スペシャルウィークの弥生賞勝利はリギルを大いに沸かせることとなった。
ジュニアCでは期待されていたグラスワンダーの怪我もあったが、急遽飛び込んできた転入生の躍進。
学園関係者のみならずレースファンからみても、春レースの主役はやはりリギルかと思われた。
しかしクラシック三冠の初戦、皐月賞ではセイウンスカイとキングヘイローに先着を許しての三着に敗れたスペシャルウィーク。
弥生賞においては完勝していた相手から短期間で逆転された件は多くの者を驚かせた。
トレーナーの東条ハナはスペシャルウィークをいかにして次のダービーで勝たせるか、思案のしどころである。
東条ハナが最初に手を付けたのが情報収集。
自分が見られなかった間にリギルのメンバーがスペシャルウィークをどのように指導していたかを詳しく知らなければならない。
トレーナーは学園の空き教室を一つ借り切り、スペシャルウィークに関わったメンバーを招集する。
そして関係者がリギルのほぼ全員だった事に先ず驚いた。
更に自分が手塩にかけて育てたウマ娘達がスペシャルウィークに教え込んだことを知り、最初の五人でダウンした。
「もう一度最初から聞こう」
「「「「「「「はい」」」」」」」
「ルドルフ」
「私が半生をかけて編み出したダンスステップだ」
「……ブライアン」
「発声の基礎」
「…………フジキセキ」
「スズカのファンだったようだから、丁度空いていたスズカの相部屋に手配して上げたよ」
「………………エアグルーヴ」
「スズカの非公式ファンクラブとの伝を少々」
「……………………グラスワンダー」
「トレセン学園周辺の食べ放題のお店などを」
自分の聞き間違いではなかった。
誰一人レース関係の指導なんぞしちゃいなかった。
シンボリルドルフとナリタブライアンはまだわかる。
両者ともレースの強者として勝つ事は前提。
その上でファンに素晴らしいウイニングライブを魅せる為に考えているウマ娘だ。
この二人にフリーハンドで新人に関わらせた事は東条ハナとしても失敗だったと思っている。
しかし後の三人はあんまりだろう。
東条ハナは遣る瀬無い感情を押し殺して部屋に集まったメンバーを見渡す。
先程発言したメンバーに加えてヒシアマゾン、マルゼンスキー、そしてタイキシャトルと当事者のスペシャルウィークがいる。
このうちタイキシャトルは自分とトレーニングをしていたのだから今回は関係ない。
残り二人にも聞かなければいけないだろうか。
最早大喜利の様相を呈してきたスペシャルウィーク育成計画。
東条ハナは荒れ狂う内心を制して続きを問うた。
「……ヒシアマゾン」
「泥跳ねやら肩当てやらで荒っぽいレース仕掛けてくる連中の捌き方を仕込んだぜ」
「っ!? よくやったアマゾン」
「お、おぅ」
本来は学園に在籍していれば、ジュニアの低学年の頃から自然と覚える様な事である。
スペシャルウィークの経歴と性格から苦手そうだと感じたからこそ指導をしたが、基礎を普通に仕込んで此処まで喜ばれるとは予想外だった。
「マルゼンスキー」
「猫っ可愛がってました」
「やっぱりか貴様ぁ!」
「いった!? なんで私だけ突っ込みが入るのよぉ」
「何も教えていないからに決まっている。グラスワンダーよりふざけた答えが聞けるとは思わなかったぞ」
「あーん、ごめんなさいー」
そのやり取りを背中に冷たい汗を感じながら見ていたグラスワンダー。
何も彼女はふざけていたわけではない。
ただ同じチームとして、クラスメイトとして、転入生たるスペシャルウィークを気にかけて聞いているだけである。
『学園で何かわからない事や質問ってありますか?』
これに対するスペシャルウィークの言葉が全て食べ物関係だからさっきのような解答にならざるを得ない。
プライベートのやり取りだと思っていた事がいつの間にかスペシャルウィークの育成方針に関わっていたとみなされている現状。
グラスワンダーとしてはどうしてこうなったと息を吐くしかない。
先輩方のノリに合わせて馬鹿正直に答えた自分も自分であるが。
「スペシャルウィーク」
「はい!」
「弥生賞で勝った相手に、皐月賞で負けた。お前の中で感じた反省点や自分の中の問題点など、敗因と考えられるものはあるか?」
「私は、ヘイローさんにもウンスちゃんにも……えっと、一度は勝っていました。だから、調子に乗ってしまったのかと」
「うむ」
スペシャルウィークの自己分析に深く頷いたトレーナー。
そう言う側面はあるだろう。
しかし自分の中のおごりと真っすぐ向き合う事はなかなかに難しい。
スペシャルウィークは精神的に歪んだ部分が無く素直であり、指導者としては楽である。
その表情から深く自分を戒めている事を察した東条ハナはその方面からの指摘を止めた。
「そうだな。しかしそれはお前だけの問題ではない」
