「あら、もうこんな時間だわ。お店もちょっと混んできたし、そろそろ出ましょうか?」
依頼主の女性が、腕時計を見てそう言った。
スマホで時間を確認すると、いつの間にかもう夕方近くになっている。
「じゃあわたくし、ちょっとお花を摘みに…」
「あ、私も行くわ」
「お会計はしておくわね。ゆっくりしてきて大丈夫よ」
「あ、すみません。じゃあ、後払いってことで、お願いします」
美兎と楓の二人が連れ立って席を立ってから、女性はレジで全員分の支払いを済ませた。
「先に、外に出て待ってましょうか? ちひろちゃん」
「うん」
会計を済ませると、女性とちひろの二人は、先に店の外に出た。
この店は、雑居ビルの間の裏路地にあるので、駅の近くでも案外静かだ。表通りの喧噪、車の行き交う音が遠く聞こえてくる。
しばらくの間、二人とも何も言わなかった。ただ黙って、遠くから聞こえてくる街の音色に耳をすませていた。
それは、ちひろには奇妙に長い時間のように感じられた。だが、楓も美兎もまだ出てこないのだから、実際には1分か2分しか経っていないはずだ。
それから、意を決して、ちひろは女性のほうを向いて、こう尋ねた。
「お姉さんは、どうしてそこまでして、動画のつぐちゃんをさがしてたの?」
「え?」
女性は意表を突かれたというような顔をして、ちひろを見た。
「だって、ちひろたちに、あんなに沢山お金を払ってたし…」
「ああ、そんな事、ちひろちゃんは気にしなくていいのよ」
「そう、なんだ」
「それがどうかしたの?」
「ううん。別に。ただ…」
ちひろは、ほんの少しだけ目を地面に落としてから、もう一度女性の方を向いた。
そして、言った。
「…お姉さんが、ホントのつぐちゃんだからかなって、思って」
女性は、ただ黙ってちひろを見つめていた。
少し驚いたような、けれど、穏やかな表情を崩さずに。
「…少し、歩きましょうか? まだ、楓ちゃんも美兎ちゃんも戻ってきてないけれど」
「うん」
二人は、ゆっくりと、駅の方角に向かって、歩き出した。
「ねえ、ちひろちゃんは、どうしてそんな風に思ったのかしら?」
「んとね。お姉さん、よく見たら、古い新聞にのってたつぐちゃんに似てるから。目の下の同じところに、ほくろあるでしょ? あかりちゃんは、ほくろはなかったよ」
女性は、左手で自分の目の下の小さな泣きぼくろに触れた。
種類や年齢にもよるが、ほくろが自然に消えることはあまりない。
「それだけ?」
「んーん。お姉さんは、ちひろが最初に人やものをさがす魔法を使ったの、おぼえてる?」
「ええ。確か、何も見つからなかったのよね」
最初にちひろがあの魔法を使った時、探す対象を示す矢印は、真下を指していた。
「ううん。ホントは、あの時にもう見つかってたんだと思う」
「え?」
「魔法のやじるしが下をむいてたのは、“さがしてる人がそこにいたから”だったんだよ。あの時は、そんなことぜんぜん気づかなかったんだけど」
「……」
「そのあとで、西おぎくぼでも同じ魔法をつかってみたんだけど、その時はやじるしもできなかったの。それで、何かへんだなーって思った」
ちひろはさらに自分で考えたという説明を付け加えた。
彼女の人やモノを探す魔法で人間を探す場合、対象者の名前と顔を知っていなければならない。
ちひろは当初、鳩羽つぐの名前と動画で見た顔を念じながら、魔法を唱えた。
ところが、既に目の前に鳩羽つぐ本人が居て、ちひろが無意識に彼女の顔を知っていたがために、魔法は目の前の人物を優先して探知し、結果として『ここに鳩羽つぐがいる』という結果を示した。
一方、西荻窪で魔法を使った時は、状況が違った。
動画内で“鳩羽つぐ”を演じていた女の子は、鳩羽つぐ本人ではなく、『雉尾あかり』という全くの別人であり、しかもちひろは彼女の名前を全く知らなかった。
それ故に、魔法は今回もまた、本物の鳩羽つぐを探索しようとした。しかしおそらく、女性はその時西荻窪から離れた場所にいて、魔法の探索範囲にはいなかった。
