このみさん,好きです。
『止まれない……振り返らない……』
会場は凪いだ水面のように静かで,穏やかで。私の想いを受け止めてくれている。
ふと,前方にいる女の子に気が付いた。涙を流し,手にしたペンライトを宝物のように抱きしめて私を見てくれている。
私の想いは届いているかな。私の歌で夢を感じてくれているかな。
ねぇ,ココロの鍵は,見つかった?
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「このみさん,今度のライブで歌う曲はどちらがいいですか?僕としてはやっぱり新曲を歌って欲しいな~」
765プロの事務所。冷房の効いたこの部屋に差し込む日差しは嫌というほどに夏を感じさせる。営業から帰ってきたのか,熱そうに首元をパタパタと仰ぎながら涼の効いた室内で幸せそうな顔を浮かべている人物は私の担当プロデューサーだ。
小鳥さんの仕事を手伝っていた私のところにやってきたプロデューサーが,週末に行われる定期公演について相談してきた。
「もちろん新曲を歌うわよ!なんたって今回は思いっきり私の気持ちを綴ったんだから,気合入れて歌うわ」
「よかった~。あんまりはしゃいで練習してるようじゃなかったから,てっきり曲が気に入らないのかと思って不安だったんですよね」
「さすがに私もはしゃぎ回るような年じゃないわよ……」
そう。今回いただいた曲に詩を乗せたのは私だ。初めて曲を聴いたときに,どうしても自分の手で詩を乗せたくなった。私の気持ちを記した,私のような子に向けた。
いや,違う。私の気持ちを綴った私に向けた,私への曲を歌いたくなった。
自分と向き合い,自分の今の想いを思い切り込めた歌をみんなに聞いてもらいたい。プロデューサーに聞いてもらいたい。なにより,私に聞いてもらいたい。鎖に繋がれていた,私に。
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以前勤めていた会社は,なんてことのない一般的な会社だった。飛びぬけて給料が良いわけでもなく,激務でもなく。やりがいがないというわけではなかったんだろうけど,いかんせん私の仕事に対する姿勢が後ろ向きだったんだろう,平坦な毎日だった。
実家の山口に帰ってもよかったんだろうけど,どうしても諦められずに私の中で燻っていた夢を追って転職した。
ただ,それでも現実的だった私はアイドルになるわけではなく,アイドルが活躍する事務所の縁の下で活躍したいという妥協点を目指し765プロの事務員として応募した。
久しぶりの面接ということもあり多少は緊張していたが,それ以上に輝く子たちを間近で,ファンとしてでなく同じチームとして支えられる可能性に心を躍らせていた。あぁ,ついに夢の一端に触れることができるのか,と。
そして出会ったのが今のプロデューサー。面接に向かうなり私を迷子扱いしたことは今後も忘れないと思う。アイドルとして志望してきたと思ったプロデューサーは私の制止を聞かずに社長へ報告に行き,すぐにオーディションが行われた。
それからというもの,社長も私のアイドルとしての採用を受け入れてくださり,小鳥さんも喜んでくださり,最終的に私の気持ち次第ということになった。プロデューサーから名刺を受け取り,時間をいただいて結論を伝えることとなった。
正直,私は戸惑っていた。この歳でアイドルを始められるのか?親には何と説明する?歌に自信があるわけでもない,ダンスもろくにしたことがない。喜んでくれた社長や小鳥さん,アクシデントとは言え私を誘ってくれたプロデューサーを失望させてしまわないか?
なにより,私に覚悟はあるのか?
