四月ももう終わりが近付いてきたけれど、僕と美竹さんの関係は英語の授業で一言二言話すだけという、相変わらずのものだった。
何か変化があったとすれば、たまに美竹さんから話しかけてくれるようになったことくらいか。そういうときは、ちょっと嬉しかったりもする。
それはともかくとして、昨日数学の課題が出ていたことを寝る前に思い出したせいで寝不足な僕は、寝惚け眼をこすりながら、通学路を歩いていた。
今は動いているから幾分かマシだが、授業中は寝てしまいそうだ。というか絶対寝る。美竹さんも授業中寝ていることが多いから、一緒のタイミングで寝てしまうのはなるべく避けたい。もしそんなことになったら、確実にいじられるだろうし、美竹さんだってそんなことになるのは嫌なはずだ。
そうこうしているうちに、学校が目に映り始め、ぼちぼちと他の生徒の姿も見えてきた。誰か知ってる人いないかな、と辺りを見回して知り合いを探すと、今はもう見慣れた赤メッシュが入った黒髪が見えた。美竹さんはこちらに気付いていないようだったが、それよりも何も、僕は美竹さんが誰かと一緒に登校していることに驚きを隠せなかった。
こんなことを言ってしまうと、かなり失礼だけど、僕は美竹さんには友達はいないと思っていた。でもそれはクラス内での美竹さんを見て感じた僕が抱いたイメージに過ぎず、美竹さんには美竹さんの人間関係があって、それは僕の知らないところにあった。心の中で美竹さんに謝る。
──でもまあ、なんて言うか。
結構派手な人達なんだな、とは思った。長身の赤髪の人に、銀髪の人。茶髪の人は確か生徒会の人だったと思うけれど、名前は思い出せない。ピンク髪の人はテニスコートで見たことあるような、ないような。
兎にも角にも、クラスの外での美竹さんの姿を目撃した僕は、美竹さんに対して勝手なイメージを持っていたことに軽く罪悪感を感じながら、学校への残り僅かな道のりを歩いた。
*
「数学の課題、後ろから集めて来てください」
はいきた。朝のSHRでさえ寝そうになっていた僕の意識は、数学の教科係のその声で一気に覚醒した。僕はこの数分間のためにわざわざ徹夜したのだ。さあさあどこからでもかかってこい僕は逃げも隠れもしな──。
「ね、ねえ」
一瞬変な方向に飛びかけた僕の思考は、美竹さんの声で何とか軌道修正することが出来た。
「どうしたの?」
美竹さんは焦ったような表情を浮かべていた。
「数学の課題なんてあった?」
ああなるほど、どうやら美竹さんも僕と同じで、課題の存在が頭から抜け落ちていたらしい。
「うん、あったよ」
僕のその言葉に、美竹さんの顔がいよいよ絶望の色に染まる。僕が言うのも何だが、課題を一度忘れたくらいでそこまでなるものなのだろうか。もしかすると、美竹さんは勉強があまり得意ではなくて、提出物を出さないと成績がやばいのかも。このまま課題を出してしまうのが、自分のためにはいいんだろうけど、でも、あんな顔をしている美竹さんを放っておくことは出来なかった。
「美竹さん、僕の写す? ちょっと字汚いけど」
「え、でも……」
「僕は放課後までに出せればいいからさ」
「……分かった。ありがと」
「いえいえ」
僕の課題を回収しに来た人に、後で出すことを告げてから、美竹さんに渡す。
あとは美竹さんが終わるのを待つだけだが、結構な量があったし、それなりに時間がかかると思う。僕もひとまずは、今日の授業を寝ないで乗り越えなければ。
*
そんな決意も虚しく、一時間目から思い切り寝てしまった僕は、先生から度々注意を受けながら、なんとか昼休みに辿り着いた。
正直言ってまだ眠い。これは午後からも爆睡コースかなあと憂鬱になっていると、カイが声をかけてきた。
「今日は随分眠そうだなあケイ」
「ああ、昨日徹夜しちゃって」
「へえ、珍しいじゃん。何で?」
「数学の課題寝る前に思い出したんだよ……」
「うわー、それは災難」
苦笑するカイにつられて、僕も笑ってしまいたくなる。
「飲み物買い行こうぜ。コーヒーでも奢ってやんよ」
「ありがとうございます……」
