ifエンド 光るなら
今まで袖を通したことがないような、上等な衣類に身を包み。私は柄にもなく、緊張していた。
今日は八月八日。つまり彼女の…………弦巻こころの誕生日だ。
そして、私と彼女が出会ってからちょうど一年が経った日でもある。
そのことを知って驚いた。まさか自分の誕生日に、入っていたはずの予定も全てすっぽかしてまで、私を探してあの丘へと追いかけてきてくれていたなんて。そこまでして私のことを気にかけてくれたなんて、思っていなかったから。
だからそれを知った時、私の心の中にあった不安がすべて消えて無くなったのだ。
私は彼女の誕生日を引き換えにしてでも手に入れる価値のある、彼女にとっても特別な存在だったんだと。そう確信することができたのだから。
不安が消えて、かわりに愛おしさが溢れ出した。思わず抱きしめて、貪るような口づけをしてしまったけれど、彼女は私を受け入れてくれた。
もとより、キスは初めてではなかったけど。
私がまだ、彼女の気持ちを繋ぎとめようと必死だった頃。私は一度、とんでもない予知夢を見てしまったのだ。
それは私が彼女に対して、周囲の視線も考えずに口づけをしてしまう。という内容だった。いやいや、流石にそれはどうなのって思わなくもないし、その未来を回避するための行動もしようとした。
でも、それが出来なかった。
私は彼女のことを特別だと思っていたけれど、彼女が私のことを特別だと思っている確証は持てなかった。人の心が読めても、その真意を理解できたとしても、彼女の、弦巻こころという広大な宇宙を全て把握しようなんてのは、あまりにも無謀だったのだから。
ずっと怯えていた。あの子が私に飽きて、次の「楽しいこと」を探し始めたとしたら、二度と立ち直れない自信があった。
だから予知夢で見た彼女の言葉が、あまりにも、私の求めていたもので。私はどうしてもその可能性を、現実のものにしたいと思ってしまったのだ。
初めてのキスは、不思議な味だった。
彼女の唇はとても小さくて、それでいてとても柔らかく、同時に押し返すような弾力があった。夢で見た光景には、当たり前のことだけど感触がない。もしもあの予知夢で見た未来を避けようとしたら、私は彼女の唇の感触を知ることはなかったのだろう。
それが、癖になった。こんなことを言ったら失礼だけど、まるで夢魔に生気を抜かれてしまったようだった。
その日に入っていたアルバイトの研修も日程をズラしてもらって、私は彼女を家に連れ込んだ。夢中だった。時間も忘れて貪った。いつも寝ている布団の上で、親鳥が子供に餌を与えるように、二人で重なり合った。
勘違いしないでほしいのは、私はキス以上のことをしていないし、求めるつもりもないということ。親愛を確かめるための行動であって、そこに他の欲求は存在していない。まぁ、彼女からそれ以上を求められたら、断れる気がしないけど。
ともかく、私たちの秘め事はそうして始まりを告げた。
人の目を掻い潜って、二人で身を隠して、何度も口づけを重ねた。それはもう、まるで行為を覚えたばかりの発情期の獣のように。私は彼女を求めて、彼女はそれを受け入れてくれた。
彼女は私が求めているものを、正確に理解していたのだ。私は愛情に飢えていて、その欲望の全てが自身に向けられていることを、しっかりと把握していた。そしてその上で、生来の純粋さはかけらも失われていなかった。
私が我を失って、ただ彼女の名前を呼び続けるだけの状態になっても。彼女は、こころは、私の瞳を正面から見つめて、そして私を抱きしめてくれた。
それが、どれだけ嬉しかったか。
どれだけ心が満たされたことが。
もう二度と、この子から離れられない。そう思った。
私が彼女の家にお世話になるまで、時間はそうかからなかった。なるべく沢山の時間を、彼女と過ごしたかったから。
だから彼女の方から一緒に暮らすという提案が出た時は、一も二もなく飛びついてしまった。思えば、あれは流石にがっつき過ぎだったかもしれない。
でも、仕方がないじゃないか。
好きな人と同じ屋根の下で過ごせるなんて。それが、なんて幸せなことか。まるで、私とこころが『家族』になれたみたいじゃないか。
