その日、晴天の京都レース場は数万人の観衆が詰めかけていた。
本日のメインレースはクラシック最終戦菊花賞。
ハイレベルと噂されるこの年のジュニア達。
特に皐月賞とダービーを獲りあったセイウンスカイとスペシャルウィークの決着戦という事も有り、ひときわ注目が寄せられた。
開場を待ちわびる人々の中にはエルコンドルパサーの姿もある。
彼女が待機しているのは一般客の入場口。
此処から目指す屋外席は自由席であり、ベストポジションを確保するにはG1レース並に熾烈な競争を制さなければならない。
エルコンドルパサーはマスクの奥の瞳を開き、大きく一つ伸びをした。
それだけで周囲にひしめく人間達は怯えたように後ずさった。
「……ハァ」
開幕ダッシュに向けて集中を高めていくエルコンドルパサー。
これほどまでに緊張した事はレースでも無いかもしれない。
ふと周りを見渡せば、遠くで自分と同じように気を張り詰めるウマ娘の姿が見える。
記憶が正しければ、それはスピカのウマ娘達だった。
彼女らは全員が内に宿る異世界の魂を揺り起こしているらしい。
その内側から熱く滾る力の奔流があふれ出し、晩秋の冷たい空気に触れて薄っすらとオーラが視認できる。
臨戦態勢を整えたウマ娘達の様子に、青い顔をしたトレーナーらしき男が必死に宥めていた。
「お、おいお前ら走るなよ? 慌てなくったって入場は出来るんだからな?」
「何温い事言っていやがるトレーナー……ウンスの晴れ舞台に一階最前列立ち見に陣取らないでどうすんだよ」
「当然だよなぁ」
「あんたもたまにはいい事言うじゃない」
「何ヤル気になってるんだよお前ら、みんな見てるじゃないか」
「トレーナー、ウマ娘は見られてなんぼだよー」
「悪目立ちしてるって言ってんだよっ」
完全に掛かっているウマ娘達に手を焼いている様子のトレーナー。
混雑しているレース場入り口は其処だけぽっかりと人がはけている。
此処にいる者なら誰だって、興奮したウマ娘の傍が危険な事は知っているのだ。
しかし不運なトレーナーは此処で観衆のように避難する事は許されない。
レース場でウマ娘に跳ねられる人間など珍しくもないが、自分のチームのウマ娘が関わっていれば給料関係に響くお咎めが来るかもしれない。
これから年末に向けて出費が多くなる時期。
其れだけは避けたかった。
彼は腹に力を込め、忙しないウマ娘達を一括するために一人一人を見渡す。
そして吠えた。
「スズカぁ! 早く来てくれぇええええええっ」
「人任せかよ。情けねぇぞトレーナー」
「わたくし、入るチームを間違ったかしら……」
賑やかな連中から視線を切ったエルコンドルパサー。
どうやら彼女らも同じことを考えるライバルらしい。
しかし怪鳥はそんな事よりも、自分の隣で静かに佇む客の一人が気になっていた。
「呼ばれてるみたいですヨ~」
「大丈夫、トレーナーが何とかしてくれるって信じているから」
「……何ともならないから呼ばれているんだと思うんデスけどネ~」
「……あの騒ぎの中に入っていくのはちょっとその……恥ずかしいわ」
「ああ、まぁ……デスヨネー」
スピカが誇る異次元の逃亡者にしてセイウンスカイにとって恐怖の代名詞。
サイレンススズカがそこにいた。
故意か偶然か一瞬迷ったエルコンドルパサーは私服姿のスズカの全身を観察する。
「サイレンススズカ先輩は……」
「スズカで良いわよ」
「あ、じゃあワタシもエルで。私服で来てる現役のウマ娘って珍しくないデース?」
「制服だと学園のウマ娘だって分かって目立つから。レースでも場所取りでも、逃げウマ娘は良い位置からスタートしたいものなのよ」
