「────、────♪」
私たちの少し前を歩く彼女から、鼻歌が聞こえてくる。
ここ数日で何回も聞いて、練習したフレーズ。私たちの初めての持ち曲。彼女の鼻歌から生まれた曲が、一周回ってもう一度鼻歌になっている。そう考えると……なんだろう、少し面白い。
「こころちゃん、緊張してなさそうだね」
「まぁ……あの子が緊張しているところとか、見たことないですけどね」
「あはは……たしかにそうかも」
私がこころを見ていたのを察してだろうか。隣を歩いていた花音さんが体を寄せて、小さな声で話しかけてきた。
私が冗談めかして言葉を返せば、柔らかい笑い声が跳ね返ってくる。
前々から穏やかな人だとは思っていたけれど、今日は特にその雰囲気が強い。どちらかというと興奮気味な他の三人とは違って、彼女の心は落ち着き払っている。
保護者のような視線でこころ達を見つめる花音さんの姿は、不思議なくらいに平然としていて。短くもそれなりの経験を共有してきた身としては、逆に違和感を覚えるというか。
正直な気持ちを口にするならば、私は今日この日だけは、彼女こそ一番に落ち着きをなくしてしまうと思っていたから。
ほら、いつもはもっとオドオドしているし。
いまは現実味がなくて、直前になって慌てる……という可能性もありえるけど。なんというか、それもちょっと違う気がする。
聞くか、黙っているか。少しだけ悩んで…………気になってしまったものは仕方がない、そう自分に言い聞かせて口を動かす。
「花音さんは」
「…………?」
「花音さんは、緊張してないんですか?」
「え?」
「ああ、いや…………その、気を悪くしないでほしいんですけど。ちょっと意外というか……花音さんって、あまり自分から人前に出る方じゃないというか。こころと二人で路上で演奏していた時もそうでしたけど、どちらかというと目立つの苦手じゃないですか。だから……や、それが悪いって言ってるわけじゃないんですけど────」
「だから、なんでそんなに落ち着いてるのかなって思って…………あの、すいません、急に変なこと聞いて」
目を丸くしている彼女の表情を見て、言い訳のように言葉が溢れた。なぜか気まずく感じて、自分で話題を振っておきながら勝手に終わらせようとしてしまう。
余計なことをしてしまうくらいには、私も普段通りではないらしい。あるいは……あの朝の出来事が、私のペースを乱しているのかもしれない。いや、言い訳はよくないか。
クスリ、と。控えめな笑い声が、私の鼓膜を僅かに震えさせる。
それが誰のものか、なんてのはいうまでもなく。こころたちが振り返ることなく前を進んでいる以上、含み笑いが聞こえてくるような距離にいるのは一人しかいない。
なんとなくそらしていた視線を元に戻すと……花音さんは、先ほどまでとは違う色の笑みを浮かべていて。それがなんだか、どこかで見たことがあるような気がして。つい見入ってしまう。
私の視線の先で、彼女の口が開く。
「美咲ちゃんって、けっこう心配性だよね」
「そう…………なんですかね。前にこころにも同じこと言われましたけど……そう見えますか?」
心配性、と言われて思い出すのはこころと出会った日のこと。彼女曰く、私は「とても心配性」らしい。
だけどそれは、あくまであの時の私のことであって。今の私としては……自分で言うのもなんだけど、結構落ち着いたつもりでいる。
だから、花音さんの言葉に素直に頷けないんだろう。それでも否定しないのは、こころの言葉を忘れられないからなのか…………あるいは、私が心の奥底では彼女の言葉に納得しているからなのか。
首を傾げていると、花音さんは付け加えるように言葉を続ける。
「うーん……なんて言えばいいんだろう。美咲ちゃんはいつも落ち着いてるし、すごく周りにも気を配ってくれてるんだけど……時々、焦っているように見えることもあるんだ」
「焦ってる、ですか」
今までそこまで意識してなかったことだけど、そう言われてみると、心当たりがないわけでもないというか。今日のために色々と備えてきたのは、もちろんみんなのためって気持ちが大きいけど。実際のところ、そうしていないと自分が不安だからだったのかもしれない。
