「あ、それ持ってるよ」
そう言った彼女は自分の財布を取り出すと、中へと手を差し込んだ。人差し指と中指の間に挟んで、ピッ、と音が聞こえてくるような、どこか洗練された動作で一枚の紙を私に見せる。
シンプルなデザインの、ここ数日間よく眺めていたチケット。まさに今、私が差し出しているそれと同じものだった。
ピシッ、と。体が固まった音が聞こえた気がした。
予想外の出来事に、開いた口が塞がらない。彼女の瞳に映る私の顔は、どこか間抜けそうな表情を浮かべていて。
そんなことは知らないと言わんばかりの平常運転で、日菜さんは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「美咲ちゃんが出るって聞いたから、貰ってきたんだよね。びっくりした? あたしとおねーちゃんで二人分…………あっ、おねーちゃん、一緒に参加してくれるんだって! デートだよ、デートっ! 楽しみだな〜」
「…………私、このイベントの話しましたっけ?」
なんとか絞り出した言葉が、それだった。
もはや恒例の待ち合わせ場所になっている喫茶店へと、彼女を呼び出したのは。私が参加するライブイベントに、彼女を誘おうと思っていたからであって。
何気無いふうを装って、話を切り出そうと思っていたのに。チケットは既に日菜さんの手に渡っていて、見せつけるように目の前でふりふりと揺らされていて。
結論からすると、私の決意は宙ぶらりんな結果に終わってしまったということで。なんていうか、動揺しているというか。正直なところ、少し恥ずかしい。
そんな気持ちを誤魔化すように、羞恥心を飲み込んでから、疑問に思ったことを口にした。
最近忙しくて、連絡すらあんまり取っていなかったというのに。その中で、バンド活動のことについて口にする機会があっただろうかと。そんな気持ちを込めて、尋ねたのだけれど。
「え? 聞いてないけど?」
日菜さんは不思議そうな顔をしてから、当たり前のように言い放った。日菜ちゃんはなんでも知ってるからね、と。いつも聞いている言葉を、最後に付け足して。
あまりにも、違和感なく口にするものだから。一瞬、そんなもんかと納得しそうになったけど。よくよく考えてみなくても、明らかにおかしいというか。
教えていないはずのことを知られている、というのは。この人と接していると、割と頻繁に起きたりするけれど。自分の動向を当たり前のように把握されているというのは、常識的に考えて普通じゃないし。なんなら、問い詰めるべきだとすら思う。
ただ、まぁ。この人が普通じゃないというのは今更だし、追求してもまた上手く言いくるめられるだけのような気がするから。とりあえず、疑問には蓋をして。このなんともいえないモヤモヤした気持ちは、忘れることにする。どうせ、薫さんとかから聞いたんだろうし。一緒にいるところを見たことがないけど、こころとも友達らしいし。
というより、普通は持ってても持ってないふりをするものじゃないだろうか。ほら、せっかく友達がチケットまで用意して来てほしいって言ってるんだからさ。そこら辺の気持ちを汲むとか、知らないふりをするとか、こう、なんか、やりようはあるんじゃないかと。
それをこの人に言っても仕方ないだろうから、黙っておくけど。気持ち的には、色々突っ込みたい。
いや、別に拗ねてるわけじゃないんだけど。なんだかなー、というか。いちおう、私のことを気にかけてくれていると受け取れないこともなくて。色んなことに目を瞑れば、時間をとってまで私たちのバンドを観にいくって言ってくれてるわけで。
一度落ち着けば、嬉しいという気持ちが湧いてくる。湧いてくるけれど、手放しで喜べるかというと…………うん、釈然としない。
「美咲ちゃん、あーん」
「んむっ」
暖かい感触と、それから、一瞬遅れての異物感。それを齎した元凶であろう、向かいに座っている彼女へと視線を向ければ。
