約など不必要なものに過ぎなかった。
「うん、ごめんね、雛」
だからせめてもの償い。この言葉が免罪符で、起爆装置だった。
「はうっ!?」
にとりの目からは涙がとめどなくあふれている。目に入る光景は、光でできた矢、まさに矢が、霊夢を貫いた様だった。霊夢はスペルカードの後始末など気にする暇もなくその場にうずくまり、せき込む。雛の反応は見えない。また少し遠くが何やら騒がしい。観戦していた人々がどよめいている。この間にもジャマーは次のフェーズに移行していた。対象を確保した後に、霊力を吸い上げる工程だ。本当であれば、この機械は頭の奥を直接刺激するような騒音をまき散らしているはずなのに、ほとんど耳に入らない。今のにとりは聴覚を失っているに等しい状態だった。視覚も涙でぼんやりとした景色ばかりで役に立たない。
だが、今や霊力ジャマーはそんなにとりでも感じられるくらいに、目に見えて異常な状態となっていた。不快な音は一層激しくなり、眩い亀裂が所々に見受けられる。危険を肌で感じながらも、すでに彼女の足は動くことを知らない。
最後に黒煙を上げたかと思うと、にとりは全身を熱と爆風に撫で上げられていた。
雛はこの状況を、至極冷静に見届けていた。全てを地底の立ち位置で見下げ、どこまでも高い場所から見上げていた。霊夢のスペルカードで体を貫かれることになろうが、逆に霊夢が光線に貫かれようが、にとりが爆発に巻き込まれようが常に無の境地に心を置いていた。それが彼女の覚悟。最後の姿だった。
そして、雛はよろよろと立ち上がりだした霊夢と未だに地に伏したままのにとりをしり目に、森の奥深くへ揺れながら帰っていった。その間には何の言葉も挟まれなかったが、三者各々の強烈な思いを抱き続けていた。
「ありがとう」
その中で思わず漏れ出た一つの思い。この言葉は、誰のものだろうか?
――――
―――
ー
「あれほどまでに、河童族が身を
望遠鏡から目を遠ざけ、今までに取ってきたメモを見る。驚きだった。今まで文が書きためてきた幻想郷の観察集には、河童がここまで他人を思いやることはまれだった。同族でも協調性に欠けているきらいがある河童は、もとより知的好奇心を満たす以外に自己犠牲的な行動を取ることないと思われている。しかも対象は他種族だ。
「どちらが特別なのか。河城にとりか、それとも」
文はもう一度望遠鏡を目に当てた。だが、レンズを通して見えるのは大地にのびたにとりとそれを激しく揺さぶるながら怒りを露わにする霊夢だけ。人は皆逃げ去っていた。
「鍵山雛……」
代わりに二人の上空には、うっすらと黒いもやのようなものがかかっていた。