思えば遊希たちが過ごしたこの夏はとても慌ただしいものだった。自分たちより下の世代のデュエリストと交流するイベントに参加した遊希たちは、自分たちと全くタイプの違うデュエリストたちと交流した。
デュエリストとしての才能を持ちながら、予想外の事態に対処できずにいた青山 紫音は鈴の元でその弱点を克服し、デュエリストとしての研鑽を積んでいる。ルールブック片手にデュエルを行っていた赤坂 未来は眠っていた才能を開花させた。より高みを目指した浅黄 華はこのイベントを通してより自身のデッキを理解しデュエリストとしての実力を確かなものとした。藍沢 愛美と二宮 橙季はデュエルの知識を磨き、より特別な絆を結ぶことができた。ヴェート・オルレアンは異国の地で自分ならではのデュエルを見つけ出した。
当然彼女たちと交わったことは遊希たちのデュエルタクティクスから自身の精神まで多くのことを鍛え上げた。海馬コーポレーションに招待されてテーマパークに行ったこともあった。奇想天外なプールで遊んだ後、遊希なデュエルの歴史に新たな1ページを加えるデュエル、ライディングデュエルに臨んだ。
元アイドル、元レーサーという華々しい経歴を持つ蜂矢 真九郎とは世界初のライディングデュエルを行い、激戦を繰り広げた。そのデュエル勝利した遊希であったが、彼女はプロへの復帰よりも今ある日常を選んだ。マスコミや関係者からは遊希のその決断に驚きの声が上がったが、彼女はその思いを真摯に訴えたことで逆に彼女を応援する声があちこちから送られた。
こんな慌ただしかった夏休みもあと2週間ほどで終わりを告げる。海にはクラゲが大量発生し、外ではツクツクボウシが夏の終わりを告げようとところ構わず鳴きまくる。普通の学生なら宿題に追われ始めるのだが、遊希はその手の宿題は全て終わらせていたため、新学期までの残り短い時間は悠々自適に過ごすはずだった。
遊希たちの暮らすアカデミアの女子寮の一室にはピピピ、と電子音が響く。電子音の発生源を遊希は脇から取り出して傍にいた千春に見せた。千春は小さくため息をついた。
「38.7℃。うん、完璧に風邪ね」
夏休み様々なことがあったことに疲れてしまったのか、遊希は風邪をひいてしまった。おでこに熱さましのシートを貼った遊希はそのまま布団に横になる。
「しかし、こんな時によく風邪ひくわね……」
「いくら暑いからと言って布団1枚に半袖半ズボンで寝てたら流石にねぇ」
「……面目ない」
そう言ってしょげる遊希。感染を防ぐため鈴はエヴァの部屋でしばらく過ごすこととなり、彼女たちは交替交替で遊希を看病することになった。
「まあ大人しくしていてくださいね。薬を飲んで眠っていれば案外簡単に治るものですから」
「ありがとう、皐月……」
「でももし治らないようでしたら病院に行きましょう。市販のものより薬は強いですから」
「最悪注射打ってもらえばいいわけだし。というか今から受けに行けばいいんじゃない? ね、あんたもそう思うでしょ? 遊……」
鈴がそう言いかけた時、遊希は既に布団に潜ってしまっていた。
「遊希……まさかあんた注射……」
「そそそ……そんなもの必要ないわ。ほら、移っちゃうから」
「……そうね、移ったら困るもの。千春手伝って、病院に連れてって注射を打ってもらいましょう」
それから数分の間病院に連れていきたくてしょうがない鈴と注射を打たれたくない遊希の応酬が続いた。遊希の病人とは思えない頑強な抵抗を受けて結局は鈴が折れる形になったのだが。
「ま、まあ誰にでも好き嫌いはありますからね……私も正直苦手ですし」
「皐月……あんたやっぱり天使、女神さまよ。どっかの誰かとは大違い」
「悪かったわね、悪魔で!」
