「……とても……つらひぃ……」
ランタン片手に、アイシャは洞穴の道を肩を下げながら進み続ける。
力が戻ったといえど、精神が大きく削られた体は未だに重い。気分としては徹夜二日目で瞼に力が入らなくなってきた時の状態に近い。
謎を解き明かした事によって上がったテンションのままに乗り込んだ訳だが、冷静に自分の状態を考えるならば、もう少し横になって休憩すべきだったかと今更になって思う。
洞穴に入った直後はずんずんと大股で進んでいたのだが、遅れて疲れを自覚した今では全力疾走直後の様に足取りは重くなっている。
「思ったよか長いし、なんかココさむいし……謎を見事解いた人間にちゃんと配慮して欲しいトコですよ全く……あ゛ぁー、もう一歩も歩きたくなぁーいぃー……」
一度足を止め、頭を下げて大きく溜息をつく。大仰な扉に隠されていたのだ、潜ってすぐに目的の”星天”とやらがあると思ったのだが、実際は全くそんな事のない水平な普通の坑道だった。
まだ洞穴に入ってから一分ほどだったが、そう時間も無く到着するだろうと考えて足早に歩を進めた結果、それだけでアイシャは完全にバテていた。
しかも、この洞穴はなんだか寒いのだ。この階層の殆どは崖などに繋がっており、大きく拓けた空間が多かった。だが、狭い場所となれば地中の冷たさが近くの空気に伝わりやすい。
あの流れ落ちる滝周辺ほどではないが、この洞穴は他の場所と比べて肌寒かった。
「はへぇ……さすがに、もうちょいだと思いたいんですが……」
もはや扉を開けた直後の高揚感は完全に消え失せ、這いずる様な速度で首を前に曲げながらも、とぼとぼ前を目指す。
罠などを警戒する気力も完全に無い。と言っても、あれだけ人間を殺しにかかるセキュリティなどを仕込んだ扉の内部に、さらに罠など仕掛けるとは考えがたいので、恐らくは大丈夫だ。きっと。たぶん。
絶対に、もう少しだ。ここまで苦労して、さらにまだ何か障害となる何かが残っているなどあってはいけない。あたしが許さん。
そうして歩けば、また一つ周囲の空気が冷え込んだ。
「――ひゃぁうっ!?せなかっ!背中、なんか入った!つめたっ!?」
その瞬間、首筋にぽとりと冷たい何かが落ち、背中へ滑り落ちた。
素っ頓狂な自分の声が洞穴内で反響し、シャツの内側に入った何かに触れようと背に手を伸ばす。冷たさを感じる部分に手を触れれば、その何かは布地の中で潰れた。
「……水?」
正確には布地に吸い込まれていったそれは、水滴だった。最初に冷たさを感じた首筋に指を添えれば、そこを濡らし流れていった水跡に触れた。
一歩下がり、ランタンの明かりを天井に向けながら、水滴が落ちてきただろう場所に背伸びして手を伸ばす。少しすると僅かに水気を帯びた天井から、一滴の冷水が流れて指を濡らした。
なんで、こんな所に水気が?奥から戻ってきた自分の声の残響の中、疑問が湧き上がる。
「こいつらのせいで寒いんですかね……おのれ……」
ランタンを上へ掲げ、道の先の天井を眺める。決して多くはないが、明かりを受けて点々と濡れた天井が光を返すのが見えた。
ぽたり、ぽたり。あちこちで時間をかけて一滴ずつ落ちる水滴が、地面へ落ちて染み込んでいく。この水気が洞穴を奥から冷やして、それが気温の差に繋がっているのか。いやに感じる肌寒さに、ようやく納得がいく。
「……ん、ん?」
納得した所で、引っかかりを覚える。その正体にはすぐに思い当たった。
声が、戻ってきた?それに気付いた瞬間、アイシャは腰の剣を抜き、横の壁をゆっくりと三回叩いた。
洞穴全体に染み渡る様に、数回の金属音が響いていく。少しして、ほぼ同じ高さの音が小さな山彦の様に帰ってきた。
(!!)
