「ふんぬうぅぅうっ……!」
石版の解読に取り掛かってから暫くの時が経過し、今アイシャは地面に突き刺さった石版に横から両手を付け、全体重をかけて押していた。
アイシャの細身と細腕では、総身の力を動員した所で目の前の厚みのある石版を少しも動かす事は出来ない。そうとわかっていながらも、アイシャは眉間に皺を作りながら踏ん張って、石版を押し続けている。
顔を真赤にして十秒弱ほどそのまま石版を押し続けたが、結局は息の限界でアイシャの方から掌を離す。石版は健闘むなしく、結局当初から一切動いてはいなかった。
「……ふぬーっ!――う」
肩で数度息をしてから、アイシャは唐突に前蹴りを石版に向けて繰り出した。
が、その石版に届く前に理性のブレーキがかかり、怒りが打ち出した足裏はぺたりと張り付くだけに終わった。地面と石版に体が支えられている体勢のまま、アイシャは自身の理性の理由を反芻する。
それは一つの既視感だ。そう、この遺跡に入る前、衝動のままにバールを蹴り飛ばし、結果脛を痛めた出来事。その時の反省と教訓が頭を過っていた。
暴力的な手段に頼った所で、何も解決はしない。というかそれで解決する事だったらイヤだ。溜飲を下げるのと同時に、石版に押し付けている足も地面に降ろす。
「……どうやったら動くんですか、コレ」
いよいよもって手詰まりに至り、石版の前でしゃがみ込む。
その姿勢のままアイシャは、もう一度石版に刻まれた古代文字に目を通す。
『――力を捧げよ。即ち此は起動し、向こう側へと――す。注意、ヒトの二の掌、――の持続を必要とせん。――するなら、此、失う』
婉曲に刻まれた古代文字を要約すると、およそこんな所だった。さすがにいくらか風化こそしていたが、文章としての体は十分に成している。
力を捧ぐ、つまり何かの力を注ぎこんでやればこの”装置”は動き出す。破損していればその限りでは無いが、これだけハッキリとした形で残っている以上効力は失われてはいない筈だ。
が、その”何か”が大問題だった。
(魔力じゃダメ。単純な力や衝撃にも無反応。専用の触媒とか要るんだったら、お手上げです)
魔法の仕掛けで必要とされる力など、ほぼ魔力一択だ。だが、そんな事は既に大空洞でも試しており、魔力を送り込むように意識しても同様に石版は動かない。
石版の中央、縁、図形、凹凸と、石版の殆どの部分に両手を添えて試したが、結果は徒労に終わった。
そういう訳でダメ元として、単純に石版にめいっぱいの圧力をかけてみよう、という読んで字の如くのアイデアを試した訳だが、これもまたダメ。
よくよく考えれば大空洞の石扉の調査の際、思いっきりその上に立って両手を使っていたのを思い出す。ただ単に力をかけて動くなら、体重を余すこと無く乗せていたその時に動くはずだ。
流石に逆立ちをしてでも一点に力を込めろだとか、体重が足りないとか言われたら素直に諦めるのだが。
「うむむむ……なーんか、無いかなぁ」
仕方なく調査を一旦止め、石版に背をもたれかける。
正直、今自分が打てる手は少ない。この石版や石扉がこの洞穴の専用の仕掛けであるならば、同様に専用の”力”が必要という可能性は否めない。
が、アイシャが持っているのは一般的な冒険者セットと盗賊道具、石工用具、水を跳ね飛ばす靴、燭光石の結晶のみ。この洞穴に仕掛けを動かす為の何かがあると仮定しても、肝心の物を持っていなければどうにも出来ない。
かといって、素直に諦めるのもどうも気分が良くない。せめて何か、他にひとつふたつ、考え付いたアイデアを試してからならば辞める気にもなるのだが。
(動かす触媒、かぁ)
目を閉じ、記憶を総動員させる。静寂の中、自身の静かな鼓動と血の巡りだけを感じる。
古エルスタン語が使われた時代にあった魔法の装置については詳しくない。だが、当時使われた魔法やその様式などは一部頭にある。