「美咲ちゃん、とても頑張り屋さんだから。こころちゃんのやりたい事を一生懸命手伝ってて……それは、すごいなって思ってるんだ。でも、なんだろ、うまく言葉にできないんだけど……こころちゃん、前に進むのがすごく早いから。それを追いかけている美咲ちゃんを見ていると、そんな気がして」
「…………」
「私の勘違いだったら、ごめんね?」
「いえ…………なんていうか、参考になりました。たしかにちょっと、頑張りすぎてたところはあるかもしれません」
頑張りすぎ、というのはあくまでも一般的に見た場合の話であって。肉体的にも精神的にも、疲れを感じるようなことはしていない。だけどそれは、自分のことだから理解できているというだけのことだから。
それが悪いことだとは言わないけれど、他の人の視点でみればだいぶ意味合いも変わってくる。
まぁ、なんだろう。たしかにちょっと、張り切ってたところはあるけれど。そんなに分かりやすかったかな、分かりやすかったんだろうな。
もしかしたら、花音さん以外からもそう思われているのかもしれない。やりたいこととか、やらなきゃいけないこととか。その全部を自分で見つけられているわけじゃないけれど、ようやく、少しだけ分かってきた気がするから。
私はたぶん……楽しくて、期待していて。だからこそ、怖くて不安だったんだろう。見えていても、気がついていなくて。こういう気持ち「だろう」と思っていても、理解していなかった。
あ。
そっか…………だからはぐみは今朝、あんなことを────。
「私もね…………不安だけど、もっと練習できたらよかったのにって思うけど、それ以上に楽しみなんだ。だから、落ち着いているように見えるんだと思うよ」
見たことがあるようで、初めて見る表情だった。花音さんのこんな笑顔は、見たことがない。
見ているだけで、こっちまで笑顔になれるような。人が心の底から楽しいと感じている時の、それこそ、こころがいつも浮かべていて……いつも望んでいる微笑み。
そうだった。この人も、あの子が見つけてきたうちの一人で────。
「たぶん、美咲ちゃんと同じだよ」
☆ ☆ ☆
「────美咲っ! 花音! はやく入りましょう!」
「わっ、こ、こころちゃん!?」
「おっと」
私と花音さんに向けて飛び込むような勢いで近づいてきたこころと、そのこころに驚いて転びそうになった花音さん。なるべく衝撃を与えないように気をつけながら、倒れてしまわないように、二人を受け止める。
「こころ、危ないよ」
「ほら、薫とはぐみも二人をまってるわ」
私が受け止めるのを、信じていたのか。あるいは、日常的に黒服の人たちのフォローが入るから慣れてしまったのか。こころは特に気にした様子もなく、自分の足で立ち上がると、私と花音さんの手を引いて歩くことを促す。
花音さんはさっきまでの落ち着きぶりがどこに行ってしまったのか、こころのペースにたじたじだ。嫌ってわけじゃないんだろうけど、こころのこういう強引なところに、彼女は弱い。
こころの肩越しに向こう側を見ると、薫さんとはぐみはこちらを向きながら二人で喋っている。ここからだとよく分からないけど、どうせまた薫さんがいつものように芝居めいたセリフでも口にしているんだろう。
そして、そんな二人のすぐそばには。カフェテリアの目印でもある、大きな噴水がしぶきを上げていて。
なるほど、たしかに。こころがわざわざ迎えにくる訳だと、納得する。目的地を目の前にして中に入るのを我慢するというのは、これがなかなか難しい。こころのように考えたことをすぐに行動に移すタイプならば、なおさら。
つまり、いつのまにか。私たちが目指していた場所に到着していたということで。それはすなわち、私と花音さんはそれなりの時間を二人で喋っていたということでもあって。
焦れったかっただろうし、気になっていたのだろう。
機嫌を損ねたかもしれない……なんて、この子相手に考える必要はないけれど。足並みは揃えておくことに越したことはないし、私はこの場所とバンドをつなぐ窓口なのだから。むしろ先頭を歩いて案内するべきだったと思う。
ただぼんやりと歩いていただけで、思っていたよりも距離が開いてしまっていた。
いつもだったら、もうちょっと気を配っていたはずなんだけど。少しも気がつかなかったあたり、やっぱり私も人並みに緊張しているのかもしれない。
