「はあ…はあ…はあ…」
「いやー、さすが美兎ちゃん。おもろいもん見してもろたわ。くくく…」
「ううう…わたくし、汚されたんですね…もうお嫁に行けませんよ…」
「お嫁て、んな大げさな」
何とか変態のムカデ人間軍団とガスマスクを消し、ようやく希望のウサギ耳を装備した美兎は、既に疲弊しきってテーブルに突っ伏していた。
漫画であれば、瞳のハイライトが消えているところだろう。
「いいえ。これは重要な問題です。わたくしが行き遅れたら楓ちゃんが貰ってくださいよ。責任取ってもらいますからね」
「…な、何言うてんの自分、意味不明すぎやろ…」
面を上げて楓の手を握りしめ、顔を赤らめ熱っぽく瞳をうるませながら、訳の分からない事を言う美兎。
そして、そんな風に美兎に迫られ、得体の知れない感情が湧き上がり、思わず目を逸してしまう楓。
『尊いのだわ…』
「え、え? 何か言いました?」
『こほん。なんでもないのだわ。そろそろ、女神もお話に加わって良いかしら?』
「あ、ああっ。何か、すんません。こっちばかり喋ってもーて」
楓と美兎の二人は、居住まいを正して、モイラに向かい合った。
『ちーちゃん以外とは、はじめましてになるのかしら。私はモイラ。この天界で、運命を司る女神のお仕事をしているのだわ』
「運命を…」
「司る、女神…」
と、モイラの言葉を反芻しているかに見えた楓と美兎であったが、実際のところ、二人は彼女の別のところに目を奪われていた。
彼女のどこが、と明言するのはいささか憚られる。しかし、あまりにも存在感のある“それ”は、モイラの顔のすぐ下で、絶大な質量をアピールしていた。
自らのそれに、無意識に手が伸びる。ハリ、艶、形…。自信過剰を承知で言えば、自分だって決して人後に落ちるものではないと二人とも自負していた。
しかし。目の前のこれは、もはやそのような次元のものではなかった。
あたかも、大祖国戦争で凍えきったドイツ軍に、津波のごとく襲いかかるソ連軍。いや、これはもはや、テルモピュライの戦いにおいて、数百倍の戦力でもってギリシャ軍に相対したペルシャ軍と言うべきだろうか。
暴力的なまでに圧倒的な物量が、下品と見なされない限界点まで、ほとんど惜しげもなく、怒涛の如き慈愛と寛容を以って披瀝されている。
そして、その一点に差すホクロを見る全ての者は、その美と輝きの持ち主に対して、深く思いを馳せずには居られない。
まさに、美と芸術の至宝──はっきり言って、勝ち目はないに等しかった。
(…デカッ…!)
(は…発想のスケールで…ま、負けた…!)
せっかく正した居住まいが崩れて、また別の意味で悶えてしまう二人であった。
『あ、あの…何か、全然違うところに話が進んでいるような気がするのだけれど…女神の気のせいよね?』
「モイラおねーちゃん、おっぱい大きいもんね。わたしも大きくなったらモイラおねーちゃんみたいになれるかなあ?」
「ああっ! せっかくわたくし達が遠慮してるのにこれだから子供は!」
「ちーちゃんは十分かわええから、そのまんまでもええんやで…」
『あ、あのー…』
…仕切り直して。
「おほん。わたくしは、ちーちゃんのお友達をさせていただいてる、月ノ美兎と申します」
「同じく、樋口楓です。よろしくお願いします」
『よろしくね。あなた達のことは、たまにちーちゃんから聞いていたのだわ。ちーちゃんといつも仲良くしてくれてありがとう』
「とんでもないです。なんか、私達も知らん間に色々助けてもろてたみたいで…」
「んふふー。もっとちひろをほめてほめて! ドヤァ!」
胸を張るちひろを見て、三人の間に自然と笑みが浮かぶ。
「あ、ところでその、全然関係ない質問なんですけど…さっきモイラ様は、運命を司ってると仰ってましたよね。運命というのは、普通によく言う、あの運命のことですか?」と、楓が挙手して尋ねた。
『そうね。命を運ぶと書いて、運命。地上に住むこいぬ達…つまり、人間達の運命を、女神は管理しているのだわ』
「そう、なんですか…」そう言って、楓は視線をテーブルに落とした。
そうして、もう一度視線をモイラに向ける。
「じゃあ、人間の運命って、やっぱりあるんですか?」
『そうね…。女神は、運命という概念そのものが形を成したものと言ってもいいのだわ。だから、あるという答えが正しいわね』
「そんなら、人間ってやっぱり、決まった道を歩いてるだけなんですか…?」と、楓は身を乗り出した。