自分自身と改めて向き合わなければならなかった。
やりたいのか?やってみたい。だって私の憧れだったんだから。
諦められるのか?諦められない。だって気持ちは募る一方で,全く消えないんだから。
後悔はしないのか?きっと後悔しない。私が子供の頃に憧れたように,誰かを笑顔にできるのならこれ以上ない幸せだ。
ならば,何を悩んでいるのか。簡単だ。自信がなく,不安でいっぱいなんだ。
身長の低い自分に。安定を選んで夢を追わなかった自分に。今までずっと自分を騙し,ごまかしていた自分自身に。
足りないものは私の覚悟。一歩踏み出し歩きだす勇気さえあれば。
こんなチャンスはもうない。これを逃すとまた前のように,今までのように何も変わらない。ごまかしていた自分と歩んでいくことになる。不安は消えず,絶えず言い訳を探してしまいそうになっている自分に気づき,また自己嫌悪に陥りそうになる。でも一方でこのままではダメだ,チャンスを無駄にしてしまいたくないという気持ちもあった。
私は自ずとスマートフォンを手に取っていた。数コールも経たずに電話は繋がった。
「夜分に申し訳ありません。本日面接を行っていただいた馬場です」
『ご連絡ありがとうございます。本日はありがとうございました。いかがですか?ご決断はできましたか?』
「いえ,その……まだ悩んでいて……」
私は自分の感じた気持ちを正直にすべて話した。
『……なるほど。お気持ちはわかりました。あ,いえ,わかったというか,馬場さんがどう感じてらっしゃるのか理解できました。そのうえで,僕の考えをお伝えしてもいいですか?』
大丈夫です。お聞きしてもよろしいでしょうか?とプロデューサーを促す。
『確かに,馬場さんが以前されていたお仕事のように安定した生活に比べるとこの業界は波のあるものだと思います。でも,僕としてはそんな業界だからこそ一緒に波を超えていきたいと感じています。馬場さんのお気持ちを一人で抱えたまま頑張れなんてことは,決して言いません。むしろ逆です。僕は馬場さんと共に乗り越えたいです。馬場さんが苦悩されながらもこうして僕に相談してくださってる,このお電話を馬場さんの生まれ変わる第一歩にしましょう。人が変わることはとても難しいことを馬場さんもよくご存じかと思います。僕だってそうでした』
プロデューサーは自分の気持ちを交えながら話す。
『最初に社長からこのお仕事を任されたときは絶対にできないと思いました。担当のアイドルの方と僕と,小鳥さんや社長みんなとチームとなってトップアイドルを目指すなんて,人付き合いが上手くない僕にはとても無理だと。それでもなんとか今こうして,馬場さんに自分のことをお伝えし,馬場さんと一緒に歩んでいきたいと言えるようになりました。それは社長や小鳥さんが,なによりもアイドルたちが支えてくれたからです』
決して一人で変われたわけじゃない,みんなのおかげでしたと彼は続ける。
『だから,もし馬場さんが勇気を出せないことで一歩踏み出せず,そんな自分に悩んでいて困っているのなら。苦しんでいるのなら,僕と一緒に痛みを分けながら少しずつでも進みませんか。ステージからの景色は広いですよ。コンサートライトの作る光の海は他の仕事じゃ味わえません。馬場さんの夢のお手伝いをさせてください』
安堵,という気持ちが一番大きく感じられた。こんな風に寄り添ってくれるプロデューサーが隣にいるのなら前を向いて進めそうな気がしてくる。やってみようかな,そう思えた。
「……。私,お酒好きだけど大丈夫?」
『大丈夫ですよ~!ライブの後は絶対に打ち上げをするようにしましょう!』
最後のチャンス,これで変われなかったら私はずっとこのまま。でもそうはならない。ならないよう,努力するんだ。プロデューサーに支えてもらいながら,私は今までの自分に別れを告げよう。
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目の前に広がる一面の桃色の海を見て,当時の感情が歌に宿る。
なんだか遠い昔のように感じる。それだけ充実した日々を過ごしていたのかもしれない。
あれから始まったレッスンの日々,他の子たちとの出会いと競争の日々,すべてが鮮やかに蘇る。もちろん,大変な時期もあったし悩んだこともあったけど,それでも諦めずにここまでこれた。
あぁ,本当に。本当に,勇気を出してよかった。プロデューサーの言った通りに,この景色は他では見られない。私だけの景色だ。こんなにもココロが満たされている。
夢を見て憧れて,それでもよかったのかもしれない。生きていけたと思う。
だけど,この充足感は絶対に得られない。覚悟を決めたからこそ,見られたものだ。
プロデューサー,ありがとう。まだまだトップアイドルにはなれないけど,いつか必ずなるから。あなたの夢のお手伝いをさせてほしい。
それから,あの時の私にもありがとう。決心してくれたおかげで今の私がいます。勇気を持ってくれて,ありがとう。私の軌跡を大事に進んで行きます。一歩一歩踏みしめて止まらず,振り返らず,前を向いて。
静かに,優しくイントロが流れ始める。私の大好きな,私の歌。
さぁ,この気持ちをみんなにも伝えよう。
私のありったけの想いを込めた,『水中キャンディ』を。