直感で理解した時には既に、体は先へ進む事を選んでいた。
反響は奥、かなり近い場所から聴こえた。それはつまり、つまり。
確信に近い考えが頭を支配し、答えを実際にこの目で確かめる為、自ずと足は当初の速度を思い出して早まっていた。
進むごとに数滴の水がぽたぽたと髪・腕・頬を冷たく濡らすが、そんな冷たさは今アイシャの胸の底から湧き出てくる高揚に比べれば取るに足りないものだった。
そして、狭い壁で囲まれた道は終わった。
「――ぉっ……お……うお、ぉ……」
――その場には、満天の星々と、それを地に映す水の鏡面が広がっていた。
ランタンの明かりを受けた高い天井が、煌々と白く輝いている。星の周囲は岩肌の上から星の光を塗られ、ぼんやりと青みがかっている。見上げる限りの全てが星光の白と、夜空の様な藍色で埋め尽くされていた。
ぽちゃん。澄んだ音が一つ、広い星空の下で響く。アイシャの目の前にある鏡――澄んだ地底湖に、あちこちの天井から真っ直ぐに落ちる水滴が、ゆっくりとしたリズムで鏡の水面を小さく波立たせている。
自然を色濃く残す岩の足場に囲まれた大きな湖は、アイシャの前で円弧を描き奥へと広がっている。そして湖の周囲の足場のあちこちには、
「……すごい」
その場でしゃがみこみ星の一つを掌で掬い上げ、顔の前に掲げる。天然自然のもの特有の鋭角さと銀貨ほどの大きさを持つ小石は、向こう側まで見える様な透明さがあった。
ランタンのシャッターを閉め、暗闇の中指先で触れる。もはや僅かな魔力しか残っていないアイシャが指で触れただけで、小石はランタンの火よりも強い輝きを点し始めた。
「あたしでもわかる……これ、
拾った燭光石の結晶片を決して落とさないよう、両掌を籠のように合わせ、真に星に匹敵する程の輝きを手中で惜しみなく見せ続ける石に対して身を震わせる。
通常取引される天然石は、魔石を含めて概ね三種の品質で分けられている。価値の順で上から並べると、
透明度の高さ・石固有の色の彩度・含有物の有無・光を当てた時の反照。魔石ならばそれぞれが持つ効果の強さも含むが、共通して不純物が少なく透明度が高いものが純度が高く、希少なものとして鑑定されている。
通常市場に出回るのは良くて
「……う……うそぉ……ホント……ホントに……?」
何度確かめても足りないとばかりに様々な角度から眺め、掲げ、おどおどと指に取る。
これは、根本的に違う。無加工の時点で後ろまで光をそっくり通す透明度と純度、原石特有の鋭角さを持ちながらも視線へ眩く訴えかける表面の反照、意図的に魔力を込めずともランタンを超える内部の光度。
この燭光石は加工前の時点で、一部の富豪や大魔術師のみが手に取る事が許される宝石と同等の価値を持っている。もしこれが研磨されれば、そう考えると自らには分不相応だとばかりに体の震えが止まらない。
(――ヤ……ヤベエ……ヤバイ、です……)
やばい。これは、やばい。もうこれは、個人が手に負えるレベルの領域じゃあない。
この階層は元々坑道のさらに奥に隠された、遥か昔に魔術師が拓いただろう燭光石の鉱床層だ。殆どが宝飾石クラスの魔石が、それこそ天井から崖下までびっしりと残されているこの
だが、此処はもはやそんな次元じゃない。純度の高い燭光石の実用性と危険性は、魔術師ですら無いアイシャがこれまで遺跡内でやってきた数々の物事が明瞭に示している。
戦争だ。ここを巡って、戦争が起きてしまう。下手をすると
「――これが……あたしの、求めたモノ……」
目も眩む様な真っ白な輝きが上に届き、それに呼応する様に星々は光を返して強く煌めき、さらにその光を受けた天井全てが一繋ぎの銀河となる。
雲一つ無い夜の星空が、あたしの所まで降りて来て歓迎してくれているみたいだ。息を呑み、地図に記されたこの場所の名を今再び思い出した。
”星の眠る
「い、いや、いやいや……ちょっ……コレ、あたし消されるやつじゃ……?」
遺跡の内部情報は、情報屋やギルドに提供する事で金銭と替えられる。それが詳しく・正しく・早く。そして、価値を秘めるものであればあるほど、高値で取引出来る。
だが、此処はダメだ。百歩譲って”奥の層”の情報を釣り上げて売っても、此処の場所だけは世間に流してはいけない。
アイシャは自身の生活がより良く、楽しく、ラクになればいいとは常々思っているが、それだけの為に地方全体に騒乱の大渦を起こそうなどとは思わない。というか、
