プロローグ えがおのオーケストラっ!
彼女の顔を見た瞬間、思わず抱きしめそうになった。理性とプライドを総動員してそれを避けたことを、褒めてやりたいくらいだ。
楽しそうに笑う彼女へ微笑み返し、朝の挨拶を口にした。
「おはよう、こころ」
何度も鏡の前で練習したんだ。彼女に見せるための笑顔を、何度も、何度も。それがハリボテであったとしても、心の中がどれだけ傷ついていたとしても。
それを彼女の前では、絶対に表にしないって。
あの時誓ったのだ。
弦巻こころの前では、彼女にだけは、笑顔を見せ続けるって。たとえ、どんな事があったとしても。
もう二度と、彼女に心配をかけたくなかったから。
だから、そのために、出来る限りのことをしたんだ。
いつもより早く起きて、見ていられないほど酷い顔を化粧で誤魔化した。鏡に映る私は、それはそれは血の気が引いた顔色をしていた。
まるで何日も満足に寝ていないかのような、生気を感じられないそれを彼女に見せるのは、憚られた。
目の下のクマを消して、念入りに整えて。ようやく、人に見せられるような面構えになった。今までこんなに、他の人からどう見られるのかを意識したことはなかった。
表情も、声も、たぶん、いつも通りだろう。
昨日出てしまったゴミも、全部朝イチでアパートのゴミ捨て場に出してきた。後でもいいかと考えたけど…………なんとなく、部屋に残したくなかったから。だから、全部出してきた。あのグラスも一緒に。思い出の品であっても、壊れてしまえばただのゴミなのだから。
あとは全て、いつも通りのはずだ。
大丈夫だ。遠視で自分の顔を映し出しても、何の違和感も感じない。私自身、そう思うのだから。たとえ相手がこころであっても、騙し続けられる自信がある。
彼女を騙すことに、抵抗はあるけれど。
それでも、心配をかけるよりはましだから。
彼女の重荷にはなりたくない、迷惑はかけたくないんだ。
だって私は、わたしは、彼女の隣に立つに相応しい「私」じゃないといけないんだ。もしも彼女の邪魔になってしまうような事があれば、自分で自分を許せなくなる。
彼女の役に立たないと、彼女の望む私でいないと。
そうしなければきっと、私の居場所は失われてしまう。あのドラムの少女に、ううん、彼女だけじゃない。私なんかよりもよほど魅力のある誰かに、奪われてしまう。
だから笑うんだ、笑わないと。
いやだ、捨てられたくない。
彼女はロケットみたいに前ばかり見ている人から。彼女にそのつもりがなくても、後ろで躓いてたらきっと、置いていかれてしまう。
私の手の届かないところへと、羽ばたいてしまう。自分の感情に絡め取られて、身動きのできない、私を置き去りにして。
いや、そんな事はない。分かっている。彼女はきっと、私を待っててくれる。はやる気持ちを抑えて、前へと進みたい足を止めて。
でも、もしそうだとして。
その瞳に映る感情が、好意的なものじゃなくなってしまったら。
足手まといを見るような、道端の石ころを眺めるような。そんな、いやだ、違うんだ、私はあなたの邪魔になんてならない。絶対に、ついていくから。ついていってみせるから。
いつかきっと、この気持ちにも決着をつけるから。
こんな、友人に向けるべきではない、気持ちの悪い感情なんて、無くしてみせるから。
だからお願いだよ。今だけはなにも、気づかないでいて────。
そう、願っているのに。
「美咲、どうしてそんな顔で泣いているの?」
★ ★ ★
────はっ、はっ、はっ。
まるで、犬のように荒い呼吸だった。上手く息ができない。自分の体なのに、思うように動かない。
胸元のボタンを開け、呼吸がしやすいように気道を確保する。両手を胸へと押し付けて、過呼吸になりかけている自分を押さえつける。
────はっ、はっ、はっ。
止まらない。ダメだ、苦しい。息ができない。いつのまにか涙が流れて、布団の上へとこぼれ落ち、小さなシミを作る。
視線を周囲へと動かせば、枕元に置かれたコップに、飲みかけのお茶が入っているのを見つけた。
とっさに手を伸ばして────震える手がコップを取りこぼし、中身が地面へとぶちまけられた。なんて、情けない。自己嫌悪の感情が吹き出して、さらに呼吸が荒くなる。
涙の溢れる両目をギュッと握って、ベッドに横になる。胎児のように体を丸め込んで、自分の体を抱きしめた。無力な子供のように。
ただ、この嵐のように訪れた苦しみが去っていくのを、身を潜めて待ち続けた。
────はっ、はっ、はっ。
────はっ、はっ、はっ。
────はっ、はっ、か、ひゅ。
────ひゅー、ひゅー、ひっ。
────ひっ、ひっ、はぁ、は。
どれくらい、そうしていただろうか。呼吸のリズムは一定の間隔を刻み、上手く空気を取り入れられない苦しみも、スッと消え去った。
それでも、私はベッドから立ち上がる事ができなかった。
閉じた瞼の裏に映っているのは、先ほどまで見ていた夢の内容だった。
ダメだ、無理だった。弦巻こころを騙すことなんて、出来っこなかったんだ。
嘘が下手で、演技のできない私だから、ダメだった。両親に似なくてよかったと思っていた私の性格が、今はこれ以上ないほど、憎らしかった。
私だって、彼女の前で偽ることなんてしたくない。いつものように心地よい感覚の中で、友達と一緒に通学路を歩きたい。
本心からの笑顔で、彼女と触れ合いたい。
でも、ダメなんだ。今の私はきっと、おかしいんだ。
だって、あの子の顔を思い浮かべれば、いつも胸があったかくて。どんな時でも頑張れるって。そう思っていたはずなのに。
今はこんなにも、胸が苦しい。彼女が私以外を求めただけで、私以外にあの言葉を向けただけで、笑顔を与えただけで。
私は、あろうことか、自分の醜悪さを、心の狭さを、身勝手さを、棚に上げて。
彼女に、裏切られた。だなんて。そんなことを、一瞬でも、気の迷いであっても、思い込んでしまう。
こんなの、普通じゃない。普通じゃないんだ。だって、どう考えたって、道理に合わない思考だと理解できているはずなのに。
それなのに、それなのに!!
