この街に引っ越してきてから、弦巻こころは毎日私に会いにきた。
「おはよう美咲! 遊びにきたわよっ!」
彼女がそう言って扉を叩いてからが、一日の始まりだった。彼女は凄く早起きなのだな、ということはこの時になって理解した。
毎朝ちょうど七時。それが彼女がチャイムを鳴らす時間だった。いや、そりゃ私だってまた来てほしいって思っていたけども。流石に別れた翌日の朝七時に遊びにきた時は、ビックリを通り越して唖然としてしまった。
初日なんて、寝床が変わって落ち着かなくてほとんど眠れていなかったから。寝不足の脳が夢だと錯覚し、ドアの向こう側にいた彼女の姿を見て、無意識のうちに抱きついてしまった。
ビックリしたような声と、はっきり感じられる温もり、そしていつの間にか頭を撫でていた彼女の手の平の感触によって正気を取り戻した私は、それはもう見ている方が哀れに思うであろうというほど、慌てふためいて無様を晒してしまった。
そんな私を見て、弦巻こころは。
「美咲って思っていたよりも甘えん坊なのね」
なんて、そんな事を言うから。
赤くなった顔を両手で隠しながら、「今日からは絶対に早寝早起きしよう」と思わざるを得なかった。こんな、恥ずかしい思いをするなんて、と。体が震えて仕方がなかった。まぁ…………少しだけ、喜んでいる自分もいたけれど。
翌日からドアの前で両手を広げて待つようになった彼女は、ワザとやっているならとても意地悪だと思う。たぶん、そんなつもりはないんだろうけど。私がやめてくれと言ったら、寂しそうな表情をしてしまうから。それが彼女に似合わなくて、私はいつも根負けしてしまう。
いや、うん。それはそれとして、ね。
ともかく、弦巻こころは朝早く私の元を訪れて、そして夜になったら帰っていく。
しばらく、そんな生活を繰り返した。
時間の潰し方はその日によってまちまちだった。二人で一緒にご飯を食べたり、出掛けたりというのがほぼデフォルト。
気が向いて羊毛フェルトを実演してみせれば、彼女はそれをえらく気に入ったようで。自分もやりたいとせがむ彼女の小さな手を取って、針を持ち、二人で一緒にフェルトを固める作業を、それなりに時間をかけて行った。
すっかり慣れたのか、物覚えが早い彼女はもう私が教える必要もなく、一人でも黙々と作業をすることが出来る。それはそれで少し寂しいけれど、趣味を共有できるようになった事実は、ことのほか私の心を震わせた。
彼女とともに過ごす日々は私の想像よりも遥かに魅力的で、そして予想を超えて楽しく、ここ数日は笑顔が絶えることがなかったと思う。それくらい、素敵な毎日だった。友達がいるということが、こんなにも日常を充実させるなんて。
世界中の子供たちはみんな、こんなに楽しい日々を送っているんだろうか。友達がいるということが、当たり前の人々は。
そりゃ、口を揃えて言うことだろう。友情は永遠だと。だって、この快楽を手放したくないのだから。
そんな日々を過ごしていたものだから、時間の流れはとても速く感じられて。
気がつけば、私は入学式の前日を迎えていた。
☆ ☆ ☆
「また明日会いましょう!」
弦巻こころはいつも、帰る時はそう言い残していく。そのたびに、目の前から彼女がいなくなってしまうというのに。それでも私は少しも寂しいと思うことがなかった。
それはきっと、分かっていたからだ。
彼女が約束を破ることはないって。私に「また明日」と言ったならば、ちゃんと翌日また会いにくるって。心の底から信じられるようになっていたからだ。
そう、分かっていた。
彼女がなぜ、毎日私に会いにくるのか。それはもちろん、彼女にとって「楽しいこと」だから、というのもあるだろう。というか、そうじゃなかったら会いにきていない。
だけど、それだけじゃないんだろう。
だって、私を見る彼女の瞳はとても綺麗で…………そして、あんなにも優しげなのだから。
彼女は聡明で、鋭くて、超能力者でもないのに、人の心を見透かしてしまうから。私のようにズルをしなくても、人の心を推し量ることができる子だから。
だから彼女は、最初から見抜いていたのだろう。私がこの街にやってきた、あの日から。
私がどうしようもないほど寂しがりやで、自分でも抱えきれないくらいに大きな孤独感に苦しんでいる事を。
余裕ができた今なら分かる。
一人で悩んでいた半年前や、不安に押しつぶされそうになっていた数日前では見えていなかったものが、今の私には見えていた。
思えば、最初からそうだったじゃないか。
一緒に散歩して、アイスを半分こして、二人でずぶ濡れになるまで川で遊んだあの日も、そうだった。