「え?」
「お前自身が語った通り、油断の始まりは皐月賞ウマ娘となったセイウンスカイに直近で勝っている事だ」
「そうです」
「弥生賞は三着までが皐月賞に優先権がある。其処を本番とするなら、あえて一位に入らなくても良い……と割り切るウマ娘もいる」
「……ウンスちゃん……わざと負けた?」
「語弊はあるが、死力を尽くして勝ちに来なかったのは確かだ」
それはスペシャルウィークの想像力のまるで及ばぬ答えだった。
しかし考えてみればトライアルレースで全力を出して勝ちに行けば本番で疲労が残りかねない。
余力を残して目的を達せられるなら、それも選択肢だろう。
スペシャルウィークとしては釈然としないものがあったが。
「皐月賞のレースは確認した。弥生賞もな」
「はい」
「お前自身が精神的な部分で油断があったと理解しているなら、選手としてはそれでいい。私からトレーナーとしてお前の敗因を指摘するなら、それは走法の選択肢が少ない事だ」
「走法……」
「レースは平地だけではない。上り坂があり、下り坂があり、コーナーがある。レース場の特徴や、その日の天気などでも条件は変わってくる」
「はい」
「お前は平地で速度を維持する事と選考レースで見せた末脚を使う走法……はっきり言えばこの二つだけで勝ってきた」
其処で一度言葉を切り、チーム一堂を睨むトレーナー。
それぞれの表情で目を逸らすウマ娘達。
東条ハナは自分のチームは此処まで愉快な連中の集まりだったかと内心で首を傾げる。
一つ言えるのは、ほぼ全員がスペシャルウィークに入れ込んでいる。
レース関係の指導不足はともかく、それぞれのウマ娘が自分の得意分野を惜しげもなく後輩に披露しているのだ。
そう考えた時トレーナーはある可能性に気づいてしまう。
「グラスワンダー」
「はい?」
「お前、後で私の前で体重計に乗って見せろ」
「はぁ!? なんでですかっ」
「骨折で運動量が落ちているはずだ。そこへ来てスペシャルウィークと食べ歩きをしていたんだろう?」
「…………道案内です」
「必ず乗れよ」
「そんなバカな……」
あらぬ方向から飛び火した不運に肩を落としたグラスワンダー。
マルゼンスキーは話の流れに腹を抱えて笑っている。
一つ咳払いして言葉を切ったトレーナーは話の本題を修正する。
「……当面、お前の課題は幅広い状況に対応できる走法の充実。直近の目標としては上り坂の克服だ」
「はい!」
「Hey Honey!」
「……トレーナーと呼べ。なんだ?」
「ワタシもスぺちゃんのお手伝いしたいデス」
「お前がかタイキシャトル」
「YES! スぺちゃんの調整が此処まで遅れたのってワタシのせいネ」
「それは違う。スペシャルウィークの現状に関われず、調整する機会が作れなかったのは私の責任だ」
「だとしてもー、ワタシだけ後輩にLessonしてあげれてないデース」
タイキシャトルはそう言いながらスペシャルウィークを後ろから羽交い絞めにする。
抜けようともがくスペシャルウィークだが、タイキシャトルの腕は微動だにしなかった。
「良いデショHoney……ちゃんとUphillのTeachingしますカラ~」
「……私の見ている前でやれ」
「アハ! Thank you for choosing me」
「あのー……」
タイキシャトルの腕から抜け出すことを諦めたスペシャルウィークは、観念して頭上の先輩に問いかけた。
「坂登りの訓練ってどうするんですか?」
「んー……Honey,坂路コース使えマース?」
「明日にでも手配する」
「アリガト。明日やって見せるから、スぺちゃんも一緒にガンバロ?」
「お、お願いします」
次の師匠が決まったスペシャルウィーク。
リギル一門の総力を挙げた後輩育成は、まだ終わらない。
§
スピードの絶対値を求めて春の戦いをマイル路線に決めたエルコンドルパサー。
同じ路線のシルキーサリヴァンとシーキングザパールの指導の下、急ピッチで下地を固めていく。
目指したものはレースのラスト2ハロンをシルキーサリヴァンと同等の末脚で走れる自分。
その為に必要なものは多い。
バ場にもよるが、それは1ハロン10秒フラットの世界である。
「へばったかエルコン」
「……まだまだデース」
一周2000㍍のダートコースを三週目。
先を走るシルキーサリヴァンとエルコンドルパサーは長い厚手の紐によって腰で繋がれていた。
400㍍を流して200㍍を全力疾走。
その繰り返し。
どうしても最高速度で劣るエルコンドルパサーはシルキーサリヴァンに引っ張られる事になる。
そうやってシルキーサリヴァンの速度とリズムを体感していく。
しかし此処で一つエルコンドルパサーにとって予想外の事態が起こる。
(この人……短距離ウマ娘じゃないんデース!?)