「ああ、成程。次から私もその手で行ってみまショーかね」
「……その時は走りやすい服を選ぶと良いわ」
「……それがどうしてロングスカートになったんデース?」
「ソラちゃんが選んでくれたのよ。菊はこれを着て応援してくださいって」
「多分、此処で出遅れさせて遠ざけようとしてますネ……」
「そうね。だからこそ、しっかり最前列を確保して驚かせてあげなくちゃね」
「流石先輩、後輩思いデース」
濁り切ったセイウンスカイの顔を想像し、二人は小さく笑い合った。
「所でスズカ先輩は、次走ジャパンカップに出るんですよネ~?」
「ええ。エルちゃんも、そうよね。来年は凱旋門賞を獲りに行くらしいし……」
「デース。よろしくお願いしマース」
「ええ。よろしくね」
「それで、あの……脚は平気デース?」
「ええ、少し違和感が出ただけなの。なんなら秋天にも出れなくは無かったのよ」
長いスカートを従えて軽くステップを踏んで見せるスズカ。
脚を庇う様子も、引っかかる様子もない。
最後にターンからカーテシー。
よどみなく膝を落とす動作にも躊躇が無い。
教室でセイウンスカイの言った通り、コンディションに問題はなさそうである。
エルコンドルパサーは許可を貰ってスマホを構え、一連の動作を再現してもらった。
「良かったデース。世界に行くなら国内に敵無しって証明して出たいですカラ……勝ち負けと同じくらい誰に勝ったかが大事デース」
「私もそう思うわ。だから私の標的はエアグルーヴと……後は貴女よ」
「我らがダービーウマ娘を忘れてマース」
「スぺちゃん? あの子は今日走る筈……」
「デース。だけど、来ますよ」
「……そう。それは大変になりそうね」
サイレンススズカは進展目覚ましい一つ下のウマ娘達を思い息を吐く。
「本当に今年のCクラスは強いわね。ソラちゃんが世代戦で躓くほどだもの」
「すいません、気になっていたんですけど……ソラちゃんってウンスデース?」
「そう。セイウンスカイちゃん」
「……なんか、響きが綺麗すぎて似合いませんネー」
「あら、そんな事無いわよ? あの子綺麗な顔をしているし」
「其処は同意しますケドー……ウンスの走りはえげつないデショ?」
「くふっ」
口を両手で抑えて吹き込みそうになった息を呑むスズカ。
肩を震わせて俯いたスズカは、後輩のクラスメイトの目の前で笑うしかない。
「あぁ、そうね。ソラちゃんは本当にえぐいレースをするわ」
「此処だけの話、スズカ先輩は今日のレース、どう思いマース?」
「此処だけの話?」
「此処だけの話」
「オフレコ?」
「オフレコー」
悪戯っぽく笑う後輩に自然と肩の力が抜ける。
「エルちゃんもクラシック三冠はどんなウマ娘が勝つか……っという話は聞いたことがあるわよね?」
「イエース。皐月は仕上がりが早いウマ娘、ダービーは運の良いウマ娘、菊は強いウマ娘って言われてマース」
「ええ。一概にそうとも言えないけれど、単純に一番強いウマ娘が勝つとしたらソラちゃんだと思うわ」
「んー……強いって言ったら、ダービーの時のスぺちゃんこそ、理不尽なくらい強くなかったデース?」
「2400㍍はソラちゃんにはまだ短いわ。あの子の特技を生かすなら最低でも3000は欲しいの」
「特技?」
「ええ。今日はバ場も良いみたいだし、見せてくれるかもしれないわ」
「へぇ……」
エルコンドルパサーはスカートの中で窮屈そうに足を動かすスズカを見やる。
機敏には動けそうにない。
この調子では人ごみを縫って行こうともダッシュがつかないで遅れるだろう。
