三人が東京タワーの外に出ると、既に街は美しく宝石のように輝く、夜の表情を表していた。
時刻は午後6時過ぎになっていた。眠らない東京の街にとって、午後6時は夜というには些か早すぎ、むしろこれからが賑わいを見せる頃合いである。
とはいえ、三人のいる東京タワーの真下は、公園や料亭、寺院などがあり緑も多いため、東京の街のシンボルの真下であるにもかかわらず、意外なほどに静かだった。
「うん。じゃあ、二十分後にそこでまっててねー? すぐに行くから!」
タワーに隣接する公園の一角で、ちひろはすまほで誰かと一頻り話すと、通話を切って、すぐに魔法少女に変身した。
「ちーちゃん、今度は誰に会うん?」
「えとね、ちひろのしゃてー!」
「は? しゃ、舎弟?」
「うん。会えば分かるよ。すごくやさしくていい人だから!」
そう言いながら、ちひろは二人の腕を掴む。もう飛ぶつもりらしい。
「ち、ちーちゃん! 今度はゆっくり、まっすぐ、現地直行でお願いしますよ!? もう夜ですから、危ないですから! ね?」
「だいじょうぶ! 30%くらいゆっくり行くから!」
「30%そのものにしてくださいね!?」
「えー、それだとおそすぎてまわりの人にめーわくじゃないかなあ? 車をうんてんする時は、まわりのスピードにも合わせなさいって、おとーさんゆってたよ?」
「ちーちゃん、これ車ちゃうから! 空には誰も居らんから! 飛ぶんはわたしらだけやから!」
「まかせて! 安全うんてんでぶっとばすから!」
(ア…アカン…もうダメや…)
怯える楓と美兎を引きずるようにして、ちひろは赤く輝く東京タワーを背に、空中に飛び出していった。
* * *
その数十分後、東京のとある街角の公園では─。
「うー、ちひろ先輩、ちひろ先輩…!」
今、公園に向かって全力疾走している彼は、大学に通う、ごく一般的な男子大学生。
強いて違うところを挙げるとすれば、ちょっと性格が犬っぽいってとこだろうか──名前は、伏見ガク。
そんなわけで、ちひろ先輩に指定されたこの公園にやってきたのだ。
「んっ…」
ふと見ると、ベンチに一人の年端も行かない少女が座っていた。
「あっ、あれはちひろ先輩…!」
そう思っていると、突然ちひろ先輩は、ガクの見ている目の前で、魔法少女の変身を解除しはじめたのだ…!
「やらないかー!」
……。
「あの、いきなり何の話でしょうか、ちひろ先輩…! しかも魔法少女のカッコで来ちゃってましたけど! いいんスか!?」
「だいじょーぶだいじょーぶ。あっ、ごめんねガッくん、いきなりこんな夜によんじゃって」
「それは気にしないでくださいっス! ちひろ先輩の頼み事なら何でもござれっスよ!」
ガクは胸に拳を当て、眩しいばかりの笑顔でそう言う。
とそこに、公園の女子トイレから出てきた楓と美兎が戻ってきた。
「…今回はほぼ出ませんでしたね」
「…既に空っぽやからね」
ちひろは手を挙げて、どことなく頬のこけた二人組を呼ぶ。
駆け寄って来た二人に、ガクはピースサインを作って、挨拶した。
「こんばんはっス! ちひろ先輩の友人やらしていただいてる、伏見ガクと申しますっス!」
「あ、ども…。同じくちーちゃんの友達の、樋口楓です」
「右に同じく、月ノ美兎です」
「よろしくお願いしますっス!」
ガクは、二人に対してビシッとお辞儀をする。
VネックのTシャツと、赤と黒の対比が映えるジャケットとパンツ。胸元には、トライバルな印象の勾玉のネックレス。腰には、仏教の僧侶が用いる払子によく似た、何かの毛で作られたアクセサリーを身に着けている。
顔立ちもとても整っていて、ルックスもイケメンだ。けれど、そんなチャラチャラとした軽い印象の見た目とは違って、彼自身はかなり礼儀正しい性格らしい。
しかし、さっきからちひろの事を先輩先輩と呼んでいるのは何故だろう、と楓は思った。
どう見てもガクは、ちひろはおろか、明らかに自分や美兎より年上に見えるのだが。
「あのー。さっきからちーちゃんのこと、ちひろ先輩って呼んでらっしゃいますけど、それは一体…?」
「ああ、それは、何ていうのかな、ちひろ先輩の事、オレはすごく尊敬してるっていうか…」
「がっくんはね、前はちょっとちょーしにのってたから、少し“きあい”を入れたの! 魔力ぜんかいでドガーンって!」
「オッス! あの時のキツい一発、ありがとうございましたっス! オレ、アレで目ェ覚めましたッス!!」
「でも、あのときはごめんね? いくらなんでもフルパワーはやりすぎだったよね? あれ、痛くなかった?」
「ハハハ、あれくらいなんてこと無いっスよ!」
「……」
「……」
楓と美兎は、無言で目配せをして、この件にはこれ以上触れないでおこうと合図し合った。