『ああ…ふふ。なるほど、楓ちゃんは、その事が気になったのね』と、モイラは笑み、そして、手のひらを上にして、三人の前に差し出した。
「?」
三人が彼女の手のひらを見つめていると、そこにゆらゆらと揺れ動く数本の赤く太い糸のようなものが現れた。
「? これは?」
『これは、こいぬ達の命の流れを表しているものなのだわ。地上では、よく運命の赤い糸というでしょう。まあ、国によっては炎だったり、別のものだったりするのだけれど…』
モイラは、その数本の赤い糸をまとめると、もう片方の手で、糸の真ん中あたりをそっと握り込んだ。
ふわふわと空中を漂っていた糸は、モイラの手を中心に束ねられたが、モイラが掴んでいない糸の両端は、まだふわふわとたゆたっている。
『運命は、喩えて言うならこういうものなのだわ。時折、こいぬ達の人生の一部に干渉して、ある決まった道を歩ませようとするの。けれど、それが済めばまた、運命はこいぬ達を手放す。そしてまた、別の形で捕まえようとする…。それの繰り返しなのだわ』
「……」
『つまり、運命が束縛するのは、こいぬ達の全てではないの。それに、別に運命に逆らったって構わないのだわ。そうすれば、こいぬ達のために、その先でまた新しい運命が形作られるだけ』
「それって、つまり…運命は絶対やない、と?」
『そう。女神がしているのは、そうやって、ただ運命の選択肢が、正しくこいぬ達に与えられるように管理することだけ。それをどうするかは、こいぬ達次第なのだわ。だから、安心してね』
「そう…なんですね。何や、ちょっとホッとしました」
『良かったわ。“運命を受け入れる者に幸いあれ。運命に逆らう者に栄光あれ”…ってね。解けて、解れて、また結ぼれて…そうでないと、女神も楽しくないのだわ』
モイラは、そのように言うと、おもむろに楓と美兎の片手をそれぞれ掴み、テーブルの上に置いた。そして、二人の手からそれぞれ赤い糸を出現させると、それをおもむろに結びつけた。
『こーんな感じにね♪』
「え…」
それを見て、楓の顔が面白いように赤く染まった。
「ちょ、いやいやいやいや、これっていわゆる赤い糸なんですよね!? 私と美兎ウサギは別にそんな関係やないんですけど!?」
「え!? 楓ちゃん、それって、わたくしのことは何とも思ってないということですか!? わたくし楓ちゃんにとってその程度の存在だったんですかね!?」
「いや、別にそういう意味やなくて…って何言うとんねんこの美兎ウサギは!?」
『いいじゃない、美兎ちゃんが行き遅れなければの話なんだから、それは』
「や、だからと言うて、私は別にそないなことは…」
「ぶー! お話むずかしくてよく分かんないー! ちひろおいてけぼりなんですけどー!?」
「あーほら! ちーちゃんがむくれとるから! ハイこの話やめよ! やめやめやめ! 本題入ろ! ね!?」
『えー、女神はそのへんもう少し聞きたいんだけどなー』
一度花の咲いたガールズトークは、しばらく終わりそうになかった。
* * *
「おほん。では、本題に戻らさせていただきます…」
「何度仕切り直してるんですか、楓ちゃん」
「そ、それは美兎ウサギが訳わからんこと言い出すからで…」
「訳わからなくないですよ。わたくしの人生に関わる問題ですからね、これは」
「あーまたはじまったー! もういいちひろが話すからー!」
ちひろは二人を押し留めると、そのまま話を続けた。
「ねえモイラおねえちゃん、この子、だれだか分かんない? もしかして、ゆうれいとか、わるい魔法使いだったりしない?」
そう言って、ちひろは鳩羽つぐの顔を印刷したプリントをテーブルの上に置いた。
モイラは、プリントを手に取って、小首をかしげる。もう片方の手は、人差し指を口元に近づけて。
『この子は…?』
「実は…」
三人は、モイラにこれまでの経緯をありのままに話した。
ある女性に頼まれて、鳩羽つぐを探していること。鳩羽つぐは40年前に行方不明になったはずなのに、今になって同じ姿のままで現れたこと。
インターネットに動画が流されていること。しかし、肝心の西荻窪の住人たちは、彼女の姿を目撃していないこと…。
『うーん、なるほどなのだわ…ちょっと、待っててね』
プリントの上の鳩羽つぐの写真に手を添えて、モイラが静かに目を閉じる。
彼女の天使の翼が、飛翔する鳥のように大きく開かれたかと思うと、蛍火のような光が、その翼から溢れて零れ始めた。
