目の前にいる人間が忽然と消えるなど、普通に生きていたらまず遭遇することのない事態である。現に朝起きたら三葉も四葉も婆ちゃんもちゃんといた。目が覚めたら東京の自室、なんてこともなかった。
昨夜のあの感覚は、一体何だったのだろうか。
宿飯の恩、ということで瀧が朝食を作ったのだが、いかんせん和食は勝手が分からない。
婆ちゃんの「いつも通りやりない」という言葉に甘えて、瀧は思い切りよく洋食を用意した。ひじき煮ときんぴらの常備菜には合いそうもなかったけれど、結構ウケは良かった。
洗いものを済ませて外に出てみる。宮水家は山の中程、少し高いところにあるから、町全体を見渡すことができる。
盆地の中でひしめき合う民家や、少し背を突き出したビルなんかを見ると、糸守のようなど田舎ではなく地方の小都市という印象を受ける。
暑さを予感させる光の中、佇む町並みは静謐だった。眺めてるうちに瀧は思う。車で買い出しに行く必要、あったのか。
午前中は家中の掃除や保存館の業務の手伝いに時間を使った。暇を持て余すかと思ったら、意外なくらい保存館にくる人は多かった。
ほとんどの人は糸守の工芸だとか宮水神社の伝統というより、奇跡の町の組紐をお守り代わりに買っていこうという目的で来ているようで、海外の観光客もそれなり見受けられた。
瀧も応対に四苦八苦しながら、余裕ができたときに人々を観察する。
組紐なんて渋いアイテムの割に、結構客層が若いな。そんな旨のことを三葉に話すと、
「なんか、前に特集されたらしいんよ。縁結びの紐だって」
ああ、分かりやすい。けれどもその評はあながち間違っていないかもしれない。瀧は横の三葉に目を向ける。今日も結構気合いを入れて(るように瀧には見える)編まれた髪に、赤い紐が揺れている。
瀧の糸守行きは昼食の後になった。
毎度のことながら三葉の料理に、おお、和食だ、なんて感動したあと、瀧は手持ちの端末でルートを調べる。歩いて4時間! バスとかねえのか!
そんな、早くも前途が怪しくなってきた瀧に活路を持ってきたのは、意外にも三葉だった。
「じゃ、行こ! 瀧くん」
「行くって……どこに?」
***
眼下には、ひょうたん型の新糸守湖が広がる。
意図的に一部分保存されている、割れたアスファルトを足下に見ると、未曾有の大災害という言葉に変な実感がわいてくる。
星の降ったあの日、住民のほとんどが避難していたであろう糸守高校の校庭には、今では案内板や記念碑が建てられている。
9年の歳月の間に体育館はそれなり朽ちてしまったが、定期的に補修工事が行われているせいか校舎はまだ形を保っている。
看板に記されている周回路は、2年前のオリンピックに合わせて整備されたんじゃなかったっけか。どこかで読んだ記事のことを瀧は思い出す。
6年ぶりの糸守は三葉の運転する車で訪れた。てっきり三葉は行きたがらないと思ってたのに。
つい理由を聞いてしまった瀧に、ハンドルを握る三葉の表情は穏やかだった。
「私も探しに行こうかなって」
車が揺れて、瀧の体がこわばる。決して危ない訳ではないのだが、三葉の運転はそう、楽しそうだった。特にカーブとか。
宮水父がわざわざマニュアル車を置いてった気持ちを、瀧は何となく察する。そんな親心もむなしく、結局はMT車の免許を取った娘に、「オートマの方が楽やったのに」なんて文句を言われてしまっている。
ヘアピンカーブを曲がりきった頃合いで、三葉が続けた。
「それに、瀧くんもそうでしょ?」
瀧の行動が分かりやすいのか、三葉の勘がいいのか。どちらにせよその通りだった。
高校を起点とする周回路を、瀧と三葉が歩いている。高速バスが停まっていたから、ツアー客もこの広大な道を回っているのかもしれない。
突き刺さるような夏の日差しに、瀧は三葉の体調を心配していた。が、彼女はいたって元気で、むしろ瀧を先導するくらいだった。
家の残骸や車、打ち上げられた家電などは風化や撤去により無くなって、周回路を歩いても今は凪いだ水面しか見えない。
ただ9年前の災害で新しくできたクレーターを回る道に入るといくつか、案内板とともに隕石災害の惨状を遺した地点があった。