「スズカ先輩、最前列まで御連れしますカラ、ウンスの解説してくれマース?」
「え? 良いけれど」
「んじゃ、失礼しマース」
京都レース場が開場した。
先頭集団を形成するのはチームスピカのウマ娘達。
エルコンドルパサーはサイレンススズカを姫抱きにし、暴走するウマ娘の後ろを悠々と追走した。
§
賑やかなスピカの面々から少し離れた立見席。
その最前列に陣取ったエルコンドルパサーはサイレンススズカを解放する。
「ありがとう」
「いえいえ」
地に足を付けたスズカは、スマホでトレーナーに位置と一緒にいる相手を報告する。
既に互いの間には人波が出来ており、簡単に合流は出来そうにない。
スズカが電話をしている間、エルコンドルパサーはレース場を見渡す。
すぐに指定席にいるリギルのメンバーを発見した。
怪鳥は親友に手を振るが、硬い顔で目を逸らされる。
「あれ、グラス機嫌悪そうですネ~」
「私を抱えて来たからじゃない?」
「えー……?」
「ほら、私が私服だから……誰か分かっていないとか」
「あぁ、帽子も被っていますしネ」
親友が知らない相手と知らない所で仲良くしていたら、いい気分にはならないかも知れない。
グラスワンダーに指定席観戦を誘われたが、断って一般席で立ち見に来ているという事情もあった。
そう思って納得したエルコンドルパサーはすぐに気持ちを切り替える。
もうすぐクラシック最終戦、菊花賞が始まる。
余計なものを持ち込んで観戦したくなかった。
「スズカ先輩、ウンスはどんな感じデース?」
「レースプランは固まっているわ。最近はむしろ、私のジャパンカップ対策の方に付き合ってくれたくらい」
「へぇ」
「昨日会った様子だと調子は良くも悪くもない、平坦な所みたい」
「……ウンス大丈夫ですかネ~。スぺちゃんとか、管理を全部トレーナーさんがするようになって艶々してマース」
「私がリギルにいた頃も、トレーナーさんに体重やコンディションを管理してもらえばレース当日は殆どいつもベストだったわ」
摂取するカロリーと消費するカロリー。
レースにおける走りのキレとスタミナの維持。
これらを見極めて何処まで絞るか、もしくは増やすか。
急激な増減も体の負担が大きくなる。
どのレースに向けて何時からコンディションを整えるか。
それはウマ娘一人一人に個別の正解があり、トレーナーにとって悩みの種だろう。
リギルのトレーナー東条ハナは、この正解を見つけ出す事が巧い。
スペシャルウィークに対して京都新聞杯の時のような隙は無いだろう。
「スズカ先輩って、どうしてリギルから移籍したのか聞いても良いデース?」
「私は大逃げでレースをしたかったのだけれど、あまり勝ちの常道ではないでしょう? 東条トレーナーは奇計奇策みたいな走りは好まない方だから」
「成程」
「リギルを離れて、スピカに入って……ソラちゃんに出会って、やっと私も東条トレーナーの言っていた事の意味が分かったわ」
「それは?」
「ソラちゃんに言われたのよね。私は逃げウマ娘じゃないって」
「え……逃げウマ娘って言われれば、誰だってスズカ先輩だって言うほどだと思うんですケド」
「ありがとう。勿論それはソラちゃんの定義する逃げウマ娘に私は当てはまらないという意味よ。私自身は自分こそが逃げウマだと思っているのだけれど……でも多分、東条トレーナーにお聞きしてもソラちゃんと同じ意見なんだと思うのよね。だから私は、リギルで逃げのスタイルが認められなかった」
「じゃ、ウンスならリギルで大逃げやっても認められるのかナ」
「私はそう思う。逃げで勝つウマ娘ってね? 本当にいろんな準備をして、考えながらレースを組み立てて……頭を使って逃げるらしいわ」
