チームの詰め所を出た四人のウマ娘が棟の廊下を歩いていく。
途中先頭のウマ娘がスマホでトレーナーと連絡を取っていた。
スピーカーモードの為、会話は筒抜けである。
「おぅ、ハードバージ。おめぇまだ生きてっか?」
「んぁ……寝てたよ」
「っは、真昼間っから寝てぇなら死んでからにしな。仕事だごく潰し」
「なにー?」
「例のチーム荒らしがうちに来た。気に入ったから俺様が相手をする。ダートコースを1100で取ってくれや」
「んー。急だねぇ」
「まぁな。出来っか?」
「芝じゃなければだいじょーぶ……だと思う。ダートはこっちじゃ不人気だから」
「はぁ……世知辛いお国柄だぜ」
「今回はそれで得してるよー」
「そうさな。じゃ、頼まぁ」
「あいよー」
スマホから聞こえた声に顔を見合わせたグラスワンダーとエルコンドルパサー。
トレーナーに対するウマ娘としては余りに気安い印象だった。
一応は指導者に当たるのだから、もう少し丁寧な対応をするものではなかろうか。
特にリギルのグラスワンダーは今見聞きしたものが信じられない衝撃だった。
シーキングザパールも気にした様子がないので、このチームとしてはいつも通りなのだろうが。
「先輩、今のトレーナーさんデスか?」
「おう」
「どんな人?」
「今のあいつは一言でいえば負け犬なんだが……まぁ、色々あるから一概には言えねぇのかなぁ」
「お名前からするとウマ娘なのですか?」
「そうだ。一応現役の時は皐月賞取ってダービーも二着だったんだぜ」
「素晴らしい成績だと思いますが」
「同じクラシックでも取った年で価値が変わるだろ? そういうこった」
グラスワンダーとエルコンドルパサーは互いに顔を見合わせた。
チームとは競技者たるウマ娘とそれを指導、管理するトレーナーによって作られる。
専門知識の必要なトレーナーとはその資格において狭き門ではあるものの、人間でもウマ娘でもなる事は出来た。
しかし世間一般の認知として、ウマ娘と人間との間には特別な絆があると信じられており、全体で見た時人間のトレーナーが指導するチームの方が成績が良い傾向がある事も事実である。
幾らG1級とは言えウマ娘がトレーナーをしているというのは、チームとしてはマイナス要素に感じる二人だった。
「ウマ娘がトレーナーしてるチームって珍しいデスね」
「トレーナーとしちゃ人間の方が引く手数多だしな。だけど新チーム作ろうって時はウマ娘から探すと便利なんだぜ? そこそこあぶれていやがるからよ」
「さっきダートでお国柄って言ってましたよネ。もしかして、先輩も帰国子女デース?」
「いんや、留学って枠を使ってる。所属はあくまで故郷……アメリカのカリフォルニアだ。しかし先輩もってこたぁ……」
「イエース! ケンタッキーで生まれましタ」
「あそこかよ! 憧れあんなぁ」
「ケンタッキーダービーの聖地デスから、私も誇りに思ってマース」
意気投合している二人を見ながらシーキングザパールも自分のスマホを操作している。
チームのグループLINEに事情を書き込み、用事が無ければ来るように連絡を送る。
ふと気がつけばグラスワンダーがパールの隣に並んでおり、ためらいがちに聞いてきた。
「あの……」
「何かしら」
「そちらのトレーナーさんについてもう少し、伺っても良いでしょうか」
「ええ、まぁ貴女はリギルだから説明は楽だしね」
「ありがとうございます。あの、リギルだと説明が楽だというのは……」
「うちのトレーナーが現役の時デビューしたのと、あの不良赤毛がこっちに留学してデビューしたのがほぼ同期なんだけどね」
「はい」
「マルゼンスキー先輩が出てきたのもその年だったわ」
「あ……」
