コンドルは飛んでいく   作:りふぃ

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提督業があまりにも辛いのでそっちに集中します


8.梅雨冷に咲いた悪夢

春とは思えぬ寒波の中。

安田記念を間近に控えたタイキシャトルはトレーナーと最終の調整を行っていた。

肌寒い空気も身体を動かす分には丁度良い。

フットワークも軽くターフを蹴るタイキシャトル。

その全身には前哨戦の時のような不自然な空洞感はない。

力強く踏み入った脚を引き抜くとき、上体にまでしっかりと響く力の手ごたえが感じられる。

瞬間的な速度ではあの時に劣るが、最終的な時計は間違いなく早くなるだろう。

東条ハナにとっても会心の調整だった。

 

「シャトル先輩! あと一つっ」

「OK スぺちゃん!」

 

先だって日本ダービーを制した後輩が、外から最終一ハロンの合図をくれる。

意識の中ではラストスパート。

実際には足元を確かめながら慎重に200㍍を駆け抜けたタイキシャトル。

走破タイムは前哨戦とほぼ同じ。

しかし全身に満ちた余力はあの時よりもはるかに勝る。

 

「シャトル、どうだ?」

「ん……実際に本番の芝に出てみないとって部分はあるんデスが……」

「うむ?」

「今すぐレースしても良いヨ! ってくらい元気デース」

「そうか」

 

ゴール地点で待っていたトレーナーと話していると、後輩が寄って来た。

松葉杖をつくその姿は見る者にとって痛々しい。

ダービーでセイウンスカイを刺した激走の代償は脚の付け根にやって来た。

しかし股関節の負傷までは行かず、その手前の内転筋で収まった事に関係者から安堵の息を吐かせたばかりである。

 

「ゆっくり来いスペシャルウィーク!」

「先輩! トレーナーさん! 凄かったです、ほら。前哨戦より早いの!」

「人の話を聞け!」

「スぺちゃーん無理しないノ!」

 

ストップウォッチを見せようと不自然な挙動で駆け寄ろうとするスペシャルウィーク。

タイキシャトルは駆け寄って時計を受け取り、スペシャルウィークの歩行を遮った。

 

「モゥ……スぺちゃん!」

「あ、あはは……すいません先輩」

「スペシャルウィーク」

「はいトレーナー!」

「じっとしていられないというから助手につけたが、足を休ませられないなら寝ていてもらうぞ」

「ごめんなさい! 気を付けます」

 

スペシャルウィークの返答に内心で頭を抱えた東条トレーナー。

本来であればスペシャルウィークにはまだベッド上の安静が望ましいと思う。

しかし故郷では好き放題走り回り、トレセン学園に来てからも積極的にトレーニングに臨んできたこのダービーウマ娘にとって、じっとしていると言う事は想像を絶するストレスになった。

元よりウマ娘には多かれ少なかれ同様の傾向がある。

その中でもスペシャルウィークの反応は顕著であり、負傷時の安静が難しいという欠点をトレーナーに晒すこととなった。

最も東条ハナとしては、そうと分かっていればやりようはある。

要は身体を使うことなく、スペシャルウィークに遣り甲斐があると感じる事をさせれば良い。

その一環が、リギルの仲間への協力だった。

時計係や声出し一つでも、スペシャルウィークは嬉しそうにしている。

それほどまでにリギルが好きかと思えば、東条ハナとしても機嫌が悪くなろうはずがない。

これこそ自分のウマ娘達がスペシャルウィークに甘くなっていった過程であった。

まさか自分も同じ道を歩んでいるとは想像もしていないトレーナーである。

タイキシャトルとスペシャルウィークに追いついた東条ハナ。

スペシャルウィークからストップウォッチを受け取り、その数字に満足する。

 

「タイムは前哨戦とほぼ同じだが、内容はずっと楽だったな」

「体感としても、十分余力残ってマース」

「先輩は大丈夫そうですね。後は当日の天気なんですけど……」

 

スペシャルウィークが心配しているのは予報が雨になっている事だろう。

今もスマホで確認しているが、午前は雨で午後は大雨。

バ場としては最悪になる。

 

「前もこんなことがあったナー」

「前……ですか?」

「そう! だから No worries! スぺちゃん。何て言うんだっけこういうの……そうあれ! 縁起? 良いからネ!」

「縁起ですか?」

「タイキシャトルは前に安田記念に出た時も雨だった。其処ではしっかり勝利している」

「あぁ、そうだったんですね」

「ウマ娘によっては雨や泥をくらうと極端に弱くなるモノもいるが……タイキシャトルにその点は心配ない」

「Yes! 雨の中突っ切るターフも気持ちいいヨ」

「でも風邪だけは引かないで――クシュン!」

「……それはお前もだスペシャルウィーク。丁度良い、戻るぞ」

「はい!」

「OK,Honey」

 

調整の手ごたえをしっかりと確認したトレーナー。

圧倒的な能力を持ちながら長い不振に泣かされた愛バの未来が、この先も大きく拓いている事を祈らずにはいられなかった。

 

 

 

§

 

 

 

同日別所。

トレセン学園敷地内にあるチームコメットの詰め所は通夜のような雰囲気に包まれていた。

 

「……どうよ」

「……まだ熱は下がってないよぅ」

「あんた本当にその体調でレースする心算なわけ?」

「先輩……無理しちゃだめデース」

 

チームメイトの持ち込んだ防寒具でがちがちに固められたシルキーサリヴァン。

鬱陶しそうにしながらもそれらを着こみ、息をするだけで鳴る喉の音を聞いている。

酸素が足らない。

しかし大きく息を吸い込むだけで咳き込みそうになる。

そんな様子をしばらく見つめていたハードバージだが、やがて意を決してトレーナーとしての言葉を告げた。

 

「正直その、トレーナーとしてね? その状態の君をレースに出す訳には行かないんだけど……」

「何甘ぇ事言ってやがる。あと幾日かあんだろうが」

「でもだよ、その喉鳴り……隠すことも出来ないんでしょう」

「まぁ、出来ねぇ訳だけどよぉ」

 

