もしも吉良吉影がヒロアカ世界に生まれたら   作:hige2902

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それは檻に封じられた暗い炎。
近づけてはいけない。
火薬にニトロ、導火線の短いダイナマイトも。
キラークイーンはもってのほか。



第一話 それ、これ、あるいは、あれ。

 起床とは簡易的な誕生なのではないかと、男は最近思うようになった。となると就寝は簡易の死だ。ならば一日という一生をどう生きたものか。それが問題だ。未だにわからない。

 

 カーテン越しから薄らと春の陽日が透ける一室で、淡い藤色の寝間着姿の男が一人、ベッドに腰掛けている。頬は不健康によるそれではなくこけていて、端正な眉に熱の無い瞳。ウェーブのかかった頭髪を後ろに撫でつけているが、生え際中心から左右に二房垂れている。

 男はほんの少しの前傾姿勢で、膝上で何かを持つように両手を宙に添えていた。

 見る物が見れば、何をやっているのか理解に苦しむ。だがその男、吉良吉影の視界においては別だ。

 

 吉良の両の手は奇妙な生物の頭部の頬に添えられていた。それは体毛の無い滑らかでのっぺりとした猫のようだ。まぶたも無く、鼻も無い。しかしもっと奇妙なのはその体躯だった。

 人間のそれなのだ。不気味に過ぎるが、陶磁のように滑らかな鍛え抜かれた肉体には色香がある。生物的な歪さと肉体の艶やかなアンバランスは、どこか興味をそそった。

 いつだったか映画で見たギリシアのスパルタのように恥部を隠すだけの装いに、グローブとサンダル。それらは鋲が打ってあり、髑髏のモチーフがあった。人間の頭骨ではなく、それ、の骨だ。

 

 それ、これ、あるいは、あれ。とにかく吉良はそう呼んでいる。

 それは頭を吉良の手で抱かれたまま、両足を畳み、両手を床に着けている。吉良の脚と干渉している部分は、吉良で上書きされていて見えない。

 

 だが触ろうという意思があれば、こうして触れる。と吉良はそれの瞳を覗きこんで思った。ネコのような縦の瞳孔が吉良を覗きこんでいる。それの瞳が吉良を映し出す。合わせ鏡のように、その吉良の瞳にもそれが映っている。

 

「おまえは誰だ。なぜ、いる。なんの為に」

 

 そう吉良は零す。だが答えが返ってくる事は無い。それに口はあるが、喋らない。鏡合わせの瞳の中のじぶんが、同じようにじぶんに問いかけるだけだ。

 

 目覚ましが鳴った。止めようとすると、それは消える。消えろと念じるまでも無く、吉良の身体の延長線上にあるような振る舞いを見せる。

 脳と繋がる神経のように、ではない。

 テレビを点けると、スポーツ飲料のコマーシャルが流れている。走り幅跳びで桟橋から数十メートルほど飛んで海に飛び込んでいた。CGではない。現代では普遍である超常の力、個性を使ったのであろう。

 

 吉良はクローゼットから服を取り出す。明るい灰色を基調としたハリのあるタータンチェックの二つボタンジャケットにスラックスの裾はダブルのツーピース。よくみれば薄らと入っている千鳥格子のボタンダウンのシャツと、スーツよりもほんの少し色の濃い斜めに入ったギンガム模様のネクタイを締める。

 腕に沿って湾曲しているスクエアケースの腕時で時間を確認し、出社の準備をしながら、幾度目かの思考の軌跡をなぞる。

 

 

 ――――

 火薬

 ――――

 

 

 小学生の頃の身体検査で、吉良は足の小指の関節があるのだと医者に告げられた。個性の発現が遅いので、薄々と感じてはいたがどうやら当たっているらしい。

 統計的に小指の関節が有ると無個性なのだ。

 

 だからといって、吉良は苦を感じなかった。幼かったからかもしれない。ほどほどに勉学に励み、サッカークラブに入り、それなりの友人関係を築いた。

 だが学年が進むにつれ、コミュニケーションの要素の一つに個性が加わった。やれカッコ悪い、カッコいい、強そう、弱そう、便利不便綺麗不細工。

 

 吉良は個性を持っていなかった。それほど興味も無い。なぜなら、個性の評価とは相対的な物だ。学業のテストやスポーツの得点のような絶対的評価がある訳ではない。そこに魅力を感じなかった。だからどうでもよかった。舐められず、ほどほどにじぶんの実力を示し、かといって打たれる杭にならない手段が明確ではないから。

 つまり、吉良の歪な性格である、ささやかな承認欲求を適度に満たすものではなかった。

 