こころに連れられて、二人の元へと足を進める。コンクリートからウッドテラス、道路からカフェテリアへ。それまでの景色から一転して、どこか温かみのある空間へと入り込むこの瞬間が、私は結構好きだった。
変わるのは景色だけではない。周囲の人々だって、先ほどまでとは全く別の姿を見せている。
あの黒髪を伸ばした女の子とか、特にわかりやすい。ギターケースを背負っていて、音楽が楽しいって気持ちが離れていても伝わってくる。
そういう人たちが、集まっている。
この場にいるほとんどの人はバンドを組んでる訳じゃないけれど。音楽が好き……それか、ライブの空気感とかそういうのが好きだから。彼女たちから放たれる感情は、とても耳に心地いい。
バンドをやっている人と、それを見にきた人。この二つのグループが同じ場所にいて、それぞれが色々なものを抱えている。
なんていうか、悪くない。心身ともに引き締まる思いだ。
「あー! 二人とも、やっときた! はぐみ、もう待ちきれないよ! ね、ね、早くいこう!」
「ちょっ、分かったから。落ち着いて」
「シェイクスピアも言っている……お前の光は今、何処にあるっ!」
「薫さんも落ち着いて」
「美咲、ミッシェルは中で待っているのよね? はやくあたしたちに会いたいと思っているに違いないわ! ね、はやく入りましょっ!」
「うんうん、背中を押すのはやめてね」
いつも以上にパワフルというか、落ち着きがないというか。最近は練習に真剣になっていたから、そういう面は鳴りを潜めていたけれど。ここ一番、今日というステージを目の前にして、ついに辛抱が効かなくなったらしい。
颯爽と駆け抜けようとしている薫さんを左手で止めながら、右腕を引っ張るはぐみの力を抑えて、背中を押すこころを宥める。
私がちょっとやそっとのことで体勢を崩すような体幹をしていないのを知っているからこそなんだろうけど。最近は割とみんな遠慮なしに重心を預けてくる。スキンシップは嫌いじゃないし、人の温かさや重みには安心するけれど。それはそれとして、もうちょっと落ち着いてほしい。
いや、ほんと。まだ大人になりきれない年頃とはいえ、私たちもう高校生なんだからさって。いやまぁ、そこまで楽しみにしてくれていたなら色々頑張った甲斐はあるけれど。まだ始まってもいないんだから……この三人に限って「はしゃぎすぎて疲れました」はないとは思うけど。ちょっとハラハラさせられる時もある。
それはもう、まさにこの瞬間のことなんだけど。
でもまぁ、そんな心配が吹き飛んでしまうくらいには。こころ、はぐみ、花音さん、薫さん…………みんなから発せられている感情の機微は、ワクワクやドキドキ、期待に満ちているから。
人の心に触れるということは、影響されるということでもある。その心が熱を持っていれば、触れるだけで自分の心も形を変える。金属のように溶けて…………それが望ましいものであるならば、鉄を打つように。影響されて、変化して、最後には強くなる。
明るい性格の人がいるだけで、その場の空気が柔らかく感じられることがある。楽しいと思っている人が近くにいるならば、不思議と気持ちが盛り上がる。努力ができる人と向き合うだけで、自分も頑張ってみようと思える。
どんな人であっても、他者と関わって生きている。関わりを持つということは、多かれ少なかれ影響されるということで。
それはもちろん、私も例外じゃなくて。そういう、人間らしい反応をするたびに。私は安心して、感情に身を委ねることができる。
単純だなって、思うけど。人によっては、そういう変化を拒むかもしれないけれど。
やっぱり人間って、そういう生き物だから。
だから、今この瞬間。彼女たちから色々な感情を受け取っている私の心は、これ以上ないほど熱を帯びていて。
心臓が大きく音を立てている。アンプを通しているみたいに、体全体に響いている。
暖かくて、熱くて、煩いくらい、静かに燃えている。
形も定まらず、名前をつけることもできない。それでも決して、悪いものではない。
そんな気持ちを胸に抱いて、私は、私たちは。「CiRCLE」と書かれた扉の中へと、足を踏み入れた。
【本日のセットリスト】
ハロー、ハッピーワールド!
1.???
2.???
3.???