「――あ゛ッ、だいッ!!」
熱い。痛い。右手の甲が焼けている。柄を握る力が抜けそうになる。
最後の一歩を踏み出す直前、魔術師が左手を動かした事に反応したアイシャは、咄嗟に前に剣を掲げながら真横へと跳んだ。
悪寒と同時に炸裂した炎の一部は剣の腹が遮り、その猶予によって奔流に呑み込まれる前に体を逃す事が出来た。
しかし無傷では無い。炎の端を受けた右手の表面は焼かれ、跳んだ体は熱気に押されて宙空でバランスを崩し、傾いていく。
地面に激突するより先に、体を左に捻って姿勢を取る。打ち落とされて地に触れる体の面積を最小限にし、左脇腹から倒れ込んだ。
その痛みに耐えて視線を戻せば、倒れたこちらに魔術師が右掌の炎を向けている。
「『駆け』――」
「くッ!」
させない。受身にも使わず徒手のままの左手は既にベルトに伸びている。
アイシャは最後の投げナイフをろくに狙いも勢いもつけず、ただ魔術の邪魔をする為だけに投擲した。
「ッ、『薙げ』!」
三度飛来する投げナイフの刃を見た魔術師は、咄嗟に術を組み替えて炎の鞭を作り出す。
投剣には一度目や二度目ほどの速度は無く、狙いも正確ではなかった為、少しその場から動くだけで避ける事が出来ただろう。だが二度頭部を真っ直ぐに狙われたという事実が、その刃の脅威を誤認させてしまった。
炎の鞭が空の塵を焦がす音と共に一閃される。狙いも力も伴わないただの投げナイフは、横腹を叩かれてあらぬ彼方へと弾き飛ばされていった。
「……無駄な足掻きを」
魔術師が炎を振り終えた時、視界にアイシャの姿は無くなっていた。魔術を使った隙に、再び近場から離れて物陰のどこかへと隠れたのだろう。
まるで鼠だ。たった一瞬目を離した隙に、地を駆け回って影に消えていく。
だが、横をすり抜けて通路へ逃げたという訳では無い。どの物陰に隠れようと、この炎の眼がある以上こちらはただ待ち続けるだけでいい。
相手は魔術師では無く、こちらの術に対して明確に対抗出来る手段は持ち合わせていない。剣を持って無謀な突進を仕掛けた事が、その証左になっている。
「早く諦めろ。鼠が人に勝てる道理は無い」
どこに隠れているとも知れない女へ最後通告をし、魔術師は一度火を消し、再び火を灯し直す。
アイシャはその不遜な宣告を耳にはしていたが、右手の痛みに耐えて呼吸を漏らさずにいるので精一杯だった。
(ぐ、ぬ、う゛……!いだい、いったい……ッ!)
熱が引いた後も痛みだけが右手の甲に刻まれ、皮膚の表面は軽く焼けている。
しかし、痛いだけだ。感覚が麻痺している訳でも、動かなくなった訳でも無い。この程度なら、早い段階で手当てすれば問題にはならない。
小瓶に入れた痛み止めのポーションを右手に垂らすと――本来は呷るものだが、飲む際に吸気する事を恐れた――、傷に強く沁み込んだ後に少しずつ手の痛みは薄れ、それに伴って痛覚に支配されていた思考が落ち着きを取り戻す。
(く、くそう……!どうせーっちゅーんですかこんなん……!)
軽傷は負ったものの、再び隠れる事は出来た。が、状況は悪化の一途を辿っている。
貴重な武器であり、間合いを詰める為の投げナイフはこのやり取りで全て失われた。ダークを代わりに投剣として使えば、もはやアイシャには呼吸をする事すら許されなくなる。
呼吸を察知する灯火、このホールの何処に居ようと駆け抜けてくる火の蛇、投擲物を正確に打ち払う炎の鞭、懐に入った者を一瞬で吹き飛ばす爆炎。
隙が無い。突けない。考えつかない。八方塞がりだ。
(……降参、しますか?)
勝ち目が薄い事実を理解していくにつれ、思考は命を守る事にシフトする。
この様子では降伏が受け入れられたとしても、まず間違いなく碌な目に合わない。一度強く抵抗を見せた事でどれだけの暴行を受けるか、尊厳を踏み躙られるか、そもそも人間扱いされるかもわからない。
だが、生きてさえいれば。生きてさえいれば、いつかは寝首を掻けるかもしれない。逃げるチャンスが後に来るかもしれない。元の場所へ帰れるかもしれない。
幸い、盗賊団は男しか見かけていない。うまく
自分の安売りはしたくない。だが天秤の傾く先には命があるのだ、我儘は言えない。
「ああ、この際逃げ回ってもいいぞ。思ったより速い的だからな、術の練習には丁度いい」
その魔術師の声を聞いた瞬間、アイシャは最後の選択肢すらも奪われた事を理解した。
声色には温度は無かった。既に魔術師は、アイシャを女どころか人間とすら思っていない。
狩人は獲物を逃さず、必ず殺す。相手にとってこの状況は、たったそれだけの事なのだ。
(――ふ、ざけッ……!!)