「もう分かった? チームリギルの最初の巨星。怪我に泣かされたから出走自体は多くなかったけれど、それと同年代ってだけで同期も相当泣かされたのよね」
「少しだけ、聞いたことがあります」
「あいつなんかメイクデビュー戦まで一緒だったらしいわよ」
「それは……ん?」
赤い背中をあごで示して笑むシーキングザパール。
グラスワンダーは何気なく答えかけて違和感に詰まった。
親友に何かを伝えなくてはならない。
そんな気がしたのだが、形になる前に目的地が見えてきた。
眉間にしわを寄せて黙考するグラスワンダー。
その目の前でエルコンドルパサーが赤い女にまとわりついている。
「そういえば先輩、お名前聞いてなかったデス」
「おぅ。なんか普通に馴染んじまってたな」
赤い女はガシガシと頭をかく。
シーキングザパールは後ろから蹴りを入れ、痛むから止めろとたしなめた。
心底不満そうにしながら舌打ちし、それでも黙って従う女。
「……俺はシルキー。シルキーサリヴァンだ。よろしくな、エルコンドルパサー」
§
ハードバージが手配したのは、トレセン学園で練習場として使用可能なダートコースの一つである。
昨今この国のレースではダート路線の人気が低迷している事もあり、此処で練習しているものは少ない。
むしろダートは地方のトレセンの方が出走するウマ娘が多かったりする。
この日もやはりがら空きだったが、先客がいた。
それは二人のウマ娘。
グラスワンダーやエルコンドルパサーには見覚えが無い。
「あら、早かったわね貴女達」
「授業が終わって移動中にLINEいただきましたのでー」
「イヒヒ、先回りになっちゃいましたねぇ」
シルキーサリヴァンは先客二人を手で招く。
やって来た二人はエルとグラスの前に立ち、その後ろにシルキーがついた。
「紹介すらぁ。こいつらがうちの若ぇ衆。でっけぇ方がメイショウドトウだ」
「よ、よろしくお願いします。先輩方」
「地力は本物だが勝負根性がねぇのかいまいち勝ち切れねぇ、二着バカだ」
「酷いですぅ……」
「で、こっちのちっこいのがアグネスデジタル」
「アグネスデジタルです。初めまして」
「ずっとそうしてりゃまともなんだがな、地が出ると唯のバカだ」
「酷い!」
朗らかな笑みで手酷い紹介をされた若い衆二人。
グラスワンダーとエルコンドルパサーも自己紹介を返す。
グラスは相手を丁寧に観察すると、アグネスデジタルが妙に親友を見ている事に気づく。
その視線の先にあるのは顔ではなく胸だった。
「おぅデジタル、そっちのマスクの奴ぁ多分、おめぇが素で当たっても平気だぞ」
「マジっすか!」
「キャラ濃そうだから手加減して欲しいデース」
「可愛い可愛いウマ娘ちゃん! 身長は体重はスリーサイズは性感帯は? あ、何となく見切った! 身長163センチ体重51キロ」
「身長はともかく何故体重が割り出せマスか!?」
「バスト89ウエスト58ヒップ86くらい? 良い身体してますねぇでゅふふふふ」
「なにこの全自動セクハラ発生装置!?」
エルコンドルパサーの手を取り、秘すべき数値を瞬く間に暴き出すアグネスデジタル。
全身筋力の差から手ごと振り払う事も出来そうだが、得体のしれない寒気が怪鳥の行動を阻害していた。
余りの展開にグラスワンダーも反応が遅れる。
動いたのは隣にいたメイショウドトウとシーキングザパール。
ドトウはデジタルを後ろから引きはがし、パールは固まっているエルを回収する。
「……なんだあいつ。いつもの数倍ヤバくねぇか?」
「LINEにはそちらの方はチーム入りしてくれるかもしれないとあったので、テンションが上がっているのではないかとー」
「ドトウちゃん首、首極まってる……あぁでも後頭部やーらけー……」
「あ、やだ触っちゃったぁ」