シルキーサリヴァンは精気が抜け落ちた様子ながら特に焦った様子はない。

そしてはっきりと、安田記念の出走を取り消す事を拒否している。

 

「先輩……本当に、休みましょうよぉ」

「……」

 

本気で自分を心配している後輩の姿に心底腹が立つシルキーサリヴァン。

当然怒りの矛先は後輩ではなく、不甲斐ない自分である。

このレースは簡単に降りれるものではなくなっていた。

何よりもエルコンドルパサーがそれを知っている筈だった。

 

「大一番でこのザマか……何で俺ぁ、いつもこうなのかねぇ」

「え?」

「前も……こんなことがあったのさ」

「先輩……」

「本当に、ずぅっと昔の事だがよ」

 

俯いて息を吐くシルキーサリヴァン。

その姿を見守っているのはトレーナーとシーキングザパール。

そして春レースを終えたエルコンドルパサーである。

メイショウドトウとアグネスデジタルは万が一を考えて近づけていない。

コメットの部室にはシルキーサリヴァンの不自然な呼吸音だけが響く。

やがてその喉から絞り出された血を吐くような声音に、見守る一同は背筋が凍った。

 

「なぁ、ハードバージよぅ」

「はいっ」

「俺は幾つだ?」

「……は?」

「人気だよ。人気。俺様は現状、何番人気になってんだ?」

「えっと……一番」

「へぇ……何時の間に、俺様はそんな人気者になっていたんだい?」

「だってシルキー……60戦以上キャリアあるくせに殆どがアメリカか、日本でも地方の交流戦に行っちゃうじゃない。中央で走ったのたった4走でしょ」

 

その四つの中にマルゼンスキーとのデビュー戦や、タイキシャトルを差し切ったオープン戦がある。

つくづくリギルと縁のあるウマ娘だった。

 

「そんなシルキーが、初めて日本のGⅠに出るんだよ。しかもタイキシャトルが大崩れする前に勝ってるし、今年一月はペガサスワールドカップも獲ってる。タイキシャトルの復帰戦も派手だったけど、此処はシルキーが上って思われてるみたいだね」

「そうかぃ。そんなに大勢のファンが俺様に期待しているわけだ」

 

ならば逃げるわけには行かない。

はっきりとそう言いきって顔を上げたシルキーサリヴァン。

チームメイトが気遣わし気な視線を寄こすが、口に出して何かを言う者はいない。

止めても無駄だと言う事は全員が分かってしまった。

 

「ハードバージ、悪りぃが回避は無しだ。そのように頼まぁ」

「……一つだけ確認させて」

「なんだよ」

「どうもしばらくはこの寒さに加えて、当日の予報だと雨も降るらしいんだよ……そんな中、長い時間レース場に立って最後は走るんだよ?」

「何を今更当たり前の事ほざいていやがる」

「……せめて、回ってくるだけにしてよ?」

「そんなレースするくれぇなら最初から出ねぇよバーカ」

「もし君に何かあったら死ぬからね」

「おい待てや根暗」

「死ぬよ私。だって君に何かあったらさ……今日君を止めなかった私を、その時の自分が許さないもの」

 

漆黒の双眸にほの暗い炎を宿して断言するハードバージ。

本当に面倒臭いと思いながらも言葉に迷うシルキーサリヴァン。

此処で突き放せるようならばコメットなんぞ作ってはいない。

 

「善処する……って事でどうよ」

「絶対しない……それ絶対しない奴だよぅ」

「だから、善処する。今のおめぇの情けねぇツラは絶対忘れないでレースに臨む……頼むぜトレーナー」

 

それぞれがこれ以上妥協しない事を悟らざるを得なかった。

語るべきことを終えたなら動かなくてはならない。

エルコンドルパサーとハードバージは部室を後にし、残ったのは当日出走する二人だけ。

シーキングザパールは半眼で半死のウマ娘をねめつけた。

 

「こういう時、あんたが男だって言われて納得するのよね。これだから男って奴は」

「今も昔も女なおめぇさんには、そう思うかもしれねぇな。だが男には格好付けにゃならん時ってもんがあるんだぜ」

「此処がその時だって? バカじゃないの」

「今格好つけねぇで何時つけるってんだ。後輩があと腐れなく前に進めるかは此処で決まるんだぞ」

「……」

 

復活したとされるマイルの女王タイキシャトル。

この春に叩いておかなければエルコンドルパサーの進路に後々まで残るしこりになるだろう。

後輩が秋に中距離へ転向するのは決定事項。

それが世間に挑戦と取られるか逃げと取られるかはこの一戦に掛かっている。

シルキーサリヴァンもシーキングザパールも、結果としてこの安田記念がそういう位置づけのレースになってしまった事は意識していた。

 

「なぁ、パールよぅ」

「何よ」

「……お前シャトルに勝てるか?」

「……」

 

自分の為の勝敗ならば虚勢でもなんでも即答していただろう。

元より勝つつもりだった。

自信だってあった筈だ。

しかしこの一戦に掛かってしまったものがパールの口を重くした。

その沈黙が明確な答えになる。

シルキーサリヴァンは今更に弱気な彼女に息を吐く。

 

「この間エルコン曳いて走ってたら、あいつ足が混ざってこけやがってよぅ」

「何を語りだしてるわけ?」

「いや、おめぇは何回こけて俺様に引き摺られたっけなと思ってな」

 

くつくつと偲び笑いが漏れるシルキーサリヴァン。

シーキングザパールはその口を腕力で塞いでやりたかったが、病人の手前自重した。

 

