手元に残ったチケットを、なんとなく見つめる。シンプルなデザインで作られた、特に目を惹く特徴のないそれは、今の私にとっては、なんだかとても感慨深いなにかを引き出すもので。
なんていうか、陳腐な言葉で飾るのならば。輝いているようにすら感じられる、というか。まだなにも始まってなどいないというのに、どこか達成感のようなものが、私の胸の奥を満たしている。
ただ、それはそれとして。
私の分のチケットは二枚で、それは他のみんなも変わらない。きっと今頃、友人や家族に渡していて、まりなさんもそれを望んでいるんだろうけど。
私はいったい、この二枚を誰に渡せばいいんだろうか。
椅子の背もたれに体重をかけながら、チケットを目の前に掲げて見上げる。ただの紙切れ二枚、だけど、特別な意味を持つ紙切れだから。
私の交流は、そこまで広い方ではないけれど。かといって、狭いというほどでもない。中学生の時と比べれば友人の数も増えたし、それに比例するように、クラスメイトとの付き合いも増えた。
それは多分、私が過去に対して折り合いをつけることができたからであって。贅沢なことに、今の私はこの二枚を誰に渡すのか悩むことができる程度には、人との繋がりに恵まれているから。
それこそ、みんなには感謝してもしきれないし。自分のお金でチケットを買って、呼びたい人全員に配ってもいいんだけど。なんていうか、それとこれはちょっと違うような気がするというか。ライブハウス側の好意で、降って湧いたような話だからこそ、この機会を大切にしたい。
ちょっとカッコつけすぎかもしれないけど。ようするに、この二枚は大切な友人に贈りたいんだ。だって、ほら、せっかくの初ライブなんだから。出番の時間は長くないし、名前だって売れてない。曲は最低限しか用意できてない上に、オリジナルのものは一曲だけ。
きっと、何もかもが足りていないように見えるかもしれないけど。それでも、私なりに真剣に取り組んだことには変わりない。
世界を笑顔にするバンド、なんて。話が壮大すぎて、いまいちピンとこないかもしれない。私だって、簡単なことだとは思っていないのだから。側から見れば、なにそれ、って感じだろうけど。
それでも、大切なライブ。私たちにとって、最初の一歩だから。
その記念するべき第一歩、一番最初の晴れ舞台を。一番近くで見てほしい、そう思えるのも、みんなのおかげで。
だから、寂しくはない。本当に毎日が輝いていて、かけがえのないもので、私は恵まれているんだと理解しているから。
だけど、だからこそ。こうして一人でいる時間になると、ふと考えてしまうこともある。みんなに不義理で、あまりにも失礼な考え方だとは思うのだけれど。
本当に私が、幸せでいていいのかと。
記憶の中にいる二人は、まだ泣いているというのに。その涙の原因であるわたしが、笑っていてもいいのかと。ほんの少しだけ、胸の奥が痛くなる。
あの日の悲しみを、私はまだ忘れることができない。
☆ ☆ ☆
「あ、あの……さ…………」
口から出た言葉は、自分が思っていたよりも遥かに小さいものだった。それこそ、目の前で歓談に耽っている二人が気がつかない程度には控えめで。それがなんだか、もどかしい。
なにが理由なのかは、分かっているけれど。それでも、最初の一歩を踏み出すのはいつだって難しい。それは人付き合いが増えて、日常での会話が増えた今でも変わらない。
思えば……私は今までの交流のうちどれほど、自分から相手に話しかけようとしただろうか。
私の周りにいる人は、私とは比べものにならないほど。人当たりが良くて、コミュニケーション能力に長けている。こころはもちろん、日菜さんも、はぐみも、そして委員長も。彼女たちはいつだって、私に、というかみんなに笑顔を振りまいている。
私も、そうなりたいとは思うけど。人間の中身というものは、変わったと思っていてもなかなか変えられないものだから。
まぁ、つまり。柄にもなく、自分から誰かを誘おうとしているわけで。それがどことなく、恥ずかしいというか。慣れてなくて、こそばゆいというか。