ああ、私は、お前はいったい、なんなんだ!! 何様のつもりなんだよ! こんな醜い感情を抱えて、彼女にもらった物を、気持ちを、笑顔を汚すな!!
出ていけよ! お願いだから、消えてくれよ!! 私の中から、居なくなってくれよ…………お願いだよ、これ以上、私を苦しめないでよ。
夢。そう、夢なんだ。
夢の中の私は、失敗していた。
せっかく彼女が迎えにきてくれたのに。私の不安を、心細さを、消し去ってくれたのに。
それなのに私は、彼女に笑顔ひとつ向けてやる事ができない。友達としての役割すら、満足に果たせない。
ダメだ、彼女に顔を見せられない。
今の私はきっと、どうあがいても心配をかけてしまう。いや、心配だけならまだいい。迷惑を、重荷を、背負わせてしまうかもしれない。
携帯を取り出して、アプリを立ち上げる。画面上部を見れば、すでに時間は七時を回るところだった。
上から二番目にあった、彼女の名前へと触れる。ああ、許してほしい。でも、あんたには、あんたにだけは、顔を見せたくないんだ。
今の私を、見てほしくないんだ。
一度文章を打ち込んで、少し考えてから、全て消した。体調を崩した、ではダメだ。それでは結局、心配をかけてしまう。なにより根っから善人な彼女のことだ、きっと何もかもを放り投げてでも、看病しにきてしまうだろう。
でもそれは、ちょっとだけ、嬉しいかもって。自分の想像の中で起きた出来事に、少しだけ心が軽くなる。でも、それは彼女の善意を踏みにじることで。そんなことを望んでいる私に、またしても、嫌悪の感情が噴き上がった。
そして頭の中でチラリと、欲望の声が囁いた。
彼女の時間を、独り占めできる。なんて、私の心を揺り動かす、悪魔の言葉が。
それを振り切って、再度文章を打ち込む。
恐ろしいよ、心が痛い。あの子に、弦巻こころに、嘘をつくなんて。
でも、その方が何万倍もましなんだ。
彼女に、私の涙を見られてしまうよりは。実際に流したものではなくても、心の中だけに存在するものでも、泣いているところを、見られたくはない。
意を決して、メッセージを送った。
『今日は用事があるから、学校を休むよ。だから一緒に登校できない、ごめんね。それと、夜まで家にいないし、遊びにきても入れられないから気をつけて』
あぁ、嘘…………ついちゃった、な。
彼女からのメッセージ通知を切って、アプリを落とす。これで彼女がなにか返信してきても、私にはわからない。もしも彼女からのメッセージをみたら、私はきっと、罪悪感で潰れてしまうだろうから。だから、これでいいんだ。
学校へと連絡を入れる。今日は体調が悪いので、大事をとって休みます、と。どうせ、理由なんて誰も気にしないんだから。通りやすい体調不良にでもしておくのが一番だろう。
今日は担任の担当科目がないわけだし、嘘があの子に伝わることもない。体調不良って嘘が広まることもないだろう。きっとみんな、私のことなんて…………どうでもいいだろうから。
携帯の電源を切って、布団で体を包み込む。昼まではこうして、寝ていよう。予知夢を見たから、寝たはずなのに寝た気がしないんだ。眠気が強い。
あっ、お茶こぼしちゃったんだっけ。まぁ、いいか。あとで片付ければ。シミがついても、超能力でなんとでもなる。なんて、前までは頼りすぎちゃダメって思ってたはずなのに…………気を抜いたらすぐに堕落するんだから。本当にダメだなあ。
あぁ、なんだろう。ちょっと、疲れたかも。変だよね、まだ朝で、私は何もしていないのに。
眠るのが少し怖いけど、起きているのはもっと怖い。あの子から目を離したくないって思っているのに、彼女に見せる顔がないんだ。
でも、それは今日だけ。
今日だけだから、許してくれると嬉しい。
きっと、寝て起きた頃には。
明日には、いつもの私に────。