「スズカ先輩は?」
「私は速く走って疲れたら息を入れて最後にもうひと頑張りすればそこがゴールだから」
「……理不尽デース」
「毎日王冠だと、息を入れる事も忘れて走っちゃったけれどね」
サイレンススズカは恥ずかし気に帽子を深くかぶって口元に苦い笑みを浮かべた。
そうしていると第一レースに出走するウマ娘達が入場してくる。
メインレースの菊花賞は十一レースであり、十五時過ぎの発走予定。
「スぺちゃんは午後入りするって言ってたんですケド、ウンスは何時頃来るのカナ?」
「さぁ……あの子は何時もまちまちなのよね。トレーナーの車でみんな一緒に来ることもあるし、適当に電車を乗り継いでくることもあるの。トレーナーとしては電車が止まると困るから、出来れば一緒に行動して欲しいみたいだけど……」
「掴みどころが無いのは、チームでも一緒見たいデスネ~」
「あぁ、クラスでもそうなのね」
「イエース」
自分の知らない所にいる知人の情報を共有して笑みを交わす二人。
チームでも、クラスでも、セイウンスカイが上手くやっているらしいことを双方が感じる。
エルコンドルパサーはやや表情を改めてスズカに向き合った。
「あの、ウンスの事……良くしてくれてありがとうございます」
「え?」
「実は私、少しあいつの事心配だったんです。ウンスは普段からちょっと冷めてるし、レースには熱い癖に冷めてる風でいようとするし……」
「ああ、そういう所もあるわね」
「付き合ってると気の良い奴なんですけどね。分かってる奴が周りにいれば良いんですけど……新しい所に出たら最初はなかなか馴染めないんじゃないかって、少し心配してました」
「……」
「スズカ先輩の事、クラスじゃウンスはよく話してますよ」
「良く言ってないでしょう?」
「えっと……ウンスの言葉を頭から全部信じるなら控えめに言って悪魔みたいですけど……でも良いんだと思います」
「悪魔みたいかぁ」
「嫌がろうが逃げようがグイグイ入っていく人が必要なんだと思うんですよ、ウンスには。本気で嫌だったら我慢しないで距離取りますから。とっくにチーム辞めてる筈です。だから、あいつ絶対スピカの事好きですよ」
「ありがとう。自信がついちゃったわ」
「……ウンスには内緒ダヨ?」
「ええ、内緒ね」
スズカと笑い合いながら、内心でクラスメイトに合掌するエルコンドルパサー。
これからもセイウンスカイはサイレンススズカに構われ続ける事だろう。
それはセイウンスカイにとって、きっと悪い事にはならない筈。
良いことをしたなと満足気なエルコンドルパサーと、後輩に良い友人がいる事を喜ぶサイレンススズカ。
和やかに、時として真剣に語り合う二人。
その様子を、リギルの親友はずっと見ていた。
§
『手拍子に迎えられ、ファンファーレが鳴らされます
ジュニアCクラス最後の一冠、菊花賞
なんと今期は全てのウマ娘が勝ち上がりを果たした奇跡の世代
ハイレベルと称される彼女らの中で、
今日、一つの頂点が決まります
皐月賞ウマ娘セイウンスカイはダービーの雪辱を果たすのか
ダービーウマ娘スペシャルウィークが二冠目を手に掛けるのか
あるいはこの二人の一騎打ちに待ったをかけるウマ娘が現れるのか――』
実況と共にプログラムが進み、各ウマ娘が係員の案内に従ってゲートに向かう。
今日の一番人気であるセイウンスカイは案の定とも言うべきか、表情が暗い。
「ウンス……これから絞められるニワトリさんみたいデース」
「ソラちゃん、本当にゲート嫌いなのよね」