彼女は私を悲しませないように、孤独を感じさせないように、恐怖に押し潰されてしまわないよう。
笑って毎日を過ごせるようにと、その為だけに私に会いにきてくれた。
毎日連絡を取ってくれたのも、それが理由なんだろう。ただ、勘違いしないでほしいのは、彼女が打算だけでそんな行動をしたわけではないということ。
彼女は自分が楽しくて、周りの人が楽しくて、笑顔になれるような行動をとる。
どれだけの善性を持っていればそんなことが出来るのか、分からないけれど。きっと、人の喜びを自分のことのように感じられるのだろう。
だから、あの子がしたのはそこに「奥沢美咲」という存在を組み込んだだけ。
弦巻こころが楽しくて、奥沢美咲も楽しい。そんなふうになればいいと思って、その為に自分ができる事をしてくれた。究極的にいえば自分のためでもあるのだろうけど、結果的に私の心の支えになったのは確かだ。
ああ、私は嬉しいよ。
だってそれは間違いなく、私のためを思って彼女がしてくれた事なのだから。私という存在をその他大勢のうちの一人としてではなく、「奥沢美咲」という少女としてみてくれたからこそ。彼女は私の背中を支え、優しく押し出してくれたのだ。
あなたを悲しませない、あなたを一人にしない。
弦巻こころの行動の全てから、そんな想いが伝わってくるんだ。いや、もしかしたらそんな事は考えていないのかもしれない。自分の欲求に素直に従った上での、本能による行いなのかもしれない。
だとしたら、それは好意から生まれた「誠の行い」なのだろう。弦巻こころという一人の少女の、その人間性をよく表している。
私はすでに、眠れない夜を過ごすことがなくなっていた。
電気を消して瞳を閉じても、もうそこに暗闇は存在していない。虚無感もなければ、孤独を感じることもなくなった。
思えば、夜空だって星がなければ一面の真っ暗闇なのだ。それが「夜空」という名前を与えられる為には、光り輝く幾万もの星々が必要になる。
瞳を閉じれば、そこには幾億もの星々が輝いている。
それは彼女と一緒に作った、沢山の思い出が放つ光だった。記憶が暗闇を照らせば、それは星空に変わる。
約束を交わしたあの日の夜空のように、星が綺麗に瞬いて。
その一つ一つの輝きが、私にとってはかけがえないもので。
そして────────。
その星空で最も強く光を放つ一番星には、名前があるのだ。恥ずかしくて、口にできたものではないけれど。
だから私は、その輝きを守り続けたいと思う。たとえ、何があったとしても。それこそ、世界の全てが彼女を見放しても。私は彼女を、絶対に傷つけさせない。
いや、何からだよって思うかもしれないけど。あくまで、喩えの話だ。
☆ ☆ ☆
「それじゃあ美咲、また明日会いましょう!」
いつものように、こころが別れの挨拶を口にする。私もいつもなら「また明日」と返すのだけれど、今日からはそうもいかない。
そう、学校が始まるのだ。
「いや、ごめん。明日からは遊べないんだ」
その一言を口にするのに、自分でも驚くほどの神経を使った。彼女の気分を損ねてしまうのでないか、彼女を悲しませてしまうのではないか。そう思うと、舌が重くなって動かなかったのだ。
でも、だからといってこのまま彼女を帰すわけにはいかない。だって、もしもこのまま明日も訪ねられたら…………私は一緒にいたがる彼女を置き去りにして、一人で学校に行かねばならないのだから。
それは、辛い。というか、入学式をすっぽかしてしまうかもしれない。新入生代表挨拶も任されているというのに、それは駄目だろう。彼女とどっちが大切かと聞かれたら、そりゃ、迷う必要がないけれど。
弦巻こころは言われたことの意味が分からない、といった表情を浮かべて、両手を腰に当てた姿勢で首を傾げている。
「…………? それはどうして?」
「いや、入学式があるんだ…………っていうか、あんたは学校どうしてんの? そろそろ始まっててもおかしくないと思うけど」
「ニュウガクシキ…………思い出したわっ! 『入学式』ね! あたしも明日入学式に出るんだったわ、奇遇ね!」
心臓が大きく跳ねた。そういえば、今まで彼女の学校について聞いたことはなかった。あるいは、意図的に避けていたのかもしれない。だって、学校が始まってしまったら彼女との時間はグッと減る。少なくとも、今までよりは少なくなるのは間違いない。
だからあえて、口にすることはなかった。いやでも別れを意識してしまうだろうから。