血で印を刻む術、毒を孕んだ生物の一部を使う儀式、魔法具を核とした陣。大小様々な様式を頭に浮かべては、合致しない物を消去法で消していく。
それでも今の手持ちで出来るのは、精々呪文を刻む事と唱える事ぐらいだ。とはいっても本職の魔術師でもないアイシャが正しく刻める訳もなく、それを活性化させる魔力も足りないだろう。
呪文とは術を構成する符号であり、鍵の様なものだ。陣や術を有効に動かす為に呪文があり、その燃料として魔力が要る。故に、片方が欠けていれば効力が現れる事は無い。
「……欠けていれば……」
そう呟きながら目を開き、自分の掌を見つめる。
術、呪文、魔力。この石版が古来の装置であれば、製作した魔術師が核の呪文を風化で失う様なポカをやらかすとはどうしても思えない。
この場合の術とは装置の実際の効力、起動した時の動作だ。石版が大きく破損していない以上、欠けているのはやはり最後の一つ、内に宿すべき魔力だ。
触媒とはその魔力に属性、即ち指向性を与えて橋渡しをする為にある。つまりは、通常と異なる特異な性質を持つ魔術に至る為、より一つ高位の効果を作る為に必要なのだ。
(たぶん、違う)
遺跡の装置に通常求められるのは、条件を満たした時に起動しても異なる動作を起こさない、安定性と再現性だ。それに伴い、装置自体の効力も単純な物となりやすい。
その起動に専門的な触媒が必要とは思えない。あったとしても、その当時一般的に流通していた、珍しくも無い何かだろう。とすれば、まだ可能性は残っている。
当時にあった一般的な触媒。杖、古枝、
「――……」
小袋から燭光石の結晶を取り出し、掌の上で仄かに輝くそれを見る。
燭光石は火と光の魔術触媒にも使われている。単純な動作で動く機構であれば純粋な魔力が必要だろうが、一つ引っかかる所がある。
この石は火や光の魔力だけでなく、ただ魔力を通すだけでも反応している。爆発まで起こす以上、火の魔術に対して親和性が高いのは確かだろう。
だが、専門の触媒なら属する魔力以外に反応を見せるのは違和感がある。それに、火の魔力を通した時の反応は”強く発光してから爆発を起こす”といったものだった。
発光自体はただの魔力を通すだけでも発生している。火の触媒としての反応が発光・爆発ならば、何故手で触れるだけで過程である発光現象が起きるのか。
さらに言えば――
(あの爆発、ちょっとデカすぎませんか)
アイシャの魔力は魔術師と比較して明らかに少ない。魔術師の適正の有無とは、魔力に融通出来る精神力の大小が大きなウェイトを占めている。
現に備品室の前で遭遇した魔術師は、熾火の腕輪を経由して人一人は焼殺出来るだろう爆炎の魔術を行使していた。爆炎自体は魔術師の技術だが、その媒介である火元――熾火の大きさは、魔力に比例していた筈だ。
だからこそアイシャが使った時には熾火は小さく留まった。だが火元の小ささに反し、燭光石を介した発破は明らかに魔術師の起こした爆炎よりも威力があった。
いくら触媒を介したと言っても、魔術という核も持たずにあれだけの規模の爆発が起こるのは変だ。さらに言えば、使用した燭光石の量が違うとはいえ、爆発の規模が魔術師との交戦の際とは比較にならない。
(……現象に対して、魔力の量がおかしい)
ゼロに何を掛けてもゼロな様に、大本の魔力が低ければ魔法現象は比較して弱くなる。
なのに魔術師の魔術に投げ込んだ燭光石は石が飛散するだけに留まり、アイシャの熾火を得た燭光石は土石の壁の中央を消し飛ばし、風穴を空けた。発破に使った横穴の細工はあくまで爆発の方向を誘導するだけで、発破そのものの規模を大きくする作用は無い。
なら何故、あんなに爆発が強い?爆発を起こしたその魔力量は、どこから来た?
