日本から遠く離れた地、アメリカ。そこのある大学の一室。
一見何の変哲もない執務室で、一人の少女が椅子に座って唸り声をあげていた。
「う~~ん、どうしたものかしら」
と、その部屋の扉が数回叩かれ、少女は顔を上げた。長い銀髪がはらりと揺れる。
呼び出していた人物が来たようだ。少女が「はい、どうぞ」と扉越しに声をかけると、扉を開けて長身の青年が入ってきた。
「こんばんは、住良木君。帰りがけに呼び出しちゃってごめんね」
「構わない。それで、用事とは何だろうか、七色博士」
「ちょっと相談したいことがあったの。助手としてのあなたと、マネージャーとしてのあなたにね」
七色博士と呼ばれた少女はそう言いながら、彼に机の向かいの席へ座るように促した。
コーヒーも作っていたのか、カップが手渡される。やや長い話になるようだ。カップにコーヒーを注ぎながら住良木という青年はそんなことを考えていた。
「住良木君はオーディナル・スケールって聞き覚えがあるかしら?」
「日本のARゲームのことだな。一般常識レベルのことなら知っている」
「それなら話がしやすいわね。今日の話はオーディナル・スケールと、その端末のオーグマーについてなの。ちょっと、ううんけっこう気になることがあってね……」
コーヒーにミルクをとくとくと注ぎながら、神妙な顔で彼女はそう言う。コーヒーらしからぬその色合いと話している内容にギャップを感じるが、それが七色という少女なのだ。
彼女たちの今の状況を説明するには、少々複雑な経緯を説明しなければならない。
七色は歴とした科学者であった。年齢は若干十二歳、天才と呼んで差し支えないだろう。
専攻分野はVR技術および電気生理学で、研究室を指揮する立場にある。住良木は七色の研究室に所属していて、彼女よりも年上ながら助手的な立ち位置についている。
そんな彼女がアメリカの大学で行っていた研究は「クラウド・ブレイン」──人の脳の演算能力をネットワーク上で一つにまとめ上げ、共有するというものだ。
大多数の人間からデータを取得することでビッグデータという大きな可能性を持った情報群が取得できるように、個々の能力は低くても、それらを束ねることで全体として高度な演算ができる。クラウド・ブレインはそういった分野の研究のひとつだ。
そんな先進的な研究を行っている彼女が今回目を付けたのが、近ごろ日本で急速に普及してきている
目をつけるっていうのがいい意味だったらよかったんだけどね、というのは彼女の談である。
「さっきの話だと、オーディナル・スケールの遊び方は知ってるわよね」
「ああ。ある区域を一時的に封鎖して専用フィールドを展開、その中でオーグマーを装着したプレイヤーが実際に身体を動かしながら遊ぶといったものらしいな」
「その通り。そんな規模のゲームが日本の、しかも都会でできちゃってるから凄いわよね。まあそれはともかく、問題はこのゲームの表面的な部分ではなくて、もっと深いところなのよ」
確かに日本の都会でそういった現実空間まで絡むイベントが認められるのは珍しい。最近は空き地や公園だけでなく道路まで一時的に閉鎖する計画まであるらしく、かなり盛り上がっていることが伺えた。
しかし七色はそういった表面的な部分ではなく、その陰に隠れている部分が気になったようだ。
「私がクラウド・ブレインの実験場所にARじゃなくてVR空間を選んだ理由は言っていたかしら?」
「ああ。VRの方が現実世界での距離の垣根がない分、分け隔てなく人を集められるからだろう」
「その通り。ARが流行ってる今でも、VRアイドルとして活動しつつ理解者を増やそうっていう考えは変わってない。住んでる場所によって不平等が出てしまうのはよくないことよ」
そう主張する七色の瞳は真剣だった。大勢の一般人が対象になるような研究を行っているからこそ持ち得る考えなのだろう。
そして、七色はVRの世界でもう一つの顔を持っている。それが歌姫しての『セブン』だった。こちらも研究者としての彼女と同じくらい有名なのだが、これは彼女の研究をもっと多くの人に知ってもらうという目的も兼ねていた。
「だからARの分野にはあまり手を出さないようにしようと思ったんだけど……ほら、あんな流れになっちゃたら、興味を引かれないはずがないじゃない?」
やや苦笑いでそう言う彼女を見て住良木はすぐにそれを察した。
オーディナル・スケールの台頭に伴って、今一気に知名度を挙げている歌姫がいる。
「……『ユナ』のことか」