結果として、ちひろの魔法はあの時鳩羽つぐを探知できず、矢印を作れなかった─。
「あとは、さっきお金をあんなに沢山くれたから、やっぱりおかしいなって。いくらなかよしだったお友達のことでも、一人でそんなにお金を払ってまでしらべる人、そんなにいないと思うし」
「…」
「まちがってたら、ごめんなさい」
「…」
「でも、ホントのこと、きかせてほしかったから。もし、ちひろ達が何かお手伝いできることがあるなら、手伝わせてほしいから」
いつの間にか、二人は駅前まで歩いてきていた。
駅前に面した大通りは、大勢の人がアリのようにせわしなく行きかい、立ち止まっているのはちひろと女性の二人だけだった。
女性はちひろの一通りの説明を聞いても、否定も肯定もしなかった。
ただ、彼女たちの脇を無数にすり抜けていく人々の流れを見つめながら、何かを考えているように見えた。
「ちひろちゃんには、適わないわね」
女性は、ふうっと小さく息を吐いて、そして微かな声で呟いた。
「…でも、そうね…あなたには…」
ちひろは、女性の顔を見上げた。嬉しさと悲しさがない交ぜになったような、言い表しようのない表情がそこにあった。
そして、彼女は静かに語り始めた。
『…───────────、────前───』
『誘────────、──────────────────。──、望───────────────────』
『────、血──────、─────────────…────────────』
『───ト─────────、────────────────。────、───────────…─────沖────────────、──────船──────、─────、──────旅────────』
『────、───────。───、───────────、───撃─────────。』
『───────証────、─────────────────。─────────────────。───、─────国────、──────伝───────…』
『───────────。──、───────────────』
『好─────────、───────。───────、───────、優────…』
『“────”─死──、───“──”───遺─────』
『────────────、─────────亡───────。────、────────────。────────────────、──────────、せ───────。────、悲──────────…』
『───…。──────話─────。────、─────────選─────。──道────────。───、───、───捨────────…。────────、──正──────、分────…─────』
『ちひろちゃん、─────、──答────────?』
ちひろは、その話を黙って聞いていた。決して、その視線を女性から離すことなく。
女性から溢れ出た何かを、その小さな身体で受け止めるかのように。
そして、少し笑みを浮かべて、言った。
「…おねえさん、あのね。ちひろ、魔法少女なんて言われてるけど、ホントはそんなにすごくないんだ」
「モイラおねえちゃん、えるおねえちゃん、がっくん…ほかにも、すごいことができる人がいっぱい。ちひろ、ただのませがきだし、みんなのようには、何でもかいけつしたりできないし…」
「でも、ちひろ、笑顔の魔法少女だから。みんなを笑顔にするのだけは、少しだけとくいなんだよ」
ちひろは、魔法少女の姿へと変身した。
「だから、うけとって。ちひろの、笑顔の魔法」
持てる魔力の全てを込めて、ちひろは「ほんの少しだけ、人を幸せにする魔法」を、目の前の女性に掛けた。
それは、攻撃魔法を大量に覚える前に、一番最初に覚えた初歩のおまじない。アイスの当たりくじを引いたりするくらいにしか使えない、つまらない魔法。