「――試して、みますか」
一つの小袋の中から、採掘した中でもっとも大きな結晶を取り出す。
極めて透明に近い結晶の中を凝視すれば、指から得た魔力による僅かな光が粒の様に細かになっているのが見えた。もっと多くの魔力を注げば、この辺り一帯を照らし出す光量にまで到達するだろう。
だが、同量でも火の魔力を注げば爆発にまで至る程となる。それだけの力があれば、もしや。そう考え、アイシャは左手に燭光石を握り、両手で掴みながら小指と薬指だけを石版に押し付ける様にする。
そのまま、意識を集中して右手側から魔力を注ぎ始めた。
「お、おっ」
それに合わせて燭光石が光るが、光の大きさは途中で留まり、代わりに石版の縁近くの凹凸が僅かに光り始める。
やはり、この燭光石には通した魔力を大きくする性質がある。それも恐らく、石の純度によって増幅する量は跳ね上がる。それであれば、魔術師との交戦での爆発との規模の差異にも説明はつく。
魔力を通して光るという性質は、大本の魔力が増幅される過程で発生する前段階の現象だ。火か光の魔力が一定以上に到達すればそれは爆発に至るが、純粋な魔力では起こらない、或いは爆発するにしても多量の魔力が必要と考えられる。
装置が動かなかったのは単純な魔力不足で、燭光石の結晶を介して増幅させる事でようやく必要量に届いた。おそらくそれが、現状の理由だ。
いける。このまま魔力を注げば、装置を動かせる。確信に満ちた顔で、アイシャは魔力を石に流し込み続けた。
「……お、おっそ……!」
石版は縁から僅かに周囲へと光が滲んでいくが、動き出す気配は見せないでいる。
恐らくは石版の光が全体にまで行き渡ってから初めて動くのだろう。が、この調子では全体にまで魔力が通るまで何分もかかってしまう。
それは困る。そんなに長い間魔力を注ぎ込むほどの集中力は今の疲弊したアイシャには無い。あと率直に言って、このままゆっくりもったりと推移を眺めていくのはつまんない。
ならば、やる事は一つだ。
(――火よ)
右手だけでなく、左手首の熾火の腕輪にも魔力を通し、変換した火の力をそのまま燭光石を経由するように石版へと少しずつ流し込んでいく。
それに合わせて燭光石の光が強まり、一気に石版の光が渡るペースが早まる。想像通りの結果に、アイシャはほくそ笑んだ。
爆発の危険性こそあったが、慎重に魔力を運用して石版へと向けてやれば即座に爆発はしないと踏んだ。そして読み通り、同じ量でも火の魔力の方が増幅されやすい。
燭光石が爆発しないのなら、もう少しペースを上げても大丈夫だろう。さっさとこの石版の機能を見て、残りの結晶の採掘に戻ろう。そう考えたアイシャは、左手に力を強く込めた。
その直後、石版の全体へ一気に光が行き渡った。
「わ、わっ?」
さっきまでの膠着が嘘の様に石版全体は白い光を放ち、同時に石版が震え始める。
それに合わせて突き刺さった地面が擦れ、削れる音があちこちに反響し始める。明らかに石版が動き出した影響だろうが、何か妙だ。
石版自体は動き始めた。だが、そこから次が起こらない。目の前で光りながら震えて地面を揺らそうとしているだけで、何かが出る事もアイシャをどこかへと転送する様な事も起きない。
”向こう側”という言葉から、アイシャはこの石版と石扉が繋がった一つの転移装置だと期待していた。それなら帰りがすっごく楽なので、出来たらそうあってほしかった。
だが、どうにもそうでは無いようだ。というか、石版が
「――どわぁーっ!!?」
そう考えた途端、石版が
咄嗟に背を引いて顔を反らしたが、両手は迫ってきた石版の縁を防ごうと反射的に掴み、それでも止まらず上昇し続ける勢いに押されて両腕までもが押し上げられた。
石版はそのまま上昇を続け、腕につられてアイシャの体が持ち上がる。まずい、と考えた時にはアイシャは石版の裏側へ両腕を回し、体の重みで留めようとした。
それが、一番の間違いだった。
「ぬぅおわあぁあぁーッ!!」
アイシャの体重を乗せたまま、石版はむしろ加速して崖面と並行になる様に飛び続けた。
一瞬でさっきまでいた地面は視界の外にまで遠ざかり、急上昇に伴う圧迫感で体が押し付けられる。腕を離そうにもその圧力と上昇し続ける石版に板挟みとなり、離れるどころではない。
そんな考えの間にも地面は遠く遠く、降りるというより落ちると言う方が適する程の距離にまで石版は昇っていく。もはやアイシャに、石版から離れて戻るという選択肢は残されていなかった。
(なんですかなんなんですかいきなりぃ!ちょ、コレやばっ、し、死ッ……!!)
