鮮烈な記憶なのに、よく覚えていないことがある。
1200年に一度の彗星が、日本の夜空を駆け抜けていったあの日。マンションの屋上からひとり見上げた、夢の景色のように美しい眺めは、今でも覚えている。
———そして、この記憶は、もはや輪郭を失ってぼやけた残像のような概念とムスビついて、
どこかの山の頂上で、誰かと一緒に、迫り来る彗星を見ている。
目覚めた後の夢のような、そんな記憶を。
***
端末の画面に、名前が表示されている。
誰に電話をかけているのか。一目で分かるこのシステムに、瀧は時々、ひどく心を揺さぶられることがある。
長らく探し続けていた相手と、今では自由に連絡が取れるということ。そこに少なからぬ期待を寄せているせいだろう。
ただ、その期待には、不安も入り混じっている。
ありえない。この着信を受け取る人がいないなど、考えるまでもない。
そう思いながら、せき立てられる心は持て余す。何もないのに、目線を右の手首に向けてみる。
不意に呼び出し音が途切れ、途端聞こえる相手の声に、瀧は不思議なくらいの安堵を覚える。
『あ、もしもし、瀧君? 私もいま着いたんよ』
***
カフェの席に、机を挟んで男女が座っている。
どことなくあどけなさがのこる男の人は立花 瀧で、赤い組紐を髪に結っている女の人は宮水 三葉。
初対面の女性のため、通勤放り出してぶらり途中下車の挙句、都内を駆け回って見つけ出した時の口説き文句は、『君とどこかであったような気がして』。
周りの語り種になるほどドラマチックな、あまりの突拍子のなさに今なお、友人からイジられるような展開を経て、瀧と目の前の女性ー三葉はこうして付き合うに至っている。
……付き合うというか、一緒にいる時間をお互いが作るようにしている。
そんな関係というのが、一番しっくりくる。
二人とも都内住みということもあり、週に一度はこうして都内のカフェで会っていた。
まったく、と呟いて三葉が言う。
「瀧君てばどんだけ心配性なの? いちいち電話せんでも、出口の場所くらいわかってるって」
「そう、ですかぁ」
瀧の言葉を受けて、それまでやれやれという顔だった三葉が、両手を口元の前で組み、すっと目を細めて瀧を見据える。
面接なんかでこうやって威圧してくる人事を見たことはあるけれど、残念ながら三葉だとかけらも威圧感がない。
ただ、彼女なりに、何か看過できないものでもあったようだ。
「…なんかいま瀧君、バカにしてない? 私のこと」
「それはない、ですけど」
「敬語だし」
「敬語使ってるじゃないすか」
はは、と笑って、瀧は目をそらしてしまう。この辺り、奥寺先輩の頃から進歩してない。
女性の扱いというか、応対にはどうも慣れない。
瀧はかつて高校生だったころ、バイト先の先輩をデートに誘って、散々な結果に終わったことがある。
この経験がなおさら、年上の女性に対する瀧の所感をややこしくしている。
そもそも同い歳の女とだってまともに付き合ったことがないのに……。うん、ないよな。
自問しながら芽生えた、微妙な違和感に期待してみても、司に『超奥手』と太鼓判を押される我が身を思い直す。
ヤツを相手に交際を隠し通せる気がしない。それに瀧にしたって、こっそり誰かと付き合うなんて面倒なことはしない。
いつだったか三葉を友人二人ー高木と司ーに紹介したとき、高木はうんうんとうなずいて笑っていたし、司はメガネが割れんばかりの衝撃を受けていた。
経緯を話すと二人とも笑い出して、今でもことあるごとに
瀧が恋人を紹介するというのは、それぐらい印象的な事件だったのだ。
ともかくも、三葉は敬語を使うなと言うが、年上扱いされる原因は三葉にもあるぞ。
「それに、よく俺のこと年下扱いするじゃん」
「そりゃ瀧君年下やからね」
そう言った三葉は自分で自分の言ったことが面白かったのか、小さく吹き出して笑い出す。よくわからない瀧も、なんとなく笑いたくなって笑う。
傍目にはよくわからないやり取りをしている二人に見えるだろうけど、こんな時間を永く待ちこがれていたような気がする。
あとすこしだけでも、一緒にいたかった。
もうすこしだけでも、一緒にいたい。
最初に出会った時、そう思ったのも不思議だったが、今は妙に納得できる。
今はもう、一緒にいるのが当たり前すぎて、そんなことを考えもしなくなったのはよいことなのだろうか?