日菜さんは心底楽しいと言わんばかりの、今まで見てきた中でもひときわ輝いている笑顔で。片手に摘んだポテトを、私の口元へとねじ込んでいた。吐き出すわけにもいかないから、少しずつ咀嚼しつつ、抗議の視線を送る。
不意打ち気味に、餌付けのようにポテトを差し出されるのは、割といつものことだ。その度に遠回しに窘めているけれど、効果は見ての通り。本当に、自由が過ぎると思う。
「難しい顔してないでさ、一緒に食べようよ。ほら、こころちゃんもいってたじゃん! 笑顔が大事って!」
「
「えー? なに? なんて言ってるか分からないなー!」
ケラケラと笑い声をあげる彼女は、私が何を伝えたいのか、理解しているだろうに。自分に都合の悪いことからは目をそらすのか、あるいは、私の反応を見たくてやっているのか。
きっと、両方なのだろう。それでも不快にならないのは、彼女の人柄がなせる技としか言いようがない。
人の心がわからない、なんて。冗談めかして口にすることもあるけれど。この人はきっと、私以上に人の心の機微を理解しているんだと思う。なにがよくて、なにがダメなのか。理解した上で、自己を押し通す。
ああ、いや、人の心がわからないというのは、そういう行動を示してのことなんだろうけど。それでも、察しが悪いわけじゃないのは確かだから。
こういう行動の一つ一つが、彼女なりのコミュニケーションで、他者への甘え方なのかもしれない。
少なくとも、私は彼女のそういうところが嫌いじゃない。絶対に、直接伝えようとは思わないけど。この気安さと、得体の知れなさに、安心感を覚えてしまうのは。きっと、私が彼女の存在に甘えているからなんだろう。
人とは違う、普通からは外れている。それでも人の生活に馴染んで、日々を過ごしている。偽ることもせず、正直に生きている。
その在り方に共感して、安心しているんだ。
普通ではないのは、私だけじゃないんだと。彼女に向ける友情は嘘じゃないけれど、そういう仲間意識というか、同族意識がないといえば嘘になってしまう。
友達というよりは、仲間と呼ぶのが相応しくて。他所からすれば、傷の舐め合いに見えるかもしれないけど。
それでも私は、彼女との今の関係を気に入っている。
「じゃ、ありがたく受け取っとくね」
日菜さんはそれまで浮かべていた、どこかニヤついているような笑みを引っ込めると、ポテトをつかんでいない方の手を伸ばし、私が仕舞おうとしていたチケットを指の間からスルリと抜き取った。
そのあまりにも鮮やかな手口に、反応が一瞬遅れた。
「えっ…………は?」
「いやー、美咲ちゃんから直々に招待してもらえるなんて。日菜ちゃん、感動しちゃうなぁ…………えへへ、美咲ちゃんからのプレゼントだ」
うっとりとした表情で、私の持っていたチケットを大切そうに胸元で握っている姿は…………なんていうか、あまり他の人には見せられないというか。正直なところ、女子高生がしちゃいけないような顔になっているというか。
受け取ってもらえないと、そう思っていたから。こういう風に、素直に喜んでいる姿を見てしまうと…………嬉しいやら、恥ずかしいやらで。想定外の出来事に対する困惑も相まって、自分が何を考えているのかさえ、よく分からなくなってしまう。
今日だけで何回、気持ちを飲み込んだことだろうか。仮に感情でお腹が膨れるとすれば、少なくとも今日一日はずっと満腹感を感じていられることだろう。そんな、どうでもいいことばかり頭の中をぐるぐると巡って。
数秒、十数秒……あるいは、それよりもたくさんの時間をかけて。ようやく、ようやく、口を開く。
「あの…………? 日菜さん、もうチケット持ってるんじゃ」
「え? そうだけど…………ん? これ、あたしにくれるってことでいーんでしょ? そのためにデートに誘ってくれたんだよね? ね?」
「デートって…………いや、まぁ、日菜さんに渡そうと思ってたのは間違いないんですけど」
「えへへ、嬉しいなぁ。あ、じゃあこれ! 必要なくなっちゃったから、あたしの持ってるチケット一枚あげるね!」
「え、でも、え? それってなんの意味が…………」