「……あんた嫌味を聞かせたいわけ」

「あいつはすげぇぞ。本当にこの春シーズンで魂の手前を変えるコツは掴みやがった」

「そう……」

「身体の方はまだ作り切れてねぇけどよ。どっちかというと、俺はこっちの方が後になると思っていたんだ」

「……まぁ、私は本当に苦労したものね」

「ああ。ドトウはそこそこ、デジタルとエルコンは呑み込みが早ぇと来ればもう間違いねぇ。おめぇは本当に不器用だ」

「あんた本当に何が言いたいわけ? そろそろ怒っても良いわよね」

「俺様が走り方を教えた中じゃ、おめぇが一番どんくさかった。だから一番引っ張りまわした。一番走り込んだはずだ」

「……」

「俺も、お前と一番走った。お前がどんだけ転がっても引きずられても諦めなかったのを知っている。俺の記憶と感覚だけが根拠の走りだ。しかもお前の時はまだ、誰かに伝えられる保証もなかったんだぜ。そんなあやふやなものを信じて来たのは何のためだ? 俺がお前を引っ張る時、お前の目に写っていたのは誰の背中だ? お前が追いかけていたのは、本当に俺だったか?」

「……違う……私はあの子が……あの子に……」

「お前の努力は全部シャトルの為……ってか、シャトルのせいだろ。お前はあいつに勝つために此処まで来たはずだ」

 

シルキーサリヴァンの言葉にかつての記憶が蘇るシーキングザパール。

それは怒りと屈辱と共にあった。

出来れば思い出したくもない苦い記憶。

しかし忘れるには余りにも強すぎたウマ娘。

 

「……はっきり言って、今の俺にシャトルと勝ち負けをする力はねぇ……」

「そう……でしょうね」

「だから頼む。勝ってくれ」

「……」

「勝ってくれパール。エルコンが真っ直ぐ飛べるように、余計な外野の雑音があいつの道を曲げないように。本当なら俺が…………俺が勝たねぇといけなかった……」

 

喉鳴りに喘ぎながらチームメイトに嘆願したシルキーサリヴァン。

握りしめた拳が震えていた。

くいしめた歯が軋んでいた。

その姿が似合わないと思うシーキングザパール。

しかし一方で奇妙に胸を熱くしている自分がいる。

 

「そう……あんたが私に頼むのね? 私はいつの間にか、あの子と並べても期待される所まで来ていたのね」

「そうだ。頼むパール」

「うん。お断りよ」

「……おい」

「嫌よ? だってそこで頷いたら、あんたに頼まれたから勝ったみたいじゃない」

「それの何が気に食わねぇってんだ?」

「あんたに改めて言われるまでも無いの。エルちゃんを此処に連れて来たのは私でしょう。エルちゃんは私に憧れて此処に来た、私の後輩なのよシルキー。その道にあの子の影が差すなら、私が蹴散らすわ」

「……さっきまで暗ぇ顔してたから発破かけてやったってのにほんとおめぇは……」

「なぁにシルキー?」

「ほんと……良い女だよおめぇは」

「あら、当たり前じゃない」

 

肩口に掛かる髪を背中に払いつつ立ち上ったシーキングザパールは傲然と宣言して微笑した。

 

「私はシーキングザパール。世界最高の真珠(女)なのよ」

 

チームメイトの頼もしさに気が緩み、一瞬意識が遠のくシルキーサリヴァン。

すぐに回復したものの、やはり短期間で上向く体調ではなかった。

シーキングザパールはそんな相棒に肩を貸し、共に部室を後にした。

 

 

 

§

 

 

「Hey Darling!」

「……復帰戦の映像は見ていたんだが、変わったなおめぇさん」

 

東京レース場の選手控室。

G1レースともなると各選手に個室が当てられるが、選手同士の行き来が禁止されているわけではない。

タイキシャトルはリギルの仲間達への挨拶もそこそこに控室に飛び込んだ。

そしてさっさと勝負服に着替えると、お目当てのウマ娘の部屋に直行する。

其処には荷物を置いたばかりのシルキーサリヴァンが疲れ切ったように椅子にもたれていた。

 

「Yes! Honeyがネ、ワタシを此処に連れてきてくれたんダヨ」

 

飼い犬が主人を見つけたかのような懐きようだが、シルキーサリヴァンとしては薄ら寒いものを感じずにはいられない。

どことなく今のタイキシャトルには自チームのトレーナーに通じる危うさを感じるのだ。

中身が変わったかのように明るく社交的な人格。

強引にパーソナルスペースに食い込んでくるコミュニケーション。

今のタイキシャトルしか知らなければ感じなかった違和感がある。

その違和感とかつての諍いの記憶が合わさった時、シルキーサリヴァンには生存本能の領域から訴えてくる危険信号がある。

いつの間にか立ち上り、踵を浮かせて警戒していた。

 

「マジでどうしちまったんだよお前……正直、俺の事を恨んだり憎んだりしているならそれらしい対応をしてくれる方がやりやすいんだがな」

「ナンデDarlingの事、ワタシが恨むノ?」

「……お前らの事情も知らねぇで、一方の肩を持って張り倒したんだぞ俺は」

「アー……まぁ、Darlingが殴って無かったらワタシは止まらなかったしナー」

 

気にしてないよと嗤ったタイキシャトル。

しかしそれならその後の乱調と大敗は何だったのか。

タイキシャトルは古い友人の問いかけに肩を竦めた。

 

「そうネ。気にしてないは……Noカナ? 気にならなくなったトカ、感じなくなったトカ……そんな感じダヨ」

「……」

「あの頃のワタシは……HoneyとDarlingとマルゼンスキーと……あの子しかいなかったからネ。その内二人を一度に失くしてサー……アレは堪えたヨ」

 

息を吐きながら語るタイキシャトル。

口元は苦笑の形に歪んでいた。

しかしその目は何も写していない。

タイキシャトルの思考は完全に過去に飛んでおり、ある意味一人取り残されたシルキーサリヴァンにとっては不気味でしかたなかった。

 

「Honeyはね、もっと早くワタシを休ませたかったみたい。だけどあの時、ワタシ本当にどうかしてた。頭の中、グチャグチャで……レースに出ないと死ぬって……アハハ、本気でそう思ってたヨ」

