土曜日の夜。僕は自分の部屋でのんびり映画を鑑賞していた。クモに噛まれて超人的なパワーを手に入れた少年の話、というヒーローものなのだけれど、これがなかなか面白い。アクションシーンはさることながら、ストーリーも最高。主人公がヒーローに成長する姿がいい。最後のシーンが終わり、ついにエンドロールが流れ始めた。いやあいい映画だったなあと余韻に浸っていると、テレビの横に置いていたスマホが震えた。手に取って画面を見てみると、カイから電話がかかってきていた。
「もしもし」
「もしもしケイ? 今何してた?」
「映画見てた」
「ほう、随分余裕だな」
余裕といわれても、来週は特段何もなかったはずだ。
「余裕って何がさ。来週は何もないだろ?」
「ああ、そっか。お前寝てたもんな。そりゃあ知らないわけだ」
「……?」
「月曜日、数学のテストだぜ?」
「……え?」
──え?
*
ちくしょうあの教師。僕が徹夜疲れで寝ている隙にサラッと小テストの告知をしていたらしい。この前僕が徹夜してやった課題がテスト範囲になるようだ。たかが小テスト、されどテスト。数学が苦手な僕にとってはこういう小テストで如何に点数を稼ぐかが重要になってくる。
これは先輩から聞いた話だが、小テストで頑張って点を取っておけば、定期テストであまり点が取れなくても成績はあまり悪くならないし、その分他の教科に勉強時間を回せる。らしい。もちろん全ての学年に当てはまるわけではないだろうが、いい点を取るに越したことはない。
だから僕は本来あった日曜日の予定を急遽変更し、勉強することにした。別に家でしてもよかったのだが、たまには違う場所でやってみようと思い、僕は商店街に来ていた。いい店か何かないかな、と足を進めていると、一件の喫茶店が僕の目に留まった。
──羽沢珈琲店。
よし、ここにしよう。
僕は扉を開けて、ドアベルの音と一緒に店に入る。軽く見渡すと、店内は比較的空いていて、勉強しても問題は無さそうだった。
「いらっしゃいませ、おひとり様ですか?」
「……!」
僕の方にやってきた店員さんの顔を見て感じた僕は思わず硬直してしまった。今僕の目の前にいるこの人は、あの時、美竹さんと一緒にいたあの茶髪の人だった。
「お客様?」
「えっ、ああすみません。一人です」
「では、お好きな席へどうぞ」
僕は店員さんのその言葉を聞いて、カウンター席の隅の方に少しだけ早足で移動した。
「ご注文が決まりましたら、声をおかけください」
店員さんはそう言って、店の奥の方に消えていった。僕は店員さんが完全に見えなくなってから、ほっと息を吐いた。
というか、よくよく考えてみれば、焦る必要はどこにもない。確かに僕はあの店員さんを知っているけれど、それは僕が一方的に知っているというだけで、別に休みの日に鉢合わせたからって気まずくなるような関係でもないし、向こうからしてみれば僕はただの客でしかない。だから別に変に気を遣うこともない。
もう一度深く呼吸をして、気持ちを切り替える。よし、勉強しよう。
*
ペンを動かしていた手を止めてイヤホンを外し、携帯で時間を確認する。僕が勉強をし始めて、一時間ほど経っていた。
ちょっと休憩しよう。僕は注文したコーヒーとケーキーを頂く。うん、美味しい。
改めて店内を見ると、他のお客さんも増え始めていた。流石にお昼頃に勉強のために居座るのは迷惑だろうし、それくらいの時間になったら退散しようかな。
ケーキを食べ終え、勉強を再開しようとしたところで、ドアベルの音が店内に響いた。僕はその音を気にせず、またイヤホンをはめて音楽を流そうとする。どの曲にしようかと、画面をスクロールする。よしこれだ、と決め、再生しようとしたところで、店員さんの声が僕の耳に入った。
「あ、いらっしゃい蘭ちゃん」
──ん? 蘭ちゃん?