借りていたアパートは、そのままにしておいた。こころがそれを望んだからだ。たまに、あの狭い場所で二人で過ごしたくなるらしい。物好きだなって思わなくもないけど、気持ちは分からなくもないんだ。
あの部屋で、二人で一緒に遊ぶ。それが私たちにとって大切な思い出で、一つの世界のようなものなんだから。
えっと、なんの話だっけ。
そう、今日はこころの誕生日であり、私と彼女が出会った記念日でもあるということ。
彼女と出会えたからこそ、今の私がいる。
だから今日は、その気持ちを彼女に伝えたい。私は、奥沢美咲は────あなたを、愛しているんだと。
☆ ☆ ☆
「あたしの誕生パーティに集まってくれてありがとう! 大勢集まってくれてとっても嬉しいわ!」
赤いドレスのような衣装を着て登場した彼女が、あんまりにも綺麗だったから。だから、思わず見惚れてしまった。
同じ歳なのに、私よりもずっと綺麗だ。鮮やかな金の髪と目を持つ彼女には、赤い色がよく似合う。
それを見つめる私はというと、黒いスーツに身を包んでいた。まるで、というよりも、まんま男性用の正装だけど、これで問題ないのだ。時折変なものを見る視線を向けられるけど、それも気にならない。ここ数ヶ月の間で目立つことにも慣れてきた。なにせ、あのこころと一緒に過ごしているのだから。いやでも視線を集めてしまうのは仕方がないだろう。
まぁ、私のあの行動も注目される原因の一つではあるんだろうけど。クラスメイトのみんなも特に気持ち悪がることなく接してくれるから、いい人たちだと思う。
そうしているうちに、出遅れてしまった。
こころの周りには彼女に祝いの挨拶をするために集まった大人たちが沢山いて、とてもじゃないけど近づけそうにない。
少し前までの私なら、彼女の姿が隠れただけで不安に思っていたのだろうけど。でも、今の私はもう大丈夫だ。
なにせ、毎日二人で愛を確かめ合っているのだから。不安に思う余地が残っていないのだ。
「みーさーきーちゃん!」
こころが解放されるのを手持ち無沙汰に待っていると、後ろから衝撃を受けた。首元に二つの手が回っている。ああ、抱きつかれているんだなって。間抜けな表情でそんなことを考えた。
下手人が誰なのかは、分かっている。っていうか、こんな事をする人はこころを除いたら一人しかいない。
「あなたも招待されてたんですね、日菜さん」
そう口にしながら振り返ると、そこには白いドレスに身を包んだ少女が立っていた。年上の女の人に、少女というのはどうなんだって思わなくもないけど。まぁ、ある意味子供のような人だから仕方ない。
「えへへ、きちゃった! というか、美咲ちゃんなんでスーツなの? 変なの、おもしろいね!」
「いや、相変わらず歯に衣着せぬ物言いですね。流石に少しくらい言葉を選びましょうよ」
「えー? だって変じゃん、似合ってるけど」
「ありがとうございます。日菜さんも…………その、似合ってますよ」
「えへへ、そう? まぁ、日菜ちゃんは天才だからね!」
「いや、天才は関係ないと思うんですけど…………」
この人は氷川日菜。弱冠16歳にして世界中から注目される有数の数学者であり、宇宙開発研究者でもあり。そして同時に、今をときめくアイドルバンドグループのギタリストでもあるという…………なんか、もう、色々と設定を詰め込みすぎな天才中の天才少女だ。噂では、「アイドル界のジェームズ・モリアーティ」とまで呼ばれているらしい。いや、なんだそれ。
私は出会うまでこの人の存在を知らなかったけど、それはそれとして。
彼女が世間にその名前を轟かせたのは、およそ六年前。つまり、彼女が十歳の頃。
ミレニアム懸賞問題やその他未解決の数学的な問題を多数証明し、それが正式に認められ、一躍有名人となった、らしい。近年では教科書にまで名前が刻まれた、まさに生きた伝説だとか。
彼女は口癖のように「どうしてみんな、こんな簡単な事がわからないんだろう」と言っては、沢山の人々が頭を悩ませてきた問題を軽々と解き明かしているらしい。