「……」

「ワタシは多分何か間違ってあの子に失敗して……あの時はワタシ、死にたいと死にたくないと走らなきゃがいっぱいで……Honeyは本当、良くワタシに愛想尽かさなかったヨネ」

 

シルキーサリヴァンはタイキシャトルの精神状態には心当たりがある。

ウマ娘にとって走れなくなることは死ぬほどつらい事ではあるが、本当に死ぬわけではない。

しかしウマ娘の中にある魂にとって、多くの場合走れないと言う事は死ぬことである。

命を失うことが無くても人の手によって殺されると言う事である。

それが走る為に生かされた経済動物。

完全に管理された血統。

Thoroughbredなのだから。

こうして彼女の口から当時の心境を聞いて思わずにはいられない。

本当に、タイキシャトルは地獄の底から這い上がって来たのだと。

 

「走って負けて泣いて喚いて荒れて……また走って……ある時Honeyがね、そんなに動きたければ自分の出したメニューこなしてからにしろって」

「どんなメニューだった?」

「その時はもう脚が擦り切れるほど走ってたんデスケドー……でも上はすっごい太ってたから、腹と腕を締めろって死ぬほど筋トレやらされたヨ……出来るまで外出も禁止されてサ。酷いよねHoney。でもずっと付き添ってくれたっけ……優しいよねHoney」

 

死すら意識する強迫観念。

其処から逃れるための気力を、全てトレーナーの課したメニューに叩きつけたタイキシャトル。

文字通り死に物狂いで動いたはずだ。

そして偶然か、それとも何かの経験則か、東条ハナは完全に的を射た方向に導いている。

シルキーサリヴァンが複雑な思いを抱えて黙考していると、タイキシャトルの瞳が今の時間に戻って来た。

 

「ねぇDarling」

 

二人の身長差は殆どない。

だからどちらかが目をそらさない限り、二人の視線は真っすぐに絡む。

 

「ワタシが此処に来たのはネ。貴方に恨みとか、言う為じゃないノ。一つどうしても納得出来ないことがあったカラ」

「……なんだ」

「あの時サァ……どうしてリギルに来てくれなかったノ?」

「……」

「ワタシが貴方を誘った時、まだコメットなんて構想も無かったデショ。作ろうとしていたなら、そう言って断ってるヨネ?」

「ああ」

「どうしてDarlingは……ワタシに答えをくれなかったノ?」

「デビュー戦でマルゼンスキーを競り潰しちまった俺が、あいつと同じチームなんざ行けるかよ」

「マルゼンスキーは楽しみにしてたケド?」

「……」

「それだけデスカ? それなら、今からでも来てクレル?」

「一応俺は、リギルに出入り禁止なんだよ」

「ワタシの一件からだよネ。それならワタシが説得デキルヨ」

 

至近距離から見つめ合う二人のウマ娘。

シルキーサリヴァンは現状はっきりと身の危険を感じている。

今の体調で腕力に訴えられたら不利だった。

タイキシャトルの自分に対する執着は薄れるどころか拗らせている。

それが今、はっきりと分かった。

 

「I really like you. ワタシ、Darlingの事本当に恨んだりしてないヨ?」

「……そうか」

「でもあの子は別。ワタシの気持ち知ってたくせにサ。黙ったままDarling掻っ攫っていった泥棒猫だモン」

「……そういう事かよ」

「あ、やっぱりあの子、言ってないんだネ」

「初めて聞いた……が、パールはこの際関係ねぇな。お前は俺を誘った。俺はそれを相手にしなかった。そしてパールはチームを抜けて俺の所に来た……そんだけだ」

「そんなバッサリ切っちゃわないでヨ~」

「おめぇらの個人的な感情を酌んでたらぜんっぜん話が収集しねぇしな。俺がお前にやったことはデカい借りだと思っている。だが、経緯はどうあれ今の俺はコメットのシルキーサリヴァンだ……悪りぃが誘いにゃ乗れねえよ」

「ウフフ……まぁ、お願いだけじゃダメだよネ」

 

タイキシャトルは一歩だけ退いて距離を置く。

たったそれだけの事に安堵したシルキーサリヴァンは大きく肩で息を吐く。

その喉が小さく鳴った。

 

「やっぱり、Bestじゃないんだネ」

「……」

「ン~……賭けレース、申し込もうと思っていたんだケドネ~……今日は私たちの日じゃないのかナ」

「何を賭けるってんだよ」

「All or Nothing! 簡単デショ?」

 

タイキシャトルは片目をつむり、何でもない事のように話す。

心の底から自分の勝利を疑った様子が無い。

その様がシルキーサリヴァンの癪に障る。

 

「ま、今日は宣戦布告だけにしておきマース! オープンでDarlingに一回負けてるし、先ずはイーブンに戻さなきゃネ。本番は次にシマショ」

「まだ受けるとも言ってねぇんだがな」

「ワタシの頬っぺた一回分のお願いくらい聞いてくれるデショ? Darlingが勝ったら、まぁ落ち込むだろうケド……二度と自分達に関わるなとかでも頑張って受け入れるからサ」

 

どうしてこう、極端から極端に走るのか。

シルキーサリヴァンは頭を抱えたい衝動に駆られた。

しかし最早修正する気力も無かったため、一番気に食わない点をはっきりと告げる。

 

「なぁ、お前がパールを嫌いなのはもう仕方ねぇとしてもだぜ?」

「ンー?」

「どうしてレース前にあいつを無視して勝敗語ってんだよ」

「あの子? そんなに速かったっけ……覚えてないナー」

「てめぇ……あんまり俺の身内を舐めてんじゃねえぞ」

「アハ! 気に障ったDarling?」

「大いに触った。見ていやがれよシャトル。ライバルの実力まで好き嫌いで括ってんなら痛い目にあうぜ」

「ならDarlingもしっかり見ててネ。誰が一番速いのカ、誰が一番強いのカ、教えてあげマース」

 

