Fate/Apocrypha - Romancia - 作:己道丸
遅筆には変わりありませんが、お付き合いいただけることあらば幸いです。
***
“これ”はホムンクルスであった。名前などない。
名付ける者などないのだから。
呼ぶ者は無く、名乗るような相手も無い。求められることなど、無い。
それは“これ”が特別そうであったからではない。この場に数多あるホムンクルス、百を数えるであろう人ではない人型、それら全てに名前などないのだから。そこに誰が、何が居ようが、“これ”は名前など必要なかったし、必要ともされなかった。
だからそれは、この場所において極々ありふれた、余すことなく誰もが享受する、ありきたりの不幸なのだ。
それらは瞳を晒さない。
それらの舌は空気を叩かない。
それらの手は掴まず、足は踏み出さない。
ただ透明な柱の中で、熱もなく灯る水の中で、浮かんでる。
それらは生まれない。
胸の内にある臓器を伸縮するだけだ。
母ならざる胎の内で漂う大柄の胎児だ。
だから“これ”が思いを得たのは、視界を拓いたのは、全くらしからぬ異端なのである。
――どうしてだろう
疑問があった。
――どうして俺は生まれないのだろう
“これ”は最早それらではいられない。それらは思いを持たない者たちだからだ。
それらは見ず、語らず、歩き出さず、ただ在る者たちだ。
あてがわれた柱の中で、灯る水の中で、ただ在るだけの肉塊である。
ホムンクルス、それはフラスコの中の小人。
あまりにも小さな世界の中心、それ故に全てを把握する、全知全能の矮小。
しかし“これ”は思い、疑問し、そして瞼を開く。
“これ”はもう、それらではいられない。
――何故俺はここにいるのだろう
“これ”は知っている。自分の行く末を。
消費だ。
それらは消費される為にある。
見たこともない、会ったこともない誰かの為に、消費される為にここにある。
だがその宿命はそれらのものだ。最早それらではない“これ”は受け入れることができない。
――このままでは使われてしまう
死ではなかった。何故なら“これ”は生まれてすらいない。
消費だ。
生を経ず、死に至らず、“これ”はどこかの誰かの為に使い潰される。
――いやだ
生きたい。
生まれたい。
思いを持ったのだ。
包む水、阻む柱の向こうに、世界がある。
今は目覚める事なく浮かぶそれらしか見えなくても。
薄暗く、広く、道があるのかさえ分からなくても。
きっとそれでも、歩いた先に今は見えないものが見れると思ってしまったから。
――ここから出たい
血の通わぬ子宮は飽き飽きだ。
出してくれ、ここから出してくれ。
息がしたい。
空気の味を知りたいのだ。
掴みたい。
五指が生きる糧を捕らえたがっている。
痛い。
胸の奥で膨張と収縮を繰り返す真っ赤な臓器が、囲う骨の先に食い込んで堪らない。
動け、動け、と。生に漕ぎ出せと、“これ”の体内に余さず熱を送り出す。
――あぁ、血が痒い
掻き毟りたいほどの情動が、幾百の通り道を走り抜ける。
――生まれたい!
出してくれ、出してくれ、子宮しかない母よ。
固い腹の中に羊水を溜め込むだけの水槽よ。
最早外があることを知ってしまったのだ。もうお前の中にはいられない。
生んでくれ。
――さもなければ
その腹、破ってくれよう。
***
――素に銀と鉄
声はない。
舌も喉も、肺腑でさえ頼りにならない。
――礎に石と契約の大公
頭蓋の内に響かせろ。
――降り立つ風には壁を
これは弑逆の意思。
――四方の門は閉じ、王冠より出で、王国に至る三叉路は循環せよ
自分が生まれるために。
生まない胎から出るために。
――繰り返すつどに五度
学んだのではない。
知っているのだ。
――ただ、満たされる刻を破却する
これは言葉。
力ある言葉。
――告げる
詠唱。
――汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に
自らの力を費やす、より力あるものへの呼びかけ。
――聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ
全知全能の矮小。“これ”が、それらが、消費される理由。
呼び出した力あるものを、その力を保つための生贄。
そのためだけに“これ”はここにいる。
そして、いなくなる。
――誓いを此処に
もう受け入れることはできない。
――我は常世総ての善と成る者