「ひでぇ」
メイショウドトウは腕で首に引っ掛けて吊っていたアグネスデジタルを解放する。
デジタルは突如離されたにもかかわらずふらつきもせず着地した。
この時にはグラスワンダーも硬直を脱し、親友を背中に庇って立っている。
「なんなんですかこの子……」
「だから言ったろ。唯のバカだって。まぁ……此処まで拗らせてるとは俺様も知らなかった訳だが」
「エル、後で防犯ブザーを手配しますから携帯してください。学園内だからと油断していました」
「そっちの先輩も負けず劣らずの美少女ぶりっ。んー……身長152センチは確定として他は触診しないとわっかんないなー」
「ひぃっ」
グラスワンダーに向けて両手を伸ばすアグネスデジタル。
その手が届く前にシーキングザパールが割って入る。
パールはデジタルの伸ばす手のひらに自分の手を合わせると、指を絡めるように真正面から握る。
一瞬動きが止まるデジタル。
間髪入れず背後から、シルキーサリヴァンがその頭頂部に拳骨を落とした。
身長差30センチ以上の相手から落とされる雷にアグネスデジタルは地に伏して黙す。
「おめぇ結局勝負の後、チーム入りを決めるのはあいつ自身だって事忘れてねぇか?」
「……ごめんなざぃ」
「本当にどうしちまったんだよおい。俺自身初めて見る醜態なんだが」
「チームに後輩が入ったら先輩の権力傘にいっぱいセクハラするのが夢だったんで、つい……」
「最悪だなおめぇ」
シルキーサリヴァンはデジタルの襟首をつかんで立ち上る。
自然とつられたデジタルだが、絞まる前に正面のシーキングザパールに向かって放り出された。
パールは後輩を受け止めながら拳骨の跡地を撫でてやる。
「なんでも年上のお姉さんを見るとタガが外れるお年頃らしいわよ」
「申し訳ないっす」
「俺らには比較的まともだったろ?」
「親みたいなんですって」
「ちょっと姐さんそれ」
「あ、ごめんなさい。口止めされていたんだったわ」
明らかに態と口を滑らせたシーキングザパールにふてくされるアグネスデジタル。
エルコンドルパサーはグラスワンダーの肩を叩いて横に並ぶ。
親友の意思を過不足なく察したグラスワンダーは一歩下がって後ろに控えた。
「賑やかなチームデース」
「このバカ騒ぎを賑やかと言ってくれるたぁ器がでけぇな」
「あはは、早く走ってみたくなりましたネ」
「おぅ。だがその前に、アップと柔軟はやっておけ。怪我になる」
「イエス。ちょっと時間もらいマース。ちなみにね」
「あぁ?」
「こっちが乗り込んでるから当たり前なんですガ―……アップの時間くれたチームなんて半分も無かったヨ」
「よっぽど自信がねぇんだろうさ。上まで届くウマ娘なんざ全体の一割もいねぇ訳だし無理ねぇよ」
シルキーサリヴァンとエルコンドルパサーは笑みを交わし、互いに背を向けた。
離れる二人にそれぞれの仲間が続く。
グラスワンダーは肩越しに一度振り向くと、親友の相手となる者の後ろ姿を目に焼き付けた。
「エル、少し良いですか」
「どうしマシタ?」
「パール先輩のお話を聞いて……あのシルキー先輩が、リギルのマルゼンスキー先輩とデビュー戦が一緒だったって」
「えっとー、マルゼンスキー先輩って、グラスが言ってたグランマ?」
「そうなんですが……実はリギルの最古参で、今でも一番足の速いウマ娘です」
「一番ですカ?」
「一番っていうのは私が信じているだけかもしれません。怪我が多くて、出走数は少ないしあまり重賞にも恵まれていません。練習も軽い調整くらいしか出来ない方なんですが……本当に早いんです。練習の時計でレースをしたら大体レコードになっています」
マルゼンスキーはリギルのメンバーの中では特にグラスワンダーが世話になっている先輩である。