ああ、だから、つまり。クラスどころか、これまでの人生の中でもそれなりに交流の多い委員長に対してさえ、まだ遠慮が抜けきれていないのだろう。
私たちのライブを観にきてほしい、と。ただ一言そう伝えて、チケットを手渡すだけだというのに。迷惑だったら、とか、断られたら、だとか。そんなことばっかり考えて、手が止まって、言葉が喉につっかえてしまう。
本当は、朝にでも誘おうと思っていたはずなのに。ズルズルと先延ばしにしているうちに、いつのまにか昼ご飯の時間になっていて。
いまは、私とこころと委員長。このいつものメンバーで机を並べて座っている。時間にも余裕はあるし、ご飯自体は食べ終わっている。タイミング的にもベストで、話を切り出すならこの瞬間しかないっていうのは私にも理解できている。
理解できては、いるんだけど。
「それでね! そのとき奥沢さんが私のことを抱えて運んでくれて────」
「あら、素敵ね! あたしも木から落ちそうになった時に────」
「他にもね、先生から頼まれて資料を運んでる時にも────」
「この前いっしょに公園に行ったときに────」
「奥沢さんは────」
「美咲が────」
会話の節々から聞こえてくる特定のワードから耳を塞いで、口から出そうになるため息を飲み込む。
こころと、委員長。
この二人にとっての共通の話題というのは、決して多いわけじゃない。そもそも最初は友達の友達という微妙な関係だったわけだし、会話が長続きしないこともそこそこあった。その都度、私なりに二人の間に立って会話を繋げていたのだけれど。
いまは、こう、なんというか。むしろ私の方が、会話に入り辛いというか。いや、決して彼女たちが私のことをないがしろにしているわけじゃないんだけど。
どちらかといえば、むしろ。名前自体は、前よりも話題に出ることが多いくらいで。
つまり、二人が見つけた共通の話題は。私についてのことばかりで。私は……自分に関する情報の共有という、これ以上ないほど羞恥心を煽る内容を、ほとんど毎日目の前で行われている。
委員長がこころに、こころが委員長に。それぞれが知っている私のことを話して、それで盛り上がっている。
これで愚痴や悪口の一つや二つでも混じっていたら、ショックだったけど。二人から周囲へと溢れてくる感情の波は、どこまでも温かくて、優しい気持ちに満ち溢れていて。何より、悪気はないわけだから。どうにもこうにも、水を差すことができない。
私にとっても、二人は大切な友人だから。
それだけ想われていることに、喜びを感じないといったら嘘になってしまうくらいには。私も、まぁ、満更ではないのかもしれない。
いや、違う、そういうことが言いたいんじゃなくて。つまり、今こうしている間にも。二人の口からは私の名前が頻繁に飛び交っているから。
自分の話題というのは、とにかく混ざりにくいもので…………ライブに誘うというハードルの高さも相まって、思うように声をかけられない。
いつもは気配りが上手い委員長も、こうなってしまうと止められない。普段は私が話に入れるように考慮して、時々こちらへと視線を向けてくれるけど。いまは中学生時代の……といっても去年のことだけど、思い出話に夢中になっていて、私が話しかけようとしているのに気づいてくれない。
きっと、委員長は喋ることが好きなんだろう。思い返せば、ほとんど接点がなかった頃の私にも話しかけてくれて、大して面白くもないであろう会話に時間を割いてくれていたくらいだから。どこか波長が噛み合っているこころ相手だと、言葉が止まらないのかもしれない。
少し前だったら、こころを取られたって思ったかもしれないけど。いまはむしろ、委員長に感謝している。彼女が率先して話しかけてくれるからこそ、クラス内に浸透していたこころへの微妙な反応が、日毎に薄れているのだから。
そういう、分け隔てないというか。誰とでも打ち解けられて、周囲にも良い影響を与えられるところが、彼女の魅力なんだろう。中学生の時に私がいじめられなかったのも、彼女のお陰なのかもしれない。