水中から突き出る電信柱や、10m近くそびえる岩塊(隕石の衝突時にめくれ上がった地面らしい)など。そういうところでは、やっぱりバスが路肩に止まっていて大勢の観光客が見物していた。
世界中でここしか見られないであろう、隕石災害の爪痕と奇跡をワンセットで発信してきた結果と言ってしまえば、そういうものなのかもしれない。
ただ、瀧にしてみれば、あまり三葉に見せたい状況ではなかった。
休憩を挟みながら旧町役場に着く。ここもそうだけど、知らないのに知っているというもどかしさばかり感じさせるものが多すぎる。
そのくせ、6年前に登った山はどこだったか、さっぱり見当がつかない。
丸太を叩き割ったような机に、簡素な座椅子とパラソルを合わせた“青空カフェ”に腰を落ち着けて、瀧はため息をついた。
もうだいぶ長いこと歩いたらしく、木漏れ日の色が赤くなり始めていた。
「大丈夫? 瀧くん」
「ああ。三葉は?」
瀧が自販機で買った天然水を差し出すと礼を言って三葉が受け取る。机に目をやると、『勅使河原建設』という文字が隅の方に彫ってあった。
勅使河原……テシガワラ。その時ふと、親しみやすそうな坊主頭———テシガワラと、彼が言っていたことを瀧は思い出す。
「なあ三葉」
「何?」
「あの日、どうして隕石が落ちるってわかったんだ?」
言ってから、これはマズいことを聞いたんではないかということに瀧は思い至ったが、時既に遅い。
ちょっと笑顔を作って、三葉が答える。
「教えてもらったんよ」
「……え? 誰、に」
「それがね、思い出せんの」
笑ったまま三葉は目を伏せた。
大事な人。忘れちゃだめな人。忘れたくなかった人。
そう小さく呟きながら、自分に言い聞かせるように。それでもやがてひとつ息を吐いて、吸い込んで、また瀧の目を見て言う。
「たぶん、瀧くんだったと思うの。その人!」
瀧は曖昧な返事しかできなかった。それが三葉の探していることだというのならば、そうであって欲しい。そう思うこともためらわれた。
それにしても、三葉の横で共に奇跡の糸を引いていた人がいたなんて。どういうやつなんだ?
どんなに考えてみても、当たり前だが瀧には分からない。
その後、三葉はテシガワラやサヤカの話をしてくれた。一人は前に一度会っただけ、もう一人は名前すら知らなかったのに、聞けば聞くほどそういえばそういうやつだったなという感情が顔を出すのは、もう末期的だなとすら瀧は思い始める。
いよいよ日が傾いて来たところで、瀧と三葉はあわてて高校に戻った。
街灯がないから、暮れてしまうとこの辺は本気で真っ暗になるのだ。宵闇の中、人のいない廃墟となった町を歩きたいとは流石に思わない。
***
高校の校庭に戻った時、太陽はまだぎりぎり山の峰の上にあった。
糸守高校は小高い場所にあるから、遮られることなく光が届くのかもしれない。そんなことをぼんやりと考えながら、稜線に沈みゆく夕日を二人で眺める。
この時間になるともう観光客はいなくなる。
眼下で
ここまで来たけれど、最後の一本は見つからなかった。組み上げられるのを待っている糸はもうほとんど揃ったというのに、始めの一本が足りない。
こればかりは考えてどうにかなるようなものではないのだ。
東京に帰れば、また時が流れて行く。手をすり抜けたまま
いいだろう、それで。三葉に、大切な人には出会えたのだから。そこに理由を求めることはない。
そろそろ、戻らないと———。
「ねえ、瀧くん。お願いがあるんやけど」
三葉に呼ばれて、瀧は見つめる。笑っていた。そして瀧も、意図せず笑っていたことを自覚する。
なぜ? 決して、笑うような心境ではないのに。
「この紐、瀧くんに渡してもらっていい?」
三葉はそう言って、自分の髪を結っている組紐を指さした。
「ああ。でも、なんで?」
怪訝そうな瀧の意図を汲み取ってか、目をそらして三葉が答える。
「私、あの人にこの組紐をもらったんよ」
あの人。言われなくても、瀧には分かる。
懐かしむような、愛おしむような、それでいて泣き出しそうな感情を押し込めて。そんな表情だろうか?