挑発的な笑みと共に颯爽と踵を返したタイキシャトル。

シルキーサリヴァンはその背中から感じた炎のような輝きと熱量に目眩を起こしそうになる。

前哨戦のような隙は無い。

ここ一番にベストコンディションを持ってきたタイキシャトルとトレーナーと比べ、自分の姿を顧みたシルキーサリヴァンは低く呻いた。

 

 

 

§

 

 

 

雨の中で開幕した安田記念。

前哨戦と同じくタイキシャトルが飛び出した。

しかし今日は即座に鈴がつく。

タイキシャトルと同等の加速によって競りかかり、拮抗したレースに持ち込んだのはシーキングザパール。

 

「ン!?」

 

並ばれる。

タイキシャトルがそう思った時、シーキングザパールは半歩前に抜けかけた。

間髪入れずに肩を当てたシャトル。

桁違いに重く、硬い感触に一瞬走行が乱れたパール

加速ではシーキングザパールが僅かに上。

全身筋力ではタイキシャトルが遥かに上。

 

(……やりにくいわね)

 

タイキシャトルは先程の接触時、殆ど上体を動かしていない。

ただ隣を走るシーキングザパールの走行ラインにシューズ半分を重ねただけ。

それでも衝撃で足をターフから抜かれそうになった。

更に厄介な事に、もし今ので吹き飛んだとしてもタイキシャトルは反則を取られないだろう。

双方の動きの量が圧倒的に違う。

あそこで弾かれればパールの自演にしか見えない。

雨にぬかるむターフにウマ娘達がシューズの蹄を打ち付ける。

しかし足色が良いのはやはり先頭で競る二人。

スピードとパワーの差が二人の間に微妙な拮抗を生み出した。

 

(瞬間速度なら多分勝ってる。ゴールの瞬間だけ前に出るのは不可能じゃない……問題は……)

 

シーキングザパールはインコースを走るタイキシャトルに内心で舌打ちする。

外に出されたのはそのまま枠順の差であり、運である。

シルキーサリヴァンの体調不良にかつて大敗したレースと同じ天気。

現状勝てないとは思わないが、ツイていないとはぼやきたくもなるシーキングザパールであった。

 

 

 

 

スタートから3ハロン。

先頭をシーキングザパールとタイキシャトルが競り合い、後続のウマ娘とは4バ身程の差がついた。

マイルG1に出走してくる強者達をたった600㍍でこれだけ千切ったシャトルとパール。

バ群の後方からそれを見ていたシルキーサリヴァンは深く静かに息を吸う。

 

(性分なのかねぇ……)

 

レース前は不甲斐ない自分の代わりにタイキシャトルに勝つ事を相棒に懇願した。

先程はタイキシャトルのマイペースなコミュニケーションに振り回された。

今先頭を走っている二人は、どちらも自分にとっては憎からず思う気の置けない相手である。

しかしこの位置からその背を見つめる瞳に宿るのは果てしない闘争心。

相手がタイキシャトルであろうとシーキングザパールであろうと此処に立ったなら全員が敵なのだ。

 

(そう長くは走れねぇ……だがあの時の俺なら30馬身は付けられてたじゃねえか。今は奴らまで10馬身って所だろ?)

 

先程から微熱の自覚があり、節々が痛む。

雨に濡れた身体が重い。

常よりも早く乱れた呼吸は時を追うごとに酷くなった

 

(最悪なのがこの足場……キレで勝負する俺様にゃ重馬場はつれぇ……)

 

それでもバ群の最後方から離されずについていければ勝機はある。

勝負所を辛抱強く待つシルキーサリヴァン。

その射抜くような視線の先には悠々と走るタイキシャトルの姿があった。

シーキングザパールも全く遅れずつけてはいるが、その表情は相手程の余裕が無い。

外を回っているシーキングザパールはタイキシャトルより僅かに距離で損がある。

しかし内に入ろうとすれば自らタイキシャトルに近寄る事になり、そうなれば接触のリスクが増す。

 

(何なのこれは……動く壁と並んで走ってるみたいじゃない)

 

走力では負けていないのにコースが全く選べない。

理不尽なレースを強いてくるタイキシャトルを睨みつければ、涼し気な表情と目が合った。

 

 

 

 

先頭の二人が第3コーナーに入るとバ群全体の速度が上がっていく。

お互いしか見ていないようなマッチレースをされて他のウマ娘達も愉快なはずが無かった。

一時は5バ身まで開いた差が徐々に詰まる。

そして最終4コーナー。

最初に違和感を感じたのはシーキングザパール。

隣を走るタイキシャトルが突如、外埒めがけて逸走したのだ。

 

「あ、あんたっ」

「内の芝悪いカラ外行こうヨー」

 

ストライドもリズムも呼吸すらも併せて並走してきたタイキシャトル。

シーキングザパールがコーナーを曲がろうとすれば自分からタイキシャトルに突っ込む事になる。

後続のウマ娘達が、雨の中観戦に来たファン達が、実況や解説の役を負う者が。

全員が呆然と先頭二人の逸走を見つめたその瞬間、バ群の最後方からシルキーサリヴァンが猛然と追い込みを開始した。

正に此処しかないというタイミングの仕掛け。

赤いウマ娘は殆ど一瞬のうちにバ群の先頭に立つ。

そして外でも動きがあった。

 

「独りで行ってな」

 

シーキングザパールは外に持ち出されながらも魂の手前を替える。

交差襲歩から回転襲歩へ。

その魂に身を任せたシーキングザパールの脚捌きが切り替わる。

細かく早く。

瞬間的に減速してタイキシャトルのマークを外したシーキングザパールは踊るようなステップワークで方向転換し、真っすぐゴールに突き進む。

 

「What!?」

 

タイキシャトルの逸走によって凍り付いた東京レース場の時間が動き出す。

観客が気づいた時、先頭は内と外でコメットの両雄が競っていた。

関係者席で見守るメンバー達のボルテージが最高潮に達する。

 

 

 

 

最後の直線。

先頭は内でシルキーサリヴァン。

しかし遂に肉体の限界に達して力なく失速する。

 

「っ!」

 

その光景に目を奪われかけたシーキングザパール。

だが背後から迫るバ蹄の音が足を止める事を許さない。

シーキングザパールは持てる全ての力で加速する。

その背を一バ身差で追いかけるタイキシャトル。

 

(アレ……)

 

タイキシャトルは不思議な時間の中にいた。

体調は万全であり全身に力も満ちている。

連勝していた頃でさえこれほどのコンディションで走れたことがあったかどうか。

そんな自分が全力で追っている。

それでも、シーキングザパールとの差が縮まらない。

 

(いやコレ……むしろっ……)

 

離されている……?

