雨宮纏は横浜国大の教育学部を卒業後、国家公務員採用一般職試験を経て外務省に入った。亡き父の先輩であった外務省事務次官の山重の誘いがあったためだ。自分の希望としては教育関係の仕事に就くつもりでいたが、安定していて給料もよく、なにより推薦もあって入りやすかった。
当時の雨宮家は両親が事故で亡くなり、収入源が祖父の働きのみとなっていて、二人の妹と四人の暮らしは楽ではなかったことが纏の職決定に大きく影響したことは否めない。
私立の女子中学で教師として赴任し、妹ハーレムを築く野望は潰えたが後悔はないと纏は思っている。
実の妹二人の可愛い笑顔を見れば後悔なんてあるはずもなかった。
『紗弓も涼音もかわいかったなぁ・・・・』
事務次官室の秘書デスクに頬肘をついて纏はため息をつく。
いまだに残っている唇の感触を反芻していればちょっとした夢心地だ。
『おっと、おっと』
纏は左奥の山重事務次官をチラ見してからパソコンのキーボードに向かい、書類を再開する。ぼーっとしているとまたどやされると思ったからだ。しかし事務次官は難しい顔をして書類を食い入るように見ている。あまり見せたことのない深刻な表情だ。
外務省は現在となっては他に類を見ないほどの閑職な役所になり果てている。それはそうだ。ほとんど鎖国状態のこの国に外交業務がどれほどあるというのか。そんな外務事務次官のこれほど深刻な表情を纏は過去見たことがない。
それに次官が凝視しているあの書類は何なのだろう、一般業務の書類であれば、秘書である纏のところにまず回ってきて目を通すはずだが、ダイレクトに次官の手に渡っている所をみると、何かの極秘文書なのだろうか。そんな事を思いつつ、次官の方をチラチラ見ていた纏の視線にも気づかない次官はついには油汗をタラりと流したかと思うとデスクを拳で叩いて殴った。
「・・・・次官?」
「あ、いや、すまんな・・・・」
次官は両手で蟀谷を揉むようにしてデスクに肘を付き、黙ってしまった。しばらくの沈黙のあと、重たげに次官が口を開く。
「纏君・・・」
「は?・・・はい」
普段次官は纏のことを姓で読んでいる。突然下の名で呼ばれた纏は驚いて次官の顔をまじまじと見た。
「紗弓ちゃんと涼音ちゃんは、確か横浜鎮守府の配属だったな?」
二人の妹の名を出されて纏は何かを見透かされたのかと思い、顔を引きつらせた。
「・・・は・はい。そうですが・・・それが何か・・・?」
「そうか、これはまだ極秘の話なのだが・・・本来君に話すべき事ではないのだが・・・・」
次官はそれこそ苦虫を噛み潰すような顔をふせたまま続けた。
「八月の中旬頃だが、沖縄の遠洋偵察隊が大陸の天津港で大きな爆発を観測した。これは核爆発だと断定されている」
「え・・・核?」
「天津港は集積地棲姫が陣取って陸上型の深海棲艦が一帯を占領している地域だ。ここで核爆発が起こるなど、今までではありえなかった事だ。深海棲艦のフィールドがそれらの兵器をすべて無効化するからな。しかしこの爆発は有効で一帯の深海棲艦群は全滅したようだ」
「・・・全滅」
纏は突然の次官のする話にどこか現実感なく、ふわふわっとした感覚で聞いていた。一帯の深海棲艦が全滅。それは良いことなのでは?とさえ思っていた。
「二日前だ」
そういった次官は一呼吸おいて続ける
「二日前この破壊された天津港に大規模な艦隊が出現して出航準備をしている様子が偵察部隊から報告された。おそらく川伝いに運び込まれた物と推測されている。市ヶ谷は沖縄から提供された資料を基に、これらは大陸の人民解放軍の艦隊だと断定した」
纏には次官の言っていることがどんな事態なのかまだ理解できないでいた。
「この艦隊は艦娘の艦隊ではなく、通常の艦艇から成るものだ。知っていると思うが、通常艦艇は深海棲艦には無力だが、対通常艦艇と艦娘に対しては有効な兵器だ」
「あ・・・・」
「大陸の連中は何らかの方法で核爆発を起こし、一帯の深海棲艦をせん滅した後、海域進出を始めている」
そう言った次官は蒼白になった顔をあげて続けた。
「大陸の海域侵攻が始まってしまった」
「・・・それって、大陸と戦争になるってことですか?」
「今、河野大臣が大陸側にこの行動の意図を確認中だ。私も今から大陸の大使館に向かう。」
次官は緩めていたタイをギュッと占めなおす。纏も慌てて準備をはじめた。窓の外は先ほどまで晴れていたのが嘘のようにどんよりとした雲に覆われて、雨が降り始めていた。
「纏君、市ヶ谷では艦娘の佐世保、沖縄の集中配備を決めたようだ。あの子たちにも前線配備がありうる」
外務省の玄関を抜ける所で次官が纏の方を見ないで言った。
「次官、でも通常艦艇に艦娘は戦えるのですか?」
「何とか互角くらいには戦えるものと考えられているが、いかんせん海上自衛隊も先の深海棲艦殲滅作戦失敗の時に大半の艦艇を失っている。まだ再建もうまく進んでいない状態だ。沖縄の米軍も空母ドナルドトランプと潜水艦が二隻が残っているだけだ」
「空母があるなら」
「私も軍事には詳しくないが、この戦力ではたぶん空母打撃群としては全く機能しないだろう。戦争になれば頼みの綱は艦娘ということになる。」
車に乗り込み運転手に行き先を告げる。10分程の道中、纏は事の重大さをじわじわと感じ始めていた。
はっと思い立って纏がバッグから携帯電話を出したところで次官がそれを制止する。
「これ以上機密を漏らすわけにはいかない。警告のみにするんだ。詳しいことは話すな。いいな?」
纏は頷いてスマホのアドレスから紗弓の番号を呼び出した。
呼び出し音は鳴っているが出ない。留守電にも切り替わらない。
『あの子はいつもこういうところが抜けている』と纏は思う。馬鹿でも愚かでもないあの子だけど、どこかタイミングが悪い様なところがあるのだ。纏は諦めて電話を切り、涼音の番号を呼び出した。
果たして、数回の呼び出しで電話がつながった。
「涼音?すずね良かった。出てくれた。沙弓にも電話したんだけど出なくて」
「どうしたんでぇ、マト姉。鎮守府内はあんまり電話使いたくねぇんだけど・・・」
「涼音!沙弓と一緒に今すぐ退役して帰ってきなさい!」
電話の向こうでしばらくの沈黙があった。聊か唐突すぎたかと纏は思ったが、事情を説明できない以上、他にどう言えばよかったのだろう。そうこうしているうちに車が大使館前に付けられた。
「とにかくいいわね?涼音、お姉ちゃんの言うこときくのよ?また電話するからね!」
それだけ言うと纏は電話を切って山重次官に続いて大使館の玄関口に向かった。