「でも拒否してないデースから、今日は多分ましな方ですよネ」
「ええ、此処が一番の不安要素だったから……もう大丈夫」
セイウンスカイは2枠4番。
偶数番号はゲートにいる時間が短い。
その中でも内寄りのこの位置は、セイウンスカイにとって絶好に近い番号だろう。
「それで先輩、ウンスのレースプランは固まっているって言ってましたケド……」
「ソラちゃんがあの位置からスタートするなら、展開は逃げ一択よ」
「京都大賞典はお手本みたいな綺麗な逃げ勝ちしてましたネ~」
「そうね……今日はどっちの逃げを使うかしら」
「選択肢があるんデス?」
「ええ、1000㍍の通過タイムが一つのポイントになると思うわ」
『奇数番号のウマ娘達が次々とゲート入りしていきます
此処まではスムーズな入場です
続いて偶数番号のウマ娘達
本日の一番人気、セイウンスカイも今日は嫌がることなく入りました
続くウマ娘も滞りなく、全てのウマ娘がゲートに収まりました
さぁ、今――
菊花賞――
――スタートしました!』
西日に向かって17人のウマ娘達が飛び出していく。
先頭争いを制したのは予想通りセイウンスカイ。
これはどちらかと言えば譲られたようにも見えた。
滅多に無い長距離レースの先頭で、ペース配分を作るのは遠慮したいという事か。
セイウンスカイが前に出るなら、ご自由にとばかりに他のウマ娘は後ろについた。
ダービーウマ娘のスペシャルウィークもその一人。
特に彼女は京都新聞杯の反省も有り、トレーナーと序盤は見ていくと決めていた。
しかし何も考えずに控えるわけではない。
(序盤は少し抑えめに、自分の時計で平均ペース。ウンスちゃんの乱ペースには付き合わない。最後の直線でぶっちぎるっ)
ダービーの時は至近距離から圧をかけても乱ペースに巻き込まれた。
その経験を踏まえれば、自分で時計を刻みながら遠目にセイウンスカイの全身を観察したい。
バ群はセイウンスカイまで5バ身程の距離で固まった。
逃げウマ娘を追走する展開としては、遠すぎず近すぎずの良い距離である。
スペシャルウィークはバ群の中団よりやや後ろ。
その真後ろにはキングヘイローもついてくる。
(落ち着いて後ろから見ると……スペシャルウィークさんの調子は良さそうか。何処かで前に出て先に仕掛ける。この後ろから仕掛けたら、多分今日は差し切れない)
(私もウンスちゃん見てるけど、ヘイローちゃんは私を見てるね……やり難いなぁ)
セイウンスカイは先頭のまま、スタート直後の坂を上って3コーナーの下りに入った。
セオリー通り、ゆっくりと。
この下りで抑えなければ4コーナーで膨らんでしまう。
長丁場であり、6回のコーナーワークが必要な菊花賞。
インコースを無駄なく締めて少しでも距離のロスを減らす。
4コーナーを曲がり切ったセイウンスカイがスタンド正面を駆けてゆく。
下りでやや縮まった差が再び5バ身程に開く。
この直線でキングヘイローがじわりと位置を上げていった。
スペシャルウィークは見送ってバ群の中団をキープする。
(ウンスちゃんを捕まえに行く感じじゃないかな? 少し前目に取ってラストスパートを楽にしたいんだと思うんだけど)
(スペシャルウィークさんは来ないならそれでいい。問題はウンスに届くかどうか。あの子のペースには付き合わない。私が届く位置にいれば良い)
『先頭セイウンスカイ!
二バ身差で追いかけますレオリュウホウ!
其処から三バ身程遅れて三番手キングヘイローです!
セイウンスカイは1000㍍通過が60秒!
距離を考えればハイペースか?
ダービーウマ娘スペシャルウィークはまだバ群の中団から後方!