それは、世界の因果律を統べる女神が、過去未来に亘る無数の因果律という名の宇宙から、鳩羽つぐという名の原子を拾い上げるための天文学的な演算を行っている姿だった。
不必要な情報は処理されて光の粒となり、零れた光は、地面に落ちると雪のように解けて消えていく。
もっとも、そんなことを知る由もない楓や美兎のような一般人には、それは単なる美しい光の芸術のようにしか見えはしなかったが。
しばらく待って光が収まると、モイラは静かに深呼吸をしてから言葉を継いだ。
『…ふう…。この子は、女神のこいぬなのだわ。つまり、普通の人間ね』
「モイラおねえちゃん、ほんと?」
『ええ。この子の赤い糸は、女神の手のひらの上にあるのだわ。もし人の理から外れるような存在なら、女神には赤い糸が見えないもの』
その言葉どおり、女神の手のひらの上に、赤い糸が現れた。どうやら、これが“鳩羽つぐ”の運命の流れを示す赤い糸であるらしい。
『それと、この子は魔法使いのような特別な能力を持つ子でもないみたい。もしそうなら、この糸がもっと違った色や形を示したりするの。たとえば、ちーちゃんはこうね』
モイラがちひろの手のひらに触れると、彼女の手の小指に結ばれた、青色の細長いリボンが姿を表した。
色は青だが、ちひろにとっては、これが運命の赤い糸ということになるらしい。
「んん…? 普通の人間…? ということは、40年前の鳩羽つぐちゃんは…?」
「モイラおねえちゃん、この子が今どこに住んでるのかはわかる?」
『住んでいるところ? うーん…』
モイラの手の上に、手のひらサイズの半透明の地球儀が現れる。モイラは、その地球儀の東京のあたりを指さした。
『大体、この辺かな。ちーちゃんやあなたたち二人のご近所なのだわ』
「そう言われても…東京てめっちゃ広いですよ。もう少し詳しく分かりません?」
『うーん、何しろ女神、地上のこいぬ達の運命を全部一人で管理してるから、一人ひとりの細かい情報まではチェックしてないの。こいぬ達、最近は70億人以上に増えちゃって大変なのよ。これからまだまだ増えるみたいだし』
モイラはまさしくお手上げ、という風に両手を上げた。
「何か手はないですか? あっちの宮殿の方とかで調べられません?」
『そうね…、アーカシャの記録係に問い合わせれば、それくらい調べられると思うけど、色々理由を付けて書類も作らなきゃいけないし、正直面倒なのよね。申請しても、軽く何ヶ月も待たされたりするし』
「えー、そんなにまてないよー?」
その時、四人の耳に誰かがモイラを呼ぶ声が聞こえた。
『モイラよ… モイラよ…』
威厳に満ち満ちた、老齢の男性の声が、天上から降り注ぐかのように、天空から聞こえてくる。
『あちゃあ、じいさんなのだわ…』
「じいさん? だあれー?」
『うん。女神の上司って言えばいいのかな。天界の一番偉い人っていうか…』
『モイラよ… そんな所で何をしておる… 今月の天国行きの者を決める会議があると言っておったであろう…』
『あーはいはいはい! 分かってるのだわ! 今行くからちょっと待って頂戴!』
『早く戻るのだ… 今月の人間の死者480万人のうち、未決裁の者がまだ240万人分あるのだぞ… 早くせよ… 早くせよ… せよ… よ…』
威厳のあるような、むしろ安っぽいようなエコーを響かせながら、“じいさん”の声はフェードアウトする。
やれやれしょうがない、ホントにごめんなさいねと言って、モイラは席を立った。
「ちょ、お仕事がお忙しいのはよう分かりましたけど、こっちの件はどうすれば…?」と、楓も引き留めようと席を立つ。
『ええと、そうね…。じゃあ、ちーちゃん。手を出して?』
「?」
ちひろの手のひらに、モイラはそっと自分の手を乗せる。
彼女が静かにその手を退けると、ちひろの手のひらに、15センチほどの長さの赤い糸が載っていた。
「モイラおねーちゃん、これって…」
『それはね、“鳩羽つぐ”ちゃんの赤い糸を実体化させたものよ。その子そのものとでも言うのかしら。だから、それを使って探せるのだわ』
「え、でもどうやって? わたし、そんな魔法しらないよ?」
『ふふ。ちーちゃんはお友達がいっぱいいるでしょう? だから、使えなくても大丈夫よ。それじゃあ、またそのうち遊びに来てね。約束なのだわ!』
「あ、ちょっ…」
それだけ言うと、モイラはふわりと飛び立って、遥か遠くの宮殿の方向へとあっという間に飛び去ってしまった。