当人は自分をスプリンターだと言っていた。
来日当初はマイルもきつかったと話してくれた。
そしてアメリカンクラシックに対応するため、2000は走れるように叩き上げたと語っていた。
それは並大抵の努力ではなかったろう。
しかしそれが何だというのか。
エルコンドルパサーは練習の時計ならば3000㍍でもレースに持ち込める数字が出せる。
その自分が、短距離のウマ娘にスタミナで潰されていた。
(ジョグ、先輩はキャンターって言ってましたっけ。これが早い! 一ハロン全力疾走の疲労が二ハロンで抜けないっ。先輩は抜けてるっぽいのにワタシはどんどん疲れてる……ナンデ?)
理不尽な状況の苛立ちが疲労を深め、エルコンドルパサーの思考を鈍らせる。
其処へ腰の紐が強く引かれる。
死に物狂いで足を動かし、シルキーサリヴァンに食い下がる。
自分は先輩の推進力を借りている。
先輩は自分の重さを曳いている。
それでも自分の方が先に疲れていた。
「エルコン、重てぇ」
「す、スイマセン」
「次の一周は全部流すぜ。一回息を入れろ」
「ハイ!」
人間と同じほどのジョギングに切り替えたシルキーサリヴァンにエルコンドルパサーが追いついた。
「先輩……」
「そう落ち込むこたぁねぇ。年季が違うし、おめぇの知らない事もやってるからな」
「知らない事?」
悪戯っぽく片目をつむる赤いウマ娘。
エルコンドルパサーとしては今見せられた現実が知識で埋まるとは思えない。
地道に走りこんで少しずつ速度と体力を底上げしていくしかないのではないか。
そう言って先輩を見上げたエルコンドルパサー。
「おめぇよう」
「はい」
「今どっちの脚が疲れてる?」
「……ん?」
「此処を三周して大体6000㍍だ。ダッシュとインターバルを交互に10回。何となくでいいんだが、右か左どっちかの脚に疲労が偏ってねぇか?」
「……右です」
「成程なぁ」
シルキーサリヴァンはジョグで流しながら続けた。
「おめぇはウマ娘と人間の違いって考えた事ねぇか?」
「違いですカ~」
「おぅ。身長体重はだいたい同じ。怪我の時とかX線も取るが筋肉や骨格も近いんだそうな。尻尾と耳が無けりゃ、人間とウマ娘の区別なんて付くかね?」
「それは……付かないんじゃないですかネ~」
「俺もそう思う。じゃあなんで人間は速く走れねぇんだろうな。ウマ娘の脚力が人間と違うのはなんでだ?」
「それは……授業で聞いた所だと、私たちは異世界の魂と名前があるからって……」
「なら、俺達は脚で走ってるだけじゃねぇ。魂も使って走っているって事だよな?」
「……そう……なのかな」
物理的には脚を動かして走っているのは間違いない。
しかし人間と同じ身長と体重で、明らかに違う身体能力をもったウマ娘。
彼女らのレースが人間の徒競走と区別される所以がある。
「いいかエルコン。俺達はかつて異世界の魂に異世界の身体を持っていた。その当時レースで使っていた走法をギャロップって言うんだが、こいつが今の身体には曲者でよぅ」
「ギャロップですか」
「こっちだと襲歩って言うんだが……ともかくこいつは片足飛びなんだよ」
「片足っ?」
「おぅ。おめぇが今疲れているのは単純にスタミナで劣っているわけじゃねぇ。俺が両足を使っている所を右足だけで走っているからもたねぇんだ」
「……そんなバカな」
「だからかつては、走りながら使う脚を交代させて最高速度を維持していたんだ……手前を変えるって言うんだがな?」
「チョーット待ってくださいね!? 理解が追いつきまセーン」
そんなことが出来るなら、今まで自分は半分の脚でレースをしてきたと言う事になるのだろうか。
エルコンドルパサーはこの先輩以外に異世界の自分を覚えているウマ娘に出会ったことが無い。
こんなことはシルキーサリヴァンしか知らないはずだ。
もし自分の想像が正しければ、これが出来るウマ娘に出来ないウマ娘は絶対に勝てない。
興奮気味に尋ねたエルコンドルパサーだが、其処まで旨い話ではないと笑う赤い女。
「はっきり言って、あっちの競馬じゃこれが出来ねぇと話にならねぇんだわ。だからかな、こっちのレースでも上の方にいる連中は無意識でも皆やってる。勿論レースじゃおめぇもだ」