ウマが合うのか、怪我をする前はマルゼンスキーの『軽い』調整の相手は自分が勤める事も多かった。
自然とよく話したし、過去の話も聞くことが出来た。
今ではもう大分昔のレースになるが、グラスワンダーはマルゼンスキーのメイクデビュー時の話も聞いたことがある。
「マルゼンスキー先輩のデビュー戦、当時のレースの常識がひっくり返る程の衝撃だったそうです」
「そこまでデスか」
「はい。何せ、コースレコードを三秒以上縮めて完勝しています」
「二位と三秒じゃなくて?」
「レコードから三秒です」
「……それ大惨事じゃない?」
「はい。大惨事になったらしいです……他の方にとっては」
一位のウマ娘が入線してからカウントされる秒数に遅れすぎると出走停止などのペナルティがつく。
これはまだ未熟な未勝利のウマ娘にとって、決して少なくない事例となる。
一度であればまだ取り返しがつくものの、二度三度と重なれば未勝利のまま一つ上のクラスに上がらざるを得ない。
そんなレースのレベルについていける筈が無く、度重なる出走停止は多くの場合引退勧告と同様に扱われるのだ。
「レコードタイムで走れたとしても三秒以上の遅れです。普通は其処からさらに遅れる訳ですから、そのレースに居合わせた殆どのウマ娘に未来はありませんでした」
「救済措置は?」
「天候もババも良好。実力差以外に差がつく要素はありませんでした。先輩は早く走っただけですから、他の事例と差別化して救済する理由が無かったそうです」
「タイムオーバーペナって一回貰うとメンタルが壊れるって言いますよネ」
「そうですね……ましてデビュー戦の事ですから。初めての負けでタイムオーバーなど、当人にしか分からないショックだと思います」
「留学生が初戦でタイムオーバーなんかしたら返されるよネ?」
「はい。だから、あの人は遅れていないんだと思います。最低でも当時のレコードクラスで走破した筈です」
「へぇ」
「しかもマルゼンスキー先輩はそのレースで無理が祟って、元々脆かった足が本格的に爆弾持ちになっています。つまり先輩のキャリアで唯一まともな調整が出来た一戦だったんです」
「……二人以上がレコード出した時って、先頭の一人しか話題にならないんですよネ~」
「……私もマルゼンスキー先輩に、こんなレースがあったんだよって聞いただけでしたから」
エルコンドルパサーは離れた所で柔軟をしているシルキーサリヴァンを見た。
「ほーんと、今日はついてマース」
「エル、油断しちゃダメですよ」
「イエース! だからグラス」
「はい?」
「見ててネ!」
「はい。頑張って」
§
「待たせたな」
「こっちこそ、お時間貰ってありがとうデース」
見下ろすシルキーサリヴァンと、見上げるエルコンドルパサー。
果たして実力も同じ構図かどうか。
グラスワンダーはコースから離れ、コメットのメンバーと共に対峙する二人を見つめていた。
「ダートの1100、スタートはうちで採用してるハウスルールでやってもらうぜ」
「ハウスルール?」
「おう。若い方が好きに出る。年寄りはそれを見てからじっくり行かせてもらう」
「了解デース」
マスクの下の瞳を細めてエルコンドルパサーが思考する。
自分に有利な条件を貰ったことは間違いない。
恐らく二バ身程のリードと確実に内埒が取れる。
「先輩ってナニモノなんですか」
「ん?」
「詰め所で言っていましたよね。自分はウマ娘じゃないって」
「ああ、言ったな」
「先輩、何?」
「……ま、俺様の口を割らせてぇってんなら勝ってからにしろや」
「わかりました。じゃ、終わったら教えてください」
エルコンドルパサーは息を吐き、スタートに向けて構える。