たぶん、このガクという人も一般人ではないのだろうし、ちひろの得意な魔法のラインナップを考えると、二人の間に何があったのか考えただけでも恐ろしい。
「それで、ちひろ先輩。オレを呼んだのは…?」
「うん。これのことなんだけど…」
ちひろは、腕に巻いておいた“鳩羽つぐ”の運命の赤い糸を解き、ガクに手渡した。
ひと目見ただけで、これが通常の物体ではないことに気づいたらしい。彼は、じっとその糸を食い入るように見つめてから、視線をちひろに戻した。
「…ちひろ先輩。こんなもの、どこで見つけてきたんですか?」
「えーとね、いろんなことがあったんだけど…」
「あ、わたくし達が話しますよ。なにしろ、ここまでで結構色々ありましたからね」
美兎と楓は、モイラにもしたように、これまでの経緯をガクに語って聞かせた。
“鳩羽つぐ”の正体を知るべく、あちこちを歩き回ったこと。
その赤い糸が、“鳩羽つぐ”を探すために託されたものであること。
ちひろが言うには、ガクであればそれを使って探せるかもしれないということ…。
「人間の運命の赤い糸、ですか? それで、オレに?」
「うん。だって、ガッくんなら、はなとか耳とか、すごく利くでしょ? だから、さがしてもらえないかなって」
「まあ、確かにフツーの人よりかは、利きますね。たとえば…」
そういいながら、ガクは公園の向こうに見える通りを指差した。四人の位置からは、100m以上は離れているだろうか。
「今、そこの通りを酔っぱらいのオッサンが歩いてきます。すげえ酒くせぇ」
ガクがそう言った数秒後には、夜7時だというのに、既に泥酔した様子のサラリーマン風の男性が、千鳥足で歩いている姿が現れた。
「あと、あっちの方向からは、女の人二人が歩いてきます」
そう言ってガクが公園の逆側の通りを指差すと、果たして20代くらいの女性二人が、楽しそうにお喋りをしながら公園の傍を通りかかっていた。
「すご! 完全に言い当ててますよ、この方!」
「ヘヘ。ざっとこんなもんですよ」
そう言いながら、ガクは更に赤い糸を鼻に近づけて、その匂いを嗅いだ。
「この赤い糸…よくは分かりませんけど、人間とソックリな匂いがするんですよ。もし同じ匂いがする子が居たら、間違いなく分かると思います」
「本当ですか!? ひょっとしたら、それで…!」
「ね、すごいでしょー?」
自分の事のように胸を張って自慢するちひろに、楓は耳打ちをして聞いた。
「…ねえ、ちーちゃん。この人も、やっぱ普通の人やないん?」
「んー? あ、がっくんはねー、キツネさんが人間にへんしんしてるの! こんこーんって♪」
「ち、ちひろ先輩!? ご友人の前で何言ってるんスか急に!?」
「狐? 狐ってあの狐ですか?」
「は、はて? な、何のことやら…」
急に取り乱してトボけたようなフリをするガクだったが、美兎と楓は特に驚くでもなく、むしろ平然としていた。
「なるほど、ガクさんは狐だったんですね。道理で、耳や鼻が人間離れした方だと思いましたよ」
「あ、私らは気にしませんから大丈夫ですよ。人間の生活もそんな悪くないでしょ?」
「…あ、あの…ちひろ先輩、こちらのご友人方は何者っスか…?」
「さっきまで、みんなで天界に行ってたの。だからもう、がっくんぐらいでいちいちおどろかないよ」
「そ…そうっスか……」
キツネは、イヌ科の動物である。それだけに、犬と同様、嗅覚や聴覚は、人間の何百倍、何千倍と優れている。
それだけでなく、微妙な磁場を感じ取って、自分の今いる場所や、雪の下に潜む獲物の位置を正確に見極めるという説もあるのだ。
また、人間に化けたり、人間の社会に溶け込んで暮らす狐の話は、昔話などで枚挙に暇がないが、大阪の隣町の松原というところでは、狐が人間と一緒に暮らしていたという伝承がつい最近まで残っている。
今は昔、昔は今。ガクも、その一人であるのかもしれない。
「それはともかく、がっくん。つぐちゃんさがすの、手伝ってくれないかなあ? ちょっと大変かもだけど…でも、今はがっくんしかたよれる人がいないの。環ちゃんは、びょうきしてるし…」
「そりゃ、もちろんですよ! 困った時はお互い様じゃないスか! ちひろ先輩の頼み事なら尚更っス!」
「わあ、がっくん、ありがとう! がっくんだーいすき!」
「ちょっ、ちひろ先輩、ご友人方が見てらっしゃるから、その…」
ピースサインでちひろの頼みを快諾するガクに、ちひろは無邪気に抱きついて喜ぶ。
それは、先輩と舎弟というよりかは、どこにでもいる兄と妹のようだ。
ただ、ガクのほうはどちらかというと、少し照れたように笑っている。人前で妹ほどの年の少女に抱きつかれるのは、少々気恥ずかしいのだろう。
「あー、おほん。ガクさんと仰いましたっけ? うちのちーちゃんと仲ええのはよう分かりましたけど…」
