この小説に登場するのはサチです。しかし、原作に登場するサチではありません。ゲーム版のホロウ・フラグメントに隠しキャラとして登場するホロウ(AI)のサチです。
ホロウ・フラグメントの大元の設定として、「プレイヤーのAIが秘密裏に作成されており、アインクラッドのテストエリア(ホロウエリア)にテストプレイヤーとして実装されていた」というものがあります。ホロウサチもその一人です。
しかし、ホロウエリアはゲーム版世界線、76層からでしか解放されません。つまり、原作世界線では……
それでは、どうぞ。
リンゴーン、リンゴーン……
そんな、鐘のようなアラームのような音が、この薄暗いダンジョンの奥深くにまで鳴り響いた。
俯いていた頭を持ち上げて、天井を見る。その音は天井を越えたずっと向こう、空から響いているような気がした。
いったい何があったのだろう、と思っていたら、びっくりするようなことが起こった。
画一的な構造の石畳の迷宮、私がいた部屋の隣の部屋にいたモンスターが、突然音もなく消え去ってしまったのだ。誰かに倒されたようなエフェクトではなく、本当にふっとその場からいなくなっていた。
戸惑っていると、不意にアラームの音が止んで、続いて無機質な女性の声がまた天井の向こうから反響させるように降ってきた。
『ただいまより プレイヤーの皆様に 緊急のお知らせを行います。
現在 ゲームは 強制管理モードで 稼働しております。全ての モンスターおよびアイテムスパンは 停止します。全ての NPCは撤去されます。全プレイヤーの ヒットポイントは 最大値で固定されます』
『アインクラッド標準時 十一月 七日 十四時 五十五分 ゲームは クリアされました』
────ゲームクリア。
その音声は確かにそう言った。けれど、私はその意味をなかなか理解することができなくて、何度もその言葉を口の中で転がした。
「……そうか。ゲームクリア……。そういうのが、ここにはあったんだっけ」
ここはゲームの中で、プレイヤーはそこに閉じ込められていて、そこから抜け出すために皆で攻略を進めて……今、クリアした。
それはとても喜ばしいことのはず。それなのに、なぜだか全くその実感がない。頭にもやがかかったように、考えていることと感じていることの間に隔たりがあった。
『プレイヤーの皆様は 順次 ゲームから ログアウトされます。その場で お待ちください。繰り返します……』
それはこのゲームの中で生きるほとんどすべての人が待ち望んでいただろう言葉だった。もちろんそれは私も同じで、こんなゲーム、早くログアウトしたいといつも思っていた。
そう。
……ひどく落ち着かない。焦りにも似た感情が私を突き動かす。
この身体を動かしたのは何時ぶりだろうか、ひょっとしたら少ししか経っていないかもしれないし、数日間そのままだったのかもしれない。
私にはやらないといけないことがあったはず。それをまだ成し遂げられていない。でも、そのやるべきことが思い出せない。ああ、頭がいたい。
私がいた場所は安全圏で周りの部屋にはモンスターがうろついていたんだけど、それらはもういなくなってしまっている。モンスターのいなくなった通路を私は小走りで進んだ。
ダンジョンの外へと出ると、さっきのアナウンスがより鮮明に聞こえてきた。さっきと同じことを繰り返し読み上げている。
少し息があがって、私はその場に立ち尽くした。さっきから色んなことが頭に浮かんでは、思考を乱してくる。
私の記憶はかなりあやふやになってしまっている。今は何月何日で、攻略はどこまで進んでいるのか。私には仲間がいたのか、それすらも思い出せない。
一つだけ覚えていることと言えば、私の名前が『サチ』であるらしいということくらいだ。
そう、私の名前はサチ。このソードアート・オンラインというデスゲームに巻き込まれたプレイヤー。気が付いたらここにいて、それ以降、延々とここを彷徨っている。
ここがどこなのかも分からないままに。
しかし、そんな霧に囲まれたような不確かな日々は突然の終わりを迎えたみたいだ。
さっきから鳴り響いているアナウンスが嘘を言っているとは思えないし、辺りを見回してもモンスターの姿は全く見かけない。ゲームが終わるから、いる意味もなくなったんだろう。
だから、私はその場に立ったまま『そのとき』を待った。