それしか、今のちひろに出来ることは何もなかった。他に、目の前の女性の闇を救う魔法など、ちひろは持ち合わせていなかった。
それゆえに、彼女は心を込めて魔法をぶつけた。
呪文でなく、ありったけの勇気と元気を温めた、笑顔の魔法を。
女性が、悲しげな笑顔を浮かべるのを、ちひろは見た。
* * *
「あれ…? 二人ともおらんやん」
「え? 外じゃないんですか?」
楓と美兎の二人がトイレから出ると、ちひろと女性の姿は消えてしまっていた。
きょろきょろと二人を探していると、店主が「あの二人なら、もう駅のほうに歩いて行ったよ」と、彼女たちに告げた。
その言葉に、胸騒ぎを覚えたのは、何故なのだろう。
今となっては、ちひろが一人で誰といようと、何の問題もないことは分かり切っているはずだった。
たいていのトラブルは、彼女一人でなんだって解決できるだろう。何と言っても、彼女は魔法少女なのだ。
加えて、一緒にいるのは、あの穏やかで上品な依頼主の女性である。何も起きようはずがない。
それなのに、二人はなぜか、言いようのない不安を感じて、慌ててラインでちひろに呼びかけた。今どこにいるの、と。すぐ近くにいるはずなのに。
ちひろからの返事は、ほどなく返ってきた。駅前の広場に一人でいる。
「ちーちゃん、ちーちゃん?」
「ちーちゃん!」
二人が慌てて駅前の方まで走っていくと、ちひろは、駅の方を向いて、そこに一人で佇んでいた。
もう、あの依頼主の女性はどこにも居なかった。
「先に行ったりして、一体どうしたんですか、ちーちゃ…?」
二人の声を聞いて、ちひろが振り向く。
二人はちひろの顔を見て、どきりとした。少し赤くした目の端に、涙が浮かんでいたからだ。
泣くまいと、無理に平静さを保とうと頑張っているようだったが、もともと感情表現が豊かな彼女には、それは難しかったらしい。
すうっと一粒の涙が静かに零れて、ちひろの頬に涙の筋を作った。
何かを飲み込むようにきゅっと唇を結ぶと、彼女は服の袖で頬を拭って、それから黙って楓の腰に抱きついた。
「ど、どうしたん、ちーちゃん? なんで泣いてるん?」
「もしかして、あの方と何かあったんですか?」
「…んーん。ちがうよ、何でもないよ。けど…」
楓から離れると、ちひろは「魔法少女でも、むずかしいことってあるよね」と言って、いつものように屈託なく笑った。
「ちーちゃん…?」
「さ、お家かえろー、お姉ちゃんたち! おいしいおゆうはんもまってるし! アニメもやってるし! かざちゃんとゲームしなきゃだし!」
ちひろはそう言って笑うと、二人の先頭に立って、家路を歩き始めた。
「ちーちゃん…」
ちひろとあの女性との間に何かがあったのか。楓と美兎は、それ以上ちひろに問いかけることができなかった。
歩いていくちひろの小さな背中を暫く眺めて、それからようやく思い出したように、その背中を追いかけた。
* * *
『結局、あの方とは、あれから連絡が付きませんでしたね』
「うん…せやね」
数日後の夜、楓と美兎は電話越しに、あの依頼主の女性の事を話した。
二人とも、あの女性の電話番号に何度か電話を掛けてみたが、 『電波の届かない場所にいるか、電源が入っておりません』という無機質なアナウンスが流れるのみで、あの女性が出ることはついになかった。
以降、一切連絡は取れていない。
「結局、なんやったんやろね、あの女の人…。悪い人やなかったと思うんやけど…」
『さあ…私達が考えてもしょうがないんじゃないですかね』
「けど、気にならへんの? あんなちーちゃん、初めて見たやん」
『気にはなりますよ。でも、ちーちゃんが何も言わないなら、それでいいんです。わたくし達は、ちーちゃんに何か悩み事を相談されたら、その時一緒に考えてあげればいいんですから』
「そんなもんなんかな」
『そんなもんですよ。わたくし達、そんなにちーちゃんに信用されてないですか?』
「そんなこと、ないと思てるけど…」
『なら、大丈夫ですよ』
天使が通ったのか、しばらく会話が途切れた。