高熱があるようだが鈴と口喧嘩できるほど元気なら心配いらないんじゃないか、と思うが熱は夜にかけて上昇するものである。そのため今は少しばかり元気だったとしても、夜にかけて辛い時が遊希にやってくる可能性が高いのだ。千春は遊希に横になって大人しくするように促すと、指示通り横になった遊希の頭をポン、と軽く叩いた。
「治し方は人それぞれだしね。遊希の治し方があるならそれでいいと思うわ? んーまあ、風邪ひいちゃったもんはもうしょうがないし、ゆっくり治しなさいよ」
熱で身体も心も弱っているためか、この時遊希は千春がまるで寝込んでいる自分を看病してくれる母親のように見えた。四人きょうだいの長女をしているだけあって、病人の看病も千春にとっては手慣れたものだったのである。
そんな時、部屋のドアがノックされる。外からは「開けてくれないか?」とエヴァの声が聞こえた。鍵は開いているのだが、エヴァ曰く両手が塞がっているためドアを開けられないのだという。鈴が部屋のドアを開けると、ドアの前にはお盆を両手で持っているエヴァの姿があった。
エヴァの持つお盆の上に液体が入ったビンとティーポット、そして蓋が被せられたお皿を載せられていた。彼女は遊希が病気と知るや否や、故国ロシアの風邪対策料理を手持ちの食材で作り上げたという。
「遊希、身体の様子は大丈夫か?」
「ありがと、エヴァ。おかげ様で今は落ち着いてるわ。まあ夜になったら悪化するかもだけど」
「そうか……だが、もう安心だ。そんな遊希のために、ロシアの風邪対策料理や飲み物を用意したぞ!」
そう言ってお盆をテーブルの上に置いたエヴァは食器棚からグラスを取り出すと、ビンを開けてその中に入っていた透明の液体をグラスの中に注いでいく。水……にして大層立派なビンに入っていた。
「これはロシアならではの風邪対策だ」
エヴァのその言葉を聞いた鈴と千春は嫌な予感がした。二人はエヴァにそのグラスを遊希に渡す前に自分たちに確認させてほしい、と申し出た。その液体は無臭ではあるものの、何やら普通の水とは違うようだった。
「ねえエヴァちゃん……ちょっと聞きたいんだけど」
「何だ?」
「これ……何?」
「おおっ、皆もこれに目を留めるとはお目が高いぞ! これはロシア人が風邪をひいたときに身体を温めるために飲むウォッカだ!」
液体の正体を知った鈴・千春・皐月は顔を見合わせると、エヴァにすぐにそれを片づけさせるように言いつけた。エヴァはせっかく用意したのに、最初は反対したものの、三人の剣幕に押されてすごすごと引き下がってしまった。ウォッカはロシアなどの東欧やスウェーデンなどの北欧で主に飲まれている蒸留酒。つまり酒である。日本では当然未成年の遊希が飲むことは許されない代物だ。
「エヴァちゃん……日本だと20歳にならないとお酒飲めないのよ」
「そうなのか? ロシアは18歳から飲めるんだが?」
「どっちにしても飲めませんよそれじゃ……」
「バレなきゃいいだろ!」
「ダメったらダメーっ!!」
エヴァはすっかり忘れていたようであるが、遊希にアルコールの類を与えた結果どうなったか。法律のこともそうだが、それを知っている以上遊希にはチョコレートであっても近づけたくなかった。
「ではこれならどうだろうか」
そう言ってエヴァはティーポットに入っていた液体をティーカップに注ぐ。液体は綺麗な黄色をしており、ほんのりと甘酸っぱい香りが広がって皆の鼻腔をくすぐった。ロシアでは風邪をひいた時にまず飲むとは言われているのがレモンと蜂蜜を入れた紅茶なのである。
「これなら文句ないはずだ。さあ飲め」
「ん、ありがと……ぶふぉっ! って何これ!! 甘すぎるわ」
「む? やはり甘かったか……砂糖を入れすぎましただろうか?」