ログアウトはどんな感じで行われるんだろう。あのモンスターたちのようにいつの間にかふっと消えたり、転移したりするのかな。──ああ、頭がいたい──ログアウトボタンが現れているのかもしれないと思ってメニューを開いてみたけど、なくなったままだった。だから向こうから何かしてくれるのを待つしかない。
……この世界から帰ること。
その辺りのことを考えようとすると急に頭が痛くなってくる。鈍く強い痛みだ。まるでそのことを考えさせたくないような。
思考は鈍って霞みがかる。その答えに辿り着いてはいけない気がする。
……そもそも私は、どうしてこんなに
なんで、どうしてと考えていくほどに鈍い痛みが増していく。考えることをやめろとどこかの私が叫ぶ。壊れてしまう。受け入れろ、と。
「あ……ぅ、う……」
それでも私は考える。
無機質な祝福の声が鳴り響く空の下で、額を手で押さえて、ふらつきながら。
やらないといけないことって、なんだったっけ。
どうして私はこんなに記憶が欠けてしまってるんだろう。
ずっと迷宮の中にいたのにお腹が空かないのは、疲れないのはなんでだろう。
この
私は、わたしは、サチは──────
───────
その答えは、頭の痛みや焦燥感を道連れにして、胸の内の、とても昏いところへと。すとんと落ちた。
『そのとき』はいくら待っても訪れない。訪れるはずがない。
なぜなら、『本当の私』はもうあの世界にはいないから。
替わりにいる私はただの影。『本当の私がいた』という記録の欠片を集めて造ったNPC。
ホロウのサチ。それが私だ。
「あ、はは……」
乾いた笑いが漏れ出て、私は数歩後ずさった。
こんな途方もないことにどうして今まで気付くことができなかったんだろう。
……いや、本当は気付いてはいけないことだったのかもしれない。だからこそ昔のことを思い出せなくなっていたり、思考が鈍ったりしたんだ。
私が本当の私ではなくて、さらに本当の私は既にこの世界にいないと悟ったさっきの感覚は────とても、言葉になんてできない。今の自分が保たれているのが、奇跡だと思うほどに。
そして私が後ずさってからすぐに……世界が罅割れる音が響いた。
空に亀裂が走り、地響きが鳴り響く。巨大な青い球を中心にして幾つものエリアが広がっていたこの世界の底が抜ける。
ここはソードアート・オンラインでありながらアインクラッドではないどこかだ。ゲームがクリアされたのなら、モンスターと同じく削除される運命にあるんだろう。
ああ、終わりが始まる。
そうしたら、私は────
それから先を考えることがとても怖くて、それでも目の前には崩れゆく世界が広がっていて、私はたまらずダンジョンの中へと戻った。終わっていく世界を見ることなんて、とても耐えられなかった。
走って、走って、元いた場所まで辿りつく。そして、石の壁にもたれかかるようにして膝を丸めた。
「いや……いやだよ。わたし、消えたくない。何も、何もできてないのに……」
かたかたと凍えるように体が震える。思考が飛躍する直前でひどい頭痛に襲われるせいで、ただこの恐怖に向き合わされ続ける。
こうやって逃げた先で、目をぎゅっと閉じて耳を塞いでも、どうしようもない終わりが近づいてくるのが分かる。地震でダンジョンが崩れかけているのを感じ取れてしまう。
こういうのを絶望というのだろうと考える最中で、今の自分の置かれている状況をどこか懐かしがっている私もいることに気付いた。
その懐かしさは、オリジナルの私の記憶に繋がっているようだった。私はその欠けた記憶に縋りつく。
あれは、アインクラッドの何層だったか。あのときの私も死の恐怖に怯えていて、耐えられなくなって走って逃げて、路地の隅で膝を抱えていた。
それまでの経緯は思い出せそうにない。でも確か、そんな暗闇から手を伸ばして引っ張り上げてくれた人がいたような気がする。
そして、その人はこう言ったんだ。
「大丈夫。君は死なない。絶対に死なせない」と。
私が死の恐怖に怯えて立ち竦んでしまったとき、眠れなくなってしまったときに、その人はいつも私にそう言い聞かせた。その言葉のおかげで、私は不安に押しつぶされずに生きていくことができていたんだ。
その人の名前は何だったのか、それすらも思い出すことができない。名前を呼ぶことすら叶わない。名前を読んだところで、ここに来てくれるはずもない。
私は、独りだ。