「えぇ……?」
「だけど覚えておいて欲しいんだがな。俺達がレースで全力疾走しているとき、俺達の中の異世界の魂も全力疾走しているんだ。その時、魂はギャロップで片側の脚を酷使しているって事なんだよ。そして魂の疲労が身体にも出る。同じように身体を使っているのに片脚だけ疲れていくんだ」
「ふむぅ」
「其処にもう一つ、ウマ娘が陥る落とし穴があるんだがよ」
「落とし穴デース?」
「大抵のウマ娘は上体が弱ぇ。そして異世界にいた頃の俺達は四足歩行の動物だった」
「あぁ!?」
「四つ足の動物の後ろ脚に相当するのが俺らの脚だろ。なら前脚に当たるのは何処だ?」
「……手」
「そういうこった。勿論その手を支える腕や肩、胸筋やら背筋だって繋がってるんだ。ただこの身体で走るって言うと脚力に目が行っちまうんだよな。おめぇはそこそこ見れたバランスしているが、まだ上の鍛えこみが足らねぇよ。右足が疲れてるって言ってたな。一緒に右腕も痛てぇんじゃねーか?」
「……重いです」
指摘されるまで気づかなかった小さな違和感。
腕の振りや走り方の癖だと思っていたもの。
その原因を考えもしなかった方向から指摘されたエルコンドルパサーは唸るしかない。
根拠らしきものはシルキーサリヴァンの記憶だけ。
しかし一笑に付して否定するには彼女の事情を知り過ぎた。
「俺様が仕込みてぇのは其処なんだよな。魂の手前を変えるすべと、魂の全力疾走に耐えられる今の身体を作る事。魂と身体が一致した時、ウマ娘の本格化が始まるんだぜ」
「なるほど……」
「パールもこれには苦労していた。だがあいつに出来たならこれは特別な事じゃねぇ。教えて、伝えていける事だと思ってる」
「パール先輩も……」
「まぁ、上体を鍛えこむのはハードバージにも伝えてあるし筋トレのメニューで良い。問題は手前を変える方なんだよな……これは感覚の問題もある」
「魂ですもんねぇ」
「身体でやってた頃だって競争中に手前を変えるって結構難しいんだよ……ざっくり言うと此処でも別の走り方を経由しながら脚を交代しているからな」
「……複雑すぎマース」
「これがトップスピードに乗る時使う足なんだが……っと、そろそろ次のダッシュだな」
「い、イエス」
正直きつい。
しかしこれはエルコンドルパサーのトレーニングである。
先輩につき合わせておいて、現状ついていけていないのだ。
精神的にも肉体的にも苦しいが、向上心だけは先達に示さなければ申し訳が立たない。
「何も考えずに走って右が辛れぇんだよな? なら意識して左脚を使ってみな。ウマ娘は魂に引っ張られて身体能力を発揮する。だけど魂だって身体の影響は受ける。どっちだっておめぇなんだ」
「ハイ」
「んじゃ、着いて来いよ」
次の瞬間、無意識に回転襲歩が混ざったエルコンドルパサーは盛大にすっ転んでシルキーサリヴァンに引き摺られた。
§
「ソラ先輩!」
「ん」
ウオッカは並走しているセイウンスカイに一枚の紙を手渡す。
内容を読んだセイウンスカイは紙を放ってそのまま走る。
紙は後ろを追いかけてくるダイワスカーレットが回収してくれる。
内心では申し訳ないセイウンスカイだが、いちいち手渡して戻す暇も惜しいのだ。
(10ハロン目で11秒前半とか鬼かこのトレーナーっ)
チームスピカは皐月賞ウマ娘となったセイウンスカイの二冠を目指して特訓に協力している。
この特訓を考案したトレーナーはセイウンスカイの9ハロンの通過タイムを記録して丸を付けた。
「どうよ」
「どうもこうも無いぜ。凄いよあいつは」
トレーナーは隣に来たゴールドシップにセイウンスカイのラップを見せる。
其処には1ハロン毎の通過タイムと共に丸印がついていた。
「此処まで走って今の所、誤差0,1秒を外さないんだぜ」
「影で相当工夫してたなありゃ」
セイウンスカイは交代して並走するパートナーからトレーナーの指示した1ハロンの通過タイムが渡される。
そのタイムの通りに走る。
それは単純に走力を鍛えるだけではなしえない。