そんな彼女とどうして知り合うことになったかというと、それはまぁ、言ってしまえばいつものこころの発作による影響が大きい。
都市開発を行ってから、この街には宇宙開発センターが作られた。そこでは日夜、宇宙のあれこれについて頭のいい人たちが色々な研究を行っているらしく、まぁ、なんというか、日菜さんもその「頭のいい人たち」の一人だったのだ。
「バイトみたいなものなんだけどね」とは、本人の談だ。流石に理事長なみの発言権を持っているのにその言い様は無理があると思ったけど、別に気にするところでもない。
ともかく、こころの「火星に行ってみたいわね」という突然の思いつきによって、私と彼女は宇宙開発センターを訪れることになった。黒い服の人達が手配していたのか、理事長直々に出迎えにきた時は流石に驚いた。
そして、その理事長の隣で笑っていたのが、この氷川日菜さん。
初めて出会うのにやけにフレンドリーというか、距離感が近いのが印象的だった。変わり者どうし気があうのか、こころともすぐに打ち解けていたけど。私に対する態度はそういうんじゃなくて…………なんだろう、旧知の仲に対するそれだった気がしなくもない。まぁ、私の気のせいだと思うけど。
そんな経緯があって、こうして交友関係を結ぶに至った。天体観測に行ったり、豪華客船に乗ってゲームをやったりした。私とこころの二人の空間に他の人が入り込んできたのはちょっと面白くなかったけど、彼女もそれを察しているのか、決して一線を超えないように配慮してくれている。その配慮を少しは普段から行ってほしいと思ったけど、なんだ、あまり期待はしていない。
「失礼、少しお時間を頂けますか」
日菜さんと会話をして時間を潰していると、男の人が声をかけてきた。金髪をキチッと揃えた、清潔感のある外国人男性だ。なんというか、威厳が溢れている。それなりの立場についているんだろう。っていうか、ここにいる人達みんなそんな感じの人ばかりだけど。いや、ほんと何者なんだよ弦巻財閥。
「あれ? 長官じゃん、どうしたの?」
「えっと、日菜さんの知り合いですか?」
「そーだよ。NASAの長官。研究関係でよくお話しするんだよね」
なんか凄い名前が出てきた気がする。
NASAってあれだよね、アメリカのなんか凄い宇宙関連の組織。
「お久しぶりです、ミス・ヒカワ。先日の論文も大変興味深い内容でした。ところで…………もしかして、こちらが例の?」
「ああ、うん。そうだよ、紹介するね。
「ミサキ…………ということは、やはり?」
「あっちにいるこころちゃんの、
「ちょっ、日菜さん、何を」
本人を目の前にして繰り広げられる会話に、思わず口を挟んでしまう。長官と呼ばれた男性はこちらへと視線を移し、朗らかな笑みを浮かべて手を差し出してきた。
「NASA長官の、マイケル・シェイといいます。ミス・オクサワ、お会いできて光栄です」
「あ、いえ、奥沢美咲です。ミスタ、その、こちらこそ、お会いできて光栄です」
「あはは! 美咲ちゃんすごく吃ってる! なんでー? おもしろいね!」
緊張してるんだよ! と、流石にここで叫ぶわけにもいかず。私は曖昧な笑みを浮かべながら、目の前の男性と握手を交わした。
「では私はこれで。ご友人との歓談中に申し訳ありませんでした」
「気にしないでいいのに。じゃあ、またこんど連絡するから! ばいばーい!」
「ミス・オクサワも、どうかくれぐれも体調にはお気をつけください。またお会いできる日を、楽しみにしています」
「えっと、こちらこそ?」
最後に日菜さんに耳打ちしてから、マイケルさんは去っていった。本当に、挨拶をしにきただけみたいだ。あそこまで緊張すること、なかったかな。
そんなことを考えている私の顔を、日菜さんがニマニマと笑いながら見つめている。なんだ、何か言いたいことがあるなら言えばいいじゃないか。
「美咲ちゃんも馴染まないよね! こころちゃんと付き合っていくんだったら、こういうことも沢山あるんじゃない? 早めに慣れた方がいいよ」
「とは言っても…………流石になんか、だって長官って」
「
