「くっ!」
「遅えって」
両手から自身の剣が離れ、からからと地面を滑る音が崖の方向へと遠ざかっていく。
確かに握り締めていた筈の剣を失い、反射的にアイシャは後ろに飛び退いて左腰から右手でダガーを取り出そうとする。が、ダガーを構えるより早く、アイシャの右腕の表面を男がなぞる様に投げナイフで斬った。
「痛ッ――」
「大人しくしてくれよ、なっ」
右腕につけられた浅い傷の鋭い痛みから、アイシャはダガーを取り落としてしまう。その一瞬の硬直で男はアイシャに密着する様に前へと踏み込んできた。
そのまま男はアイシャと自分の腰の側面を合わせ、踏み込む勢いでアイシャの体を後ろへ押し込み、同時に左脚でアイシャの足を刈る。
アイシャはその場で浮いた様な錯覚を感じながら、男の手によっていともあっさりと投げ崩され、石の床に仰向けに転ばされた。
「かっ、あ……!」
「ほい終わり。悪ぃーなー、痛かったろ?」
地面に背を打ち、肺から空気が押し出される。アイシャがそこから起きるよりも一手早く、男はアイシャの腹の上に馬乗りになって、自らの体重でアイシャを地面に磔にした。
一瞬だった。十分に警戒し構えていたにも関わらず、アイシャは一瞬で武器を失い、体勢を崩され、体の自由を奪われた。絶望的なまでの力量の開きが、はっきりと今表れていた。
(ダガー、だけでもッ――)
「あーダメダメ。こうなっちまったら全部無駄な足掻きだっての」
アイシャが落としたダガーへ手を伸ばそうとするも、男は右手に持っていた投げナイフをダガーへぶつけ、遠くへと弾き飛ばす。
そうして空いた右手で男はアイシャのシャツの胸倉を掴み、腕で首を抑えて上体の動きを封じ、左手の曲剣の刃をアイシャの首から見て水平になる様に構えた。
「……く、くうう……!」
「なるべくキズ残らねえように鋭く斬ったけど、痕残っちまったらゴメンなー?」
首には曲剣が翳され、胴は男の重みで抑え込まれ、武器は手に取れない。
”戦闘”にすらならなかった。男はアイシャに対して傷跡を残さない様に手加減をし、それでもなお圧倒された。
動きを抑え込まれながらも、アイシャは必死でこの状況を打開する為に考えを巡らせるが、五体を完全に地に伏せられたこの状況では、どれだけ頭を回した所で何一つ行動を起こせない。
――詰んでいる。頭の端に、冷え切った客観的な答えが生まれた。
(……ここまで来てっ、こんな、こんなっ……!)
一度生まれた弱音はじわじわと頭全体に滲んでいき、アイシャ自身を諦めさせようとする。それに心中で必死に抗おうと考えるも、そこから打開策は何も生まれない。
苦い表情を浮かべ、元凶たる馬乗りのまま見下ろしてくる男を睨みつける。視線だけで何かが変えられる訳でも無い、しかし今のアイシャにはそれしか出来る事が無かった。
「あーらら、怖ぇ顔しちゃって。そっちだってオレの仲間殺してんだ、これでイーブンだろ?」
「……ッ」
見下ろす男からは既に殺気も敵意も失せていた。それは既に、男がアイシャの生殺与奪を握っていると考えている証拠だ。
そして実際に、アイシャには抵抗する力も手段も無い。ここから何をやった所で、優位に居る格上の男には通用しないだろう。それでもなお、諦めるというのは論外だ。
そんな簡単に諦められる程、これまでの自分の冒険は軽くは無い。
「……なあ、嬢ちゃん。オレがこのまま嬢ちゃんを連れ帰ったら、どうなると思う?」
「…………」
そんな敵意に満ちた眼差しを無視し、男はアイシャへ語りかける。
仮定。このまま男に捕まえられた場合、どうなるか。そんな事は、考えるまでもない。
”オモチャにする”と、先程既に言葉にしているのだから。
「うちのリーダーはオレよりずっとキツくてな。
「ッ」
はっきりと口に出される自分の行く末に、アイシャの表情が曇る。
わかっていても、受け入れがたい。ただ単に男に殺されるよりも、ずっと辛い道。おそらくは自害も許されないだろう、女として、人間としての尊厳的な死。
既に幹部級の男を殺している以上、甘い扱いはされないだろう。最悪、奴隷用の呪印などを使われ、自我を奪われカラダだけの存在に成り果てる事も有り得る。