「うん。お互い活動してる
「日本国内のAR端末保持者の間では大変な人気らしいな。オーディナル・スケールの公式キャラらしいが活動範囲はゲーム内に留まらないそうだ」
「あら、けっこういろいろ知ってるじゃない。もしかして目移りしちゃったかしら?」
ふふっと笑いながらそんな言葉を投げかけてくる七色に対し、住良木は咳払いを返した。
「……そんなことはない。俺はVRアイドル『セブン』のマネージャー。立場的に調べないわけにもいかなかった」
「ごめんごめん、冗談よ。まあ今は彼女の方が人気あるからちょっぴり悔しかったりするのはあるけどね。それはともかく、私も私で『ユナ』について、それについででオーディナル・スケールについても調べてみたのよ」
今の話し合いの前には、そんな経緯があったらしい。
確かにオーディナル・スケールはジャンルがMMOということもあり、VRMMOのユーザーも多くが流れてしまっている。VRアイドルのセブン、そして研究者の七色としては見逃せなかったのだろう。
そんな理由で調べてみたところ、分かったもののひとつが。
「オーディナル・スケールってザ・シードを使ってないのよね。まあザ・シードはあくまでVR空間に最適化された開発環境だからARのゲームには適さないでしょうけど」
「つまりあれは他者の手を借りずに一から構築されたゲームということか」
「そうなるわね。だから、私もあまり手は出せなかったわ。ザ・シードを使ったゲーム開発なんかもそこそこできるつもりだったんだけど……流石に独自開発されてブラックボックス化してるってなったらお手上げ」
「……これを開発した東都工業大学の重村教授は学会でかなり異端扱いされているらしいが」
「それも仕方がないんじゃないかしら? 流石はあの茅場晶彦がいた研究室の教授、まさに時代の先を行くわね」
やれやれといった感じで七色は両手を挙げて降参のポーズを取った。
東都工業大学の重村研究室と言えば、この業界の中でも知る人ぞ知る研究室だ。ARやVRの技術開発では世界企業ですら未だ敵わないのではなかろうか。その功績は彼女の語った通りだ。
「人が自らの手で作り上げた世界ってね。自分がしようとしている試みを実現するのに最適だったりするのよ。かつての茅場晶彦がそうだったように」
それはある作家が自らの好きなように書いた小説が、その作家らしさをよく表すように。
そして今の拡張現実世界の現状は、奇しくもあの頃とよく似通っている。
「重村教授が彼の教え子と同じようなことをしようとしている、と?」
「流石にそこまで飛躍はしないし、的外れな推論かもしれないんだけど……」
「──重村教授は、クラウド・ブレインに近い何かをしようとしてる」
「……かなり衝撃的な結論だな」
「いきなりそう言われたってピンとこないわよね。じゃあまずその舞台の話からって言いたいところだけど、私たちがしようとしてた実験と重ねるだけでだいたい予想はつくはずよ」
「……表舞台に『ユナ』、裏舞台に『重村教授』か」
彼女が言った
もっとも、セブンと七色は同一人物であり、それらを両立してやってのけるのが彼女の凄いところなのだが。そんな思想はおくびにも出さず、住良木は先を促した。
「これだけならただの偶然で済む話よ。ただ、これに重ねて最近こんなニュースがあったの」
彼女はiPadを取り出してネット上のある記事を見せてきた。日本の地方ニュースの一記事だ。あまり話題にもなっていなさそうだが、彼女の目には留まったらしい。
記事の内容はかつてSAO事件に巻き込まれながらも生還した者たち、通称SAOサバイバーへオーグマーが無料配布されたというもの。オーディナル・スケールもインストール済みらしい。
「VRでは辛い記憶を蘇らせてしまうかもしれないが、ARではその心配もなく安心して使えることを知ってほしい、っていうのが開発者のコメントらしいわね。……私、これにすっごく違和感を覚えたの」
きれいごとに聞こえるがが、そこには何か別の理由があるのではないか。あるとすればそれは何なのか、SAOサバイバーの何に価値を見出したのか。
それについて思い当たることがひとつ、彼女にはあったらしかった。
「……SAOサバイバーの人たちって、脳信号伝達効率が平均よりも高いらしいの。二年間も連続してVRの世界にいたら、そこで活発に活動していようがそうでなかろうが否応なくVR空間に『慣れる』わよね。その結果だと思う」