ベストコンディションで直線に向かい、全力を出してなお相手に突き放される。

初めての事ではなかった。

しかし認めたく無いタイキシャトル。

自分に対し、このような展開を強いる相手がシルキーサリヴァン以外にいる事を認めたく無い。

 

(Just a moment……wait……待テッ)

 

ほんの少しずつ遠くなるシーキングザパールの背中にタイキシャトルの手が伸びる。

それが届く距離ではない。

タイキシャトルはなりふり構わず自分のギアを跳ね上げた。

 

 

 

 

バ群に飲まれたシルキーサリヴァンは屈辱と怒りに視野の半ばを奪われた。

先頭はこのバ群の中ではない。

シーキングザパールとタイキシャトル。

完全に外二人の争いになった。

ラスト1ハロン。

二バ身前に出たシーキングザパールの背に、タイキシャトルが必死に手を伸ばしているのが見える。

レース場に集った誰もが、ゴールを前にして二人の決着を予感した。

だがタイキシャトルの伸ばした右手が更に上がり頭上まで伸ばされた時、シルキーサリヴァンは妙な既視感に捕らわれた。

 

(何だ?)

 

何処かで見た。

何処で見た?

半瞬の疑問。

その視線の先でタイキシャトルの右手が振り下ろされる。

自らの右腿へ。

 

「あ」

 

間髪入れずにタイキシャトルの足色が一変した。

シルキーサリヴァンはその意味を知っている。

かつて背に乗せた相棒がくれた全力疾走の合図。

鞭の入ったタイキシャトルは瞬く間にシーキングザパールを捉える。

そして粘る事すら許さず抜き去った。

シルキーサリヴァンには相棒の動揺が分かる。

事情を推察できる自分でも驚いたのだ。

訳が分からないまま抜かれた彼女の心境は察するに余りある。

タイキシャトルが先頭に変わり、一バ身弱を離したところがこのレースのゴールだった。

 

 

 

 

万来の喝采を浴びながらターフに佇むタイキシャトルとシーキングザパール。

テン、中、上がりと最後まで競りながらワンツーでフィニッシュした二人のウマ娘が互いに見つめ合う姿は観衆の胸を打つ。

その二人が内心でどのような心境にあるかは関係ない。

それがファンの心理である。

 

(前は何て言ったっけワタシ……あぁ、本当に覚えてないワ。でも酷い事は言ってないヨネ。オトモダチだったんだし)

 

今の自分はあの時ほどやさしい言葉はかけられない。

それは仲違いしたからではない。

 

(速かった。速くなってた。負けるかもしれないって。この子に思った)

 

タイキシャトルは勝者の花道に向かう。

しかしすれ違いざま足を止めた。

かつては止めなかった足を。

 

「Hey,パール」

「……何よ」

「……Catch me if you can」

 

そう言い残して立ち去った勝者。

シーキングザパールはあの時と同じように遠くなる背中を見つめていた。

間違いなく自分は強くなった。

かつては自分を労り、心配していたタイキシャトルが捕まえてみろと言ったのだ。

差は詰めた。

しかし、勝てなかった。

膝から崩れ落ちるシーキングザパール。

曇天から降り注ぐ雨。

長い髪が濡れ、肌に張り付いて気持ちが悪い。

だが、涙を隠してくれるこの雨に今だけは感謝した。

 

 

 

§

 

 

 

レース終了後はウイニングライブの為の設営がある。

既に上位三着以外のウマ娘達は帰路につき、レース場に残っているのはライブに出演するウマ娘とそのチーム関係者。

この時間をどう使うかはそれぞれだが、タイキシャトルは定まった運命があった。

お説教である。

勝利していても、あるいは勝利したからこそ内容は精査して次のレースに生かさなければならない。

そう考えた時、今回のタイキシャトルのレースは東条ハナにとり、批判の余地があり過ぎた。

このお説教は他のメンバーに参加義務はないのだが、多くの場合はそのまま一緒に聞いてくる。

トレーナーの指摘する注意点には彼女なりの考えと根拠があるため、その点を自分のレースで修正出来ればその時のお説教が減るのであった。

しかし要領の良いウマ娘は何処にでもいるので、マルゼンスキーはスペシャルウィークを連れてさっさと離脱を決めている。

 

「ダシにしちゃってごめんねースぺちゃん」

「いや、それは良いんですけど……私達はお話聞かなくていいのかな」

 

マルゼンスキーはスペシャルウィークの車いすを押しながら、いいのいいのとうそぶいた。

 

「強制参加ってわけじゃないし、お説教の内容も今日のレースなら判りきってるし、あんなこと出来るのシャトルちゃん以外いないからね。良くも悪くも……あ、本当にお手洗い行っておく?」

「いえ、大丈夫です。えっと……シャトル先輩のお説教ってあの逸走ですよね?」

「逸走って言うか……其処に至る判断が甚だ不味かったわ」

 

マルゼンスキーの言葉に身体と首をよじって後ろを向くスペシャルウィーク。

その様子に苦笑したマルゼンスキーは、幼な子をあやす様に前を向かせた。

因みにスペシャルウィークが車いすにいるのは怪我が悪化したからではない。

当人の松葉杖を使うスキルが致命的に下手だったので、長距離の移動に適さなかったのだ。

 