 個性はあってもなくてもいい。しかし無邪気な子供が、そんな一歩引いた吉良のスタンスを見過ごすはずもない。

 

『吉良ぁ、おまえ無個性なんだろ』

 

 と、新学年早早にちょっとした悪ガキが放課後の廊下で絡んできた。ほどほどに仲良くなった新しいクラスメイトは戸惑い、それに気付いた女子が不穏さを感じ取り先生に伝えるべきか迷う。

 

『そうだよ』

 吉良はにべも無く言う。

 

 無個性である事が劣等であるとは考えていなかった。まだその世代ではなかったのも起因する。どちらかというと個性持ちである事に不穏な視線を投げかけられる年代と、それが終わる境目だったのだ。十数年ほどで一変するが、そんな未来の予期は近くとも理解は遠い。

 ともあれ無個性である事が少数派に崩れた頃。吉良が無垢な残酷の餌食になるのは不思議ではない。

 

『なあ~吉良。じゃあ個性について詳しくないよな、教えてやるから、ちょっと付き合えよ』

 

 ほどほどに仲良くなったクラスメイトが、砂糖菓子のような友情で口を挟むが吉良はこれを制した。それは、新しい友人を巻き込みたくないという高潔な物ではなく、心のどこかで見下していた人間に助けられたくないという、濁った自尊心によるものだ。

 

『じゃあちょっと静かな所に行こうぜぇ』

『いいよ』 と吉良。クラスメイトに普段通りの口調で言った。 『悪いんだけど、先に帰っててよ』

『吉良くん、ぼく、その、やっぱり』

『いいからいいから、何でもないって。ちょっと個性について教えてくれるだけらしいんだからさ』

『……でも』

 

 いいからいいから。と吉良と悪ガキは焼却炉のある体育館裏に向かった。

 悪ガキにとって、吉良をターゲットにするのは丁度良かった。ヤンチャでもなく、イジメて自殺するほど暗くなく。クラスのムードメーカーというほど人気がある訳でもなく、手を出すとヒンシュクを買うほど弱者でもない。スポーツクラブでも活躍している訳じゃあないから女子からの人気が高くもない。

 それと同じく吉良にとっても丁度良かった。

 これから無個性で社会を渡っていかなくてはいけない。このようなぐあいで絡まれる事もあるのだろう。それを予習できるのは僥倖だ。将来設計は地元の地銀にでも勤めるつもりだ。だから地元で舐められるわけにはいかない。中学校や高校でヘタに負け犬の烙印を押される前に、絡むと手を噛まれるくらいの噂が流れればいい。クラスメイトにも、一人で悪ガキに立ち向かった度胸のある奴だと思われるだろう。

 

 つまるところどちらとも打算と裏打ちのある行動だった。それが狂ったのは吉良の方だったが。

 

 人に向けて使われる個性が、想定よりも強力だったのは吉良の誤算だ。

 悪ガキの個性によって強化された吐息は、簡単に吉良を吹き飛ばした。ああ、人に個性を使うと、こんなに簡単に倒せるのだ。そう感じた悪ガキはだから、吉良に授業料と称して金銭を要求した。

 

『こ、これで個性のヤバさがわ、わかったろ? 吉良』

 骨とか折れてないよな、と。どこかで焦りながら、ゆらりと起き上がる吉良にほっとして続けた。ドラマや漫画で見た展開を脳裏に描く。

『わかったよな? 勉強になったろ』

 

『ああ、為になったよ』

 吉良はズボンの砂をはらい、拳を握りしめて悪ガキに近づく。

 

 そういえば、欲しいゲームソフトがあるなあ、と悪ガキははやる動悸で興奮気味に試算した。

 

『じゃ、じゃあ授業料払って、払えよ。塾とかもそうだろー? 教えて貰ったら金払うもんなあー』

 

 吉良は有頂天の悪ガキの鼻っ柱を殴った。

 

『いってぇえじゃねえか! 吉良ぁ!』

 

 悪ガキが頬を膨らませて個性を発動し、吉良を吹き飛ばす。フェンスに叩きつけられて倒れたので駆け寄って足蹴にする。

『無個性のくせに殴りやがったな!?』

 悪ガキは半泣きで、うずくまった吉良を踏みつける。人に暴力を振るうのは初めてで鼓動が速まった。

『てえぇめえ、コノヤロー! 鼻血まで出てるぞ、これは、イシャリョーってやつなんじゃないのかぁああ~! 医者に診てもらわなくっちゃあならない怪我だからなぁ、この痛さはあ!』

 

 あ、あれおかしいな。こんなはずじゃあ……頭を庇いながら、吉良は思った。

 マズい、マズいぞ。個性を平気で人に向けて使うやつがいるんだ。そんな事するバカはいるのか。クソッ! そんな事をするのは本物の犯罪者くらいだと考えていたが。これは困った。なによりこの状況をひっくり返さなきゃ、今後のぼくの人生はどうなる? 中高とイジメられっぱなしじゃあないのか?