三葉を見て、瀧はまた言葉にできない思いを抱いていた。
そろそろ黄昏時だ。沈む間近の日差しが、迫りくる夜の帳とせめぎ合う。
「忘れたくない、大切な人やったの。けど、もう思い出せんから」
思い出せんから。そう言いながら、声色からは痛いほどの、割り切れていない悔しさが伝わってくる。
太陽がどんどん高度を下げているのが、わかる。様々な色が入り乱れて、明暗の定まらない時間が訪れる。
「今度こそ、絶対忘れんように、って」
一呼吸置いた三葉が、瀧に向き直ってそう言った。
遠くの景色から宵闇に霞んで、世界の輪郭がやんわりと
三葉は、まだ見える。
「わかった。俺も、今度こそ覚えておきたいから」
優しい気持ちになって、瀧も笑顔を作る。
瀧もずっと、誰かを探している。
自分がかつてここに来たのはその人のためで———願わくば、この人のためで。
三葉が組紐の端に手をかけ、するりと解いた。
丸めて手の中に収め、差し出された瀧の右手に、上から手を重ねる。
組紐を挟んで、三葉の手と瀧の手が触れる。
———カタワレ時だ。
重なる声が、届いた。
***
すぐさま、二人とも目を見合わせた。
だが、二人が何も言葉を紡いでないのにも関わらず、その声は響いていく。
運命だとか未来だとか、そんな言葉を超えて、時計の針すら意に介さぬように。小さな子供みたいな二つの声が、世界の端っこまで消えることなく届いていく。
その声が何を言っているか、その主がどんな表情をしているか、どんな思いを抱いているのかすら、手に取るようにわかる。
だってそれは、それは。
———紛れもなく、あの時の。
あの日。星の降った日。三葉と出会うはるか前に。
この
でも、何のため?
思考が追いついて来たのは、そこまでだった。
消えたはずの思いが、崩れ落ちたはずの感情が、紐付くように引き上げられて、溢れ出していく。
生きていて欲しかった。助けるために来た。あいつに逢うために来た。
何があったんだ?
何にあんな、心躍らせていたんだ?
全身を血が駆け巡る。
心臓が熱く疾い鼓動を打つ。
勝手に滲む世界とともに、答えがこみ上げてくる。
ああ、そうだ!
そうだったんだ!
乗り切るために必死で、さして大事だとも思わなかった、かけがえのない日々。
好き勝手やって、言いたい放題言ったり言われたりして。時には互い、相手が絶対できないようなことをしたりして。
しょうもないくらいしんどくて、でもどうしようもないくらい楽しかった、共に過ごした時間。
それが、
お前に入ってたのは、俺なんだって。俺に入ってたのは、お前なんだって。
会えばぜったい、すぐわかる。そう確信していたはずの、そのことまでを今、やっと。
喉が詰まるほどの感情を、目頭が熱くなるほどの衝動を、どうにか押さえ込んで。
今度こそ、言おう。
「言おうと思ったんだ」
果たせずにいた約束。お前が世界のどこにいても、
「俺が必ず、もう一度逢いに行くって」
三葉の目に、小さなビー玉みたいな涙が光っている。
穏やかな気持ちのまま、瀧は笑顔になって言う。
「悪い。ずいぶん、遅くなっちまった」
瀧は笑う。世界を満たしていた二人の声は、もうとっくに聞こえない。
あの時と同じように、夜が静かに降りてくる。
でも。
もう忘れない。今度こそ覚えている。
約束も、君の名も、君も。
二人して、涙がこぼれ落ちている。泣きながら笑っている。
ありがとう、と。そう言って。
***