丸めていた膝をぎゅっと抱きしめる。か細い声で呟いた。
私はもうすぐ存在ごと消えてしまう。もう分っている。
それは誰にも止められない。止めてはいけないことだということも分かっている。
全て、すべて受け入れるから。
「……お願い。誰か、傍にいて…………」
そんな私の願いは、消えゆくような声は、何かの足音に掻き消された。
顔を上げて、閉じていた目を開ける。
そこに立っていたのは、黒ずくめのプレイヤーだった。
黒いコートに黒い服、黒い髪。背中には二本の剣を担いでいる。
いつの間に、とかどうやって、とか考える暇もなく、信じられない気持ちで私はそのプレイヤーを見上げた。
「あなたは……」
そう呟く私を彼はじっと見つめた。声をかけることはしない。ただじっと私を見つめて立っている。
その瞳の色は黒く虚ろだ。まるで意志が宿っていないように見える。それで、私は悟った。
「そうか……あなたも」
私と同じ、この世界の住人なんだね。
アインクラッドで生きているプレイヤーのデータを反映して作られた、ホロウの人たちが住まうこの世界。ホロウエリアとでも言おうか。
今、彼が背中に担いだ二本の剣を抜いて私に突き立てたとしても、私はそれを受け入れることができる気さえした。
「……隣に座らない? ほら、空いてるから」
とんとんと傍の地面を手でたたくと、彼は剣をストレージへと仕舞って、黙ってそこに座った。私と同じ体育座りだ。
あちらから声をかけてくる様子はやはりない。もしかしたら、私が記憶を失っていたように、彼は話すことができないのかもしれない。それでもお構いなしに私は彼に話しかけた。
「あなたも、独りだったの?」
「…………」
「私はね、ずっとここで考え事をしてたんだ。何かやらないといけないことがあるような気がして……。でも、だめだった。あはは……、やるべきことを思い出せないまま今日になっちゃった」
地響きはだんだんと大きくなり、やがてびしっと石壁に亀裂が入った。ぱらぱらと石の破片が落ちてくる。このエリアも崩壊に飲み込まれ始めたみたいだ。
彼は黙して語らない。俯き加減で地面を見ている。こんな状況なのに、これから消えていく運命にあるはずなのに、とても落ち着いている。
その虚ろな瞳の内側に、寂しさが宿っているように思えた。
とんとん、と彼の腕をつつく。彼は僅かにこっちを見たけど、嫌がっている様子はない。私は彼の腕を引っ張り出した。我ながらとても思い切った行動をしている。
そして、私はそっと彼の手に触れた。
今度こそ彼は驚いたのか、びくっと手を引っ込めかけた。でも、振り払うまではしなかった。私が彼の手を握っても、拒まなかった。
「あったかい……こういうところは、きっちり再現するんだね。わたしたち、ただのデータなのに」
それが私たちホロウに管理者がくれた唯一の慈悲なのかもしれない。私はそう思った。人の体温を暖かいと感じることは、たとえそれが再現された感覚だとしても、人を落ち着かせるものだから。
人と手を繋ぐのなんてとても久しぶりのような気がする。少なくとも、その記憶は本当の私の頃まで戻らないとないだろう。
そうして私は、私たちは、手を繋いだまま。終わりのときを待ち続けた。
「──あっ」
がらがらと天井が崩れる音が鳴り響く最中で、私は声を上げた。
……思い出した。やらないといけないこと。まるで枷を外したかのような感覚だった。
「私……私は、戦わなくちゃいけないんだ」
閉ざされた狭い空間。脱出不可能になるトラップ。無尽蔵と思えるほどにリポップするモンスター。
「……戦わないと、いけなかったんだ……」
俯いて言葉を噛み締める。それに気付くのは、あまりにも。もうどうしようもなく、遅かった。
そして、たとえそれが思い出せていたとして、私はちゃんとそれを成し遂げることができただろうか。
……よく考えなくても、感覚で分かってしまう。たぶん無理だということに。
もともと戦うことがとても苦手だった。モンスターを目の前にすると、どうしても足がすくんでしまう。それを乗り越えて、それでも、と立ち向かうことができない限り、土俵に立つことさえできはしない。
ごめんね。頑張れなかった本当の私。せっかく再挑戦の機会をもらえたのに、結局私は弱虫のままだった。
空っぽの私に本当の私が残した気持ち。それをあの人に伝えたかった。ただ、それだけだった。
……枷が外された今なら、あの人の名前を思い出せそうな気がする。