楓はおもむろにちひろをガクから引き離して、これ以上ないという位のジト目でガクを見つめた。
「ちーちゃんはまだ10歳ですんで。…くれぐれも、間違いを起こさんといてくださいね?」
「えっ?! い、いや、今のってちひろ先輩からくっついて来ただけなんですが…!」
「そんな、がっくん…あの夜のことはウソだったの…?」
「何の話っスかちひろ先輩ちょっと!?」
「美兎ちゃん、ちょうお巡りさん呼んで?」
「もしもしポリスメン?」
「あ、がっくんのばあい、けいさつよりほけんじょの方がおすすめだよ」
「保、保健所!? 警察じゃなくてっスか!?」
女性が三人集まると、男一人では太刀打ちできないものである。
違いますから! 誤解ですから! あああーっ、これはオレのイメージじゃねーっ! ロリの災難は刀也の役だーーーっ……
そんなガクの悲しい叫びが、夜の街に響き渡ったのだった。
* * *
それから、ガクが西荻窪周辺を捜索する準備を早速始めたいと申し出たので、その場は解散することになった。
最後にまたピースサインを作って、「何か分かったら、皆さんにすぐ連絡しますっス!」と、輝くような笑顔を見せてから、彼は小走りに立ち去っていった。
見た目とは裏腹に、爽やかで今どき見ないような好青年だ。人は見かけによらないとは、彼のような事を言うのかも知れない。
楓と美兎は、彼をついつい弄って遊んでしまったことに、少しだけ心の中で彼に謝っておいた。
「ねえ、ちーちゃん。他にも、あんなお友達がいるん?」
「うん。ホントはね、他にも環ちゃんっていうネコさんのお友達もいるんだよ。でも、ちょっとぐあいがわるいってゆってたから、今回はがっくんにおねがいしたの」
「へえ…この世界、知らんとこで、色々面白い事になってたんやな。…あー、あかんあかん、もーだめや。あれこれ驚きすぎて、疲れたわ。ふあ、んんんー…」
「全くですね。頭が追いつかなくてヘトヘトですよ、わたくしも」
楓は、心底疲れたというふうに大きく背伸びをして、ひとつ欠伸をした。
この数日だけで、世界さえも超える様々な体験をしたのだ。美兎や楓もまた、少しずつ一般人から離れてきているのかもしれない。
「じゃあ、そろそろおうちにかえろっか? あんまりおそくなると、きっとうちのママやパパもしんぱいするし…」
楓と美兎は、そう言って魔法少女に変身しようとしたちひろの肩を掴んで、押し留めた。
「…帰りは電車にしましょう、ちーちゃん」
「え、何で? 空を飛んだら、すぐだよ?」
「ええの。人間、地ぃに足付けて歩くんが一番やから。ゆっくり帰ろ? ちーちゃんのママには、私らから謝っとくから。ね?」
「んー、そっかぁ…。分かった…」
何やら少し残念そうなちひろを見て、心の底から安心する楓と美兎なのだった。
それから一週間、二週間と経ったが、特に動きはなく、“鳩羽つぐ”の新しい動画も、ネットには投稿されなかった。
強いて進展を挙げるとすれば、凛先輩が、当時の新聞記事を収めたマイクロフィルムの中から、“鳩羽つぐ”の小さな顔写真の入った記事を見つけた事くらいだろうか。
凛先輩はそれをプリントアウトして学校に持ってきてくれたのだが、残念ながら、これまでに調べたことと殆ど変わりはなく、彼女の失踪の謎がいよいよ深まったに過ぎなかった。
ちひろは、数日に一回、学校が終わってから、ガクに合わせて、西荻窪の様子を見に行っているらしかった。
がっくんにばかり探させたらかわいそうだから!とは、ちひろの言葉だ。その言葉を聞いて、将来は面倒見のいい姉御肌の女性になりそうだと、美兎と楓は思った。
とはいえ、彼女も魔法少女である前に一人の小学生であり、当然暗くなったら家に帰らなければならない。それだけに、あまり細かい調査や探索を長時間続けることは出来なかった。
それに加えて“鳩羽つぐ”は、人目を避けるように、夜や雨の日、あるいは人気のない場所でほんの短い時間だけ撮影を行う傾向にあるようだったから、ますます捜索は難しさを増していた。
一方の美兎と楓も、ネット上の掲示板やツイッターなどで情報を募集したりしたが、どれもイタズラとひと目で分かるような、しようもない書き込みしか得られない日々が続いた。
えるとは、東京タワーで会って以来、電話もラインも連絡が取れていない。
えるのハウスメイトだという、エル美というエルフの女性の話では、エルフの森が何とかと言って、急に里帰りしてしまい、戻ってきていないのだという。
頼みの綱は、頼もしい狐の力と、女神に託された赤い糸だけ──。
そんなもどかしい日々を過ごすちひろ達三人のもとに、ガクからの連絡が届いたのは、それから更に数日が経過してからだった。