ロシアンティーの付け合わせにラズベリージャムを大量に摂取するだけあり、ロシア人は基本甘党の人間が多いという。遊希は甘いものも決して嫌いではないのだが、さすがに甘すぎたようだった。遊希は熱も相まって少しばかりイライラが募り始めていたのだが、エヴァの行動に悪意が微塵も感じられないため怒るに怒れない状況であった。
「エヴァ、あんたの気持ちは嬉しいけど……」
「待て! 私に汚名挽回の機会をよこせ」
汚名は挽回してはいけない、というツッコミを余所にエヴァが皿に被せられた蓋を取ると、蓋の下には小麦を牛乳に浸したシリアル料理らしきものがあった。これもロシアでは風邪をひいた時に食べられている料理であり、これで体調を整えるという。
ウォッカや紅茶に比べるとこちらは随分口当たりのいい食べ物であり、熱で火照った身体を冷やすのにちょうどいい代物だった。食べ終えた遊希は小さくため息をつくと、そのまま横になった。
汚名挽回ならぬ汚名返上を果たしたエヴァは満足した様子で部屋に戻って行った。不器用ながらも遊希を心配している気持ちが伝わってきたため、遊希はほっと胸を撫で下ろした。
「ふぅ……ちょっと横になるわね」
「それがいいわ。どんなに健康にいいもの食べても寝なきゃ治らないもの」
「少ししたら様子を見に来ますからね」
「しっかり休むのよ!」
「……うん。おやすみ」
そう言うと遊希は横になり布団を被って小さな寝息を立て始めた。鈴たちはそんな遊希が寝静まったのを見届けると遊希を起こさないように静かに部屋を後にした。
*
「あれ……ここは……」
遊希が目を開けると周囲は真っ暗だった。もう夜になってしまったのだろうか、と思っているが服は眠っている時に着ていたパジャマではなくいつも着慣れているアカデミアの制服である。
それでも風邪は治っているようで、熱も喉の痛みもなく、咳も出ていない。だがまるで生きた心地がしないのは何故だろうか。そして何より違和感を感じるのが、普段呼びかけずとも話しかけてくる光子竜の存在を近くに感じないことだった。
「光子竜? ねえ、光子竜? どこにいるの!?」
光子竜の名前を呼びながら周囲をいくつか歩いてみる遊希。光子竜からの返答はなく、どこまで言っても闇、闇、闇だった。
そんな闇だらけの中、遠くに一筋の光を見つけた遊希はそちらの方へと歩いて行ってみる。するとそこには鈴・千春・皐月・エヴァの四人の姿があった。何やら笑顔で談笑している四人であるが、遊希に気付く様子は一向にない。
「鈴! 千春! 皐月! エヴァ!」
遊希は四人の名を続けざまに呼んでみる。しかし、四人は変わらず遊希に気付くことは無かった。
「ちょっと……なんで? なんでよ! なんで行っちゃうのよ!!」
走っても走っても皆の元に辿り着けない。むしろ走れば走るほど四人との距離が開いていく。遊希は息を絶やしながら彼女たちの名を呼ぶも、遊希の眼に映る四人の姿はやがて豆粒のごとく小さくなって消えていってしまった。
「そんな……やだ……やだ……ひとりにしないで……」
*
(……夢? ったく、なんて夢)
窓からは朝の日差しが差し込んでいた。小鳥のさえずりが小さく響く中、遊希は目を覚ました。光子竜はおろか鈴たち四人の親友も居なくなる、という悪夢を見せられた彼女の寝覚めは最悪であったと言ってもいいだろう。
しかし、皐月に差し入れされた薬やエヴァのロシア料理が功を奏したのか熱はだいぶ下がっていて身体の気怠さも完全とは言えずとも取り除かれていた。そんな遊希の枕元には布団の類を何も羽織ることなく眠っている鈴の姿があった。
夜に遊希の氷枕やおでこに貼る冷却シートを取り替えていた彼女はそうしているうちに看病に疲れてしまったのか、その場で眠りに落ちてしまっていたのである。
(もしかして……ずっといてくれたの?)
