ポタ、ポタ、ポタ、ポタ。
「……ハァ……!」
ポタ、ポタ、ポタ、ポタ。
「ハァ……ぐっ…………」
ポタ、ポタ、ポタ…………
「……何者なんだ……何故なんだ……!?」
ひたっ、ひたっ、ひたっ。
「…………………………」
ひたっ、ひたっ、ひたっ。
「……浅葱凛子……!!」
『マスクを剥がすのは/Over the veil』
彼は、屋根の上からの襲撃者に斬られた。
その人物こそが、浅葱凛子だ。
バッグにしまっていたウサギのぬいぐるみは、頭部の綿が抜かれていた。綿を抜かれ、空洞の中に自身の顔を覆う。残りの身体は彼女の背後にぶら下がっている。
両手には刃渡り四十センチに至る包丁が握られ、片方は血で濡れている。赤い滴が、地面に落ちた。
幻徳は完全切断を免れていた。
凛子の攻撃をいち早く気付き、後ろに仰け反る。だが包丁のリーチの差で、刃先で喉仏の少し上を削られた。
「……チッ」
怪我は問題ではない。
問題は、スクラッシュドライバーの入ったバッグと離れ離れになった点だ。
回避時に、勢い余った包丁が持ち手を斬った。ボストンバッグは、凛子の足元に落ちる……幻徳の血の滴の、受け皿と成り下がった。
「……どう言う事だ……これは……」
幻徳は信じられなかった。
十代前半の幼けな少女が、明確な殺意を持って襲って来る事に。
殺意だけではない、本当に殺す気で凶刃を振るった事に。
(操られているのか?……いや、そんな安易な物では断じてない。あの殺意は本物だ……こいつの意思だ)
喉の傷を押さえながら、急いで立ち上がる。
立ち上がった所で、逃げ道は彼女に塞がれた。彼女自身が壁となって。
「……何故、俺を襲う……!」
喉の蠕動だけでも、痛覚が発生する。叫ばれない。出せる範囲の声で彼女に問う。
凛子は顔をゆっくり上げる。
「……お父さんは」
表情はぬいぐるみがマスクとなり、伺えない。
「お父さんは……『ヒトゴロシ』」
血の臭いを掻き消さんばかりの薔薇の匂いが鬱陶しい。
「私も、『ヒトゴロシ』」
刃が鈍く陽光を映す。
「たぶん、いけないこと」
風が止んだ。
「でも私は、お父さんの子供だから」
暫し静寂。
「……『優しいお父さんだから』」
雑に切られ出来たぬいぐるみの亀裂から、口が僅かに見える。
荒い息を繰り返す口は、満面の笑顔だ。
幸福の笑みだ。
幻徳は、固唾を呑む。
(父親が人殺し……だと?)
彼女は、何らかの形で、父親の殺害風景を見た。
観察学習……善悪の区別が曖昧な彼女は、『彼女にとって優しいお父さん』の行動を模倣した。
模倣し、実行し、覚えてしまった『殺しの味』。
殺しの味は、人間を依存させる厳酷な味。
だが、彼女の中には「殺しはいけない事」と認識もある。
快楽と良心のアンビバレンツ。
依存と抵抗のジレンマ。
血筋と自我の二律背反。
その半端で幼い心は『劣等感』を生み、自分がこうなった原因を消したがる。
だけど、大好きな父親は消せない。
だから消すのだ。『父親の代わり』を。
彼女の殺意は、後戻り出来ない一本の線上に半端に留まった、結果である。
(……父親が人殺し……)
場違いだが、苦笑いを零す。
「……俺の逆か」
その自嘲は、凛子には聞こえない。
ワンツーステップで、彼女は再び幻徳に斬りかかる。
「ぐぅッ!?」
一気に距離を詰めたと思えば横に飛び、壁を蹴って跳躍する。軌道が読めない。
「なんて身体能力だ……!!」
跳躍した凛子は、回転しながら幻徳の首を狙って迫る。
常人では反応出来ない凛子の人外じみた攻撃。
「……ッ!!」
だが幻徳は、一般の人間よりも身体能力に恵まれていた。
凛子の攻撃に何とか反応し、刃が喉を搔き切る前にしゃがみ込んだ。
「はっ!?」
幻徳の反応に、凛子も反応。