学校が違かったゆえに再開の機会を失ってしまった、あの子のように。連絡手段を確保している今となってはありえないだろうけど、また二度と会えなくなってしまったら。そんな妄想のような思い込みが、私からその話題を遠ざけた。
震えそうになる声を抑えて、なるべく冷静さを保ちながら、話題を切り出す。
「明日…………? って、そういえばあんた学校どこなの? 私は花女だけど」
花咲川女子学園はエレベーター式の学校として有名だ。なんなら、幼稚園まで含んでいる。外部生の受け入れがあるから閉鎖感はさほど感じないけど、それでもお嬢様校としてのイメージが大きいだろう。
もしかしたら、という思いはある。というか、今の私は傍目でも分かりやすいくらい期待しているのだろう。
一貫校であれば、その校舎が併設されているのは珍しくない。花女も例に漏れず、その方式をとっている。
もし、もしも。
弦巻こころも花咲川女子学園の生徒ならば。
花咲川女子学園は小中高の入学式を同日に行なっている。彼女と同じ日に入学式があるのであれば、それはつまり…………。
「素敵! あたしも花咲川なのっ! ね、ね、一緒に登校しましょう! あたし、美咲と一緒に歩きたいわ!」
「────────────」
は、はは。
笑いが止まらない。
こんな、こんなに幸せなことがあっていいのだろうか。大切な友人と、かけがえのない人と、同じ学校に通えるだなんて。そんな、私に都合のいいことがあっていいのだろうか。
だから、お互いをどれだけ思っていたとしても。いや、違う。お互いを思うほどに、物理的な距離というのはより強い障害として目の前に立ち塞がるのだ。
でも、今はそれがない。
弦巻こころと私の関係を阻むものは、この世界に存在していない!!!
学年こそ違うだろうけど、この際それは些細なことだ。他の教室を訪ねるなんてハードルが高いと思われるかもしれないけれど、それはこの子に限っては当てはまらない。
きっと、会いにきてくれる。かもしれない、なんて曖昧なものじゃない。
弦巻こころは私に会いにきてくれる筈なんだ。だって私は彼女の友達で、彼女の瞳に輝く星で、彼女の好奇心を満たせて、それで、それで…………っ!
そう、彼女にとって
「じ、じゃあ、また、明日」
「ええ、また明日会いましょう! 楽しみね、こんなに明日が待ち遠しいって思えるなんて、美咲と
ああ、本当に。明日が楽しみだ。
☆ ☆ ☆
なんて、思っていたのに。
『新入生代表挨拶。新入生代表、奥沢美咲』
「はい!」
名前を呼ばれて、立ち上がる。会場内の視線が一気に集まるけれど、緊張感は全くなかった。
っていうか、それどころじゃなかった。
「暖かな春の訪れと共に、私たちは花咲川女子学園高校の入学式を迎えることになりました。本日はこのような──────」
動揺する心を切り離し、並列思考で役割を分担して、表面上はなんともないように新入生代表挨拶を行う。きっと、人々の目には堂々とした態度で言葉を紡ぐ女子生徒の姿が見えていることだろう。
でも、その内心はこれ以上ないほど動揺していた。
意識を集中させ、視線を動かすことなく
いや、ほんと、なんでなんだ。
人は予想外な出来事に遭遇してしまった時、感情よりも「なぜ?」という疑問が強くなってしまうのかもしれない。なぜなら、今の私がその状態だから。
時間の進みが、いやに遅く感じる。私は心の中で、力が抜けていくような感覚を味わっていた。脱力感というのだろうか。目の前の現実が信じられず、何度も瞬きをしてしまう。いや、あくまで平常の範囲内なのだろうけれど。そう感じてしまうくらいには、私は動揺していた。
「────そして、生涯付き合っていけるような友を作ることができたらなと、そう思います」
顔は、赤くなっていないだろうか。全校生徒の前で、赤面するようなことは避けたい。こんな言葉を聞かれてしまうなんて、密かに抱いていた本当の気持ちを、聞かれてしまうなんて。
ああ、なんでだ、どうしてそこにいるんだ。いや、嬉しい。間違いなく嬉しいと思っているんだ、でも、嘘でしょ? 私は夢でも見ているのだろうか。こんな、こんな事があっていいのか。
粛々と執り行われる入学式。その中で、彼女の存在感だけが、ひたすらに大きくて。
私の方へ大きく手を振る彼女を見て、私は頭を悩ませる。
なんで、ここに居るんだ。ここは、高校の入学式なんだぞ。そこは私の学年が座っている席で、新入生のために用意された席なんだ。
まさか、とは思うけれど。
いや、そうであったらいいなとは思った事があるけれど。だけど、まさかそんな。
あんた、同い年だったのか?
「────────新入生代表、奥沢美咲」
なんとか言ってくれよ、