遊希が鈴の寝顔を眺めていると、そんな鈴もううん、と声を出してゆっくりと目を開けた。
「いけない……あたしまで寝ちゃってたわ。おはよう遊希」
「うん、おはよう」
「熱はどんな感じ?」
鈴は遊希のおでこに自分のおでこをコツン、と当てる。自分のおでこと比べるとまだほんのり熱かった。
「うーん、だいぶ下がったわね。昨日はもっと熱かったし……良かった」
仄かに赤い遊希の頬を鈴が両手で包み込むように触れることで、ひんやりとした感触が遊希の肌に伝わってくる。遊希は目の前で安堵の表情を浮かべる鈴の顔を何も言わずただその双眸でじっと見つめていた。
「……」
「おっと、あたしも戻らないと。千春たちに心配かけちゃうとまずいし……まああんたも一人の方がゆっくりできるだろうしね。今日はもう1日大人しくしてなさいよ? 次は千春だったかしら、朝食のお粥を持ってきてくれるはずだから」
そう言って立ち上がった鈴のパジャマの裾が何かに引っ張られる。彼女が後ろを振り返ると遊希がそっぽを向きながら鈴のパジャマの裾を左手で掴んでいた。遊希と鈴の間に数秒の間沈黙が流れる。そんな沈黙を遊希はどこか照れ臭そうにもじもじしながら破った。
「ま、まだ……少し熱っぽい気がするの。だから―――もう少し。もう少しだけ、そばにいて?」
そう言いながらけほけほと遊希は咳を繰り返した。鈴はそんな遊希のうるうるとした瞳を見つめながらその場に座り込むと何処か仕方なさそうに微笑むのであった。
「ったく、手のかかる病人なんだから」
*
それから2日ほどして遊希の病状は一応の落ち着きを見せた。すっかり元気になった彼女であるが、そんな遊希を余所にまたしても部屋には無機質な電子体温計の音が響く。脇から取り出した体温計の画面には38.9℃と表示されていた。
「ゴホッゴホッ……うえー、つらいー」
「で、今度は鈴が風邪をひいたと? ったく……」
「しょうがないじゃない……ひいちゃったんだからぁ……」
遊希が治るのと同時に風邪を移される形となった鈴が布団に力なく倒れ込む。鈴は回復した遊希を見つけると、子犬のようなうるうるとした瞳をしながらじっと彼女の顔を見つめる。
「ねー、遊希ー。看病してー」
あれだけ自分が看病したのだから元気になった遊希は恩返しをしてくれるはず。そう思った鈴であったが、遊希の口からは予想だにしていない言葉が飛び出してきた。
「……自業自得ね」
「ひょ?」
自業自得、というこの状況においてとても聞きたくない四字熟語を聞き、鈴はどこか間の抜けた相槌を打つことしかできなかった。
「看病してくれたことは感謝してるけど、何もかけずに枕元で寝落ちしたのはあんたのミスよね?」
「えっ、ちょっ」
「あんたも大人しく寝てなさいよ? 私は風邪ひいてる間やりたいこといっぱいあったからすぐに取り返さないといけないの。じゃ、そういうことで」
そう言って遊希は部屋を出ていってしまった。あんなに親身になって看病したのに、とショックを受ける鈴はどうにも納得いかなかった。
「もーっ! 弱ってるときはあんなに可愛かったのにぃぃぃ!! あんまりよーっ!!」
「うっさい鈴! 静かに寝てなさい!!」
「遊希のばかー!! 大っ嫌いー!!」
ドア越しに響く鈴の絶叫を聞きながら遊希はアカデミアにある図書館へと駆けていった。風邪をひいた時に効く料理のレシピ本を借りに行くために。
『銀河の竜を駆る少女』
第三章 完