彼女の飛び去ったあとに、抜け落ちた天使の羽根が一枚二枚、ふわりふわりと地面に落ちて消えた。
「…行っちゃいましたね、女神様。どうします、これから?」
「あっちの宮殿の方行って、もっかい掛け合うてみる? こっちにはちーちゃんおるんやし、いけるんやない?」
「うー、あっちのおっきなおしろは、ちひろも入れないの…。ほんとのほんとにてんかいの人しか、ダメだって言われてて…」
ちひろは、そう言いながら、自分の手のひらに載せられた“鳩羽つぐ”の赤い糸を見た。
モイラが、容易に失くさないようにしてくれたのだろう。糸は何重にも撚り合わされて、組み紐のように束ねられている。
それを見ている内に、ちひろの脳裏に先程のモイラの謎掛けのような言葉が反響した。
この紐はその子そのもの。ちーちゃんはお友達がいっぱいいるから、使えなくても大丈夫。
「…ん?」
不意に、ちひろは西荻窪のコーヒーショップで楓が言った言葉を思い出した。
楓は、使い魔を出して見張らせたり、匂いで探させたりする魔法はないのかと言った。
生憎、ちひろはそういう魔法を覚えていない。沢山の悪い魔法使いや怪獣がやってくると思って、攻撃に使える魔法ばかり覚えていたからだ。
でも、それならそれで、何も自分が出来なくてもいいのだ。そういう事を出来る人に頼めばいいだけなのだから。
そして、ちひろはそういう人を何人か、知っている。
「おねえちゃんたち、下にかえろ!」
ちひろは、“鳩羽つぐ”の糸をミサンガのように自分の手首に結び、椅子から降りた。
「え? 女神様に話さんでもええの?」
「うん! ちょっと思いついたことがあるから!」
「う、うーん。念願のウサミミを装備したのにもう帰るのはちょっと勿体ないですね…せっかくですしもうちょっと満喫しません?」
「別にウサミミはアマゾンで買えばええんちゃう?」
「いや、まあ、そうなんですけど、ちょっと違うというか…いえ、なんでもないです」
* * *
(危ない危ない、まさかじいさんが割り込んでくるとは思わなかったのだわ。もうちょっとちーちゃん達とお話したかったのになー)
宮殿へ戻りながら、モイラは心の内で独り言ちた。
実の所、モイラの権限を以ってすれば、少し時間さえ掛ければ、記録係に掛け合わずとも、“鳩羽つぐ”の居場所を探り当てる事はそう難しい問題ではなかった。何しろ彼女は運命を司る女神なのだから。
けれどそれをしなかったのは、自分が何でもかんでも解決してしまっては面白くないからだ。彼女はたまに人間たちの赤い糸を繋いだり解いたりして、彼らの運命を弄って遊んだりはしている。しかしだからといって、“
それに、能力を使って、人間たちにあれこれと便宜を図っているところを“じいさん”に見られでもしたら、また長々と煩いお説教をされるに決まっている。
(ふふ。ちーちゃんにはちょっと意地悪なことをしちゃったかもだけれど、頑張ってね。みんながどうするのか、女神はこっちから見せてもらうのだわ)
モイラが“鳩羽つぐ”と思われる存在をアーカシャの記録から探し出した時、彼女はそれに該当する赤い糸を2本見つけ出した。
一本は普通の赤い糸。そしてもう一本は、ボロボロにささくれ立って、今にも千切れてしまいそうな、黒ずんだ赤い糸だった。
ちひろに渡したのは、普通の赤い糸の方である。
『それにしても! 美兎ちゃんと楓ちゃんはなかなか尊かったのだわ~。ふふふ。せっかくだし、あとであの子達の先輩の凛ちゃんって子の赤い糸も、美兎ちゃんと楓ちゃんに結んじゃおうっと。
ふふふ~…楽しみなのだわ。かえみと、りんみと、かえしず…いやいや、その逆でも一向に構わないのだわ! 最近こいぬ達は増えすぎだし、やっぱり男の子は男の子同士、女の子は女の子同士で恋愛してもらわなくっちゃ♪ 甘酸っぱいのだわ~♪』
顔をふにゃふにゃに緩ませながら、独り言をつぶやくモイラ。
彼女の趣味。それは、許されたり許されなかったりする、こいぬ達の恋の行方を愉しむことである。
『モイラよ… 聞こえておるぞ…』
『じ、じいさん!?』
『お主はあれほど注意したのにまだ職権を濫用するつもりか…? 一度堕天させて地上勤務で根性を叩き直しても良いのだぞ…? ブラック企業でトラックの運転手でもするというのはどうじゃ…?』
『そ、それだけは勘弁してほしいのだわ…』
その後、モイラが地上でトラックの運転手になったかどうかは、定かではないのだった。