それを受けたシルキーサリヴァンも重心を落とし、エルコンドルパサーの動きを注視した。
「……」
事此処に至っても、エルコンドルパサーはスプリント戦のペースが決まらない。
だから1100㍍をこれまで経験した勝負の中に置き換える。
エルコンドルパサーは真っすぐ前を見据えたままに瞳の中で想起した。
描くのは同期最強の逃げウマ娘セイウンスカイ。
その背中。
イメージの中で第三コーナー終盤から加速し、第四コーナーで並びかける。
此処までが前半三ハロン。
第四コーナーを抜けて最後の直線、自身に出せる最大速度を振り絞って彼女の粘りを引き千切る。
それが後半の二ハロン。
100㍍程距離が長いが其処は気力で粘ると決めた。
「ッ!」
声をかみ殺して地を蹴ったエルコンドルパサー。
「ふぅ」
息を吐きながら追うシルキーサリヴァン。
会心のスタートから体一つ前に出た怪鳥は、一歩ごとに加速する快感に背筋が痺れた。
両者を見守るグラスワンダーは親友の姿に小さく拳を握りこむ。
「もう勝ったって面してんなーお姉ちゃん」
「はい。エルは調子良いみたいですし」
アグネスデジタルは笑みに似た揶揄でグラスワンダーの顔を覗き込む。
親友に向けた素の笑みを消し、アルカイックスマイルで受けるグラスワンダー。
両者は自分の仲間の勝利を信じている。
それぞれにはそれぞれの根拠もあるが、今すぐに理解を求める事は出来ないだろう。
「でも、あの……エルコンドルパサーさん? とっても凄いと思いますよー」
間延びした声で感想を述べるのはメイショウドトウ。
グラスワンダーは頷き、改めて親友のレースに目を向ける。
一ハロンを過ぎた所。
エルコンドルパサーは先手を取り、そのリードは既に七バ身から八バ身に達する。
「だって……あの、リーダーが前半から割と普通に走っていますし」
「ほれ、これ使ってみ」
アグネスデジタルが自分のストップウォッチをグラスワンダーに貸し出した。
「ラスト一ハロンで良いからさ、あのクソ親父のラップ取ってみな」
「……」
二ハロン通過。
エルコンドルパサーが第一、そしてこのレースにおいては唯一のコーナーに差し掛かる。
息は軽い。
とても楽しい。
砂に足が食い込む感触が気持ちいい。
其処から足を引き抜く感触も悪くない。
(ダートも結構好きなんデスよネ~)
強く踏みしめて強く蹴っても足があまり痛くない。
エルコンドルパサーは此処まで条件戦で二戦二勝。
実は二つともダートコースの事であり、指定がダートであったことはむしろ好都合だったのだ。
だからと言って芝が苦手と言う事でもないのだが。
「……早ぇなおい」
前を駆ける若い才能。
遠く一五バ身も先を征く背中を見つめるシルキーサリヴァンは思わず感想をつぶやいた。
油断があったわけではない。
むしろ十二分に警戒していた。
後半の追い込み一本で決める心算ではあったが、足を残しながらもそこそこには走っている。
それでもコーナーに入って三ハロンを通過した時、徐々に開いた差は二十バ身に達しようとしていた。
「昔みてぇにキャンターしてねぇと息が詰まる身体ってわけでもねぇんだが」
少し警戒しすぎて控えてしまったかもしれない。
何を堅くなっているのだろう。
昔の自分は乗り越えた筈だ。
シルキーサリヴァンは今の容貌に似つかわしくない凶悪な笑みで息を吸う。
かつては出来なかった口呼吸で。
「自由に口から吸える息。関節もろくに痛まねぇ。背中は少し寂しいが、55㌔の荷物も背負ってねぇ……こんなEasy modeで俺様が――」
最後の直線二ハロン半。
両者の差は二十バ身程。
エルコンドルパサーが其処にたどり着いた時、シルキーサリヴァンはまだコーナーの中にいた。
肩越しに振り向いて相手の位置を確認する怪鳥。