カイの優しさに感謝しつつ、まだ眠気が残る体を動かす。軽く伸びをしながら、隣を横目で見る。そこには美竹さんの姿はなかった。美竹さんが昼休みにどうしているのかは、今までは謎だったけれど、今はおおよその検討がつく。きっとあの人たちと一緒にいるのだろう。
「ケイ、早く行こうぜ」
「ああ、悪い」
*
カフェインパワーもあってか、午後の授業をあまり寝ずに済んだ──それでも寝てしまったときはあったが──僕は、一度トイレに行ってから、教室に戻ってきた。放課後の教室には部活の準備を始めている人や、帰る準備をしている人がいて、僕はその人たちを横目に見ながら、自分の席に向かった。
美竹さんが課題が終わったのか、机の上に僕のノートと、自分のを広げたまま一息ついていた。
「美竹さん、課題終わった?」
「あ、篠原。うん、ちょうど今終わった」
「よかった。ごめんね、汚い字で。大変だったでしょ?」
「そんなことない」
僕は気圧されてしまった。とにかく、課題を返してもらおう。
「それじゃあ、美竹さん」
手を出して課題を返してほしいとジェスチャーをする。
「あ、いや、いいよ。あたしが一緒に出してくるから」
なんと。まさか、そこまで考えてくれていたとは。美竹さん、律儀なんだな。でも、流石にそこまでしてもらうわけにはいかない。
「美竹さん、僕自分で出すから、大丈夫だよ」
「でも、篠原が出すの遅れたのはあたしのせいだし……」
「それなら課題を見せた僕だって同じだよ」
いやいや、いえいえと互いに譲らないでいると、しびれを切らした美竹さんがじゃあ、と一際大きな声を上げた。
「い、一緒に行こ」
「え?」
「だ、だから、一緒に行こうって言ったの!」
美竹さんはそう言って、赤くなった顔を隠すように俯いてしまった。
──めっちゃ可愛いかよ。
*
「……」
「……」
というわけで、二人で廊下を歩いてるわけだけど、結構気まずいことになっている。部活をやってる生徒の声がなかったらもっと大変だった。もしかしたら僕だけかもしれないが、それでもこの空気は耐え難かった。だから、今日の朝、疑問に感じたことを聞いてみることにした。
「ねえ、美竹さんってさ、勉強あんまり得意じゃないの?」
「……なに、悪い?」
まずい。ストレートすぎた。気を悪くさせてしまったかもしれない。
「いやいや、そういうわけじゃないよ。僕だってあんまり出来ないし」
「今日もずっと寝てたもんね」
「うっ、それは……」
何とか間を持たせることに成功し、職員室に到着した。僕が先に中に入って、数学の先生のところに行く。
「先生。すみません、遅れました」
「おう、篠原に美竹か。次は気をつけろよ」
「はい、すみません」
幸い、何かを言われることもなく、無事に提出することが出来た。職員室から出て、ほっと胸をなでおろす。
「良かったね、何も言われなくて」
「うん」
取り留めのない世間話をしながら、教室に戻る。最近は雨が多くて嫌だね、とか、嫌いな教科は何だ、とか。二階の教室につくと、もう中には誰もいなかった。僕が教室に入ろうとすると、後ろにいた美竹さんが声をかけてきた。
「ねえ、篠原」
「ん?」
「今日はありがと」
「いやいや、僕は別に……」
大したことはしてない、という言葉は美竹さんの声に遮られた。
「それでも、ありがとう」
僕は、初めて見る美竹さんの笑顔に固まってしまった。夕日に照らされたそれが、あまりにも綺麗だったから。
絵になるっていうのは、こういうことを言うんだな、と頭の片隅で冷静に考えている自分がいる。
「篠原?」
「えっ、ああ、大丈夫」
美竹さんのその声で、はっと我に返る。
「そ。ならいいけど」
教室の入口で固まる僕を置いて、美竹さんはぱぱっと帰り支度を済ませてしまったようで、もうリュックを背負っていた。
「じゃあ篠原、また明日ね」
「ああ、うん。またね」
また、明日。何の意味もない、ただの別れの挨拶だと言うことは分かっている。それでも、美竹さんがその事を言ってくれたことに、何故だか分からないけれど、僕は喜びを隠せなかった。