そう口にした瞬間、日菜さんが纏っていた雰囲気が冷たいものへと変わった、気がした。私の気のせいかもしれないけど…………それでも、さっきまで仲良く会話していた時とは、あまりにも違っていて。私は彼女の、そういうところが、ちょっと苦手だった。
「まぁ、頭はキレる方なんじゃないかな。日菜ちゃんほどじゃないけど」
「…………私、日菜さんのそういう何も恐れないようなところ、少しだけ尊敬しますよ。いや、ほんとに」
「ほんと? 嬉しいな〜」
もう声をかけられることはないだろう、と。日菜さんと話しながら、そう考えていた。きっと、人はそれを油断と呼ぶのだろう。
「失礼、お二方。少しよろしいですか」
「あれ、久しぶり! どうしたの?」
「…………また、日菜さんの知り合いですか?」
「昔ちょっと話しただけなんだけどね。ほら、テレビで見たことない? この国の防衛大臣」
「は?」
「その節は大変お世話になりました。ところで、申し訳ないのですが…………こちらの方を紹介していただけますか?」
「いいよ〜! こっちは美咲ちゃんっていってね────」
☆ ☆ ☆
無駄に疲れた。あの後も総務大臣だとか文部科学大臣だとか、そんな感じの偉い人達がひっきりなしに現れては消えてを繰り返していったせいで、私の精神は大きく消耗してしまった。多分、名乗っていった人のうち半分くらいは覚えていないと思う。もう一生分の緊張を使った気がする。
ちなみに日菜さんはしどろもどろに対応する私を見て終始爆笑していた。というか、あの人結局最後まで誰にも敬語を使わなかったな。大物なのか、不遜なのか。いや、両方か。
その日菜さんも、いつのまにか姿を消していた。「るんってきた!」とかなんとか言って、煽るだけ煽っていなくなるとか、ほんと、なんなんだろうあの人。何がしたいのか全くわからない。天才の考えることは理解しがたい。
とりあえず、今は腹ごしらえだ。弦巻家主催のパーティーだけあって、用意されたものは質も量も段違いだ。
…………いや、普段から割といいものを食べさせてもらってるんだけどね。頑なに食費を受け取ろうとしなかった黒服の人たちに押し付けた金額、絶対に足りてない自信があるけど。
周りの視線を感じる。でも、いまさらだ。
下品にならないよう、テーブルマナーを破らないように気をつけて、なるべく早く多量に咀嚼する。机の上に並べられた料理の数々が、ブラックホールに飲み込まれるように消えていく。そして皿の上の物がなくなる頃には、次の料理が追加される。多分、黒服の人たちの仕業だろう。相変わらず、あまり姿を見せないように働くんだな。
喧騒が大きくなる。流石に異次元な消費をしすぎただろうか。
口からはみ出しそうになるパスタを無理やり口の中に押し込み、一息で飲み込む。
時計を見てみれば、それなりの時間が過ぎ去っていた。私の出番も近い。
席を立とうとした私の隣に、誰かが座った気配を感じた。口元を拭きながら視線を向ければ、そこには輝く瞳を携えた最愛の友が、にこやかに私の顔を見つめていた。
見られた。顔が、熱くなる。
「あら、もうお腹いっぱいになったの?」
「まぁ、それなりには」
両腕の肘を机に立てて、両手を頬に当てた弦巻こころが、いたずらな微笑みを浮かべて私に囁いた。
私がこころに想いを寄せるようになってから、彼女は少しだけ、こういう表情も見せてくれるようになった。
なんというか、私を見る目がすごく優しいのだ。それが私だけに許されたものであったとしても、その瞳だけは…………どうしても、直視できない。恥ずかしくて、仕方がないんだ。
ソースが跳ねていないか、服装は乱れていないか。彼女の目の前ではなるべくいいところを見せたいから、そればかり考えてしまう。まぁ、もう凄く…………すっごく! 情けない姿を見せているから、今更かもしれないけれど。
あっ、そういえば。まだ、言ってなかったな。
「こころ、誕生日おめでと。まあ、これからも…………末永くよろしく」
「ありがとう、嬉しいわ! あたしこそ、よろしくお願いするわね!」
ああ、これだ。私はこの笑顔を、自分のものにしたかったんだ。だけどそれは難しくて、手に入らないから苦しくて。
でも、もう叶ったよ。だって、ほら。見えているでしょ?