重大な決断にはその責任を負う、相応の覚悟と力が要る。だから――
「――見なかった事にしよう!」
逃げる。全力で、逃げる。明らかにヤバい事に対してはその危険が迫るよりも早く、全力で距離を取る。それが隠密の、そしてアイシャの基本スタンスだ。
とはいえ、ここまでやってきた旅の記憶が最大のお宝でした、などと絵本の如き綺麗事で締めるほど、アイシャは欲が浅くない。というか、何を求めにきたのか。その答えは初めっから一つなのだ。
「ちょっとだけ、ちょっとだけだから」
金だ。即金だ。手元に残る現金と、その価値を持つ宝こそが絶対なのだ。
うん、ちょっとだ。ちょっと持ってくだけならゆるされる。そう考えたアイシャは、早速湖周辺の足場に転がっている、光を強く照り返して自己主張してくる純結晶を歩いて拾い始める。
三つ目を拾った所で、僅かに指先に触れただけでも光るそれらを直視出来なくなり、空いて残っている小袋を裏返してグローブ代わりにして拾っていく事にした。
手元の輝きが強まった事で、横の湖の表面の上で小さく光を返している粉に気付いた。
「これも、か」
天井から落ちてきた燭光石の石粉が、粉雪の結晶よりも細やかに湖に浮かんでいる。発破の時に導火線代わりに使った燭光石の砂を思い出すも、純度の違いを考えるとその輝きが空恐ろしく感じられる。
天も地も水も、全てが銀河となっている。未だ嘗て拝んだことの無い幻想的な光景なのだが、高すぎる価値が孕んでいる危険性を考えると、素直に喜べないのがあまりに残念だ。
「はぁー、こわいこわい……い?」
ようやくこの非現実的な空間に慣れてきた頃――既に拾い集めた原石は小袋三つを超えて、崖下で集めた石を地面のものと交換し始めていた――、視界の遠く左端に黒色が見えた。
視線をそちらへ向けても、それは変わらない。星の様な反射光が余す所無く見られるこの場所で、真っ黒に影を落とす場所。原石の一つを翳してみれば、湖の中央に別の足場の淵らしきものが見えた。
「……逆に怪しいですね、アレ。どうせだし、確認しに行きますか」
そう言ってアイシャは、背負い袋の中から渋い顔で水切踵を取り出した。
ここまで何度も使ってきながら、未だに根強く酸い臭いが鼻につく。背負い袋の内側がこの臭いで染まっている事を考えると、マジでこいつ許さんという強い思いが再沸騰する。
内心の怒りはともかくとして、手はちゃんとブーツに水切踵を取り付け、水上を走る準備をする。固定用のベルトでブーツを上からしっかりと閉め、爪先でとんとんと地面を小突く。
「よっしゃ、仕事ですよクソ靴」
悪態を一つつき、最後に水切踵に手を触れて魔力を込める。魔力切れの直後だったからか、薄く光る六枚羽はこれまでより一回りほど小さく展開された。
だが、目に見える場所まで走るまでには十分な筈だ。左手に光る原石の一つを持って明かりを前に掲げ、湖を睨む。
「いち、にの……だぁーっしゅ!だっ、だっ、だーっ!」
ニ歩後ろに下がって、深呼吸をする。そして目の前の湖へ向け、大きくジャンプした。
湖の上で暴れ出す羽ばたきに合わせ、空を踏み締めて走る。静かに湛える水面が弾かれ、滴と共に星の粉が跳ね跳んでいく。アイシャの通った後で、舞い上がった光の雨が降り注いでいった。
「だっ!よし、到ちゃ――」
走る度に輝く波を立てていく事に気分を良くしてすぐ、中央の土で出来た足場に足が辿り着く。
いやぁ、あたしすっごく”冒険”してるなぁ!吟遊詩人に語られる様な絵面の中心に自分がいる事に高揚し――その一瞬、
「――ひッ、やぁあーっ!?」
思いも寄らぬ先客に悲鳴を上げながらも、身体は最適な状況を求めて反射的に動く。
敵だ。直観で
「の゛、あ゛ッ、ぬわーーッ!!」
そこにあるのは当然、踏み締める事の出来る地面では無く、自分が渡ってきた湖だ。
湖の表面に足裏が届こうとする直前、未だ羽を維持する水切踵が起動する。後ろへと重心と慣性を寄せていた身体の勢いのまま、両足の六枚羽が意図せぬタイミングで動いて水面を跳ねる。
ただ一跳び距離を取って剣を構えるだけ、その反射的行動に裏切られたアイシャは大きく体勢を崩し、輝く湖に背中から思いっ切りダイブした。
「ぶへっ、ちょ、まずっ!ゲホッ、ちょ、こら、止まれ!とまれーっ!」