此処から誰が仕掛けるのか、まだセイウンスカイを見ていくか――』
―――
スズカの示唆した1000㍍を過ぎて60秒平均ペース。
良バ場とは言え3000㍍なら、実況の通り早めと言える展開である。
「これはウンスとしてはどうなんデース?」
「良くもなく、悪くもなく……早くないけれど、先頭で逃げていられる訳だから展開としては及第点かしら」
「スズカ先輩も厳しいデース」
「此処の時点だとそうなるわ。この先レースが進んだら、どう転ぶか分からないけれど」
「次の1000が勝負所デースかね?」
「そうね……誰かソラちゃんを止めに行かないと後半大変かもしれないわ」
「止めに行くって……早めのペースで入ってるのに突っ込みに行ったら……」
「今からじゃ、行ったウマ娘の勝ちは無くなるわね。やるなら毎日王冠の彼女みたいに、序盤で行くって決め打ちしながら中盤で休むくらい極端な走りをしないと」
「そりゃ、行きたくないデースね……こうなるとウンスの作戦勝ちかな」
「まだ勝ってないわ。はまりつつあるだけで。それに……」
サイレンススズカはバ群の後方に位置するスペシャルウィークに目を送る。
この後輩は寮のルームメイトであり、話す機会もそれなりにあった。
スズカから見ると口下手であり、あがり症な後輩。
普段関わる様子では、とても大レースで注目を浴びる事に耐えられそうに無かった。
しかしダービーといい今といい、大観衆の声援を受けて力強く走っている。
「何かを起こすなら、やっぱりダービーウマ娘かしら」
「あの位置にいるって事は、スぺちゃん脚を残して入ろうとしてますよネ」
「そうね……だけど、届くかな」
「ラストの直線は2ハロンありますカラ……ウンスの脚が止まっちゃえばスぺちゃん有利デース」
「確かに。その400㍍が、逃げウマ娘にとって地獄なのよね」
――
スタンド正面から第1コーナーに入ったセイウンスカイ。
徐々にバ群の速度が上がって来たのか、差が少しずつ詰まってくる。
5バ身から4バ身。
4バ身から3バ身。
第2コーナーを抜けた時、セイウンスカイのリードは1バ身を割っていた。
『先頭セイウンスカイ!
だが後続のウマ娘はペースが上がったか!?
セイウンスカイもうリードが無い!
バ群の先頭はキングヘイロー!
此処でスペシャルウィークも上がって来た――』
第2コーナーを抜けた向こう正面。
此処から第3コーナーまでは最も長い直線があり、長い上り坂でもある。
スペシャルウィークは体感として、あまり速度を上げていない。
順位が上がったのは周りのウマ娘達が疲労で控え気味になったからだろう。
セイウンスカイも殆どバ群の先頭に捕まっている。
(ウンスちゃんも捕まってるし、末脚だったら私が強い。此処からなら届く)
スペシャルウィークは上り坂に対応して足のピッチを上げる。
それにしても3000は長い。
しかも後半にこの登りである。
スペシャルウィークの息が上がる。
周りのウマ娘達もかなり息が上がっている。
(坂キツ! 末脚を残すとか言ってられないっ。言ってられないけど頑張らなきゃ勝てない……ウンスちゃんもう少し落ちてこないかなぁ)
セイウンスカイは上り坂に入ってまたペースを上げたのか。
少しずつ、本当に少しずつリードを開いていく。
その様子にスペシャルウィークはうんざりする。
セイウンスカイにではない。
楽に相手が潰れてくれないか、などと甘い事を考えた自分にである。
(相手は皐月賞ウマ娘! セイウンスカイ! 私のライバル! あの子に勝つって大変なんだから弱気な事考えないっ)
バ群を形成するウマ娘達も速度を維持するのが難しくなってきたらしい。
相対的にスペシャルウィークの順位が上がった。
スペシャルウィークは不思議な感覚の中にいた。
自分の中の速度を維持する事と、先頭までの距離を維持する事。
この二つは別々の作業の筈なのに釣り合っている。
辛いレース後半の登りで速度を維持することが出来るのは、コンディションが良いからだろう。
スペシャルウィークはこの日を迎えるにあたって苦労を掛けたトレーナーに内心で頭を下げる。
終わったら改めてお礼を言おう。
セイウンスカイとの距離が変わらないのは向こうも同じ速度で走っているからだろう。
スペシャルウィークがバ群の中で順位が上がれば、セイウンスカイのリードも同じように開いていった。
(走りやすい……あれっ?)