絶対精度の時計を体内に組み込む事が必要だった。
並走しているウオッカも、このトレーニングをやれと言われても実行できないだろう。
(……マジですげぇなこの人)
それはウオッカが知っている強さとはまるで異質の強さだった。
チーム入り当初、ウオッカはセイウンスカイを大したウマ娘だと思っていなかった。
この先輩は一見何も持っていないように見えたし、それはある意味では正しかった。
同じ逃げウマ娘としてはサイレンススズカのような圧倒的なスピードが無い。
後ろからレースをしてもゴールドシップのような無尽蔵のスタミナも無い。
末脚だって今のウオッカよりは早いだろうが、かつて見たリギルのグラスワンダーのようなインパクトはなかった。
出来ない事もあまりない、すべてがそこそこのウマ娘。
弥生賞までウオッカはそう思っていた。
「先輩」
「ん――おいっ」
『キープ』と書かれた紙を投げ捨てたセイウンスカイは悪態をついてピッチを上げた。
ウオッカはそれでやっと気づく。
先程からセイウンスカイへの指示がハイペースになっていたらしいと
そんな走者を観察していたトレーナーは、10ハロン通過タイムの横に×を付けた。
「流石にスタミナが落ちてくる後半にハイペースだと外れてくるな。走り方も目に見えて急ぎだしたぞー」
「むしろ此処までハイペースもローペースもほぼ同じ見た目で走って来たのがおかしいんだけどな。スズカでもセイウンスカイの後ろについたら酔うらしいぞ」
「マジかよ……」
「ああ。実戦は前に出るから絶対負けないとも付け加えていたけどさ」
「……お前なんか言って煽ってねぇ?」
「互いに競い合ってこそウマ娘は強くなるんだぜ」
「それにしたってスズカとウンスじゃ相性ってもんがあんだろうが……」
「まぁセイウンスカイにとっては最悪の相手だろうな」
11ハロンの通過タイムの横にも×を付けたトレーナー。
これ自体は仕方ない。
かなり無茶な要求をしているのは分かっていた。
セイウンスカイは最後の1ハロンの指示を……見ないまま全力で駆けだした。
此処までくればトレーナーの要求など分かり切っている。
紙を受けとって確認する間も惜しいセイウンスカイ。
それを慌てて追いかけるウオッカ。
「あいつ本来の走りなら中盤で息を入れるんだろうな。でも今回はもがいてもらう為に入れさせてないんだ」
「……お前割と厳しいよな」
「セイウンスカイの事を思えばそうするしかない……だから、お前もあいつと喧嘩したんだろ」
「うっせーやい」
セイウンスカイは当初、チームの練習では意図的に手を抜いていた。
ジュニアAクラスのダイワスカーレットやウオッカと走ってもセイウンスカイは負けている。
それは楽をするためではない。
誰も信じていなかったからだ。
生来の気質だろうか。
セイウンスカイは常にトップギアを温存して周囲を油断させてきた。
相手に自分を態と舐めさせ、一方で何時でも後ろから刺せる準備を怠らない。
実際に弥生賞ではスペシャルウィークが坂道で伸びきれない事を確認し、それを当人に気づかせないために引いていた。
皐月賞における逆転劇は、前哨戦の時からセイウンスカイの掌の上で起こった事だ。
競争相手に対してはそれでいい。
しかし身内にも同じことをしていたら居場所など出来るはずが無い。
チームスピカはゴールドシップの家であり、メンバーは家族である。
弥生賞後の打ち上げでセイウンスカイの現状に堪忍袋の緒が切れたゴールドシップは、セイウンスカイを何処かへ連れ出したのだ。
其処でどんなやり取りがあったかは二人にしかわからない。
しかしその後、並走トレーニングでセイウンスカイが下の二人に負けた事は一度もない。
「あいつは少し頭が良すぎる。相手の強さをスポイルして勝つ技術があるから、逆に自分を高める追い込みが出来ないんだよ」
「ウンスは自分に今より上があるなんて思ってねぇぞ」
「……今がピークだなんて、そんなわけあるかよ」
「少なくともあいつはそう考えてる。どうすんだよトレーナー?」