遠く離れたその姿を見たエルコンドルパサーは寂し気に笑んだ。
まだまだ脚は残している。
ギアを上げる余地がある。
それはシルキーサリヴァンも同じだろう。
だがそれでも、ラスト500㍍を切ったこの位置から。
さらに加速する自分を差し切ることが出来るだろうか。
出来るはずが無いと思う。
実際のレースでも、チーム荒らしの野良試合でもそんな奇跡はお目にかかれなかった。
今回に限って例外だなんて、どうして信じられるだろう。
エルコンドルパサーはラストスパートに向けてシルキーサリヴァンから視線を切った。
だから怪鳥は見逃した。
背後のシルキーサリヴァンが、崩れるように前のめりに倒れ込んだ所を。
それを見ていたのはギャラリー達。
息を呑んだグラスワンダー。
会心の笑みを浮かべて拳を握ったのはコメットのメンバーである。
それはスタート直後にグラスワンダーが浮かべた表情と同じものだった。
「負ける筈ねぇだろうがよ」
前傾に倒れたシルキーサリヴァン。
グラスワンダーには彼女が埒に沈んだように見えた。
転倒したとしか思えないその姿。
コメットのメンバーはそれが始動だと知っている。
両手両足を一瞬だけ、同時に地面につける事。
四つの脚で立っていた頃の記憶を強く呼び覚ますその前動作から、クラウチングで切るリスタート。
その変化は一歩目から顕著だった。
「んぐ!?」
エルコンドルパサーは上げかけた悲鳴を無理に飲む。
何かは分からない。
しかしとても重くて速いものが、爆音と共に迫ってくる。
そんなはずが無いと思う。
だが後ろからくるのは相手しかいない。
シルキーサリヴァンが追い込んでくる。
「うそ……」
グラスワンダーはその光景にしばし唖然と魅入っていた。
倒れたと思った赤いウマ娘が砂の飛沫と共に飛び出したのだ。
砂を踏みしめる強さが違う。
踏み込んだ地を蹴る強さが違う。
それまでのシルキーサリヴァンとも、そしてエルコンドルパサーとも。
凄まじい勢いで砂を巻き上げ、シルキーサリヴァンが追い上げる。
五ハロンを通過した時、二十バ身の差はなくなっていた。
――ラスト100㍍
エルコンドルパサーは前を向いたままシルキーサリヴァンを視界に捉えた。
捕まったともいう。
歯を食いしばって加速する怪鳥。
嘲笑うように置き去る赤い弾丸。
此処に至って思い出す。
スプリンターと脚の速さで勝負をするなといった彼女の言葉。
一バ身前にでた後ろ姿にその意味を思い知るエルコンドルパサー。
――ラスト50㍍
エルコンドルパサーは地獄のような世界にいた。
たった100㍍。
僅か半ハロンが……長い。
シルキーサリヴァンに並びかけられ、その猛追を凌ぐのに100㍍は余りにも長かった。
三バ身先を征く背中を追いかけるエルコンドルパサー。
残りの距離は腹立たしいほど減らないというのに、徐々に赤い背中が遠くなる。
流れている時間の速さが違うのではないか。
そんな理不尽な思いが怪鳥の胸を掠めた。
――ラスト10㍍
四バ身離れた赤い背中が、ゴール板代わりに立つシーキングザパールの前を駆け抜ける。
それはエルコンドルパサーが初めて見た、自分より先に入線していく誰かの姿。
おそらくこれから、自分が死に物狂いで追いかける背中が其処にあった。
「……」
凄い相手と戦った。
そんな実感と共に自分もゴールを追い越した。
慣性を徐々に殺して減速していく。
二人のウマ娘はギャラリー達の前を通り過ぎ、しばらくジョギングした所で止まった。
シルキーサリヴァンは天を仰いで息を吐き、エルコンドルパサーは膝から崩れ落ちる。
「グラスワンダー先輩」
「……」
「せーんぱい!」
「え、あ……」
「あの不良赤毛、幾つでした?」