 

 それは困る。実に困る。望んでいない。けれど努力でどうこうなる問題じゃあない。個性というぼくの持っていないステータスの問題だ。

 

『カネッ! カネッ! 蹴るのをやめてほしけりゃあカネ!』

 

 そんな要求は飲めない。だから痛みに耐え、八方ふさがりで吉良は考えた。

 個性なんていらない。普通でいい、日常を送れればそれでいい。いま、ぼくが欲しいのは、クラスメイトと下校するような、どこにでもある平穏。それでいい、それだけでいい。他に何もいらない。

 

 ――そうだっけ? ――

 

 ふと、じぶんに何かが欠けているのを自覚した。平穏だけ? ぼくは昔、何か、何かをとても欲していたような。昔って、いま小学生なのにそれ以前?

 吉良は逡巡した。逡巡して、じぶんが蹴られていない事に気付いた。

 おそるおそる見上げると、それ、が悪ガキの首を軽軽と片手で締め上げていた。苦しそうにもがいている。

 大事になるのは困るな、と思うとそれは手を放した。悪ガキが苦しそうにえづきながら、何かを喚きながら走り去った。

 

 それは異形だったが、不思議と怖くはなかった。

 

 吉良はそれを個性という事にした。それは他人には見えなかったので、念力のような個性で通すことにして。

 この事件が吉良に与えた影響は大きい。まず、今後は個性がモノをいう将来になるかもしれない。製造業は、それに適した個性を有する者の集団で独占されるかも。技術的な発展も加速するだろう。地銀関係は危ないかもしれない、銀行強盗の問題が付いて回る。

 

 個性やそれによる技術発展の影響の少ない安定した職業。

 吉良の出した答えの一つは、法律関係の仕事だった。

 

 

 

 ――――

 ニトロ

 ――――

 

 

 

 これはわたしの脳というより、精神の延長線上にある。

 吉良は小学校の頃の事件を想起して考えた。あの時、平穏を望んでいたのだ。決して悪ガキの首を締め上げてやる、などとは思考していなかったのだから。

 つまり平穏を得るという目的から逆算して、あの手段を選んだのだ、これは。

 

 走行中のバスの窓ガラスにぺたりと掌をあてがう。それが車外から窓越しに掌を合わせてくる。それは視界が通れば、薄い壁程度の厚みを挟んでも出せる。

 これは個性ではない。他人には見えないし、吉良の足の小指には関節がある。目的を叶える手段を行う能力。吉良はそう確信していた。

 

 あの件以降、吉良は文句なく平穏を得た。目立つほどの成績ではないが上から数えた方が早い成績を収め、望んでいた生活水準を満たせる職に就いた。

 それでも、あの瞬間に脳裏によぎった、ナニか。平穏の中の一握りの、しかし至上の個人的な喜び。それが昔はあった気がする。いまは間違いなく無い。なんなのだろうか。

 しかし小学生の段階で昔はあったと感じるのだから、それ以前ともなると幼稚園児レベルだ。そんな幼い時に、いま求めているナニかを感じ取れていたのだろうか? 現実的ではない。

 それ以前となると、もはやおとぎ話だ。はやりのライトノベルよろしく、前世だの転生だのに近しい。

 吉良は浅くなっていく思考に見切りをつけた。

 

 歓喜も無ければ、悲壮も無い。

 達成感も無ければ、挫折感も無い。

 それがわたしの今の人生だ。

 

 それでいい。平穏とは均衡の中にある。どちらに傾き過ぎてもダメだ。

 満足はしているがしかし、加えてささやかな喜びを望むのは強欲だろうか。それに比例するほんのちょっぴりの苦難や痛みなら甘受しよう。

 しかしそれがなんなのか、じぶんが具体的にナニを願っているのかがわからない。

 

 バスの吊り革を持つ女性の手を眺めながら、吉良はぼうっと物思いにふけった。

 

 やがて駅前のバス停で降りる。近くのビルに構える小さな法律事務所が吉良の勤め先だ。吉良としてはそれほどの収入や社会的地位を望んではいなかったが、小学校の一件が後押しして選択肢の一つとなっていた。

 働いてみれば案外悪くない。民事を主な案件としているので、裁判も極めて事務的だ。稼ぎは他の事務所よりは少ないが、多忙は吉良の望むところではない。

 