美兎はベッドの上に寝転がっているのだろう、時折ゴソゴソという衣擦れに似た音が聞こえてくる。楓も同じように、ベッドの上で右を向いたり左を向いたりしながら、何か他の話題がないかと思案した。
そうしているうちに、ふと、楓の脳裏にあの美しい天界の様子が思い出された。今日も、女神様は人間の運命の行方を見守っているのだろうか。
「…ねえ、美兎ちゃん。私たち、これからどうなるんやろね?」
『どうなるって、何がです?』
「ほら、ここ数週間、めっちゃ色々あったやん。魔法少女、エルフ、女神様、狐…それに、消えた女の子。ここまで来とったら、なんやもう普通の生活に戻れなさそうやん?」
『大げさですね、楓ちゃんは』
「私らも、ひょっとしたらもう普通の人間やなくなってるのかも」
まさか、と美兎は笑った。それから、諭すような少し優しい声色で、楓に語りかけた。
『大丈夫ですよ、楓ちゃん。わたくし達はわたくし達です。ちーちゃんだって、魔法少女になってもああなんですから、何も変わったりしませんよ。ま、仮に何か変わっても、ずっと私は楓ちゃんの友達ですからね! 安心してください』
「……」
『? 楓ちゃん? 何か言いました?』
「んーん。なんでもない。なんでもないよ」
ずるい。そう思って、楓はくすりと笑った。
肝心なところで、いつも彼女は自分を勇気付けてくれるのだった。普段は割とおちゃらけているくせに、学級委員長の仕事はしっかり完璧にこなしているし。
『そういえば、つぐちゃん…っていうか、あかりちゃんですけど、こないだ生放送もやってましたけど見ました? 方向性の変わりっぷりが凄いのとFPSがメチャメチャ強いのとで、すっごい盛り上がってます。“ところで何があった”とか“誰?”とかのネタコメで埋め尽くされてて面白いですよ』
「見た見た。私ゲームの事はあんまよう分からんけど、チャンネル登録者数もめっちゃ上がってるよね」
『凄いですよねー。あっ、わたくしも何かやろうかな? イケてませんか? どうですか? ね、楓ちゃんも一緒に何かやりましょうよ!』
「…私はともかく、美兎ちゃんならなんでもアリやと思うで」
二人の会話は、その後も夜遅くまで弾んだ。
どんな動画を作ろうか。生放送するなら何をやろうか─。
* * *
『それでは、今日のお天気を見ていきましょう。お天気キャスターのウェザーロイド・アイリさん、お願いします』
『はい。今日は、全国的に晴れるところが多いでしょう。気温が上がり、日差しが強くなりますので、熱中症対策はしっかりと行ってください。それでは、各地のお天気を順番に見ていきましょう…』
今日もまた、清々しい朝とともに一日が始まる。
「それじゃあ、行ってきまーす!」
「気をつけてね、ちひろ」
「はーい!」
また、普通の日常が始まろうとしている。
少しずつ夏が近づいてきた街は、日光の下に照らされて、かつての暗闇など忘れたかのように、底抜けに明るかった。
「美兎ちゃん、おはよー」
「あ、楓ちゃん。おはようございます」
「楓おねーちゃん、美兎おねーちゃん、おはよう!」
「おっ、ちーちゃんもおはよう! ちーちゃんは今日も元気やなー」
「うん! なにしろちひろ、笑顔の魔法少女ってやつなので!」
家の近くの通学路に集まった三人は、今日もまた、それぞれの学校に向かって歩いていった。
過去に溶けて消えたはずの少女の面影は、今も街の─あるいは、人々の心のどこかに、眠っているのだろう。
日差しに照らされた人々の心の中に、それがやがて目覚めると信じて、三人は今日も前に進んだ。
女神の手のひらに、赤い糸が乗っている。
かつて千切れそうな暗い色をしていたそれは、今はもう、元の鮮やかな紅葉色に戻っていた。
女神は暖かな微笑みを浮かべ、それを祝福した。女神のこいぬに、祝福あれ、と。
『…それでは、次のニュースです。40年前に東京の西荻窪で起きた、女児行方不明事件に、新たな展開です。この事件は、40年前の─』
おわり