セイウンスカイを見ながらシンクロするように走っていたスペシャルウィークは、視界の中に変化を感じてもう一度バ群を観察する。
正体はキングヘイロー。
バ群の先頭にありながら、徐々に登りでセイウンスカイに逃げられていたキングヘイローがスパートした。
まだ向こう正面上り坂の中ほどである。
(ヘイローちゃん此処で行ったか……ウンスちゃんは……落ち着いてる)
キングヘイローが開けられた差をじわりじわりと詰めていく。
しかしセイウンスカイは全く動じていないように見える。
スペシャルウィークは前の二人を見ながら序盤で止めたカウンティングを再開した。
セイウンスカイとの距離は開いていない。
自分の速度も落ちていない……と、思う。
それでも距離と速度が釣り合っている今のうちに、もう一度正確に測りなおす。
リギルに入ってから会得した走法の一つ。
歩幅を調整して歩数によって1ハロンを測る。
それに何秒掛ったかで自分の速度を割り出せる。
(ひーふーみーっと……足きついけど間違ってないよね。1ハロン12秒の平均ペース)
レース終盤の此処ではその平均を維持する事すら辛い。
それは周囲のウマ娘達が徐々に下がっている所からも理解できる。
恐らく此処で平均を取れているのはスペシャルウィークとセイウンスカイだけ。
キングヘイローは適正距離の限界か、セイウンスカイを捕まえる寸前で足が伸びなくなる。
第3コーナーの入り口では逆に差をつけられていた。
(あれ……)
スペシャルウィークはセイウンスカイとキングヘイローの勝負に違和感を覚えた。
というよりも、アレは勝負だったのか?
何かがおかしい。
何か、致命的な間違いを見落としている気がする。
(……ウンスちゃんはキープで逃げてヘイローちゃんは抜きに行って失敗した。私はウンスちゃんと開いてない。速さでは勝ってないけど、負けてもいない。1ハロン平均の12秒で……)
そう言えば、1000㍍の通過は60秒ではなかったろうか。
セイウンスカイは先程から等速をキープしている。
彼女の走り方は序盤から変わっていない気がする。
ならば数えていなかったが、2000㍍は120秒だったのではないだろうか。
それならば、最後の3000㍍は……
――
「私がリギルにいた頃ね?」
「ハイ」
「逃げをやりたいって東条トレーナーに相談した時、凄い色々難しい事を教えてくれたのよ」
「難しい事ですか」
「その中で、逃げウマ娘が多くない理由の一つが私達の身体の作り方にあるらしいの」
「……また難しそうデース」
「私達の頭って体重の大体一割を占めているらしいのだけれど、酸素の消費量は全体の二割を持っていくらしいわ」
「ふむぅ……つまり効率が悪い部分なんですネ~」
「そう。しかもレース中に使えば使うほど其処で酸素を使うから、逃げウマ娘って大変らしいわ。ソラちゃんなんか凄いわよ? レースで真剣勝負しながら、先ず時計を数えているの。それに歩数と、ゴールまでの距離も数えてる。其処から後ろのウマ娘の様子で歩幅を変えたり、走る見た目を変えたりしながら人とペースをコントロールしているのね」
レースでは向こう正面でキングヘイローがセイウンスカイを捉えに行った。
エルコンドルパサーから見れば、長距離が得意でない彼女の選択としては分の悪い賭けだと思う。
「あ、あの緑の子は気づいたわね」
「わっつ?」
「ソラちゃんは私とは異なるタイプの逃げウマ娘なのよ。色々な事を考えながら走れる凄い子なの。だけどウマ娘でも人体でも、構造上どうしても考えれば考えるほど疲れるのよ。其処で体力を使ってしまう」
「でもウンスはスズカさんみたいなスピードで押し切るのは無理ですヨ?」
「だけどソラちゃんはね、ウマなりで走りやすいように走った時、丁度1ハロン12秒で走れるの。そう揃える事が出来て、初めて逃げウマ娘を名乗れるらしいから」
「……」
「1ハロン12秒なら1000㍍を60秒で走れるでしょう? 2000㍍も120秒で走れるでしょう? なら3000㍍を180秒。ね? 簡単でしょ」
「そんなわけあるか」
「ふふっ。だけど普段色々考えて走るソラちゃんが頭を空っぽにして走った時、そんな非常識が実現してしまうかもしれないわよ」
苦虫を噛みつぶした顔で突っ込むエルコンドルパサー。
その顔がおかしいのか、口元に手を添えて笑うサイレンススズカ。
レースに目を向ければセイウンスカイは第3コーナーの下り坂に差し掛かっている。
此処でスペシャルウィークも慌てたようにセイウンスカイを捕まえに行った。
「スぺちゃんも気づいたかな? でも遅かった」
「まだ……下り坂でペース上げられマース」
「そうね。だけど最後の直線は平地よ? 下った直後の平地って、体力が無い時は登りに感じるのよね」
「……」
「しかもそこそこ長い2ハロンあるわ。さぁ、ダービーの時みたいに差し切れるかしら」
『スペシャルウィーク此処で仕掛けたっ
下り3コーナーでスパートを切りました!