諦めに染まり落ち込み切った心の底から、激情が噴き出す。
ちょっとこっちがしおらしくしてれば、何調子に乗ってんですかあの性根腐れマッチ野郎。
頭に滲み染み込みつつあった諦観は怒りに塗り潰され、直前の弱気は消え失せる。
許せん。なんとしてでも、あの思い上がった魔術師にこの怒りを叩き付けてやる。折れかけていたアイシャの心根は、底より噴き出した怒りが突き刺さる事で支え直された。
(……ダークとグラディウスだけじゃダメです。これじゃさっきと同じ事しか出来ない)
しかし血が頭に昇ったからといって、感情のままに無策で斬りかかるという事はしない。
激情は支柱にこそなるが、指針としては不完全だ。策は常に平静が齎すものであり、怒りは思考を単調にさせる。
血の巡りと共に呼吸の限界を感じる。一時、ただ一時でいい。思考する時間が欲しい。
(イチか、バチかっ)
魔術師の火の明かりによって生まれた影が比較的濃い場所へ向けて、使い終えたポーションの硝子瓶を山なりに投げる。
その瓶はアイシャの手元から離れて岩陰へと落ち、澄んだ音を立てて割れた。
「そっちか」
探知の火の行方にのみ注意を払っていた魔術師は、瓶が割れる音に過度に反応し顔を向ける。
音が鳴った場所へ火炎を向かう轟音を聞き、アイシャはその場で肺の空気を取り替えた。
「チ……」
火に巻かれる悲鳴が上がらない事で、魔術師は狙いを誤らせられた事を察する。
一瞬探知が反応していた様に見えたが、視線を逸らしていたせいで正確な場所はわからず仕舞いだ。誘導の手口のあまりのつまらなさと、それに素直に釣られてしまった事に魔術師は舌打ちを見せる。
考えれば、そもそもすぐに反応してやる必要も無い。探知が働いた時や姿を捉えた時、一手遅れで炎に命じたとしても自身の魔術の速度なら十分に捉える事が出来る。
子供騙しが通じるのは、一度だけだ。次は確証を持って、仕留めてやろう。
(し、死ぬかと思うた)
あえてその場に留まり目一杯の空気を吸ったアイシャは、内心生きた心地がしていなかった。
走って別の物陰へと逃げれば、その分だけ呼吸を使う。そうなれば、考える為に脳が必要としている空気と、それに伴う時間が削れる。
あの魔術師がさっきの誘導に引っかかっていなければ、焼かれて死ぬ。
どうせ降参は許されず、死以外の選択肢が無いならどう死のうが同じだ。アイシャは一瞬先のこの猶予の為に、命全てを賭けてその場に留まるという選択を選び、運良く勝ち残った。
(……考えろ)
止まった呼吸の中、再び自分に問いかけ始める。
これが最後のチャンスだ。次の一手をしくじれば、待っているのは確実な敗北、即ち死だ。
本当に何も武器は無いのか。使える手は残っていないのか。頭の中で自分がこの場に持ち合わせる全ての技術・知識・所持品を洗い直し、手招きしてくる最期から背を向ける。
これが悪足掻きに過ぎない事は、とっくの前の前から頭の冷静な所では理解している。
それでも、死にたくないのだ。まだあたしは生きてる。死んでない。生きているんだ。
(相手の手の内全てはわからない。けど、近寄ったら鞭か爆炎が来る。それは間違いない)
魔術師にはまだこちらに見せていない隠している術があるかもしれない。だが、自分が近寄ればあの鞭や爆炎を使ってくる事は目に見えている。
突っ込んだ時の光景を思い出す。魔術師の周囲は開けた空間であり、背は壁に近い。息を止めたまま影に潜んで斬る事は出来ない。アイシャを探す為に歩き回る靴音すらしない以上、あの場所から都合の良い場所に移動したという事もない。
離れれば殺傷力のある武器を持たないこちらに手は無い。たとえどれだけ無謀だろうと、倒すならばなんとか近付いてこの剣先を届かせる必要がある。
しかし、地を高速で走る炎の魔術を使わせる事無く、鞭と爆炎を避けて間合いに入る。投げナイフが尽きた今、どうすればそんな事が出来るだろうか。
ダメだ。武器が、策が、手が無い。高速で巡る思考が却ってその事実を浮き彫りにさせ、自然にアイシャは俯き足元に頭を下げた。
「――?」
ふと、自分の左腰に目が行く。正確にはベルトに取り付けた小袋の一つだ。
その袋の口からは、光が漏れていた。何かと思えば、魔術師に遭遇した直後にほぼ無意識に絞り、腰のベルトに付けて仕舞っていた、燭光石を入れている明かり袋だった。