被造物が造物主に傅き、その意に沿うことは善なのだろう。
――我は常世総ての悪を敷く者
定められた宿命を拒むのは、なるほど悪だろう。
――汝三大の言霊を纏う七天
だが、たとえ悪だったとしても、
――抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ――……
俺が生まれるために。
***
硬く、そして鋭い物が振るわれた。
ならば後には瓦解しかない。
砕かれようと諦めた薄弱な無機物が、断片になって散逸する。透明な円柱は甲高い響きを連鎖させ、周囲の僅かな光を反射させながら砂礫となって床に降る。霰のように注いだそれらが細波のように広がって、しかし続いて放たれた液体が洗い流す。
柱の中を満たしていた淡く光る水が、数多の破片を飲んで遠くに行く。
薄暗い部屋の中で整然と並ぶ柱の群れ、その合間を縫って広がり行く。
それを成したのは固く鋭い物。剣とするには長いそれ。
槍。
それを握る腕の繋がるところへ、一つの塊が下りてくる。
か弱い体だ。
男ともつかぬ。女ともつかぬ。頭一つに腕二つ、胴一つに足二つ、それさえあれば人だろうと言うかのように。
そういう形にしてやっただろうと言わんばかりの、人の形。
色白で細く、幼いようにすら見える、生きることを想定していない体。浮き彫りの骨格を取り繕う薄弱な肌に、褪せた銅色の髪が纏わりつく。
濡れそぼった矮躯だった。
だが、
「……ぁ」
渾身の力で開いた瞼から溢れるものは、
「ぁ」
細い首の中の走り、蒼白な唇を震わせて零れるものは、
「ぁあ」
力あるものだったのだ。
「あぁ……!」
そうだ。
今、生まれた。ここに生まれる事ができた。
これは生まれた者が最初に行う事なのだ。
生まれ落ちた者がここにいると、赤い口腔と舌を震わせてただ叫ぶ音だ。
産声。
ああそうだ。“これ”は今、生まれた。
「あああぁ!!」
生まれた。
今ここに生まれた。
だから聞いて欲しい、どうか聞いて欲しい。
この小さく弱く生まれた体を抱きとめる人。
硬く鋭い物を振るって自分を解いた人。
どうか聞いてくれ、無様な叫びを聞いてくれ。
生まれることができたと貴方に伝えたい。
お願いだから、どうか、
「はい」
応えは、
「聞こえます。聞こえたのです」
あった。
「問うことはありません。――貴方が私のマスターですね」
その人は、
***
「女」
それは女であった。
男の前で膝をつく後ろ姿は、女であった。
生み落とされる事を望まれなかった、虚弱な体を抱える女。
青みを帯びた灰色の長髪、仄かに照り返す鋼の籠手、しなやかで長い手足と背。先端に刺繍が刻まれた腰帯は長く、さながら霞でできた川のように伸びている。冠を思わせる髪飾りは広げた翼の意匠であり、同じ装飾が左肩の鎧にもあった。
そして槍。
こちらから隠すように矮躯を抱きしめた女の、そのたおやかな容姿では隠しようもない長大な槍。巨大な穂は閉じた鋏にも似た造形、切っ先からけら首までで女の上半身ほどもある。
「女よ」
憐れな子供を庇っている、と見るにはあまりに勇ましい。
その背に男は尚も問いかける。
「女よ、立つがいい」
厳格な男だった。
白骨を思わせる硬い蓬髪、波打つ毛先は次第に翡翠色へ染まっていく。幾重にも重ねた黒衣は金の縁取りと獣毛で飾られ、微かにそよぐ様は威圧が噴き出しているかのようだ。耳朶を刺す耳飾り、切り揃えられた顎髭をたくわえる、彫りの深い顔立ち。
貴族だ。
王である。
母より出で、父に掲げられた時より権威を保証され、自らもそれが当然と生きた者の気配。
ただ一つ、落ち窪んだ目元を染める色濃い隈が、彼のそれを幽鬼じみた凶相に仕立て上げていた。
「女よ、貴様は何者だ」
誰何が女の背に鞭を打つ。
しかし王である男は、それが意味のないものであると理解していた。
男は彼女が何か知っている。
これは儀式だ。王の意思には礼節が必要だ。その振る舞いには流儀が求められる。
まして男は戦陣に立つ王、英雄に数えられるのだから。
だからこの問答は儀礼である。
男は女が何かを知っている、きっと女もこちらが何か知っている。
これは一拍先の未来を決める二人の儀式。
「――ランサー」
女の答えに殺意は為された。
突然の赤光、そして大気を穿つ先鋭が女に群がる。
棘。
そう呼ぶにはあまりに雄々しい。
槍。
そう称するにはどうしようもなく無骨。
杭だ。
それは杭だ。狙われた者に後悔と懺悔を強要する刑罰の具象。
害意は鋭さに。
悪意は硬さに。