僕はその声に反応して、思わずドアの方を振り向いてしまった。そしてすぐに振り向かなければよかったと思った。そこには案の定、反骨の赤メッシュ、美竹さんがいた。いつもの制服とは違うストリートファッションな美竹さんはまだ僕には気付いていないようだ。今僕の頭の中にある選択肢は二つ。このままバレないようにやり過ごすか、それともタイミングを伺って帰るか。ベストは後者だけど、まだ僕が会計を済ませていないこともあり、それはなかなかリスキーだ。さあどうする僕。さあさあどうする。さあ──。
「……あ、篠原」
普通にバレました。
*
ああ気まずい。できる限り休日に知り合いと会いたくないタイプの僕は、当初予定していたお昼よりも早く、この店から帰りたくなっていた。それは店が悪いのではなく、何故か僕の隣に座っている美竹さんに、原因がある、わけでもないけど、とにかく帰りたい。僕の隣の美竹さんは、学校にいる時と同じように、何も話さずに、さっき注文していたコーヒーがくるのを待っているようだった。
僕の方はというと、当然勉強なんて出来るはずもなく、ただノートと教科書を広げているだけの状態だった。隣に美竹さんがいる以上、イヤホンをするのも悪いような気がするし、どうしたものか。僕が一人考えていると、美竹さんが声をかけてきた。
「ねえ篠原」
まさか声をかけられると思っていなかった僕は、少しビクッとしてしまった。恥ずかしい。
「な、何?」
けれど美竹さんは、そんな僕なんてお構いなしに言葉を続けた。
「ここにはよく来るの?」
「いや、今日が初めて」
「そっか」
そう言うと美竹さんは視線を僕から下にやり、手元の物をじっと見つめた。
「それ、何聞いてたの?」
「えと、ゲームミュージック」
「へえ。ロックとかは聞く?」
「いや、あんまりかな」
「ふーん」
美竹さんはまた話題を変えてきた。
「勉強しにきたの?」
「うん、テスト勉強」
美竹さんは怪訝そうに首を傾げた。どうでもいいけどその仕草可愛いですね。
「……テストなんてまだ先じゃない?」
どうやら美竹さんも小テストの存在を知らなかったようだ。これは教えてあげた方がいいだろう。
「明日、数学のテストあるんだって」
「何それ」
「うん。僕も昨日知った。授業中に言ってたらしいよ。僕が寝てた時」
僕がそう言うと、美竹さんは明後日の方向を見つめて、あー、と思い出したかのように呟いた。
「そういえば、言ってたような気がする」
「やっぱりか」
それから美竹さんは何か考えているような仕草をして、また僕に言った。
「篠原、まだここにはいる?」
「うん、一応、お昼くらいまではいるつもりだけど」
「そっか、ならよかった」
何がいいのだろう。
「私に勉強教えてよ、篠原」
*
美竹さんのその、突拍子もない提案があってすぐに、美竹さんは勉強道具を取りに戻った。
どうしてこんなことになったんだ。超美人なクラスメイトと、休日に喫茶店で一緒に勉強。字面だけ見ればワクワクドキドキなものだが、僕の心臓は別の意味でドキドキしていた。
そもそもの話、僕は数学が大の苦手なのだ。生物とかはまだ何とかなるのだけれど、数学はどうしてもダメだった。数学に関しては誰にも勝てない自信がある。そんな僕が美竹さんに何を教えられようか。美竹さんの方が絶対出来るって。いっそのことこのまま帰っちゃダメかな、なんて最低なことを考えいるうちに、カランカランという音とともに、トートバッグを肩に掛けた美竹さんが、戻ってきた。ああ来てしまった。美竹さんはなんの躊躇もなく僕の隣に座った。美竹さんはバックから勉強道具を取り出して、テーブルの上に広げた。
「テスト範囲ってどこ?」
「この前の課題のとこだよ」
ありがと、と返事をした美竹さんは早速ノートに向き合って、手を動かし始めた。僕もしなければ。しかし手は全く動かない。それを不思議に思ったのか、美竹さんが僕に疑問を投げかけてきた。
「勉強しないの?」
「ああ、いや大丈夫。するする」
「……篠原、もしかしてあたし、邪魔になってる?」
表情を不安そうなものに一変させた美竹さんの口から、そんな言葉がでた。何をやってるんだ僕は。美竹さんの言葉で僕は冷静になった。