「意味ならあるよ! 美咲ちゃんからもらえたってことが大切なんだから! あたしのことを選んでくれたってのが、すごく、すっごく『るんっ』てするんだ! …………だから、そっちのチケットはあげるね。他の子にも声かけてあげなよ、きっと、喜んでくれるから」
「えー…………っと、つまり────」
最初から、全部察していたのだろう。
私が今日、なんのために日菜さんを誘ったのか、とか。お世話になったから、ライブを観にきてほしいって思っていたこととか。
なんていうか、色々ずるいと思う。
からかっていたのか、それとも、素で接していただけなのか。知ろうと思えば、知ることはできる。目を合わせて、その奥の奥まで覗き込めば。言葉を交わす必要も、相手の考えに想いを馳せる必要もない。なによりも早く、そして楽な方法を、私だけが持っていて。
だけど、そうしたくないと思うのは。今までのように、確かな答えだけを手に入れようとしないのは。私が成長した証なのか、あるいは、弱くなった証拠なのか。
こんなことを考えるになったのは、いつ頃からだろうか。思い返してみれば、きっかけは沢山あって。自分でも、明確な判断はできなくて。それこそ、目の前にいるこの人だって、その理由の一つだと思うから。
もしもあの日、あの場所で。日菜さんに出会えていなかったのならば。今の私はいなかったのかもしれない。
疑心暗鬼になって、幼い独占欲に支配されて。いつか……取り返しのつかない誤ちを犯していたのだと。なぜだろう、『もしも』の話をどれだけしても意味がないというのに。不思議と、そんな確信があるというか。
まぁ、なんだ。そんな状態から助けてくれた彼女のことを、私は私なりに大切に思っているから。
「ねぇねぇ美咲ちゃん? これってあたしのこと好きってことだよね? ちゅーしていいよね? ね?」
「それとこれとは話が別ですね」
いや、ほんと、これさえなければ。もっと素直に、感謝の気持ちを伝えられるんだけど。
☆ ☆ ☆
「────って、事があったんだけど。日菜さん、結局最後まで駄々をこねてて…………あれで一つ歳上なんだけど、忘れそうになるっていうか。紗夜さんも手を焼いてるんだろうなぁ…………」
「へぇ…………それをなんで私に?」
なんとも言えない、引き攣った笑顔を見せながら。市ヶ谷さんは少しだけ、私から距離をとった。それとなく庇うように、両手で自分の体を抱きしめている。
なんだろう、何か誤解されているような気がする。
市ヶ谷さんは私の体を上から下までジロジロと観察したあと、呆れたような顔で口を開く。
「奥沢さん、意外と節操ないよな」
「いやいやいや、なんでそうなるの?」
「…………自覚がないって、タチ悪いな。頼むから香澄にちょっかいかけるのだけはやめろよ」
「…………? なんでそこで戸山さん?」
「あー、うん、なんでもねーよ。ただでさえ変なのに付きまとわれて大変なのに、これ以上面倒みれるかよ」
疲れているのか、ため息を吐きだしながら。彼女は眉間に寄った皺を揉みほぐしつつ、呟くように口を動かした。内容はほとんど聞こえているけれど、わざわざ小さな声で呟いたということは、あまり踏み入られたくない内容なんだろう。
どこか波長が合うというか、親近感を覚えるというか。私と市ヶ谷さんは、なんとなく似ているから。そこまで深い関係というわけじゃないけれど、それなりに気楽に接することができる。
特に、目が離せない友人がいるところとか。戸山さんとこころじゃ方向性は違うけど、ほっておけないと思うのはどちらも同じで。
それを、わざわざ口にしたことはないけれど。市ヶ谷さんもきっと、私が彼女に感じているものと同じものを、私へと感じているんだろう。
つまりは、共感、シンパシー。市ヶ谷さんは性格上、素直に認めないとは思うけど。私はこころに、市ヶ谷さんは戸山さんに。友情以上の感情を抱えていて、好んで付き添っているから。
だからこれは、ちょっとしたお節介のようなもの。
「で、用事って惚気話のこと? 私、帰ってもいい?」