――イヤだ。いやだ、いやだ。
「――助けて欲しい、だろ?」
最悪の未来を想像したアイシャの表情に恐怖がにわかに浮かぶ。
それを見計らって、男が薄く笑いを浮かべた顔をアイシャの眼前へ近付けてきた。
「嬢ちゃん。オレのモノになる、ってんなら、口利いてやってもいいぜ」
「え――ぁっ」
「悪い話じゃあ無いと思うぜ。少なくとも、団の連中に
男は胸倉から手を離し、代わりにアイシャの左胸へ右手を添える様に乗せる。
男は、アイシャ自身の命を引き換えに完全な屈服を要求してきていた。服越しに感じる掌の硬さと、目の前の男の野卑な表情に、それまでとは別種の恐怖が湧き上がる。
「おいおい、マジでいいカラダしてんなあ……どうだ?どうする、嬢ちゃん?」
「ひゃぅっ……!」
左胸を包む男の掌に、返答を要求する力が込められる。その力のままに、アイシャの胸は形を歪められ、本能を煽る柔らかさを掌に伝えていく。
男は欲の籠もった視線で、アイシャの胸から顔に至るまでをねっとりと視線で撫でる様に眺め、アイシャからの返答を待った。
それに対し、アイシャは――
「あの……」
「ん、なんだ嬢ちゃん?」
「……せめて、優しく、してもらえませんか……?」
「――ヘヘッ。いいねいいねえ、物分りのいい女はだーい好きだぜ?」
身体を小さく震えさせ、目を涙ぐませながら、アイシャは自らの胸に触れる男の掌に自分の手をそっと重ねて、男に小さく懇願した。
自分の安全と引き換えに、カラダを売り飛ばす。完全に男に屈したアイシャの反応を見て、男は機嫌を良くして上体を起こし、首の前で掲げていた曲剣と、胸を掴んでいた右手を引く。
物分り良く”前払い”をしてくれるのなら、受け取ろう。侵入者を捕まえた事に対しての思いもよらぬ”ご褒美”に、男は片頬を大きく吊り上げて笑みを浮かべた。
幸い、ここは他から邪魔が入らない孤立した場所だ。少々長くこの場に居て
「……ぅ……」
「へ、オレが脱がせてやろうか?」
「……いえ……自分で、やります……」
「ハハ、そっかそっか。じゃ、特等席で眺めさせてもらわ」
男に馬乗りにされた状態のまま、アイシャは自分から進んで胴に巻き付く革のコルセットの結び目に指をかけ、糸を解いて取り外す。
男は最低限の警戒として左手の曲剣を握ったまま、腰を僅かに上げてコルセットを抜き取りやすい様にすると、アイシャは男の無言の指示に従い、自らのコルセットを横へと抜き取り、地面へ棄てた。
どうやら本気で諦めてカラダを明け渡すつもりらしい。男は正直、口だけ降伏して油断させた所で、最後に悪足掻きでもするとばかり思っていていたが、面倒が無いならそちらの方が良い。
事実、この少女にもはや自分をどうこうする力など無い。それを悟って早々に男に媚びるというのは、女として十分賢い選択と言えるだろう。
「……あの……あまり……見ないで、くれませんか……?」
「おいおい、ここまで来て”見ないで”は無いだろ?どうせこれから、いくらでも見るんだからよ。むしろ、”もっと見てください”ってのが正しいじゃねえか」
アイシャは続けて自身のシャツの裾に両手をかけ、ゆっくりと持ち上げて白い腹部まで晒す。が、そこで一度見られ続ける事への羞恥によって両手は止められた。
だが、ここまで来てお預けなど許す訳も無い。男はアイシャの滑らかな腹を手でゆっくりと撫で触りながら、むしろ先程より食い入るような目つきでアイシャへ脱衣を促してくる。
くびれた腰付き、未だシャツに隠されながらも山なりに膨らんだ胸、頬を染め上げた可愛らしい顔。そのどれもを見逃さないと言わんばかりに、男はアイシャを視線を送り続ける。
やがてアイシャは観念した様に、目を伏せた。
「……わかりました……見て、ください……」
「へへ、言われなくても――」
アイシャの両手が、再び上へと動き出す。男へ、シャツの下に隠れているモノを見せる為に。
胸を抑え込んでいる筒型の無地の下着、そこからはみ出た豊かな胸の下部――
「――よぉく、ねッ!」
「ん゛なッ、あッ――!?」
(今だッ!)