「まさかとんでもない。そんなことないって」
「なら、いいけど」
これ以上美竹さんに変に気を遣わせてしまわないよう、僕もペンを握って、教科書と向き合い始めた。
テスト範囲である課題を徹夜で終わらせたせいで、僕はどんな問題があったのか全く覚えていなかった。とりあえず一から問題を解いて、そこからやるところを絞ろう。僕も美竹さんに倣って手を動かし始める。
僕たちはしばらく無言で勉強していたが、美竹さんが僕の方を見て言った。
「篠原、ここなんだけどさ」
ああ来てしまったこの時が。
落ち着きはしたものの、美竹さんに数学を教えなければいけないという事態は変わっていないのだった。でもこれで僕数学出来ないんだごめんね、なんて言えるわけもない。ああもう。こうなったら、やれるだけやってやる。
*
昼になったら帰るつもりだったのに、結局夕方まで居座ってしまった。一度は帰宅を試みたが、美竹さんの「えっ帰るの?」みたいな目と、さらにあの店員さん──羽沢つぐみさんというらしい──からまだいても大丈夫ですよと言われたことで、その選択肢は無くなった。
肝心の勉強は、僕の持っているそう多くない知識を総動員して、美竹さんになんとか数学を教えることに成功した。教え方下手だなコイツとか思われてないといいけど。ちなみに、美竹さんはもう少し残っていくらしい。
僕は帰り道を歩きながら、今日一日を振り返ってため息をつきたくなった。でも、確かに緊張はしたものの、嫌な気持ちにはならなかった。
家が見えてきたところで、そういえば、とふと思った。何だが今日の美竹さん、いつもよりテンション高かったような。
***
「そこまで」
テスト監督の先生のその指示で、僕は持っていたペンを置いた。
昨日の勉強の甲斐あってか──テストが簡単だったのもあるが──僕にしては珍しく、それなりに手応えを感じていた。結果もおそらくそれなりだろう。1番後ろの席の人が僕のテストを回収していくのを尻目に、僕は小さく伸びをした。美竹さんはいつもと変わらず、窓の外を眺めていた。
*
それからちょっと時間が経って、昼休み。前の時間が自習で、早々に自習課題を片付けた僕は、テストの疲れもあり、真面目に勉強することもせずに寝ることを選んだ。そのせいでまだぼうっとしていたのだけれど、缶のアイスココアが机の上に置かれたことによって、僕は目を覚ました。
視線を上げると、そこには美竹さんの姿が。どうしたのだろう。
「これ、昨日のお礼だから」
「?」
昨日はお礼を言われるようなことはしていないはず。
「ほら、勉強教えてくれたじゃん」
なんと。でも、あんな至らぬ教え方でお礼を貰うのは気が引けた。
「お礼なんてそんな。気にしないでいいよ」
「篠原は良くても、あたしの気が済まないの。だから、ほら」
そう言われて差し出されてしまえば、受け取らないわけにはいかなかった。
「ありがとう。美竹さん、律儀なんだね」
「べ、別に、そんなんじゃないから。 ただ無理に引き留めて、何もしないのは悪いって、思っただけだから。」
「やっぱり律儀じゃん」
僕の言葉で、自分が自爆したことに気付いたのか、顔を真っ赤にして教室から出ていってしまった。その反応は可愛かったけれど、怒らせてしまったかも。後で謝ろう。
「あれ、ケイ、いつの間に買ってきたんだよそれ?」
「これ、貰ったんだよ。美竹さんに」
カイは大袈裟に声を出して驚いた。
「えっ!? マジで?」
「うん」
「何したんだよケイ!?」
「あー、まあ、いろいろあって」
流石に、昨日喫茶店で一緒に勉強してました、とは言えなかった。
「何だよいろいろって」
「いろいろはいろいろだよ」
カイはいやー、と感慨深そうな声を出した。
「ついにケイにもそういう時期が来たかー」
「いや、別にそういうのじゃ──」
「ようし、今日は俺も何か奢ってやるよ! 行こうぜ!」
僕の反論も虚しく、僕はカイに引き摺られて購買に連行されてしまった。
そして。決して言葉には出さないけれど、美竹さんと僕の距離は、初めて話したあの時よりも、縮まっているような気がした。