時は流れる。人は変わる。三葉と他愛ない会話を交わしながら、瀧はこの
そしてその度浮上してくる、なんともいえない違和感についても、そろそろ正体がわかって来た。
***
発端は三葉に『会いたがってるから!』と彼女の妹の四葉を紹介された時のこと。
祝日で混み合うカフェに、三葉、四葉、瀧が一つのテーブルを囲んで、向きあう形で座っていた。
妹はアイスティーをすすりながら、ちらちらと瀧に目を向けてくる。当初は気の強そうな娘だな、というくらいの印象を持った瀧だったが。
齢十六にして、この女子高生はもうなんというか。
そう、ぶっとんでいた。
「時に瀧殿、お姉ちゃんとはいつ入籍なさるおつもりか」
「ぶっ」
三葉が仕事先から着信を受けて席を外した瞬間、炸裂した唐突な四葉節に、瀧は飲んでいたコーヒーをむせ返した。
周囲の人たちが瀧を一瞥する。初っ端の発言がそれかよ。相変わらずすごいこと言うな、こいつ。
「まだそこまで進んでねえよ」
「なるほど」
斜め向かいに座る四葉が居住まいを正し、神妙な面持ちで瀧と向き合う。元より気の強そうな目元と相まって、こういう表情をされると何かを糾弾されているような気分になる。
口を拭っていた瀧も、すこし姿勢を正した。
「ならば」と四葉が言った。
「若いうちは好きとか一緒にいたいとかだけでいいんに。せやけど、働いて食っていくようになったらな、どうやって生活していくか考えなならんで」
一拍置いて、四葉が続ける。
「うちのお姉ちゃんと付き合うんやったら、そこまできっちりしない」
「…出どころは?」
おばあちゃん、と四葉が答えるのを聞いて、瀧はやっぱりと思う。まあ、お前、まだ学生だもんな。
最初は当惑させられたものの、四葉は結構面白かった。
時々芝居がかった口調で突拍子もないことを言うけれど、結構割り切った考え方をする。なにより姉思いだった。
私学で客員教授をやっている父に代わり、とりあえず彼女が、姉の目付役をやっているらしい。(三葉は否定していたが。)
カフェを出て、二人を家まで送って自分のマンションに戻る道すがら。
人波に流されながら、電車に揺られながら、瀧は四葉に言われたことを考えていた。
やっと手が届いた、大切な人と暮らしていく。
どんな感じだろうか、三葉さんは。
三葉は———
人の言う事なんか聞かない。勝手に話進める。言いたい放題言う。そのくせ陰口たたかれても黙ってるし、人の期待に応えようと必死だし、知らないうちに傷つく事もある。だから、
———だから?
そのとき初めて、瀧は気づかされる。
ただひたすらに、説明のつかない感情だけが先行していることに。
三葉と出会ったのはひと月前。
そこから三、四回付き合いを重ねて描かれた三葉の姿と、瀧が三葉に対して抱く印象は、ずいぶんとかけ離れている。
なんだ、これは。
電車のドアの窓越しに、流れていく夜の車窓の中に、自分の顔が映っている。
流れてゆく時の中で、一人まどろみながら取り残されたように。
口を真一文字に結んだその顔は、どこか寂しげだった。
***
カフェを出て、買い物に付き合い、家まで送る。お決まりのパターンになりつつあるなと瀧は思う。
帰り道、半月を見上げて歩きながら、今日までの思考を整理する。
三葉は瀧を年下扱いしながら自分を年上扱いするなと言うし、瀧はところどころ敬語が混じる。
やっとわかった。
俺は、俺たちは、こんな感じじゃない。
うまく言えないけれど、互いに気を遣ってるとか、共にいて不満ということではなく。
そうではなく、持て余す感情が、せっつくように訴えかけてくる。
俺は、何か、忘れている。
思い出せないどころか、わからないというレベルの夢の残滓のようなもの。
でも、それは、かつて現実にあったことだという確信だけはあって。