「いや、流石にそんなことで呼ばないって。っていうか、別に惚気話じゃないから」
本当かぁ? と訝しむ市ヶ谷さんは、私が否定しているにもかかわらず、半信半疑といった様子で。
たしかに、なんというか…………思い返してみれば、普通の友達同士のスキンシップを超えていたかもしれない。日菜さんに慣れすぎて失念していたけど、よく考えれば私も、最初の頃は動揺していたわけだし。
とかなんとか、考えながらも。私の手はしっかりと動いていて、委員長や日菜さんを誘った時とは違い緊張することもなく、一枚の紙を差し出した。
「はい、これ。私たちが出るライブのチケット」
「は?」
想像通り、とか思ったら失礼かもしれないけれど。市ヶ谷さんは小さな口を大きく開けて、ぽかんとした表情で私の手元へと視線を向けている。
チケットと、私の顔。その二つを交互に見つめて…………それを、何回か繰り返してから。ようやく、現状を理解したんだろう。どこか訝しむような視線を私へと向けて、口を開く。
「まぁ、さっきの話を聞いた時点でそういう流れなんじゃねーかなとは思ったけどさ、いやマジか…………私と奥沢さんって、別にそこまでする仲でもなくね?」
彼女の言っていることは、正しい。それなりに付き合いがあって、時々連絡も取るけれど。それはどちらかといえば事務的な、情報交換という面の強いやり取りであって、特別な関係というわけではない。
分かっていることだけれど。改めて本人から直接口に出されると、ちょっとだけ寂しく感じてしまうのは…………私が彼女に、それなりに気を許しているからなのだろう。
まぁ…………市ヶ谷さん側から見れば、純粋に疑問なのだろう。私だって、市ヶ谷さんから唐突にライブに誘われることになったとしたら。嬉しいことには嬉しいけれど、どちらかといえば、困惑の気持ちの方が強いだろうし。
とはいえ、私もなんの考えもなく彼女を誘っているわけではない。
「ほら、戸山さんから聞いてない? はぐみがさ、戸山さんにチケット渡したらしくて……で、戸山さんが来るなら、市ヶ谷さんも来るんだろうなって思ったんだけど……あれ、来るよね?」
少し意地悪な聞き方だったかもしれない。僅かに頬を染めて、恥ずかしそうにしている彼女の姿を見ていると、ついつい弄りたくなってしまう。
似た者同士であるのは間違いないけれど、彼女は私よりも少し……いや、結構素直じゃないところがあるから。もうちょっと、正直に生きれば気が楽だろうに。
そういうところが、見ていて微笑ましいのだけれども。
「…………たしかに、香澄に誘われたし、一緒に行く予定だったけど。その、なんだ、そもそも私が同伴するのが当たり前みたいに思われてるのが心外っていうか。私、別に香澄の保護者ってわけじゃねーからな?」
「またまた」
「ちげーよ!? マジでちげーからな!? 分かってますみたいな顔すんのやめろ!!」
「あー…………うん、分かってる分かってる。で、どう? せっかくだから使ってもらえると嬉しいんだけど」
逸れつつあった話題を無理やり軌道修正して、半ば押し付けるようにして市ヶ谷さんの手にチケットを渡す。
「…………気持ちは嬉しいけどさ。他にもっと誘うべき相手がいるだろ。奥沢さん、結構顔広いんだから。ほら、鵜沢先輩とか」
「私もそれは考えたんだけど…………先輩に確認したら、グリグリは出演者側らしくてさ」
「マジか…………じゃあ、家族とかはどうなんだよ。呼んであげたら喜ぶんじゃねーの?」
「…………私、いまは一人暮らしだからさ。家族は遠くにいるし、誘えないって」
「あー…………」
胸の奥に感じた少しの動揺に、気がつかないふりをして蓋をする。家族、という言葉が出てくるかもしれないと分かっていたのに。用意していたはずの言葉は、なぜかうまく口にできなくて────。
「────じゃあ、ありがたく貰っとく。余らせるのも、勿体ねーしな」
「うん、ありがと」
「なんで奥沢さんが礼を言ってんだよ、逆だろ普通」
「あはは…………そうかもね」