彼が回避に成功したと一瞬で理解し、そのまま包丁を斬り下げる。頭頂部に斬り込みをつけるつもりだ。
「うおぉおお!?」
急いで身体を地面に伏せる。
だが、前に出していた左手に刃が入る。所謂、手刀と呼ばれる箇所に食らったが、本物の刃に人体が敵う訳がない。パックリ割れた手の側面部より、血飛沫。
「…………」
「うぅ……!」
痛がる余裕はない。避け切った恩恵でチャンスが生まれた。
幻徳から見て前方が空く。その方向には出口と、血の付いたボストンバッグ。
「ぐぅぅ!!」
逃げ切る事は不可能だ。
ここは人のいない薔薇園。袋小路から出られた所で、逃げ切ったとは言えない。本当に逃げ切る時は、薔薇園から出た時だ。
現状、とても無理だ。凛子はもはや、『怪物』。寧ろ、この場から出る前に仕留める力量がある。
つまり逃走は不可能。無謀。悪手。『BAD』だ。
ならば生き残る道は一つ。『戦わねば』。
「バッグを……!!」
落としたボストンバッグを拾えば、変身して戦う事が出来る。
あの刃を凌ぐ、無敵の鎧が手に入る。
「……回収しなければ……!!」
彼は無様に、犬のように這った後、態勢が整ったと同時に立ち上がり走る。
バッグ目掛け、無我夢中だ。
だが、それを待ってくれる相手ではない。
凛子は仕留め切れていないと判断し、幻徳を追う。
跳んでいた状態から地面に着地したと同時に、また跳び上がる。
「もう少しだ……ッ!!」
手を伸ばせば届く。
血だらけになった左手を、彼は必死に突き出した。凛子は背後にまで迫る、迫る。
いや、それは幻徳の一瞬の勘違い。背後に気配はない。
気配は、上だ。
「ッ!!」
突き出した手を急いで引っ込め、背後に倒れ込む。
そのコンマ一秒の後、凛子は空から降って来た。
跳躍した彼女は倉庫の屋根を伝い、先回りをした。
「あんな一瞬で屋根にッ!?」
幻徳は肝を冷やす。
凛子の刃が、後退した自分の鼻先を掠めたからだ。
「………………」
希望のボストンバッグを踏み付け、凛子は静かに佇む。
血で濡れた包丁を、一度上から下へ素振りし、露払い。
またもや幻徳は、袋小路に戻された。
「…………最悪だ」
幻徳は行き止まりの奥へ走る。
厳密に言えば、行き止まりではない。錠前のかけられた、従業員用通路だ。
先程、パトカーのサイレンが聞こえた。この奥は駐車場。来客、帰宅客、係員、警備員……薔薇園よりは人がいるハズ。
「おおお!!」
扉に体当たりするが、頑丈だ。
ならば錠前をと無造作に掴み揺するが、やはり頑丈だ。
「……スゥゥ……」
凛子は浅い呼吸と共に、鳥の翼のように両手の包丁を広げる。
彼女にとって予想外は、幻徳が思いの外身体能力が高かった事だろう。僅かに苛立ちが起きていた。
「開け……!! 開けぇぇ……ッ!!」
だが、幻徳は彼女以上に取り乱している。出口を求め、無様に錠前を引き千切ろうとしている。素手で壊せる訳はないのに。
人間、自分以上に狼狽える人間を見ると、落ち着くものだ。凛子は冷静になる。
冷静になった上で、最後の一手にするつもりだ。
「ッ」
膝を屈めた後、一直線に幻徳へ突進。そして幻徳の十歩後ろで飛びかかる。
豪快なのに、全くの無音。優雅な一撃、必殺の刃。
「開くんだ……開いてくれぇ……ッ!!」
刃が、幻徳の頸を狙い、突き刺さろうとした。
今の彼は、パニック状態。
「よし。『開いた』!!」
錠前は動いていない。
凛子が反応するより先に、幻徳は突然大きく旋回した。
彼の着ていたパーカーが、脱げる。そして遠心力で投げる。
開いたのは、『パーカーのチャック』。
凛子から見れば、視界一面がパーカーに染められた。
「ッ!!」
そのまま視界を奪われるだけの彼女ではない。
飛ばされたパーカーごと、幻徳を斬ろうとその場に身体を捻り、コマのように横回転。頭部と下半身が逆転する勢い。