このままでは腕を離して落ちて死ぬか、石版が力を失って落ちて死ぬ、或いはこのまま上昇を続けて天井にぶつかってから落ちて死ぬ。全く自由の無い結末に至る無数の分岐が脳裏に用意されていく。
少なくとも腕の力を抜けば、この高さから落ちるだけだ。まずそれだけは回避したい。石版に足まで回し、両腕に一層の力を込めて体全体でしがみ付く。
その瞬間、さらに石版が加速した。何もない暗闇の空間の風を切り、ぐんぐんとアイシャと石版が上昇していく。
「ちょ、な、なんでっ!止ま――じゃない、遅く!ゆっくり降りて!たんぽぽみたいにふわっと体に優しくお願いします!ね!ね!?」
必死の懇願すらも崖下に置き去る様に、アイシャを乗せた石版は上昇を続ける。
後ろへ視線を向ければ、次々と移りゆく崖面の景色が像を成さずに過ぎてゆき、黒い土石と小さな結晶が線上に入り交ざってぼやけた景色ばかりが瞳に映っては流れていく。
あかん死ぬ。絶対死ぬ。流れ行く景色と速度から、今自分が地面から想像もしたくない高さにいることを改めて悟り、抜けていく風とは別の寒気が体の表面に現れる。
祈りも虚しく石版は上へ上へと昇り続けていく。どこまで昇るのか、どこで止まるのか。どっちもろくでもない想像しか出来ず、次第に表情は未だ見えぬ結末への恐怖に歪んでいく。
死ねない。死にたくない。死ねるものか。本能の恐怖に押し潰されないように確かな意志で抗って、頭を回し続ける。どうすれば安全に降りれるか。どうすれば、どうしたらいい。
「――っ!」
その考えに至ると同時に、後方の風景が一転した。
咄嗟にアイシャは左手に込める力――正確には熾火の腕輪へ流していた魔力だけを抜く。その瞬間に上昇する速度は緩み、すぐに動きは重力と釣り合った。
一瞬空に浮いた感覚に囚われた後、すぐに落下が始まる。それに抵抗する様に、右手にだけ意識を集中して魔力を燭光石を介して石版に総力で送り込んでいく。
石版から少しずつ光が薄れていくが完全に消える事は無く留まるも、落下はいくらか緩むだけで石版は崖下へ向けて落ち始めていく。
だが、それを受け入れはしない。落ちていく中で、後ろを見続けてタイミングを伺う。
「――るぉぁーっ!」
離れた位置にある地面に向けてアイシャが跳ぶと同時に、一瞬にして光を失った石版は重力を得て速度を増す。アイシャの手から離れた石版は、崖下の暗闇へと姿を消した。
一方で石版から跳んだアイシャは、崖際の地面に肩から落ちてそのまま横に転がった。転がる勢いが完全に衰えると、そのまま地面に大の字に手足を広げて天を仰ぐ。
「ひーっ、ひーっ。こ、ここに来てから、寿命縮む事ばっかですよ……」
大きく息をつき、当面の危機から逃れた実感に身を浸す。
垂直に飛んできた石版は、そのまま崖面に沿って崖上にまで至った。燭光石の生える崖面の上は、この階層に来た直後の崖際の道や大空洞の広がった地面がある。
今まで採掘していた場所がどの辺りなのかは知らなかったが、こうして転がってみて理解した。ここは、大空洞だ。
背中に感じる感触が異様に均一、つまり地面が平たい。これが最初に訪れた崖際付近であれば、地面の起伏は多く大小様々な小石が転がっている筈だ。
「……確かに、戻っては来れました、けど……こんな目に遭うのは聞いてないです……」
奇しくも”帰り道を経由せずに戻る”という望みこそ叶えられたが、明らかに不要な危険を冒してしまった事に対してアイシャは目を細めて愚痴を零した。
*おおっと*テレポーターじゃない
帰り道には気をつけよう!