 デスクから見える外の景色には、田等院駅で巨大な化物が暴れていた。ほどなくしてヒーローがやってくるだろう。ご苦労な事だ。

 まあ、わたしには関係ないが。と吉良は年配の代表弁護士から回された契約書作成案件に目を通していると、一本の電話が鳴った。

 

 吉良が手に取る、震える女の声が聞こえた。

 

『あの、ネットで見たんですが、こちらで相談に乗ってくれると。無料で』

 

 ひどく憔悴している感じがある。人材の入流出がほとんど無い事務所なので吉良が一番の新人であるが、数年の場数は踏んでいる。この手の雰囲気にあまり会社会社した事務的な口調は好ましくない。多少ラフな方が相手も安心する。

 

「ええ大丈夫ですよ。女性の弁護士の方がよければ変わりますよ」 ちらと腕時計を確認する。どうせDVだ、すぐに済む。

 

『その、わたしDVを受けていて』 切羽詰まった口調で短く言った。 『助けて欲しくて』

 

「まず確認したいのですが、命の危機を感じていますか?」

『それは……いえ、わかりません、でもそれほどでは』

「相手は男性ですか? ご結婚は?」

『男です、結婚なんて』

 

「警察の」

『それはダメッ!』

 

 吉良は思わず受話器を耳から遠ざけた。

 

『ごめんなさい、無理なんです』

「わかりました。同居中の男性に暴力を振るわれている、という状況ですね。話しにくいでしょうが、確認の為にお聞きします。暴力に個性は使用されましたか?」

『たまに』

 

 女がすすり泣きだした。

 

「そうですか、おつらいでしょう。一刻も早くその男性と関係を断ちたいのでしたら、やはり警察の方に相談された方がよろしいですよ。110番でなく、相談課の番号がありますので、そちらに」

『そんな事したら、どんな目にあうか』

「ですがDV防止法等を申し立てるにしても、原則的に警察への連絡が必要です。個性使用の証拠があれば文句なく刑事事件です。何か、理由があればお聞きします。もちろん守秘義務は守ります」

 

 女が意を決して口を開こうとする吐息が聞こえ、ドアの開閉音が遠くで鳴り、それで通話は一方的に切れた。

 同居中の男が帰ってきたのだろう。吉良も受話器を置き、仕事に戻った。

 

 こういった相談は少ないわけではない。胸糞の悪い話、精神衛生面上は好ましくない。だが仕事はそんなものだろうと吉良は割り切っている。たとえばどこかのデパートに勤務したとする。販売員なら訳の分からないクレームの対応もあるだろう、外勤にしても嫌な営業先を回らなければならないだろうし、内勤では上司に売上をせっつかれるに違いない。

 それにくらべたら幾分かは精神的に楽だ。被害を受けているのはじぶんではなく、他人なのだから。

 

 昼休憩を挟むと、再び女から連絡が掛かってきた。どうも電話では話しにくいので直接会って相談したいとの事。時間は今日の夜だった。

 規則正しい睡眠を心掛けている吉良としては断りたかった。女は民事で済ませたいようだが、いつ刑事に切り替わってもおかしくない。うちは刑事を得意としていないのであまり力になれないと言いたかったが、やめた。昼休憩時に数少ない先輩に電話の内容を聞かれたし、冷たいやつだと思われるのはよくない。それにここの代表弁護士は女性だ。

 

 待ち合わせは歓楽街にあるファミレスだった。吉良は窓側のボックス席に陣取り、コーヒーを飲む。予定の時刻を数分過ぎると、一人の女性が入店して来た。吉良はすぐにその人物が件の依頼人だとわかった。だぼついたツバの広い帽子に顔を隠すような伸びきった前髪。手袋にツークッションある長さのスラックスにブーツ。年季の入ったブランドバッグを下げている。

 衣類で全身を覆い隠していた。服装は傷跡を見せたくない為か。吉良はとっとと傷害罪で刑事事件にした方が早いと内心で毒づく。

 席に着き、挨拶を済ます。名刺を渡すと、意外にも女も持っていた。くたくたの風俗嬢の名刺だ。

 

 うつむいた女の長い髪の間から、生生しい傷を負った顔が見え隠れしている。痛ましいが、その傷であっても、その奥にはまだ女性の持つ魅力があった。湿度のある艶めかしい生気のような、形容しがたい濡れた美がある。

 

 切れた薄い唇で、女が言った。

 

「……あの、お金なんですけど」

「相談なので無料ですよ。DV関係の解決にあたっての、金額の一例はこちらです」

 