君の瞳に映る私の笑顔は、こんなにも輝いているんだ。こころ、あんたの笑顔にそっくりじゃないか。
ようやく、私は自分を好きになれそうだよ。あんたに出会って、私は変わることができた。だから、もっと私に色々なあんたを見せてほしい。
奥沢美咲の心の中に、あんたの存在を刻みつけてほしいんだ。
「そういえば美咲、その服装…………とっても素敵ね! あなたには黒い服も似合うと思っていたのよ!」
「こころ、あんたもそのドレス……よく似合ってるよ。ほんと、綺麗だと思う」
「あら、ありがとう! …………でも、どうしてスーツ姿なのかしら。サングラスをかけたら、黒い服の人達と見分けがつかなくなってしまいそうね!」
「いや、流石に私のことはちゃんと見つけてほしいんだけど」
「冗談よ。私が美咲を見失うわけがないじゃない」
「…………驚いた、こころも冗談が言えるようになったんだね」
こころはニコニコと音が聞こえてきそうな笑顔のまま、それ以上は何も言わなかった。でも、私にはわかった。彼女の瞳を見つめている、私には。
彼女の考えていることが、思っていることが。口で語るよりも雄弁に、沈黙よりも奥ゆかしく、表情で示すよりも華やかに。直接、心の中に伝わってきた。
幸せとは、こういう事をいうのだろう。愛も、友情も、そして…………信頼も。ここには、その全てが揃っているのだから。
「奥沢さま、準備が完了しました」
「いつもありがとうございます」
「いえ、それがこころ様の為になるのであれば。いや…………違いますね、笑顔のためになるのであれば。我々は協力を惜しむつもりはありません。陰ながら、という形になってしまいますが、ね」
今日は本当に、珍しいことがおこるものだ。あれだけ自分たちの役割に準じている黒服の人が、自ら考えを述べるなんて。
いや、それを言ったら私もか。
まさか、一度手放したものを、もう一度手に取ろうとするなんて。
席を立ち、黒服の人たちに導かれるまま、会場をいく。
振り返れば、こころは不思議そうな顔で私のことを見つめていた。さっきまで大人びた雰囲気を出していたというのに。今の彼女はまるっきり子供のようで、そのギャップで、自然と微笑みが浮かび上がってくる。
その瞳に視線を合わせて、一瞬だけ、気持ちを伝える。
【見てて、私の全てを】
すぐに心のパスを切った。答えを聞く必要なんてない。私は彼女を信じて、ただ、自分のやるべき事をやればいいのだから。
これが私から彼女への、今できる精一杯の贈り物。
こころ、私の宝物。私の気持ちを、あなたへと届けます。
☆ ☆ ☆
最初に感じたのは、静寂だった。
でも、それは決して悪い意味でのものではない。どちらかというと、なにかが始まる前にそっと息を潜めてしまうような。期待半分、興味半分の静けさ。
会場に流れていた音楽が止まった事で、人々が私のいる方へと視線を向ける。
ピアノの演奏をしていた奏者が席を立ち、私に一度だけウィンクしてから、会場の壁際へと消えていった。
もう、何度も見た顔だ。中途半端で投げ出していた私に、ピアノを教えてくれた先生。たった二ヶ月程度のレッスンだったけど、彼女は私に確かな技術を与えてくれた。
その先生へ一度だけ礼をして、ピアノへと足を進める。
会場全体に一礼して、席に着く。
会場にいる人たちの、その全ての視線が私に向いている事を、肌で感じた。ウェイター達ですら、その手を止めていた。まぁ、すぐに自分たちの仕事に戻ったけれど。
鍵盤の上にそっと、指を置く。
私を見ていてくれ、こころ。聞いてくれ、この曲を。
君のそばにいて、気がついたことがいくつかある。
それは言葉にすれば語りきれないほど、私にとっても大切なことで。その一つを、君が楽しそうに口ずさむ鼻歌から貰った元気を。君に返そうと思う。
作曲なんてやったこともなかった。やる事もないって思っていた。でも、君があんまりにも、楽しそうに歌うから。
それを鼻歌のままで残して置くことが、すごく勿体無いと思ったんだ。ちゃんとした形にして、世の中に残しておきたい。
弦巻こころという太陽が照らしだす、眩しい光のようなこの歌を。
私の、
────光るなら。
☆ ☆ ☆
私の指の一つ一つが音を生み出し、旋律となって響き渡る。たとえ静寂が失われても、それは決して和を乱すことはない。
染み渡るように、心の中を照らし出すように。音は光となって、全てに降り注ぐ。
見えるんだ、人の心が、感情が。
聞こえるんだ、喜びも、悲しみも、
色のない世界が、鮮やかな色彩で満たされた。あの夏の夜のことを、あなたは覚えていますか。
暗闇でしかなかった。恐怖の対象だったあの夜空を、ただ暗いだけでなにも見えなかった闇を照らしてくれたのは、あなたの言葉でした。