アイシャが胸の上まで服を持ち上げ、首飾りに手を触れた瞬間、そこから閃光が迸った。
身体を見る為に目を凝らし続けていた盗賊の瞳に、強い輝きが焼き付く。男の視界が強い光によって黒斑が焦げ付くのと同時に、アイシャは伏せていた目を見開いた。
アイシャは男の腰を素早く両手で掴み、体を反らす様に腰を地面から持ち上げた。それに伴い、前につんのめった男は、アイシャの頭の辺りにある地面に両手をついてしまう。
すかさずアイシャはバランスを崩した男の腰を両腕で浮かし、自分と盗賊の体の隙間に自分の膝と脚を折り曲げて差し込み、そこから全力で脚を伸ばして男の胴を蹴って突き飛ばした。
「ぐおっ!?」
「……ッ!」
男が自分の体の上から完全に離れた瞬間に、アイシャは横に転がって素早く立ち上がる。
そのままアイシャは、胸の上まで持ち上げた服も直す事もせず、壁沿いに逃げていった。
「――……あ、あんの、クソガキィッ……!!」
完全に一杯食わされた。男がその事実に気付いた時、先程までの笑みはどこにもなかった。
視界の眩みが収まってくるにつれ、怒りが湧き上がってくる。完全に恐怖し、屈服していた様に見えた。涙まで見せ、懇願までしていた。
それら全て、男を騙す為の演技だった。それに、引っ掛かってしまった。
「……いい度胸だ、テメエッ!」
絶対に許さない。その怒りのままに、男はアイシャの逃げていった方向へと素早く駆け出した。
少女の速さは既に一度、斬り掛かってきた時に見ている。確かに素早いが、自分ほどの脚を持っている訳ではない。
そして距離を離すために全力で逃げている以上、足音は離れていても響いて聴こえてきている。これなら、逃がす事は無い。
(足音は――壁沿い、このまま真っ直ぐ!)
どこまでも整えられた石の壁と道の先で走るアイシャの足音を、男が追っていく。地を駆ける度に、ほんの僅かだが足音との距離が詰まっていくのを耳で感じ取る。
もう容赦はしない。一度かけた温情を裏切られた以上、男はもはやアイシャに投降も降伏も許すつもりも無く、そして女を相手にしているという油断も完全に捨て去った。
もう一度前にすれば、もう容赦はしない。力量に差がある以上、先程の様な不意打ちに気をつけてさえいれば、もう負ける余地は無い。
そう考えて走り続けていると、前から聴こえていた足音が鳴り止んだ。
「……鬼ごっこは終わりだぜ……!」
何か策を講じたか、それとも隠れて奇襲でも狙っているか。後者に備えて男は周囲の気配を聞き取るべく、自らの歩を緩めて足音を消す。
左手の曲剣を前に構え、右手はいつでも予備のナイフを取り出せる様に腰に構えている。その状態のまま、周囲の気配を探りながら足音が消えた場所へと進んだ。
「竪穴、か」
そこにあったのは、岩肌に開いた自然の亀裂から覗く、地面の抜けた行き止まりだった。
念の為、自身の側方から後方までにもう一度注意を向ける。いかにも身を隠す場所といった竪穴を
だが、周囲はこれまでの通路と同様、整えられて広がった空間だ。竪穴の付近以外は全て人為的に平らに切り拓かれており、隠れる場所など一つも無く、少女の気配もない。
「ん……?」
やはり
目の前の竪穴は上下に空いているのがわかるが、その下部の方は俄に明るい土色を見せていた。
(――ハッ)
その場でじっと竪穴の下部を眺め続ける。竪穴の下部からはなんの音も聞こえてこないが、僅かにそこから見えている明色は静かに左右に揺れを見せている。
竪穴、僅かな明かり、無音。こうなればもう、あの少女が何を狙っているかは明らかだ。
(またさっきの目潰しから不意打ち、か……しょーもねえ)
あの竪穴の下に、あの少女が隠れている。そして男が覗き込んだ瞬間に再度あの首飾りを光らせ、目を眩ませて怯んだ瞬間、この竪穴へ引きずり込む。