坂を使ってセイウンスカイを捕まえる!
並ばない並ばない!
先頭スペシャルウィークに変わって4コーナーに向かう!
しかし大きく外に膨らんだ!
内を突いてセイウンスカイがもう一度上がってくるっ
第4コーナーを回って最後の直線に入ります!
先頭はやはりこの二人っ
内セイウンスカイ!
外スペシャルウィーク!
後続のウマ娘達は脚がつかないっ
完全に前二人!
しかし足色が良いのは内!
セイウンスカイっ
ダービーウマ娘を直線で突き放す!
スペシャルウィークはいっぱいか!?
先頭セイウンスカイ!
完全に一人旅!
セイウンスカイ!
セイウンスカイっ!
今一着でゴールイン!
勝ったのは皐月賞ウマ娘セイウンスカイ!
二着はスペシャルウィークが入りますっ
掲示板の表示ではなんと8バ身差……あぁっと掲示板にはRのランプがついています!
第■■回菊花賞はレコード決着!
セイウンスカイ3:01:9!
圧倒のレコード勝利です――』
§
大勢の人間が信じがたいものを見た時、歓声よりもどよめきが起こるものらしい。
其れほどの衝撃だった。
ラスト400㍍。
スペシャルウィークがどれほど追っても差は開くばかり。
(ウンスちゃんの脚が早くなったんじゃないよね……私が先に潰れたんだ)
スペシャルウィークはセイウンスカイの乱ペースを警戒していた。
他のウマ娘達もそうだっただろう。
しかし蓋を開けてみれば、セイウンスカイは正確な平均ペースを貫いた。
リギルで確認してみなければ分からないが、おそらく終盤に疲れが来るまで同じラップを刻んでいたに違いない。
通常ならば決して早いとは言えない時計が、3000㍍という距離を得て凶器に化けた。
スペシャルウィークを初め、セイウンスカイ以外のウマ娘は全員が機械的にすり潰されたのだ。
決して逃げていたわけではないのだろう。
ただ、3000㍍を走るなら1000㍍平均60秒はハイペースに当たる。
だから誰も気づけなかった……
(凄かった! ウンスちゃん凄い強かったっ)
セイウンスカイはターフに身体を投げ出している。
空を見つめる勝者に、やっと現実を認識した観衆から祝福の声が降り注いだ。
セイウンスカイは自分に掛けられた声を掴むように手を伸ばした。
「ウンスちゃん」
「スぺちゃん……」
セイウンスカイが伸ばした手をスペシャルウィークが掴んだ。
そしてゆっくり引いて立ち上がらせる。
「もぅ……もう少し寝かせといてよー」
「勝者が何時までも寝てちゃダメだよ」
なんとか立ち上ったセイウンスカイと、引き起こしたスペシャルウィークの視線がからむ。
スペシャルウィークはセイウンスカイを一度だけ強く抱きしめた。
「……おめでとう、ウンスちゃん」
「……ありがとう、スぺちゃん」
言葉を交わして二人は離れた。
勝者であるセイウンスカイはウィナーズ・サークルへ。
敗者であるスペシャルウィークは地下道へ。
「……」
立ち去っていくスペシャルウィークをしばらく見つめていたセイウンスカイ。
一つ息を吐いて観客を見渡し、両手を振って歓声に応えた。
セイウンスカイは皐月賞に続く二度目の戴冠。
此処に一つの世代の物語が決着した。
万来の拍手を浴びて花道に臨む彼女の耳には、近くて遠いナニかの嘶きが響いていた。