こういう考えをしちゃうのが研究者の良くないところよね、と彼女は浮かない顔する。
ただ、脳信号伝達効率という言葉は彼ら生体電気の研究者にとっては馴染み深い言葉だった。端的に言ってしまえば──
「──彼らはクラウド・ブレインの実験においてよりよいデータが採れるポテンシャルを持っている。それ以外にもVRやARの実験をするときに重宝される人材ということか」
「包み隠さず言ってくれてありがとう。そういうことよ。でも本来は彼らをそういう視点から見ちゃだめ」
技術倫理の話だ。それを踏み越えてしまうと一般人と技術者の間には大きな溝が生まれてしまう。
例えば、七色は茅場晶彦が起こした事件が結果的にVR技術の発展に繋がったことを知っている。さらにザ・シードという提供者不明のフリーの開発環境の大元がその彼の技術主体であろうということも。
しかし、その事件に巻き込まれていない彼女でも、あれは許されるべきことではなかったと理解しているし、研究者の行う実験の対象に同意のない一般人を選ばないようにしている。
あくまで光の世界に在り続けようとすること。技術倫理とはそういうものだ。
「それで、こういう贈り物をするときはちゃんと確認を取るべきだと思うの。でもこの記事だと開発者の方から一方的に送りつけてる。わざわざ自分たちが開発したゲームをインストールさせておくっていう用意周到さよ」
それは多くの人が気付くことではないが、なりふり構わない様子が少しだけ垣間見える。つまり重村教授には、SAOサバイバーに何としてもこのゲームに参加してほしい理由があるのかもしれないということ。
であれば、その目的は。
「──それを踏まえてクラウド・ブレインの理論よ。大勢の人の演算能力を少しずつ貰ってひとまとめにしたら、集合意識が具現化したようなものが現れる。そしてそれは、その集団の意識や記憶の偏りに影響を受ける」
もし、その対象がSAOサバイバーのみであったとすれば。
「……
それは、ひとりのVR技術の天才が導き出した。
「……なるほど。確かにかなり突拍子ない話だが、可能性は否定できない。いや、少なくともSAOサバイバーへのオーグマー配布の疑念は確かなものだ」
「この件についてあなたの意見を聞きたいわ。正直なことを言うと、この話が気になって仕方がないの。どれくらいかって言うと、日本での実験を保留しようかなって思ってるくらい」
その言葉を聞いて住良木は驚いた。七色がクラウド・ブレインの実験を行う場として選んでいたのが日本のVRゲーム『アルヴヘイムオンライン』だ。それを保留するという。
七色は母国こそ日本であるため日本語を扱えるが、年少時代からアメリカに引っ越していて日本での知名度はほとんどない。ALO内で歌姫として活動することでそれを挽回しつつ、研究者としてアピールするという大きな目標があったというのに。
しかし、彼女の抱いた直感はそれだけ大きなものだったのだろう。住良木はそれを否定することはできなかった。そういう直感を持つことが、彼女の天才たる所以のひとつなのだ。
「……他の些細な理由であれば七色博士の助手、セブンのマネージャーの双方の立場から活動を続けるように説得したかもしれないが、今回はそうもいかなさそうだ」
「協力してくれる?」
「ああ。実験の保留についても同意する。その代わりに調査に入るのだろう?」
「……ありがとう!」
七色は嬉しそうに言った。普段は彼から小言を言われることが多いため、このように認められるのが嬉しかったのだ。住良木はそれに気付くことなく、彼女のこの年相応の笑みを守ろうと決意を固めたりもしていたのだが。
「具体的には私が情報収集、住良木君には日本に飛んでもらうかもしれない。ARはどうしても生身の身体が必要だからね」
「それは構わないが、その間のサポートはどうするんだ?」
「そうね、基本的なことはVR空間で済ませればいいと思うけど……」
七色と住良木は大学の一室で机を挟んで話し合いを続けていく。
二人の取り組みは事の大きさに比べればささやかなものだ。今やあの世界線とは何もかもが異なっている。
ソードアート・オンラインは75層でクリアされた。
ペインアブソーバの調査で七色の研究は大幅に遅れることとなってしまった。
スヴァルト・アールヴヘイムなどというものは存在せず、代わりに新生アインクラッドがあの空には屹立している。
セブンの歌声は未だ日本に届いておらず、
だが、それでも。
そのときの二人は確かに、誰よりも真実に近づいていたのだ。