「トレーニングの面では今後もギリギリまで追い込んでもがかせるしかない。兎に角地力を上げていく。今は通用するかもしれないが、このままだとシニアクラスに入った途端に頭打ちになる。いや……春の結果次第では秋にはマークがきつくなるから、それだけで崩れるかもしれない」
「……それは面白くないなぁ」
「ああ」
ゴールドシップはトレーナーからセイウンスカイに指示したラップタイムが書かれた紙を奪い取る。
12ハロンの合計は2分23秒2。
成程。
このタイムで走れればダービーだって勝てるだろう。
「おーいウンスー、次は私が遊んでやるぞー」
「げっ、くんな体力バカ。今全力で走ったばっかりなの見てわかんない?」
「菊はもっとなげーんだぞー。っていうか、ウオッカとスカーレットとテイオーがパートナーしたんなら次はあたしとスズカだろ? 仲間外れは良くないぞー」
「はは、本当に腹立つ顔してるよ君。顔芸で食べていけるだろうね」
「よーしまだ減らず口を叩く余裕があるんだな。トレーナーから息とゲロ以外出ないようにしろって命令されてるから覚悟しろよ」
「誰も其処までは言ってねぇぞゴルシぃ!」
「……でも、それっぽい事は言ってるみたいだねぇ」
「そう言うこった。スズカもいいな?」
「ええ。任せて」
やっと出番が来たとばかりにコースに入ったサイレンススズカ。
セイウンスカイはこの先輩が苦手であった。
性格的には双方があまり干渉しないため、むしろ付き合いやすい相手である。
しかしセイウンスカイと走る時は妙に叩きにくるのだ。
「……前から思っていたんですけど、スズカ先輩って私に大人げなくありません? 私何か先輩にしてましたっけ」
「貴女は何もしていないんだけど……貴女の走りは私のトラウマをえぐるのよね。私の世代で二冠を獲った子と被って」
「本っっ当に私に関係ないですよねそれ」
「彼女は本当にレースが上手かったわ。だけどトレーナーが言うの。貴女なら彼女を超えられるって」
「……は?」
「引退が早かったあの子とシニアで戦ってみたかったのよ」
「……待てよ」
「諦めていたんだけどね。私の忘れ物は貴女が持っているってトレーナーが」
「……おい、待てよ」
「えっと、血と汗と涙が枯れ果てるまで絞れ、だっけ?」
「大体あってるぞスズカぁ!」
「あんたはもう黙っててよトレーナー!」
「貴女が本格化を迎える為ならなんだって協力するわよ? だから一緒に頑張りましょう」
「先輩も大概頭おかしいですよねぇ!?」
本格的に身の危険を感じ始めたセイウンスカイ。
その左右から腕を取って連行するゴルシとスズカ。
「流石、皐月賞ウマ娘様は息の戻りもはえーはえー」
「頑張りましょうねセイウンスカイちゃん」
「あぁ……」
「テイオー、ゴミ拾い頼むな」
「あいよー」
こんな脳筋なチームだとは思っていなかった。
どうしてこんなチームに入ってしまったのか、本気で後悔し始めたセイウンスカイである。
一方で、何故かチームを離脱するという選択肢が思いつかないセイウンスカイでもあった。
§
その日、レースファンの注目がマイル路線に集まった。
ジュニアCクラスであり、三冠レースの主役の一人と目されていながらNHKマイルカップを選んだエルコンドルパサー。
屈辱の連敗から長い雌伏の時を経て、この春の復活に安田記念を目指すタイキシャトル。
この二人が同じ日、違うレース場の11Rに出走する。
無敗の若手が大目標のステップレースをどのように乗り越えるのか。
かつての女王が大目標を前にどのような仕上がりを見せるのか。
共にファンの興味を大きく刺激し、ライブ観戦するにはどちらかを選ばなければならないジレンマに悶絶させた。
「タイキシャトル、どうだ?」
「OK,Honey.チョーシイーヨ」
この日の主役の一人となったタイキシャトルとチームリギルのメンバーは阪神レース場に揃っていた。
GⅡ故に勝負服ではないものの、久方ぶりにレース場の空気を吸ったタイキシャトル。
大きく一つ伸びをして後輩二人を呼び寄せた。
「グラスちゃん、スぺちゃん、Sorryネ。エルちゃんの応援、行きたかったでショ」
「エルは……あれで常識人ですから……」
「ん?」