安いポリエステルが包丁を防げる訳はない。寧ろこの行為は、幻徳からも凛子の姿を見えなくしてしまった。
パカッと、真っ二つ。刃は十分、幻徳の左頰から右側頭部まで貫く長さ。墓穴を掘ったのは彼だった。
「……?」
しかし、人を斬った事のある彼女には分かる。『感触がない』。
「……!?」
斬ったパーカーより、小銭や札束が宙に飛び出した。お金の雨の中、従業員用出口の前にいた幻徳は、いなくなっていた。
「ッ!?!?」
「ふぅッ……!!」
彼は跳躍途中の凛子の下を擦り抜け、再びバッグへ整ったフォームで疾走する。
彼がパーカーを投げたのは視界を奪う為ではない。凛子の態勢を変えさせ、真下を通り抜けやすくする為だ。奥まで逃げたのは、凛子に直線的な攻撃をさせる為でもある。
勿論、デコイの役割も含め。凛子は完全にパーカーと、飛び散ったお金に注意を向けられていた……反応が遅れた。
「……頼むッ!!」
今度は届く。ズタボロのゴミ状態と化したボストンバッグを、彼は右手で掴んだ。
掴んだが、やっと掴めたそれを離してしまう。
手に、何かがぶつかった。
「がっ……!?」
錠前だ。
高速で飛んで来た錠前が彼の手にぶつけられ、衝撃と痛みで離してしまった。
幻徳は勢い余って転び、バッグの上を通り過ぎて盛大に地面に倒れる。
倒れた状態で見た凛子の姿に、戦慄さえ覚えた。執念を感じたからだ。
「ぐあぁ……!」
凛子は包丁の柄で錠前を殴り、折損させた。
取った錠前を上に投げ、バットのように、包丁の側面で叩き付ける。
錠前は彼女の狙い……不慣れな事なので頭部とは大きく外れてしまったが、幻徳の伸ばした右手に当てられた。
(あのバッグに執着している……)
思えば出会ってから電車、駅から遊園地、そして園内においても彼はボストンバッグを手放していなかった。
凛子は気付く。なにかがバッグの中にあると。勿論、彼女なりの想像ではあるが、武器や連絡手段だろう。
いずれにせよ、危険要因は潰すまで。袋小路から出さないよりも、バッグに近付かせない事に目的をシフトさせた。
幻徳は間に合わなかった。バッグは、チャックすら開けられていない。
「……………………」
幻徳はその場に、情け無い呻き声を上げつつ這い蹲っている。バッグへの執着が消せないのか、気力が尽きたのか、諦めたのか。
しかし、次に彼がバッグへ手を伸ばそうとするならば……いや、伸ばす事も出来ない。凛子にとって、その行動は彼の隙だ。
腕を切断し、悲鳴をあげる寸前で喉を斬り、静寂のまま事を済ませる算段が出来ていた。
詰みだ。幻徳はどう足掻いても、次で死ぬ。
彼女の、本当の、最後の一手が、彼を殺す。
凛子は跳躍する。地面を蹴り、壁を蹴り、刃を振り上げ幻徳を狙う。
彼は立ち上がろうとする。遅い、もう遅い。
幻徳が見上げた頃には、刃は目前に。
「ウサギには一度、コテンパンにやられたが」
彼は左腕を上げる。
「……救われた点では、良く似ている」
ガキン。
肉の柔い衝撃ではない、硬い無機物の衝撃。
「俺のバッグの上で『露払い』をした時に、図らずも救われた」
凛子は動揺した。
『スクラッシュゥドライバー!!』
蛍光色の、何とも言えない、オモチャのような物に刃を止められたからだ。
幻徳の左手から流れる血が付いたそれは、バッグの奥に仕込んだハズの『スクラッシュドライバー』。
ハッと、凛子はバッグを一瞥する。
ボストンバッグに、大きな切れ込みが出来ていた。
幻徳ではない、自分だ。幻徳の行く手を遮った時に行った、包丁の露払い。刃先がバッグに当たり、切り開いた。
彼はその開いた口に左手を突っ込み、一瞬でスクラッシュドライバーを抜き取れた訳だ。
頑丈なスクラッシュドライバーは包丁を防ぐのに申し分ない強度を持っている。