たった一つの言葉。それが音になって、光になって、暗闇を引き裂き…………私にもう一度、星空の色を思い出させてくれたんだ。
それがどれだけ凄いことなのか、あなたには分からないと思う。太陽が光を放つのは当たり前のことで、それは自覚してやっているわけではないんだろうから。
だから私が、それを歌にするよ。
あなたの輝きを、心を、想いを。他の誰でもなく、私が讃えるよ。
光を与えるだけじゃないんだって。
太陽だって、光を浴びていいんだって。
星の輝きは、その一つ一つが大切な思い出。君と過ごして手に入れた、何者にも変えがたい光の旋律。
繋げば夜空に絵を描き、名前をつければ息吹が生まれる。
私の想いよ。臆病で、誰にも見られたくなかった、弱き心よ。それでいい、それでもいいんだ。
だって歌えば、笑えば。自分から姿を見せるだろうから。人は言葉一つ、音一つで、どこまでも変わっていける。
それはあなたなんだ、あなたが教えてくれたんだ。
だから今度は、私が伝える番。
手放した過去を取り戻して、立ち止まっていた心を走らせる。もっと、もっと早く。もっと遠くまで。
届け、届け! 私の想い!!
私があなたに、光を────!!!
☆ ☆ ☆
不思議だ、本当に不思議に思う。
見えるはずのないものが、私の瞳に映っている。
鍵盤を叩く私の隣に、幼い頃の私自身の姿が見えるんだ。無邪気に、子供のように、楽しそうに。リズムもへったくれもないけれど、ピアノを弾いている。
そのさらに奥からは、妹が。六年前よりも、もっと小さい頃の姿で。私の手元を覗き込もうとしている。いや、身長が足りていないけれど。
そして後ろには母が立っている。まだ歩き始めたばかりの弟と、手を繋いでいる。
そしてその肩を、父が支えていた。
思い出した。私は、私はこの景色を見たことがある。そう…………これは、私の過去だ。もう思い出せないほど遠い昔の、悲しみと絶望で覆い隠されてしまった、幸せだった頃の記憶。
この頃はまだ、両親は家族のことを愛していたのだろうか。分からない。目先の感情に失望して、その奥底を覗こうとしなかった私には、一生わからないことなんだろう。
でも、それでもいいんだ。もう、それでいい。
だって私は、とっくの昔に救われているんだから。あの子に、弦巻こころに。
だからこれは、ただの未練だ。心の奥底に残された、家族という存在に対する願望。
幼い頃の私が、手を止める。
今の私は、奥沢美咲は。止めないし、止められない。
その違いはまるで、大きな壁のようで。だからきっとこれは、決別なんだと思う。
『ねぇ、もう大丈夫?』
私の過去が、語りかけてくる。
────ああ、ああ! そうか! そうだったのか! 私の心を、壊れそうだった孤独を埋めてくれたのは、いつだって貴方達だった!! 思い出の中にしか存在しないけれど、それでも確かにそこにあった、私の大切な宝物!!
だから気づいた。子供の姿の私の指が、これ以上ないほど傷ついていることに。きっと、ずっと…………六年もの間、私の心の中で、絶やすことなく、この音を────。
涙が溢れて止まらない。それでも、手は止まらない。目で見えていなくても、私には目の前の全てが見えている。
震える唇を動かして、そっと囁いた。
────もう、大丈夫だよ。
『そっか、じゃあ…………さようならだね』
────うん、さようならだ。
最初に、父が消えた。次に、母が。弟が、妹が。私の心が見せた幻覚が、私が望んだ光景が、一つ一つ、糸がほつれるように、輪郭がぼやけ、姿を消していく。
それはまるで、光の螺旋が空に登るように。私自身が見せたものであるというのに、私の知らない輝きを宿して、虚空へと散っていく。
そして最後に、過去の私自身が光になった。それは家族のように消えることなく、私の周囲を蛍のように漂い、彗星の尻尾のような軌跡を残して、宙を舞う。
その光が向かった先には…………私の演奏で一人歌を唱う、彼女の姿があった。ああ、そうか。あんたもやっぱり、彼女のことが好きなんだね。
こころ、私はあんたのことが好きだ。愛している。家族のように、友人のように、恋人のように。その全てが正しくて、きっと全てが間違っている。
あんたへのこの想いは、そんな言葉では伝えきれない。
だからこそ、この力で伝えよう。
音に感情を乗せる。なんて、よく使われる言い回しだけど。私のそれは、喩え話なんかじゃない。
思っていること、感じていること。その全てをテレパシーで伝える。
この力には明確な『向き』があるから、他の人たちには聞こえないだろう。でも、きっと少しだけ、伝わってしまうかもしれない。
彼女に向けたこの気持ちは、こんなにも大きくて重いものなのだから。
器用に全てを一人に伝えるなんて、できっこないよ。
ねぇ、こころ。聞こえていますか?