だが、様子がおかしい。袋の口は縛ってあるにも関わらず、見える光はなおも強い。腰が自分のシャツの裾に隠れていなければ、下手すれば魔術師に位置がバレていたのではないか。そう思える程だ。
(……違う。
違和感が、頭の中で騒ぎ立てている。明らかにその袋の様子は、先程備品室で使っていたものとは違う。
厚みのある革袋がほんのりと明るく色を透かしている。袋の口を開けて解放したとすれば、眩さを覚えずにはいられないと安易に想像がつく程にその輝きは強い。
その時、空気が燃える音が離れた場所より聞こえる。魔術師が魔術の火を再び灯し直す音だ。
(なんで、そんな事をしてる?)
さらなる疑問が違和感を増やす。思えば、あの魔術師は戦い始めてから探知の火を付けては消してを何度か繰り返している。
探知の術の燃費は明かり代わりに使えるほど良い。わざわざ灯し直す必要も無く、あの
ふと、先程耳にした幹部達との会話が想起される。”そもそも安定しない”。
そんな訳が無い。安定して維持出来ないものを、明かり代わりに出来る訳が無い。そもそもが珍しくも無い低級の魔術なのであって、それを保つ事に難しい所は無い。
(――まさ、か)
二つの違和感が頭の中で混ざり、答え合わせを求め始める。
燭光石の袋を見る。僅かだが、光が強まっている様に思える。
その瞬間、一つのひらめきが別々の疑問の間に差し込み、架け橋となった。
(わかっ、た)
理屈は無い。確証も無い。だけれど、何故だか強く確信出来た。
燭光石。魔石。魔力。火の魔術。強まる光。確信に次いで全ての思考の欠片が繋がっていく。
そして、自分がこの
(……もし、間違っていたら)
確信には何一つ裏付ける物が無い。確かめる時間も無い。この考えが間違いであれば、続けて浮かんで来た新たな策も成立しない事になる。
思い違いだったらどうなる。あの炎の中で、焼け落ちて死ぬ。
――
なら、もういいだろう。どうせ失敗しても死ぬだけ。それに比べて、成功して得る物は命だ。
なんて破格の取引なんでしょう。迷う必要なんて、どこにも無い。
(いきましょう)
これ以上決断を鈍らせれば、”たられば”を言おうとする弱気がぶり返しそうだった。
思いついた策をやってみる。短絡的な行動かもしれないが、今の自分にはこれが最も正しい事に思えた。今胸の内にあるこの確信が、下手な考えと迷いに塗り潰されるより先に動いてしまおうと思った。
僅かに熱を持った燭光石の袋を左手に、グラディウスを右手に。先程と同じ構えを取り、膝を立てて足に力を込める。
さっきと同じ事になったら。湧き出ようとする不安と恐怖が言葉となって心を揺さぶろうとするのを、理性によって心の外へと追いやる。
そしてアイシャは、息を止めながら物陰を飛び出した。
「!」
探知の火は動いていないものの、明らかな靴音と共に姿を表してこちらを睨むアイシャを魔術師はしっかりと両眼で捉えた。
観念したのか。違う。息を止めている。なら、まだ敵だ。
一瞬で必要な思考を巡らせ、女のいる場所まで炎を走らせる為の術を紡ごうとする。が、視線の先のアイシャが左肩を上げて何かを投げつけようとしている体勢であるのを見た。
(またそれか)
内心の呆れを隠さず、魔術師はいい加減見飽きたその手口を予想する。
左手に握るものはナイフでは無いが、再びこちらへ物を投げつけてその隙を突こうというハラだろう。体をこちらへ向けているという事は、また向かってくるつもりだろうか。
懲りない事だ。こちらは右手で投げる物を弾き、左手で近付いた者を吹き飛ばせばいい。いかに身のこなしが軽いと言っても、女がどう動くかを見てから選ぶ事が許されている距離だ。
後手必殺。それだけを考えて、女が取る行動を見据える。
「やっ!」
「……はぁ。『薙げ』」
アイシャが左手の袋を魔術師へ向かって投げた。中身はわからない。だが、検討はつく。
最初に打ち払った投げナイフはしばらく刀身が燃え続けていた。恐らくは油を塗布し、刃に燃え移った炎でこちらを害するつもりだったのだろう。
今回も同じだ。油を入れた袋を投げつけ、下手に炎で防げば油はその勢いを保ったまま燃え移り、魔術師に牙を剥く事になる。
だが、自分の炎の魔術は生きた様に動く。指向性を持って振るわれる炎の鞭は、熱気そのものが物理的な圧力を抱いている。叩き伏せたものは、自分が思った方向へと飛ばすことが出来る。
なんなら今度は、あの女にそっくり返してやろう。そう思い、魔術師は火の形を変えて放った。
(……光?)