だからこそ、感謝の気持ちを伝えたいと思った。この行動が、果たしてそれに値するかどうかは分からないけど。それを抜きにしても、楽しんでもらえたらいいなって、そう思っているのは嘘じゃないから。
「それで、私が足を捻った時も────」
「ねぇ、委員長」
机の上に置かれている委員長の手を掴んで、会話を強制的に止める。こころとの会話に夢中になっていた委員長が、驚きの感情を表情に浮かべて、私の方へと顔を向ける。
少し強引かもしれないけれど、こうでもしないと気付いてもらえそうにないから。申し訳ないと思う気持ちからは目を逸らして、彼女の瞳を見据える。
「────え、へ? ぁ、お、奥沢さん? ご、ごめんね……私、煩かったかな?」
「ああ、いや、そうじゃなくて…………まぁ、たしかに止めなきゃずっと喋ってそうな勢いだったけど」
ちょっとだけ、本当にちょっとだけ。話に入れなかったことを頭の中に思い浮かべて、意地悪みたいなことを口にしただけで。委員長はあっという間に耳まで顔を真っ赤にして、潤んだ瞳を向けてくる。
羞恥心とか、罪悪感とか。一言では言い表せないくらい沢山の感情が、彼女の瞳を通じて私の元へと流れこむ。色々なものが混ざり合って、彼女の心を作り出している。何度見ても、何度感じても飽きることのない。
彼女の心は、とても豊かだ。
「イインチョウは美咲のことが好きだから、美咲の話をするのが楽しくて仕方ないのよ!」
「────へっ!?」
私と委員長の間に流れた一瞬の沈黙を、こころが引き裂いた。飾らない、こどもみたいに素直な言葉。
私はそれが彼女のいい所だと思っているけれど、一般的な感性を持った高校生である委員長にとっては、とんでもない発言に聞こえたことだろう。これでもかというくらいに驚いて、口をパクパクと動かしている。言葉にならない悲鳴が、感情の波となって溢れている。
わかるよ、普通に恥ずかしいよね。
「こころ、変なこと言わないの」
「あら? あたしはヘンナコトなんて言ってないわ? あたしは美咲のことが好きだから、イインチョウと美咲の話をする時間が楽しいの! イインチョウも同じはずよ!」
「いや、あの、私は……えっ!? つ、弦巻さん!? わ、わた、ちがっ! いや、違うわけじゃないけど! そ、そういうつもりじゃなくて!!」
「イインチョウはどうしてそんなに慌てているの?」
「だ、だって、その、弦巻さんが…………」
「あたしが?」
フォローしようと口にした言葉が、逆に委員長を追い詰めることになってしまった。基本的に真面目だから、受け流したり誤魔化したりが苦手なんだろう。
首を傾げて委員長に顔を近づけているこころを、優しく引き離して。しどろもどろになっている委員長の視線を、もう一度私の方へと向ける。
「あー、あー…………委員長、こころってこういう所あるからさ? あんまり、真に受けない方が…………ね?」
「う、うん…………」
「イインチョウ、あたしがどうかしたの?」
「こころ、話がややこしくなるからちょっとまってて。後で説明してあげるから」
「美咲がそういうなら、まってるわ」
気分を悪くした様子もなく、こころは素直に自分の席に戻る。机に肘をついて、両手で顔を支えながら。ニコニコと楽しそうな笑顔で私を…………というか、私と委員長のことを見ている。
どこか微笑ましいものを眺めているようにも見えて、なんというか、この子はどこまで本気だったのか…………なんて。ほんの少しだけ、邪推してしまう。たぶん、私の考えすぎなんだろうけど。
すっかり大人しくなってしまった委員長の手を離して、そのまま鞄の中へと入れる。視界の端に映り込む時計の針は、あと少しで昼休みが終わってしまうことを示していて。
ちょっと、時間をかけ過ぎてしまったかもしれないけれど。先ほどまで感じていた不安とか、焦りとか、私の臆病な心が生み出した感情は。今はもう、どこにも見当たらないから。
誘い文句は、どうしようかと。飾る言葉を考える余裕すら、存在しているくらいで。
それは、きっと────。
『イインチョウは美咲のことが好きだから』
「────前に話した、バンドのことなんだけど」