────聞こえているわ。
そうか、そうなんだ。
ああ、それなら、うん。
本当に、よかった────。
☆ ☆ ☆
「あら、どうしてそんなところで立っているの? もっとこっちへくればいいのに」
「無理、無理! は、恥ずかしいって」
「…………? どうして、いつも一緒に寝ているじゃない。何を恥ずかしがる事があるの?」
「それは、だって、今日の、あの演奏で、あんな」
「あたしは嬉しかったわよ! 美咲の『好き』って気持ちが、たくさん伝わってきたもの! ね、はやくこっちにきて。あたし、ドキドキが止まらないの。あなたの鼓動を感じていたいのよ!」
「また、恥ずかしげもなく、そんな台詞を」
演奏はこれ以上ないほど、大成功だった。技術自体はプロと比べれば、そりゃあ拙いものだったかもしれない。
でもそこは、文字通り「気持ちでカバー」した。してしまった。
そう、こころが言う通りだ。私の「好き」と言う気持ちが溢れ出して、それが人々の心に響いたらしい。
一夜限りの、たった一度の音楽会。それなのにも関わらず、沢山の人が私の演奏を褒めてくれた。そこに混じり気は一つもなくて、全員が心の底から笑顔を浮かべていた…………何人か感極まって泣いていたけれど、それでも笑顔を浮かべていた。
そして、パーティも終わりを告げて。
私はなぜか、こころの寝室に連れ込まれていた。いや、いつも一緒に寝ているけれど。それは、その、意識してのことではなくて。
だから、その、今日は、今日だけは勘弁してもらえませんか?
だって、こんなにもこころを意識してしまっている。
「むぅ、美咲は意地悪なのね」
「意地悪って、いったって」
「あんなにあたしを求めてくれたのに、それであたしから美咲を求めたら、手を引いてしまうんですもの。これが意地悪じゃないなら、なんていうの?」
「うっ、で、でも」
「美咲」
こころが座ったまま、両手を広げる。それは言葉で表すなら、子供が抱っこを求めているような姿勢。でも、私にはその意味がわかる。分かってしまう。
「おいで」
母親が幼子にするような、そんな呼びかけだった。普通だったら、屈辱に思うのかもしれない。だって、私は、もう十五歳なんだ。こんな、こんな扱いをされて、そんな、子供扱いみたいな、でも、でも────。
「ふふ、捕まえたわ。もう離してあげないんだから」
耳元でそう口にした彼女の、その小さな唇を。私は────────。
まぁ、これ番外編なんですけどね。
気分と筆が盛り上がりすぎて、なんやかんやで初めて10000字超えましたよ。正直途中から「えっ、最終回かな?」って思ってました。ただの番外編です^ ^ 完走した感想ですが、いや、あの、寝てないんですけど! って感じです。
この世界線はまぁ、平和な終わり方をしたほうだと思います。本編があまりにも辛い(特にグラスが割れた件)という感想をいただいたので、私の精一杯の光をもって返答としたいと思います。ぱっと見トゥルーエンドに見えるけど、これハロー、ハッピーワールド! が結成されてない世界線ですからね。それはハッピーエンドじゃないかなって。ベターエンド?
勝手に「光るなら」を美咲の作詞作曲扱いにしてごめんなさいって感じです。でも、これが一番強いかなって思ったので、理想編成で攻めました。曲名出すのはセーフだよね?
あと、最後に。弦巻こころさん、本当に誕生日おめでとうございます! この物語を以って、お祝いの言葉としたいと思います。
ごめん、これが本当に最後なんですけど、どうしても言いたいことが。
啄むようなお子ちゃまバードキスで必死にへたっぴな愛情表現をする奥沢美咲の概念を広めていけ!!