アグネスデジタルの問いにグラスワンダーは答えられない。
あの激走を初見で魅入るなと言う方が無理だろう。
ストップウォッチはグラスワンダーの手の中で、操作されること無く握られていた。
代わりに答えたのはパールと合流したメイショウドトウ。
「ラスト一ハロンが11秒フラットですぅ。本調子じゃなさそうですね」
「……あれで不調なんですか?」
「良バ場のスプリント戦なら10秒切ってくるわよあいつ」
「此処、ダートですよ?」
「見たぁ? 見たよね先輩、あの脚! 私らみんな、アレに夢見ちゃったんだよ」
「……」
常の軽薄な様子が鳴りを潜め、純粋な憧憬の瞳で語るアグネスデジタル。
グラスワンダーは確かに信じがたいものを見た。
しかし一番近くで見たのはエルコンドルパサーである。
その視線の先ではシルキーサリヴァンが自分の親友を引き起こしている。
「ああ」
自分に勝ったウマ娘の手を借り、満面の笑みで立ち上ったエルコンドルパサー。
グラスワンダーはその光景を見るのが辛かった。
無意識に俯いたグラスワンダーは包帯が巻かれた自分の脚を見てしまう。
思い通りにならないその脚が、今は無性に忌々しかった。
「ああ」
エルコンドルパサーは居場所を見つけてしまった。
グラスワンダーの傍に居られない選択肢を選んでしまった。
考えてみれば自分がリギルに入った時から道は分かれていた筈だった。
それでもグラスワンダーにとって、自分の隣にエルコンドルパサーが居なくなる事に現実感がまるでなかった。
彼女はきっと自分と同じチームに入る。
そんな根拠もない事を、グラスワンダーは何故か無邪気に信じていたのだ。
「……」
行かないでとは口に出せなかった。
最初にチームを選んだのは自分なのに。
どうして今更、ようやく自分の居場所を見つけた親友に水を差せるというのか。
「完敗でした」
「今日も生き延びたぜ」
「……そっか。先輩は命がけって言ってましたよね」
「おぅ」
シルキーサリヴァンはエルコンドルパサーを上から下まで一通り観察し、怪我がない事と息が戻っている事を確かめて背を向けた。
「お疲れさん」
「……で、先輩って何なんですか?」
「……勝ったらって言ったじゃねぇか」
「教えてくれてもいいじゃないデスカ~」
何時もの調子に戻った怪鳥。
シルキーサリヴァンは首だけで振り向くと、笑みを浮かべる後輩がいた。
「これから一緒にやっていく、後輩なんデスから」
「…………そうかい。身内じゃ、しょうがねぇな」
エルコンドルパサーはどこからどう見てもウマ娘にしか見えない赤い髪の女の口から答えを聞いた。
「俺様はシルキーサリヴァン。アメリカのカリフォルニアで生まれた……Thoroughbredだ」
「サラブレッド……デース?」
「ああ。多分ウマ娘って奴は全員な」
§
一方その頃。
トレセン学園から遠い北の地にて、一人のウマ娘が旅立った。
「そんじゃお母ちゃん、行ってくんね!」
「食べ過ぎに注意しなよ? あめめたもん食べちゃダメだかんね。落ちてるもんも食うんでないよ」
「……もっと他に心配する事ぁねぇんかや」
「別に……なぁ。あんたは食い意地と騙されやすい単純バカって事以外、心配する事ないからねぇ」
人間の母親はウマ娘の娘に笑みかけ、その頭を一つ撫でる。
「生みの親によーく似てくれた、自慢の娘だよあんた」
「生みの親の事は覚えてないけど、育ての親は自慢のお母ちゃんだよ」
「後は、怪我だけは気を付けて……行っといで、スぺ」
「うん! スペシャルウィーク、日本一のウマ娘になってきます」
母親に見送られ、列車に乗り込むスペシャルウィーク。
いずれ必ず日本一のウマ娘になる。
そんな夢と約束を胸に旅立つ少女は、真っすぐ前だけを向いていた。