命令を下し、投げつけられた袋へ目掛けて鞭が縦に振られる最中、魔術師は見た。
真っ直ぐ投げつけられ、縦に回転しながら迫る袋の口。そこから見える、一筋の光。
油?違う。発光?何だ?
答えを得るより前に、炎の鞭は
「かッ――!?」
その瞬間、張り裂ける様な音と同時に閃光が場を支配した。
あまりにも強い光が目に焼き付き、魔術師は右腕で顔を隠して瞼を落とす。さらに、閃光と同時に飛来した何かが腕やローブを小さく割いていった。
予想外の出来事に、思考が動転する。何だ。何があった。何をされた。今のは、何だ。
「ぁぁあっ!」
頭が空転をし続ける間に、声が近付いてくる。女の声だ。
靴音。声。近い。何をされたかはわからない。だが、あの女は何かを仕掛け近付いている。
目は眩んだままだ。視界が透明な黒斑に覆われ、正常では無い。
「『爆ぜろ』ォッ!」
近付いてくる声と足音へ左手を向け、魔術師は最速の魔術を放つ。
爆炎の魔術。媒介さえあれば一瞬で使える、手を翳した空間を焦がし吹き飛ばす、護身の術。
魔術師は近寄られてはいけない。だが、狭い閉所戦においてはどうしてもその機会は訪れてしまう。そんな百に一つの可能性に対して、懐刀として振るわれるのがこの魔術だった。
「くうっ!?」
爆炎が何かに当たる音に次いで、女の声と重い金属音が地面を転がっていくのを耳が拾う。
眩みが少し薄れた視界は、離れていく金属音の出処を捉える。女が持っていた刀剣が、吹き飛んでいた。
女そのものは見えない。だが、武器を弾き飛ばす事は出来た。左前方の方から、靴音が鳴る。
勝った。この距離なら、もう一度爆炎を撃てば良い。女の手から剣が弾かれた以上、未だこちらの間合いだ。
少しずつ戻る視界が、女の影を写す。そちらへ、左手を向ける。
一言、術を呟く。それで終わりだ。
「『爆ぜ』――オ゛ッ?」
その言葉は途中で喉元で遮られ、発することが出来なかった。
爆ぜろ。たった一言、言いたい言葉がどうしても言えない。
こんな事をしている場合では無い。あの女に逃げられる。影を見る。まだ其処にいる。
腕を、伸ばしていた。
「ガ、ア゛、オ゛ッ……」
この音は何だ。何かを喋ろうとすれば、濁音の様な詰まった音が聞こえる。
違う。音じゃない。
伸ばされた女の腕の行き先を、取り戻した視力が見る。
女は左手で短剣を握り、それを
「――終わりです」
女が腕を横へ振るう。それにつられて、自分の首が引っ張られる。
今になって、喉の痛みに気付く。鎖骨へ流れる水の感触に気付く。何をされたかを、気付いてしまう。
女の短剣が、喉を引き裂いて抜かれた。
「ア゛……ゼ……ッ……」
体が倒れる。喉から出る血が止まらない。それでも、一言。
たった一言がこの口から出れば、この女を殺せるのだ。そうすれば、なんとかなる。
喉から吹き出た血を受けた左手を女へ伸ばしながら、術を紡ごうとする。しかし声を出そうとしても、潰れた濁音と溢れ出てくる血が口からどろどろと零れ落ちていくだけだった。
「――――……」
そして魔術師は、最期までその言葉を紡げなかった。
「おかしいじゃねえか、あれの何処が
あれじゃ、爆弾だろ。光る爆弾岩だ、あんなもん」
好きに生き、理不尽に死ぬ。それが冒険者だ(個人の見解です)