アイシャの身体の殆どが湖に沈んでも、羽の足だけはそれを拒絶して水面で暴れ続ける。
湖の底に足をつける事も出来ず、呼吸の為に頭を上げては体勢を崩す悪循環が巡り続ける。
ダメだ話にならない。足以外が溺れているような酷い体勢のまま、アイシャはブーツを締めるベルトを緩めて、水切踵を足から切り離した。
「……ぷはあっ……あ゛ぁー、もー!……ああもう!」
何故こうも最後まで良い格好が続かないのか。水面から起き上がり、ばしゃばしゃと湖を泳ぎ続ける水切踵を回収する。
今度こそ完全に身体ごと荷物全てが濡れ鼠になった事に憂鬱となりながらも、剣先を前に構える。今更格好をつけた所で完全に手遅れだが、それでも敵がいるなら対処はしなくてはいけない。
人間ならともかく、意志も無く単純な行動しか取れない亡者だの亡骸程度なら、アイシャでも真っ向から勝負が出来る。未だ迫ってこない事に疑問を抱きながらも、少しずつ湖から骨の居た足場へ進む。
(……動いていない。死体、ですか)
アイシャに目もくれず、死に座し続ける白骨死体に近寄り、細かい場所を見ていく。
両掌ほどの小さく薄い石版の前に向き合って真っ直ぐ座っている男の骨は、平均的な人間よりも大きく背骨が長い。最も特徴的なのは、側頭骨の両側にある鋭い突起部分だ。
「エルフの、死体」
特有の長耳を支える側頭の突き出す骨格。そこからこの死体はエルフであると確信する。
エルフは人族の中でも、先天的に魔法適正を持つ者が多い。”エルフを見たら魔術師と思え、見えないのは
閉ざされた扉の奥、この場所で死んでいるという事は、この場所を封印した魔術師本人か?あるいは、魔術師がこの男を地の底に封じる為に扉を作ったのか?多くの思索から有力なものを挙げながら、さらなる情報を求めてアイシャは男の前に落ちている石版を持ち上げる。
「んっ……え、コレ……何?」
石版を持ち上げると、その下には石版と同じぐらいの幅に陥没した穴と、その底に埋まる一際大きな純結晶が見つかった。
最初から地面より生えていたものが、石版を蓋にして外気に触れずにいた為か、その結晶は自然に在るものでありながら塵一つ付着せず、傷一つ無い滑らかな表面と、内側から光を乱反射する事で発生する虹色の星芒の数々を内に持っていた。
そして何より目を引くのは、
「花の化石……結晶?珍しい、というか……」
恐らくは白梅の一種かそれに近いものだろう――冒険の手がかりとなる植物以外には詳しく無く、断言は出来ない――結晶の内の一輪の花は、根本から花弁までそっくりそのままの状態で結晶の中に保存されていた。
結晶の内側に居る為に化石と呼んだが、これは
時を経て過去の姿を遺すその神秘性と希少性によって、琥珀は宝石の一つとして重宝されている。だがこれは、純度の高い燭光石の結晶によって保たれている。
職人の硝子細工の様な美しさを持つ稀有な結晶に瞠目するも、すぐに気を取り直して手に持った石版を見る。明かりを上から下ろせば、鋭い針の様なもので削り刻まれた文字が目に入った。
「うげ、また――って、あれ?これ、古いけどエルフ語だ」
魔術師、遺跡、石版、文字。この場を構成する全てが再び解読に困る古エルスタン語かと錯覚させたが、今手の内にある石版は
どっちにしろ古語である事に変わりはないが、そう多くは見られないエルスタン語の文章に比べれば、解読難易度には天地の差がある。何せ古かろうが新しかろうが、エルフ語なら共通する単語や構成が多い。
何故ここに限って古エルフ語が出たのか、その意味も含めて考えるべく、アイシャは石版の荒い文字に目を通し、頭の中で整理して訳していった。
『――
『疲れ果てた。
『彼女は、私に怒っているだろう。憎んでいるだろう。過去は、戻せない』
『だからせめて、この空だけは護ろう。
『私だけは、
エルスタン語の解読に比べれば雲泥の差の速度で、アイシャが石版を読み上げていく。
石版には、これまで頻繁に見てきた魔法の刻印などは無かった。そこにあったのは、この骨と化した過去のエルフの深い悔恨と、”彼女”と呼ばれる者への強い想いだけがあった。
そしてアイシャは、過去のエルフと感情を重ねる様に、最後の文章を読み上げた。
「――『願わくば。いずれ私達の
遺された言葉を噛み締める様に、アイシャは最後の言葉を呟く。
文章の意図・意味、その半分はわかる。この遺跡はかつて、実際に戦争を招いたのだ。