「えっと、今はシャトル先輩の方が心配かなーって……」
「んン?」
話を振られた後輩二人は乾いた笑みでそう答えた。
意味が分からないと首を傾げたタイキシャトルだが、本当に二人が気にしていなさそうなので良しとした。
「それじゃ、行ってきマース」
「……おいシャトル」
「What?」
「……」
満面の笑みで小首を傾げるタイキシャトル。
その表情にシンボリルドルフは上げかけた声を飲み込んだ。
飲み込むしか、無かった。
「……楽しんで来いよ」
「Yes! of course」
メンバーから離れて出場者の控室に入って行ったタイキシャトル。
大きく息を吐いたシンボリルドルフが振り向くと、それぞれの思いを抱くメンバー達がいる。
「会長、日寄ったわねー」
「……だったらお前が言ってやってくれマルゼンスキー」
「私だったらぶっちぎってこーい! って肩叩いてるんだけど、言ってよかった?」
これでも自重したんだぞと胸を張るマルゼンスキー。
其処でトレーナーは話を打ち切り、メンバー一同で関係者席に向かう。
やがて地下道から出場ウマ娘達がターフに姿を現した。
出走者数は八人。
安田記念の直接のトライアルではない事とタイキシャトルを避けたチームが続出した結果、少数立てのレースになった。
タイキシャトルが姿を現すと、場内からはどよめきと戸惑いの声が上がる。
長期休養、あるいはその前の彼女を知るものからすれば今のタイキシャトルの容姿はかなり変わって見えただろう。
チームリギルの東条トレーナーはレース場に立った愛バの姿に唸る。
「絞り過ぎたか……?」
これほどまでに時間をかけ、ジュニアCクラスのウマ娘の事を他人に任せてまでタイキシャトルの調整に力を入れた東条ハナ。
しかしこうしてターフに立つタイキシャトルの姿を見た時、全盛期の彼女の姿と重ならない。
このレースはタイキシャトルの復帰だけではない。
トレーナーの東条ハナにしても、タイキシャトルの指導者としてのリスタートでもある。
今の感覚を忘れてはならない。
レース場でウマ娘を見た時感じたモノ。
余剰を削り、足りないものを補い、万全の状態でレース場にフィットさせてウマ娘達を送り出す事。
恐らく今回はそれが出来なかった。
必ず安田記念までに修正することを誓うトレーナー。
彼女の見つめる先でタイキシャトルがゲートに入った。
『さあ、最後のウマ娘が八番ゲートに入りまして今……スタートしました!
最初の直線!
先頭争いっ
ハナを切ったのはタイキシャトルか!
大外から軽々とリードを奪って内に内に入って来た!
場内は大きな歓声とどよめきです。
先頭はタイキシャトル!
向こう正面で後続を突き放して完全に独走状態
これは、かなり早いぞ
復帰戦でこれはどうなんだ!?
タイキシャトル
マイルの女王はこれでいいのか!
先頭タイキシャトルでリードはおよそ――15バ身くらいかっ!?
これは早いレースになった!
マイル戦にしてもハイペースの展開です……』
軽々と後続を突き放すタイキシャトルだが、その内心は冷や汗をかいていた。
(ヤバイ……軽すぎル)
ここ数年の乱調と直近のブランク。
最早タイキシャトルのベストウェイトは過去のデータの中にしかない。
トレーナーと手さぐりで今の自分にあった体重を模索してきたはずである。
それでもお互いの中に太目残りの悪夢があったのかもしれない。
やや絞り過ぎたかとは自分でも思っていた。
また身体が動かなくなって負けるかもしれない。
しかしスタートからの感覚ではむしろ身体がキレ過ぎる。
肩越しに後ろを振り返れば遥か遠くにウマの群れがあった。
イメージと現実の齟齬がタイキシャトルの感覚を少しずつ狂わせる。
その先にある自滅を敏感に察知したタイキシャトルは全身から力を抜いた。
(落とす。もっと落とす。My paceじゃ早すぎル。まだワタシが耐えられない……Secretも安田記念に取っておくとして今は……)
5ハロン1000㍍を54秒台というタイムで飛び込んだタイキシャトル。
次の瞬間場内と実況が悲鳴に包まれた。
『タイキシャトルが!?