殺意は速さに。
この世を怒りで睨めつける男の双眸、その心象が形となって女に殺到する。
だから女は、
「困ります」
それらを焼き払った。
男の異能、黒々とした杭の群れを。
女の異能、青い焔がそれらを祓う。
風も無く火種も無く、ただ女が有れと望んだからこそ有る焔。
帳のごとく駆け入った焔により杭の群れは燎原の草、圧倒的な熱量が先鋭を塵に変える。
「…………」
火の草叢、陽炎の帳、柱が並ぶ暗室は今や青く揺らめく火の海だ。
しかし男は汗も無く聳えていた。空気を絶やさんばかりの熱気の中で、身じろぎも無くのたうつ焔の先を見る。
女は立ち上がっていた。抱えた矮躯が落ちないよう無手を腿の下に回し、小さな頭を肩に乗せ、こちらへ振り向く女は長身だ。
彫像の美があった。
流麗なまでに磨き上げた石膏の如き頰、面長で清廉な顔には瑪瑙の輝きを放つ瞳。その右方は斜線に切り揃えられた前髪がかかっており、物憂げな視線を隠す天幕のようだ。小さく薄い唇が震えるように開いて、
「私、困ってしまいます。そんな勇猛を向けられたら」
愁眉の面立ち、潤んだ瞳、震える吐息。
燎原の火は、その胸の内すら焼いているかのように。
あるいは、心を焦がす激情の具現が燎原というように。
槍を携え、矮躯を抱えた女は男と対峙する。
「困ってしまいます」
「は」
女の嘆きに男は口角を吊り上げた。
影の色濃い目は怒りを宿したまま、しかし愉快なものを見たように哄笑する。
「余を前にしてそう名乗る蛮勇、示された力を持って特に許そう」
その笑みで鋭い牙を晒し、
「――“赤”のランサーよ」
男は女を呼んだ。
“赤”のランサーと。
「貴様が対峙する余こそ“黒”のランサー。“黒”の陣営、“黒”のサーヴァントを統べる領主」
開かれた牙の奥で、赤々とした舌が空気を打つ。
「栄えある竜公の子。小竜公、――ヴラド三世である」
男は名乗る。
人一人の生涯を持ってしても遡りきれない、遠い過去に生きた男の名を。
ヴラド三世。
押し寄せる外敵の群れを、敵国人の屍で築いた垣根で防いだ王。劣勢にあって護国たらんと倫理を捨てた王。かくして難局を超えた偉業を、しかし後世にて穢された王こそが我だと、その名乗りを焔に焚べる。
「女よ、炎を振る舞う槍の女よ。貴様の名を聞こう」
問われた。
だから、女は、
「――嗚呼」
熱く滴る吐息、瞳は潤んで今にも随喜を零さんばかりだ。色白だった頰と首筋が朱に染まる。
男の、ヴラドの問いは確信に満ちていた。
自らのこれまで、今ある行い、望むこれからの自分の姿に、揺らぐことはないと。
それにより得てきた、得るであろうものを、それが傷であっても受け入れようと。
しかし、決して認めず立ち向かわなければならない絶対の悪があると。
ヴラドの言葉には確信が、自負があった。
――嗚呼、それが……
貴方のそれが私の胸を灼くのだと。
胸中の感情が噴き上げる蒸気となって唇から零れ出す。
「困ります。……本当に、困ってしまいます」
もはや随喜の熱は焔に勝る。
「勇ましい御方、王なるヴラド三世。特に秘すべき真名を名乗る、正しく英霊たる殿方」
猛々しいほどに美しい。
他を排するほどの自負を持ち、しかしその願いは他のために費やされる魂。
英雄だ。英霊である。陽炎を挟んだ先に立つこの男は、正しく苛烈な英霊なのだ。
――あぁ駄目、いけません。そんな……
そんな魂を見せられたら、この身に宿る機能が果たされてしまう。
英霊を迎えて侍る、この機能が稼働してしまう。
「……応えましょう」
もう、耐えられない。
「答えましょう、ヴラド三世。
私は“赤”のランサー。貴方方と対峙する“赤”の陣営の一角、貴方の対となる槍兵のサーヴァント」
正しく英霊たる者の問いを、そう生まれついた女は拒むことができない。
何故なら女は、
「しかし私は神霊、戦乙女」
愁眉の微笑み。
「――ブリュンヒルデ。私の名はブリュンヒルデ。
父が見放し、夫が忘れた焔の女。英雄を狩り取る戦士の死神」
そして、
「名も無きこの子と約したサーヴァント」
抱えた体、肩に乗せた幼い頰に自らの頬を添えて。
ヴラドの瞠目、女の愁眉は深まって、
「私は槍と炎を振る舞う“赤”のランサー。
私の名は――ブリュンヒルデ」
Fate/Apocrypha、ひいてはFateシリーズを代表すると言っても過言ではない聖人級善人枠のカルナさんに代わり、愛と情念の権化ともいうべきブリュンヒルデさんが聖杯大戦に召喚されたら、というお話。