心が折れてしまいそうだった本当の私に、君は死なないと言ってくれた。とても優しくて、強い人。その優しさと強さ故にいろんなものを抱え込んでしまう。それを隠し通して、そして抱えきれずに零してしまったものに深く強く囚われてしまう、そんな人。
その人の、名前は────
「──キリト」
その名前を口にしたとき、隣にいた彼が小さく身じろぎした。繋いでいた手がぎゅっと握られる。
その黒ずくめの装備を見て確信する。間違いない。彼は私が万が一にも満たないだろう再会の可能性に賭けて待ち続けていたプレイヤーのホロウだ。
「ひょっとして、キリトも死んじゃったの……?」
恐る恐るそう聞いたけど、やっぱり彼は黙ったままだった。
その様子を見て、本当のキリトはあの世界でまだ生きているんだろうなと思った。確証はないけれど、それは確信に近い感覚だった。あのキリトのことだから、もしかしたらこのゲームクリアにも一役かっているのかもしれない。
ただ、そんな彼に私は枷を背負わせてしまった。
本当の私のHPが0になって砕け散る直前。本当の私は彼と目を合わせていた。そのときの彼の表情が、本当の私の心残りだった。
たとえ死に別れたとしても、最後にこの言葉だけはちゃんと伝えたい。そうしないと彼は自分を責める気持ちを捨てきれない。
その託されたものを、私は本当の彼に渡すことができなかった。渡す方法なんて今考えても見当もつかないけど、その最初の一歩を踏み出すことすらできていなかった。
でも、代わりにホロウのキリトが来てくれた。それは何かの必然……と考えてしまうのはおこがましいことかもしれないけれど。
キリトであって、キリトじゃない。少なくとも、これから先現実世界で生きていくだろうキリトじゃない。
だからここで何かを伝えても、それは本当のキリトに届かない。
──それでも、たとえ、そうだったとしても。
虚ろな世界で生き続けた私は。
私たちの座っている場所も罅割れて、いよいよ壁が崩れようとしていた。
轟音が鳴り響く中で、私は彼の手を少し強く握って、口を開いた。
「……君に出会えて、私は本当に幸せだったよ」
死んでしまったという現実がある今でも、キリトと一緒にいた日々を
だから、だから────
「だからキリト──私のことは、何も気にしないで進んでもらえるとうれしいなぁ」
それは、あのメッセージにも残されていなかった。ここで私と本当の彼が出会って、私が戦って弱虫を乗り越えた先でないと、彼の心に届けられない言葉。
届けることができなかった、言葉だ。
最後の言葉を言い切る前に、涙が頬を伝った。
「へへ、ただのデータの私も、涙を流すことはできるんだ。不思議だね」
この涙は自分の願いをやっと口にできたからなのかな。……いや、きっと悔しさからだ。
この想い、心。本当に届けたかったという願いだけは、本当の私にも劣らないと言い切れる。
ごしゃっという音と共に、目の前に天井の石が落ちてきた。みしみしと壁が軋み、倒れ込み始める。
いよいよ世界が終わる。でも、さっきと違って怖さはそれ程でもなくなっている。
隣に彼がいて、手を繋いでくれているから。むしろ、私が言いたいことを言うまで待ってくれた世界にちょっぴり感謝しないといけないかもしれない。
彼の横顔を見て、なんと目が合った。彼は私がびっくりしているのを見て、少しだけ困ったような笑みを浮かべたような気がした。
だから私も笑い返す。涙が零れ続けているのなんて気にしなかった。
「ほんの少しだけ時間があるみたいだし、言いたいことは言っちゃったから……歌を、歌おうかな。歌いながら終わるなんて、ちょっと素敵だと思うんだ」
曲名は決まっている。本物の私をリスペクト。ここにいるのがキリトのホロウなら、それしかない。──赤鼻のトナカイ。
「じゃあ、歌うね。
真っ赤なお鼻の トナカイさんは
いつもみんなの 笑い者」
さよなら。キリト。
どうか、幸せに。
「でも その年の クリスマスの日
サンタのおじさんは 言いました」
私と君のホロウは一緒にいるよ。
私、もう怖くないよ。
「暗い夜道は ピカピカの お前の鼻が 役に立つのさ」
私は、君に出会えて本当に──
「いつも泣いてた トナカイさんは 今宵こそはと 喜びました──────
もはや使命感で書いてました。
ホロウ・フラグメントのサチのこと、どうか忘れないでくださいね。