 吉良が持ってきたパンフを女に渡した。食い入るように見つめている。だが背筋は伸びていた。育ちはいいのだろう。

 

「何度も同じことを言うようで申し訳ないのですが、やはり警察の方に……」

 

 と言いかけたところで、吉良の隣に一人の男が無遠慮にドカリと座り込む。女がはっとして顔をあげ、震える瞳で男を見る。

 

「おめ~よぉ、なに勝手に早退してんだよ。店からおれの方に連絡あってよぉ、迷惑かけんなや。え?」

「ご、ごめん。でも、こんな顔じゃお客取れないし」

「は? てめえが稼げねえのはおれが悪いってか?」

「そ、そうは言ってない」

 

 深夜という事もあり、また人の目もあるので男の声はひそやかなものだ。しかし女を人として見ていないような責め口調。

 

「きみは誰だ」 と吉良。隣に座ったスウェットの男に言った。

「あ? てめえこそ誰だ? こいつと同伴か? あんま首突っ込むなや、じゃねえと」

「じゃないと、どうなるんだ」

 

 吉良はコーヒーを飲み干す。男は女が持っていたパンフに目をやり、舌打ちして立ち上がって言った。弁護士と事を構えるつもりはないらしい。

 

「おい行くぞ」

 

 女はパンフを眺めたまま動こうとしない。

 短いしびれを切らした男が女の細い手首を掴むが、女はソファから崩れ落ちる。

 

「おれに迷惑かけんのも、いいかげんにしろよ」

 

 吉良は手の甲でコーヒーカップのソーサーごとテーブルから押し出した。床に落ち、割れる音が広いファミレスに響く。男と視線を交わす。

 

「わたしのクライアントなのだがね」

 

 一人か二人いた客が視線を向け、すぐにホールが、大丈夫ですかーとやってくる。男は舌打ちで店を出た。

 まったく、嫌な夜になったと吉良は辟易する。強いストレスを覚えた。

 まあいい、これ以上は弁護士としての領分を超えている。警察に行きたくないなら、そうすればいい。脛に傷があるのだろう。それで損をするのはわたしではない。赤の他人の憐れな女。

 

「今晩からはあの男とは別の場所で寝泊まりした方がいい。アテはありますか? 携帯も手放すべきかもしれません、あの男はおそらくGPSを辿ってきた」

 

 吉良はへたり込んでいる女に、手を差し伸べてやった。あ、と女が口から零してその手を握る。握ろうとするが力が入らないのか吉良の指が滑り抜ける。吉良にはそれがひどく印象的だった。

 手首を掴み、肩を引き寄せて立たせた。

 

「え、ええ、大丈夫です。ご迷惑をおかけしました」

 

 ――ありがとう――

 

 と女は消え入りそうな声で続けて言った。それだけ言うと、右足を庇うような歩き方でファミレスを出た。吉良から貰ったパンフを痛痛しいほど握りしめて。

 吉良はソファに座り直し、やって来たホールにカップは弁償する旨を伝え、コーヒーをもう一杯注文した。あの様子だと、明日にでも連絡が来るだろう。

 

 そして女を引き起こした時に触れたじぶんの右手をじっと見やる。手袋越しの、弱々しい指の感触がまだそこにあった。

 たったそれだけの事が吉良の心に色濃く刻まれた。これは妙だと自己分析する。

 

 倒れた人間に手を差し伸べただけ。たったそれだけのたわいもない事だがしかし、思い返せば人生でそんな事は一度も無かった。

 そんな小さな出来事で、灰色で固まった人生に鮮やかな雫が落ちてきたような気分になった。当然、明日には灰色に飲まれるだろう。だがそれでよかった。

 

 もしも受ける情感が強大ならば、中毒のようにそれを求めるだろう。そうして厄介ごとに首を突っ込むようになる。

 小さく爆ぜて消える花火のような心地よさでいい。

 弁護士という仕事がら、デスクワークで人の助けになる事は多い。だが実際に身体を動かして助けになる事は無かった。

 わたしが欲していたモノは、案外これなのかもしれない。いやきっとそうだろう。女の手を取った時、確かに満たされた。

 

 倒れている人の手を取る。

 

 か、と吉良は心中で宝石を転がすように唱えた。

 それは偽善だとか、自尊心や承認欲求だとかの俗物のそれかもしれない。それでいい。本物の善を行うほど、わたしは強くないのだ。手の届く範囲で、余裕があったらすればいい。

 

 吉良は人生における一つの回答を得たことに多幸感を覚えた。

 長生きはしてみるものだと店を出て、自宅に戻り、死んだようにたっぷりと寝た。

 そうして翌朝に目覚める。




次回 今日か明日かそれ以降
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