遥か昔、目の前の
人間か、エルフか、ドワーフか。或いは有用性を見込んだ魔族、宝石を好む竜種も有り得る。それを確かめる事は出来ないが、とにかく此処を巡った戦争が起きた。
(その事の張本人か、間接的に関わったのがこの人)
悔恨は”彼女”に宛てた物が大半だが、”罪深き”と自嘲している事から、紛れもなくその戦火の渦中にこの男は居た。実際にここを魔法で切り拓いた魔術師か、それを補佐したのか。
真偽はわからない、しかし確信はある。魔術に依る刻印でなく、自らの手によって書かれただろう傷の様に鋭く深いこの文字は、目の前のエルフが深い後悔の念によって刻みつけたのだ。
「……”彼女”って、誰です?それに、”共に”、”微睡み”?」
わからないのはそこだけだ。この男がこれ程強い後悔を直接的に向ける一つの相手、それが”彼女”である事に間違いは無い。
だが、この男は一人だ。周囲に軽く目を向けるが、この男のいる足場は思った以上に狭く、アイシャが十歩も歩かない内に端から端へと辿り着いてしまう。
その中に”彼女”と思われる白骨は転がっていない。念の為湖にも目を向けたが、きらきらと輝く表面の裏、水中の底にも誰の骨も存在していない。
水滴が落ちるだけのこの地底湖には、風一つ吹き込む事なく流れも無い。”共に”と言うなら、傍に置く筈だ。では、”共に眠る”とは――
「…………」
石版の裏に隠されていた、華を秘める結晶を見下ろす。光を透して虹色に輝き、当時の生きたままの姿を石の中で保っている白い華。
少なくとも人では、植物系の亜人でも無いのは確かだ。目の前のこれは、明らかにただ咲いているだけの華に過ぎない。
しかし、だが。状況から考えるに、これが――
「――これ、持ち帰ったら……国に献上したら、どのぐらい……」
ごくりと、大きく息を呑む。恐らく埋まって尖端が見えているだけの結晶の全体は、これまで目撃した結晶の中でも最大級の大きさを持っているだろう。
さらにどれだけ古いか正しく推察は出来ないが、当時の植物を美しく保存している上に純宝石クラスの輝きを保つ石など、貴族でもそうは持っていない筈だ。
これだけで家が立つどころではなく、勲章と地位がもらえる。そうなれば、もはや冒険者などやる必要も無い。信頼に足る護衛も雇い、悠々自適に屋敷で暮らして人生を過ごせる。
これを、持ち帰れば――
「…………っ」
一つ一つの言葉が、魔法の刻印よりも深くアイシャの頭に刻み込まれていく。
わかっている、これは過去だ。直接的に護る意志を抱く霊魂すらも消えた過去の人間が、アイシャの邪魔など絶対に出来ない男が。そんな赤の他人が過去に遺した、単なる文字列に過ぎない。
”彼女”などという人はここに居ない。あるのはこの結晶とそれが秘める価値、そして今を生きるアイシャが目の前にしている、宝石よりも輝かしい未来だけだ。
――それだけ、だ。
「――……それだけ。です、よね」
ごめんなさい。一つ謝り、アイシャはその場に座った。
◇ ◇ ◇
洞窟の最奥。全てがそれぞれの星を持つその場の、全ての光は無くなった。
ここを訪れた冒険者も、もう居ない。水音のみが寂しく響き、これからもずっと眠り続けるだろう白骨と星々は、永久の死に寄り添う黒を夜具代わりに纏い続けている。
遺跡の果てにあるものを知る冒険者は、辿り着いた者はただ一人。
その一人だけが、眠りし地に在る星々を手にする自由を得た。
故に、地底に眠る小さき星空に何があるか、何が居たか、何が遺されていたのか。
それを覚えているのも、今では一人しか居ない。
散らばる星空を自然に抱く天井。輝く粉雪を浮かべる美しい湖。取り囲む流星の地面。
その湖の中心で悠久の時を眠る、悔恨の中で果てた古きエルフの魔術師も。
辿り着いた一人の冒険者が何を想い、何を成したのか。それすら、誰にも知られずに。
――優しい天蓋に包まれて、眠り続けるだろう。
◇ ◇ ◇
「偏屈で捻くれてて意地っ張りで、魔法の事ばっかり考えてる、ヒドい奴。
でも、星を眺めている時には優しく微笑んでくれる。そんな貴方を、愛していました。
だから貴方が見せてくれた、あの小さな星空の代わりに、私はこの花を残します。
長く、永く生き続ける貴方が。私が居なくなった後でも、私を思い出してくれる様に。
季節が巡り、あの花が咲く。その度に私を思い出してくれる事だけを、願います」