タイキシャトルが此処でズルズルと失速していくぅ!
どうしたのかっ脚でも痛めたのか!?
後続のウマ娘のペースも上がってくるっ
残り400㍍を切った……』
リードが失われていく中で外に持ち出したタイキシャトル。
最後の直線を待たずして大外に出したその行為は競争中止すら予感させた。
その間もペースを上げたウマ娘達が内でタイキシャトルを抜き去っていく。
(先頭のあの子……そこまで届けばWinダヨネ。Take it easy……これはレース。Time Attackじゃないんダカラ)
此処は先頭を譲っても良い。
この体調で体力と気力を使う叩き合いはしたくない。
それならばイメージより動き過ぎる切れ味を使って直線勝負(よーいどん)に持ち込む。
他のウマ娘もそのつもりで控えているのだろうから望むところの筈だった。
(……でもワタシがBestなら行けちゃってた気がするんだけどナ~。ナンデ誰も鈴付けに来なかったんダロ)
不思議に思うが今は関係ない。
直線勝負にしてはそれほど先頭のペースが上がっていない気がするが、タイキシャトルには好都合だった。
ラスト300㍍。
レース最後方の位置からターフが爆ぜた。
タイキシャトルが全力で踏み抜き、踏み切った芝が散らされる。
蹄を打ち込んだシューズで芝どころか下の土まで掘り返して走るタイキシャトル。
三度目の、そして本日最後に繋がる大歓声が木霊する。
バ群の後ろと並ぶまでに100㍍も掛からなかった。
バ群の先頭と並ぶまでにも100㍍は必要なかった。
その先、一バ身程抜け出しかけたウマ娘は10歩も掛からず捕まえた。
最後の100㍍は恐怖との戦い。
今、この瞬間にも身体が動かなくなるかもしれない。
また負けるのかもしれない。
そんな妄想に憑りつかれるくらいには、タイキシャトルは勝利から遠ざかっていた。
しかし自分の前には誰もいない。
ゴールの瞬間、恐々と後ろを確認したタイキシャトル。
自分が考えていたよりはるか遠く、大よそ三バ身程後ろにウマ娘がいた。
(勝った……?)
実況すら聞こえない歓声に包まれたタイキシャトル。
この日、マイルの女王が帰って来た。
大逃げから失速して外に持ち出し、最後方からもう一度全員を差す圧勝劇。
それはどんな展開でも勝てるとの訴えに見えた。
それは何時でも抜けるという宣告にも見えた。
そしてウイニングライブ前のインタビュー。
タイキシャトルは本日の総括を
『調子が悪くてバタバタ走っていたら終わっていた』
とコメントしてマイラー達を恐怖のどん底に突き落とした。
その10分後、中山レース場ではエルコンドルパサーがニュージーランドトロフィーを一バ身で危なげなく勝利したが……
翌日のニュースはタイキシャトル一色となり、怪鳥の機嫌を大いに損ねる事になったのは別の話である。
魔改造スぺちゃんと裏技エルちゃん、そして王道を行くウンスちゃんでお送りしました
どうしてこうなったかはチームのカラーだと思うの……私は悪くない
シルキー先輩の仰る上半身の話はアニメの後半でブロワイエがやってた一本指逆立ちを自分なりに解釈した奴です
多分こういう事だろうとねつ造しています
理屈は知らなくても気づいてるウマ娘は気づいてる
ラストの§は完全に私の練習です
此処までは草レースとか結果だけお伝えしていただけだったんですが今後は飛ばせないレースが盛りだくさんなので、その前に一度書いておきたいと思ってシャトルちゃんの復帰レースは飛ばしませんでした
今は後悔しています
もっとクオリティ上げないとダービーと安田記念が……orz
其処を乗り切ったとしても本筋はエルちゃんのストーリーだから秋レースからが本番なんですよね……胃が死にそうです;;
現在りふぃは深刻なウマ娘不足をお医者様に咎められており、もっと摂取するよう促されております
しかしこちらでウマ娘プリティダービーと検索をかけて出てくるSSが25!
ウマ娘でも29……寂しいデス
皆さまお願いです
ウマ娘のSSを書いてください;;
読みます
砂漠にオアシスを見つけた旅人のごとく読みます
本当は私読み専なんです……書き手じゃないんです……