最初から不意打ちで来るとは思っていたが、こうして策が最初から割れるのは陳腐極まりない。ただでさえ少ない勝機を自分から減らしてしまうとは、余裕が無い立場とはいえ随分粗末な事だ。
男は曲剣を構え、わざと竪穴へ聞こえる様にゆっくりと一歩を踏みしめて音を立てる。その瞬間、男の目に見えていた竪穴の明かりが下へ降りて見えなくなった。
(手遅れだっつの)
あからさまな準備は、逆に男の考えの裏打ちにしかならなかった。
少女はこの竪穴の下で隠れ、今にも自分が顔を出すのを待って先程の目潰しの準備をしている。だが、それが上手くいく事は絶対に無い。
男は次に来るだろう閃光に備えて両目を細め、竪穴まであと一歩の所まで進む。顔を出した瞬間に来る閃光の直後に、その先にいるだろう少女の姿を捉え、仕留めればいい。
――いや、殺すのはダメだ。殺すのでは、気が済まない。先程”最悪”として提示した通り、盗賊団の奴隷にして逆らった事を後悔させなければならない。
「――そこだろ!」
わざとらしく”今見つけた”風に声を上げながら、男は竪穴の下を覗き込む。
その瞬間、再び目の前が真っ白な光に覆われた。
(アタリだ!)
予想通りだ。絞った視界が光の影響を最小限に抑え、男は内心でほくそ笑む。
男は下から来る次撃を警戒しながら、光の先に隠れているだろう少女の姿を探した。
――だが。
「……あ?」
そこに、少女はいなかった。
そこにあったのは、
「――こっちですよ」
「ガッ――?」
上を向いた瞬間、
続けて、落ちてきた少女が男の頭を踏みつけ、刺した
そのまま少女は男を足蹴に竪穴への通路に戻り、同時に男を竪穴の中へと蹴り落とした。
「……ハズレですよ、ばーか」
頭から流れ出る血液と共に、男の全身から力が抜けていった。
落ちる。落ちていく。その実感と共に、少女の姿が離れていく。
なんだ。何をされ、た。
――また。騙され、た。
「こッ、の゛、クソガキイィ゛ィ゛ッ!!」
それを理解した瞬間、男は竪穴の遥か上まで響く怨嗟の声を上げ。
そのまま男は、底の見えない奈落へと落下していった。
◆ ◆ ◆
「……いやぁ、何が役に立つかわかりませんねえ」
男が暗闇の底へ消えたのを見送ってから、アイシャは自分の左手首に着けている細腕輪を再度見やる。
熾火の腕輪。魔法の種火を生み出し、自分から離れた場所で操る事が出来る――たったそれだけしか出来ない、チャチなマジックアイテム。
使う側から見ればそれだけの腕輪だ。しかし、使われる側から見ればそうではない。
(こっちをナメてかかる単純バカで助かりました)
やった事は自体はシンプルな
そこから、熾火の腕輪で火を竪穴の下に生み出し、あえて通路から明かりが漏れて見える様に中途半端な高さで火を維持し続ける。
あとは”焦って明かりを隠した”と考えさせる為、タイミングを見計らって一旦火の高度を下げ、男が顔を出した瞬間にシャツの場所まで火を持ち上げる。
「あー、シャツはもう使えませんねコレ……まぁいっか」
そうすれば、
アイシャの服は先程、”天蓋”において燭光石の粉が浮かぶ湖に浸かっていた。特に繊維の細かい自分のシャツは、目に見えない程小さく細かい粉が多量にまぶされている状態だ。
あとはシャツの発光で、アイシャが
その代償としてアイシャのシャツは爆発した部分が焼け焦げ、ボロ布と化してしまったが、服一枚で敵を殺せるのならば安いものだ。
「……これに懲りたら、女の子には優しくしないとダメですよー?」
男が落ちて消えた竪穴の底を覗き見る。落下する音も、アイシャへ向けた憤怒の声も、もはや穴からは聞こえてこない。
来世は真っ当な紳士に生まれ変わる事を祈り、アイシャは女の敵の墓標へ小さく呼び掛けた。
自分を知れ……そんなオイシイ話が……
あると思うのか?……おまえの様な人間に
ハニートラップには気をつけよう!