「逸走はアレだけど、シャトルちゃんには明確な目的があったじゃない?」

「あれは……シーキングザパール先輩を外に連れて行ったんですよね」

「それがダメ。しかもダメだって判断材料があったのになんにも考えずにやっちゃったからねー」

「えっと……?」

「先ず開幕にシャトルちゃん肩当ててたじゃない?」

「あ、あれシャトル先輩から行っていたんですか? たまたまっぽく見えたんですけど」

「……やっぱりそう見えるのね」

「その反応って事はあの接触はテクニックなんですね……怖いなー」

「まぁ、ともかくあそこで肩入れたのって加速で負けて抜かれるって判断からだったと思うのよ」

「最後の直線見る限りでは、相手のキレは凄かったですもんね!」

「ほんとほんと」

 

そして今は春レースの終盤戦。

何度も使用されたレース場の芝、特に内側の芝は荒れている。

逸走はともかく外に持ち出して少しでも整った芝で勝負するという判断は有りだと説明するマルゼンスキー。

勿論注釈付きだったが。

 

「相手に加速があってシャトルちゃんにパワーがあるのは直ぐ分かってた事じゃない?」

「はい」

「じゃあ、シャトルちゃんが相手まで外の綺麗な芝に連れて行ってやる意味は無いっていうか、むしろ不利になったじゃないあれ」

「あ、なるほど……」

「シャトルちゃんのパワーなら荒れ放題の芝だって全然関係なく走れていたのにね……うん。やっぱりアホだわあの子」

「ダメですよマルゼンスキー先輩」

「ごめんねスぺちゃん。ただ、どうせお説教しても意味は無いんだろうなーって思うとついねぇ」

「え?」

「だってシャトルちゃん、センスとフィジカルでごり押すレースが一番強いんだもん。お説教聞いて頭良く走ろうとしたら絶対ぎくしゃくするわよ」

「そうなんですか?」

「頭で考えて出来る事じゃないのよねぇ。抜かれる瞬間に割り込んで偶然にしか見えない肩当てとか、並走相手の走路を完全に塞いで曲がらせないとか。スぺちゃんあれ出来そう?」

「もう何回か見せてもらえれば行けそうなんですけど、私だと当たり負けしそうで」

「……出来はするのね」

「其れよりも、シーキングザパール先輩がシャトル先輩を振り切った時の動きが分からなかったんですよね。前につんのめったみたいに走ったと思ったら、すっと伸びて……」

「減速してシャトルちゃんを振り切ってたけど、ブレーキで速度を落としたのとは違ったわねぇ」

「そうなんですよ。減速から方向転換して再加速する流れが凄い綺麗で……鳥肌が立ちました」

「上の方にいるウマ娘ってああいう不思議な事を普通にするのよねぇ。シャトルちゃんの上がり1ハロンも非常識な加速してたし」

「アレもその……訳が分からなかったです」

「むぅ……」

 

車いすを押しながら思わず呻くマルゼンスキー。

 

「しかし納得いかないなぁ」

「何がです?」

「今日のレース。一番人気の赤いのいたじゃない」

「あ、シルキーサリヴァン先輩でしたっけ。あんまりお名前は聞かない方ですけど」

「こっちじゃ碌に走らないのよ……でも本当にズルいわシャトルちゃん。私があいつから白星もぎ取るのにどんだけ苦労したと思ってるわけ? あー……何よあれ、むかつくー」

「コンディションとかありますから……当人もそうですし、レース場もそうですし」

「……はぁ、スぺちゃんは良い子よねぇ」

 

後ろから後輩の頭をわしゃわしゃと撫でるマルゼンスキー。

スペシャルウィークは大人しく撫でられながらふと気づいた疑問を口にした。

 

「あ、そういえば何処に向かっているんですか?」

「いや、何処ってわけでも……ハナちゃんのお説教が終わったころを見計らって戻ろうかなーって」

「……あの、一応私のトイレって名目で出てきているんですけど」

「大丈夫。私が連れ出した時点でどうせ誰も信じてないから」

「先輩……」

「あははー」

 

適当に歩いていたマルゼンスキーはとりあえず壁際に後輩の車いすを止め、ブレーキをかける。

そして隣に立って両手を組み、一つ大きく伸びをした。

 

「んー……」

「マルゼンスキー先輩ってあの赤い人とは何か因縁があるんですか?」

「いや、デビューが一緒の同期なのよ。其処で一回走っただけ」

「そうなんですか……」

「私があまり走れないって言うのもあるんだけどさ……あいつ学園じゃトレーニングばっかりだし、春も秋も毎年アメリカ帰っちゃうんだもん。酷くない? 一応私が勝ってるのにリベンジにも来ないのよあのやろー」

「じゃあ、先輩の勝ちですね!」

「お、やっぱりスぺちゃんもそう思う?」

「はい」

「おーおー。やっぱりそうよね。いやー愛い奴よのう、ちこうよれちこうよれー」

「っちょ、どこ触ってるんですか先輩」

 

しばらく二人でじゃれているとそこそこの時間が過ぎていた。

そろそろ戻ろうと車いすを押し、元来た道を戻る二人。

しかし幾らも戻らぬうちに帰りの通路の先に人影があった。

元々あまり人の来ない区画の廊下であり、人影は一つだけ。

 

「あ、あの人は……」

「シルキー? 電話かしら」

 

それは先程まで安田記念に出走していたシルキーサリヴァンだった。

彼女は最下位だったが、同チームのシーキングザパールは2着でありウイニングライブに参加する。

だから此処に残っていてもおかしくはない。

そのまま通り過ぎればよかったのだが、思わず足を止めてしまったマルゼンスキーは何となくタイミングを逸してしまう。

 

「う、どうしよ」

「なんかちょっと行きにくくなっちゃいましたね……」

 

