「そういえばさ、蘭って篠原くんのこと下の名前で呼んだことあるの?」
「……えっ? 急に何?」
ひまりの唐突すぎるその質問に、あたしは手に持っていたポテトを落としそうになった。
「ほら、篠原くんと蘭ってさ、知り合ってからもうそれなりに時間経つでしょ?」
「まあ、そうだけど……」
「だから、名前で呼ばないのかなーって」
全然意味が分からない。
「それとこれとは別でしょ」
「でも、名前で呼んでみたくない?」
「呼んでみたくない。全然呼んでみたくない」
ほんとは、呼んでみたいけど。それを今言ってしまったら、まずいことになるのは目に見えてる。
「ええ〜。ほんとに〜?」
モカも横槍を入れてきた。何だか、こういうパターンがもう定番になってきてしまっているような。でも、何度もなっているからこそ、回避する方法も分かってきた。あたしだってそんなにバカじゃない。
「ほんとだって」
あたしはそれだけ言って、またポテトをつまみ始めた。あたしが余計なことを言って、自爆してしまうことが多いから。
「でもでも〜、蘭この前さ〜、携帯の画面見つめながら〜、篠原くんの名前呼んでたよね〜」
「モカぁ!」
余計なことは言わなかったけど、余計な行動をしていたあたしは、色んな意味で恥をかくハメになった。
***
それからというもの、あたしは啓介、じゃなくて篠原のことを意識してしまって仕方ない。
いやいつも意識はしてるんだけど。そういうことではなくて、彼の名前。
篠原啓介。あの時ひまりが言ってきたように、あたしは1度も彼を名前で呼んだことがない。別に無理にするようなことではないし、いつか名前で呼び合うようになればいいな、くらいの気持ちでいたのだ。
でも、まあ、確かに。ひまりの言うように、あたし達はもう知り合ってそれなりの時間が経つのだから、そうなってもいいのではないか。うん、そうだ。何もおかしなことはない。そうしよう。
「美竹さん、続き読んでくれる?」
「はい」
先生のその声であたしはその思考を1度止めた。今日は部活があるし、その時に篠原に提案してみよう。
***
「失礼します」
そう言ってから部室に入ったが、案の定、中には誰もいなかった。今日、2年生の先輩達は何か学年全体で、集会のようなものがあるらしく、部活にこれないと言っていた。部長はもともと、必要な時にしか顔を出さないので、今日も来ない。来るのはおそらく次の部活の時だろう。
よって。今日は篠原と二人きりだ。この絶好のチャンスを活かさないなんてありえない。なんだか変なテンションになっているのは自覚しているが、こういう時は勢いがあったほうがいいことは分かっている。
直接言うよりもLINEで言う、もしくは通話している時に言った方がいいのでは、と思わないでもないが、なるべく早いうちに聞くほうがいい。それに、もしLINEで聞くとすると、返信を待つ時間の緊張がものすごいことになる自信があるので、やはり直接言ってみよう。
「失礼します」
あたしが結論を出してからあまり時間が経たないうちに、篠原も部室に来た。
「ああ、そういえば今日は先輩達いないんだったね」
篠原はそう言ってあたしの隣に座った。
「うん、だね」
それから篠原はリュックの中からプリントを取り出した。あれは、世界史の授業で出されていた課題だ。
実を言うと、部活の時に篠原と二人きりになるのは今回が初めてではない。今までも何度かあったのだ。その時も今のように、各々が好きなように時間を使った。その事に対する気まずさはなかったし、むしろ心地よかった。でも、今日は言わなければならないことがある。
よし、言うぞ。
「ね、ねえ篠原」
「んー?」
「その課題っていつまでだっけ?」
違う。何を言ってるんだあたしは。そんなことが聞きたいわけじゃない。いや確かに大事なことではあるけれども。
「次の授業までだから、木曜までかな」
「わかった。ありがと」
だから違う。そうじゃないんだよあたし。
***
結局言い出せないまま、部活も終わりに差し掛かっていた。このままではダメだ。何としても今、この時間の中で言いたい。隣に座る篠原を見る。篠原は今は課題をやめて、本を読んでいる。
よし。今度こそ言おう。
「篠原」
「どうしたの?」
「あたし達ってさ、もう知り合ってけっこう経つよね」
「ああ、確かにそうだね。なんやかんや言って、もうそれなりだね」
「だ、だからさ」
あたしは1度大きく息を吸った。
「そ、そろそろ名前で呼んでみない?」
篠原は驚いたような表情をしたが、すぐにいつもの優しい顔に戻った。
「うん、いいよ」
やった。
「えっと、それじゃあどうしよっか。僕から呼ぶ?」
「うん、お願いします」
「蘭ちゃん」
「〜っ!」
あたしはもっと、こう、ゆっくり言ってくれるものだと思っていたのだが、しれっとさらっと言われてしまった。それもまさかのちゃん付け。
でも。でも、めちゃくちゃ嬉しい。顔が緩んで仕方ない。
「蘭ちゃん、大丈夫?」
「う、うん! 大丈夫!」
まずい。まともに喋れない。顔も見れない。次はあたしの番だって言うのに、このままではいけない。
あたしはいったん落ち着いて深呼吸した。
「啓介」
呼んだ。呼んだけれど、篠原、いや啓介は特に驚いた様子もなく、嬉しそうに笑うだけだった。ああもう。恥をかくのはいつもあたしだけだ。
「蘭ちゃん、ほんとに大丈夫?」
ああダメだ。名前を呼ばれる度に頬が緩んでしまう。これではまともに会話すら出来ない。
「や、やっぱり名前で呼ぶのやめよっ」
「ええー」
篠原からは非難の声が上がったが、そんなものは聞き入れてやらない。このままではあたしの心臓が持たない。
「ダメなものはダメ!」
「ううん、まあ、わかったよ」
よし、これであたしの心臓は守られた。
「そろそろいい時間だし、今日はお開きにしよっか、美竹さん」
ああ、でも。ちょっと寂しい気がしないでもない。だから。
「た、たまにならいいよ……」
「え?」
「だ、だから、たまになら呼んでいいよ!」
篠原は、また嬉しそうな表情をした。
「わかった。改めてよろしくね、蘭ちゃん」
「たまにって言ったじゃん!」