フォームを崩され、次の一手が出せない彼女をドライバーで弾き、距離を作った。
逃げ切れる距離ではない。まだ彼女の可動範囲内、手の平の上。
だが、幻徳の勝利でもある。
「……新聞は見るか?」
「……!?」
バッグの切り口より、新聞がこちらを覗いていた。
『謎のヒーロー!? 正体は誰だ!』
今朝の新聞。幻徳は、新聞は普通に捨てて良いのか迷った挙句、やっぱりゴミ箱から回収していた。
それは一週間前に流々家町を騒がせた、謎のヒーローの考察記事。
「似顔絵が似ていなくてな……」
ドライバーを腹部に当てると、自動的にベルトが射出され、巻かれる。
その技術に凛子は驚かされた。
「…………きっちり、記憶に焼き付けてやる」
幻徳は立ち上がった。
『最強の秘密兵器。補欠』
何故か彼の着るTシャツには、堂々とそんな文句が書かれている。
そんな事はどうでも良い。彼は徐にポケットから、ボトルを取り出した。ボトルは、ずっとポケットにしまっていたようだ。
フタを回す。
『DANGER……!!』
音声の後、迫り来るような音楽が鳴る。凛子はその、間抜けながらも異端な状況に、警戒していた。
次にボトルを間髪入れずに、ドライバーの中心部にある窪みに挿入。
ワニが、水面から出現したかのような意匠のネオンが、ボトルより飛び出る。
『クゥロコダイルッ!!』
一気に音は禍々しさを放出。
心臓の鼓動のように明滅を繰り返す、ボトルの光。
危険を察知した凛子は、何かが起こる前に幻徳を殺そうと構えた。
構えは一瞬。飛びかかる。
「……変、身……」
青痣のついた右手で、スパナのようなレバーを押し込む。
連動し、ボトルの左右から棒が飛び出し、挟む。
その前に凛子は幻徳に斬りかかる……が、しかし、何かが下から迫り上がり、彼女を吹き飛ばした。
態勢を整え着地に成功するが、目の前に広がる光景に絶句する。
彼は理科室で見る、実験用ビーカーの中に、収まっていた。彼女はその、ビーカーの淵に叩き付けられた。
その中に、紫色の液体が満ち、幻徳の身体を浸している。
暫し静寂。
次の瞬間、それを壊す音声が響いた。
『割れるッ!』
幻徳の身体は、液体が凝固した物に包まれた。
『食われるッ!!』
ビーカーの左右にワニの口が地面から現れる。
『砕け散るッ!!!!』
口がビーカーを噛み、圧砕。
液体とビーカーの破片が散乱し、思わず凛子は腕で防いだ。
再び、幻徳の方へ視線を向けた時、彼の姿は面影もなく変貌している。
ビーカーは消えた。あるのは黒い、ジェット石のような頭の、紫を基調としたスーツの人影。
最後に、そのジェット石が、顎の部分から伸びていたワニの口に挟まれる。
白いヒビが入り、青い目が表出。
『クロコダイル・イン・ローグッ!! オォォォウラァァァァアッッ!!!!』
『KYAAAAAAAAA!!!!』
凛子にとって、見覚えのある存在が目の前にいた。
いや。彼女の見た物より、目は丸く、ワニの部分は短い。
新聞で見た、あの似顔絵の主……『仮面ライダーローグ』。
それが自分たちと一緒にいた、何処か情け無さのある男、氷室幻徳だった。
「紫の……ヒーロー……!?」
沈黙を、凛子は破る。己を隠せないほどの、動揺が身体を巡っていた。
「あなたが……!?」
何者なんだ、アレは一体なんだ、何が起きた……幾多に巡る不確かな思考の中でも、一つだけ確かな事がある。
この男、危険だ。
「……お互い、マスクをしている」
今までと一気に変わった彼の雰囲気。
ドスの効いた声には、明確な闘志が含まれている。
「……さぁ。マスクを剥いでみろ」
幻徳は……ローグは自身の仮面を指先で突き、挑発。
凛子は何振り構っていられない。自分で作り乗せた土俵だ、戦わねばならない。
この、異形の戦士と。