シルキーサリヴァンはマルゼンスキーらには気づかず、スマホを取り出すと何処かに電話をしている。

聞く気は無かった二人だが、進むも戻るも迷っているうちにシルキーサリヴァンの相手が繋がった。

 

『よぅ、久しぶりだなロスト。元気そうじゃねぇか』

『あ? 今一レース終えたとこなんだよ、声は……まぁ、少しな』

『大丈夫だよ。いや、レースの方は大炎上しちまったんだがな……一番人気を貰っておいて最下位さ。ああ、笑えよ』

『……そうだな。春は俺が帰らなかったもんな……おめぇには苦労掛けちまった。本当にすまねぇ』

 

マルゼンスキーとスペシャルウィークは物音を立てずに横に並び、顔を見合わせる。

どうやらアメリカの知人との会話らしい。

余り綺麗とは言えない英語のやり取りだが、何となく内容は聞き取れた。

 

『ああ。ああ。ああ……それなんだがなロスト……すまねぇ。その……秋も、帰るわけにゃ行かなくなっちまった』

『ああ。そうだ。分かってる。本当にすまねぇ……返す言葉もねぇよ』

『事情ってもな……俺が悪いってだけ、あ? 説明責任だ? ……分かったよ』

『今はマイルにいる後輩なんだが器用な奴でよ、秋には中距離に出ようって決めていたのさ。大目標は来年の凱旋門賞だ。すげぇだろ?』

『ああ。だけどよ……丁度今年、昔マイルで幅を利かせてた奴が帰ってきやがった。そうだよ。今から距離を伸ばしていくんだ。後輩にこれ以上マイルにいる時間はねぇ。だから此処で叩いておきたかったんだが……』

『そうだ。もう間に合わねぇ。後輩の路線変更をそいつから逃げたって言う奴は必ず出る。だからだ。直接戦えねぇ後輩の為にも秋には必ず俺が倒す。そうしねぇとあいつの世界挑戦に、更にでかいケチがついちまう』

『ああ。不幸中の幸いなんだが、そいつは後輩の事は眼中にねぇ。現状俺が標的らしいから、俺が逃げねぇ限り余計な事を言って周囲を煽るような事はないと思う』

『それに、俺個人もそいつにゃ借りがあるんだ。今日のレースで一勝一敗。そうだな、まぁ……ライバルって奴さ』

 

スペシャルウィークは至近距離から放たれる殺意にも似た感情に身震いした。

その出所を恐る恐る見上げれば、一見涼し気な微笑を浮かべたマルゼンスキーの顔がある。

 

「へぇ……そうなんだ。そういうこと言っちゃうんだー」

「ま、マルゼンスキー先輩……」

「私に負けても星を取り返しに来なかった奴が? シャトルちゃんに負けて一勝一敗だって? 私じゃなくてそっちがライバルだって? へぇー」

「先輩っ、声が……ばれちゃいますって」

「ねぇスぺちゃん」

「ひぅ」

「私最近の若い子の事はよくわからないんだけどさ」

「はい?」

「スぺちゃんならこういう時、どうする?」

「えっと……私なら……」

 

スペシャルウィークはマルゼンスキーから聞いた話と、今聞いたシルキーサリヴァンの話を整理する。

デビュー戦で辛勝したマルゼンスキー。

その後再戦する事もなく自己鍛錬と故国アメリカのレースに没頭していたシルキーサリヴァン。

そしてエルコンドルパサーの事情が絡み、タイキシャトルと一戦交えて敗北。

その敗北を雪ぐ為に今まで毎年欠かしていなかった帰郷を見送って秋レースに参加するという。

マルゼンスキーが過去デビュー戦で獲った白星。

タイキシャトルがこの日安田記念で獲った白星。

どんな事情があるにせよ、軽く見られたのはマルゼンスキーの方だった。

スペシャルウィークは正直に言えば上の世代のごたごたよりもエルコンドルパサーの挑戦の軌跡に胸が高鳴っている。

しかし今、マルゼンスキーの訴えに返す言葉は一つしかなかった。

 

「秋レースでぶっちぎっちゃいます」

「あの赤いの、シャトルちゃんしか見てないのよ……」

「じゃあ、一番盛り上がった所で横っ面を突然ぶん殴ってやりましょう」

「良いわね……スぺちゃん最高だわ」

 

孫と悪戯を画策する心地で笑うマルゼンスキー。

シルキーサリヴァンは間近において怪物の標的になった事に気づいていない。

 

『ああ。ああ。本当にすまねぇロスト。ああ、Xmasには必ず戻るさ。来年のペガサスカップもあるからな。ああ。じゃあそん時までお別れだ。ああ。ああ……すまねぇ、いや、ありがとうよ、フォグ』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




コメット年長組と魔改造シャトルちゃんの第一ラウンドでした
何となく数えていたら凄い事になっていたシルキー先輩のキャリアは半分近くカリフォルニアのレース場が私設した、賞金のやっすい名前ばかりが立派な特別競走やらなんやらです
要するに地方レース場の財政難を救うための客寄せパンダですが彼は地元大好きなので苦にしてません
その甲斐もありベイメドウズレース場などは生き残っています
この世界線でもカリフォルニアで超人気です
二割くらいが日本の中央と地方のウマ娘が混ざる交流戦で、これはあまり中央側のウマ娘やトレーナーが乗り気でない為シルキー先輩が行ってくれるならラッキーと思われています
こうした経緯でいてくれると便利なシルキー先輩は異例の長期留学が何となく黙認されちゃってます

それにしても何がプロローグ的なお話でしょう何が三話くらいでしょう
本当に春全部書くとか思っていませんでしたあらすじ詐欺ごめんなさい
ただ、今度こそ本当に一部完といった感じでしょうか
しばらく完全に提督業に専念します
皆さまのウマ娘ロスが少しでも癒されますように……
でもきっとイベントが終わって戻ってきたらたくさんのウマ娘SSにあふれているんだ……そしてそれを読み終わるころには、ゲームもきっと始まっているさ……

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