────見られた。見られて、しまった。
私の借りているアパートの一室の、その扉の前に。彼女は、弦巻こころは一人で立っていた。
────なんで、どうして。今日は遊びにきても迎えられないって、連絡していたはずなのに…………っ!
あまりにも予想外の出来事に、足が止まる。きっと今の私は口を半開きにして、間抜けな顔をしていることだろう。なんか、今日だけで何回も似たような表情をしている気がするけど。
ああ、いや、それどころじゃなくて。
両目から今も流れ続けている涙を、服の袖で拭い取る。泣いているところを見られたくない。それは自分自身に課した誓いが理由であり、私の自尊心が原因でもある。
もう、手遅れだと思うけど。
「美咲、どうしてそんな顔で泣いているの?」
それは私が、あの夢の中で見たものと同じ台詞で。私が彼女に嘘をついてまで、避けたかった未来で。
それが今こうして現実となってしまったことに、体の震えが止まらない。この子と一緒に暮らす一日を犠牲にしてまで、涙を隠したかったというのに。結局私は、彼女の前では嘘を貫き通すことすら出来ないんだ。
回らない頭で考えて、それから口を開く。
「泣いてなんか、ない」
「嘘よ。なんでそんな風に誤魔化すの?」
「誤魔化してなんか…………ない。これは、たまたま、埃が目に入っただけで」
「それも嘘。ねぇ、なんで泣いているの?」
「…………嘘じゃ、ない。本当に、大したこと、ないから」
「そう? あたしの目には、とてもそうは見えないけれど」
誤魔化そうとして嘘をつき、その嘘を通すためにまた嘘をつく。いやだ、嘘なんて吐きたくないのに。そんな私の意思に反して、口は次から次へとその場しのぎの言葉を吐き出してしまう。
心が悲鳴をあげる。私の口から出た言葉は、私自身を追い詰めていく。だって…………そう、嘘を嘘で誤魔化そうとするなんて、まるであの二人のようじゃないか。いや、あの二人の方がまだマシだ。
だってあの二人は、少なくともそれで誰かを傷つけることなく誤魔化し続けてきたんだから。
だから…………目の前の少女一人騙すこともできず、罪悪感で勝手に自滅していく私の方が、遥かに無意味で愚かな行動をしているのだ。
一呼吸置いてから、口を開く。とにかく、話を逸らさないと。それが到底無理なことであったとしても、それでも、なんとかしないと。
じゃないと、
「ところで、どうしてウチに来たの? 何か用事があったんだったら、明日でもよかったんじゃない?」
「美咲」
「ほら、急ぎでも連絡してくれれば…………ああ、ごめん。忙しくて携帯見てなかったんだった。もしかして、メッセージ送ってくれてた?」
「…………美咲」
ああ、なんて白々しいんだ。そんなんじゃ、子供だって騙されてくれない。だって、自分の気持ちすら騙せていないんだから。
見なよ、この子の顔を。
眉を八の字に曲げて、瞳を伏せて。困ったような、悲しんでいるような。そんな表情で、私の名前を呼んでいる。
私がそうさせているんだ。私が、この子にこんな顔をさせてしまった。
笑わないと。私が笑って、この子を安心させないと。勘の鋭いこの子のことだ。私に何かがあったんだって、気づかれてしまう。
いや、いっそ気づかせてしまえば。そうすればこの子は、私に構ってくれるんじゃないか? そうすれば、私がこの子の時間を独占でき────違う、そんなのはダメだ。
こころの時間は、彼女自身のものなんだから。楽しいことを探して、面白いものを見つけて。子供のように笑って、子供のようにはしゃいで。
私はそんな彼女を、側で見ていたいんじゃなかったのか。
そうだ、笑えるはずだ。だって彼女が、弦巻こころがそう望んでいるんだから。そのためなら、私の感じた悲しみなんて些細な事じゃないか。
だから、無理やりでも笑顔を作る。悲しみも苦しみも、笑顔の仮面で覆い隠す。
震えそうになる口角を上げて、目を細めて目尻を下げる。そうやって笑顔を「作って」から、口を開く。
「ごめん、こころ。私いまちょっと疲れてるからさ…………せっかく来てくれたのに悪いんだけど、話はまた明日にお願い」
多少強引にでも、会話を打ち切る。
きっと私は喋れば喋るほどに、ボロを出してしまう。だったら、こうするのが一番いい。彼女から目をそらしても、見失ってしまっても構わない。
今の私を見て彼女が困ってしまうのならば、私が彼女の目の前からいなくなってしまえばいいんだ。
いまだけは、私の顔を見てほしくない。
今の私はハリネズミのようなものだ。近くにいたい、寄り添いたい。そう思っている相手ほど傷つけてしまう。私が泣いているだけで、彼女の笑顔まで曇らせてしまう。
それは、嫌なんだ。そうなってしまうくらいだったら、私は、私は────。
「じゃあ、また明日」
戸惑うこころの隣を通って、家の扉の前へと向かう。すれ違うときに、彼女の顔だけは見ないようにして。
きっと人はこれを、ただの逃避だと否定するだろう。私だってそう思う。でも、こうするしかないじゃないか。
だって…………今の私は、彼女の隣にいるのには相応しくないんだから。
「────────美咲っ!!」
だからお願いだよ、こころ。どうか、その手を離して。
荷物を持っていない方の、空いている私の片手を、彼女の両手が掴んでいる。小さくて、力の弱い手だ。ただの女の子のそれだ。
きっと振り払おうと思えば、簡単に離すことができるだろう。少し力を入れて引っ張れば、簡単に解けてしまうだろう。
でも、それが出来なかった。
金縛りにあってしまったみたいだ。繋がれた片手だけじゃなくて、全身が私のいうことをきいてくれない。
扉に向かおうと思っていた足も、鍵を取り出そうとしていた腕も。指一本、動かすことができない。
理由はわかっている。
だって私は、彼女を拒むことができないんだから。彼女が私を呼び止めてくれたんだったら、私はそれに応えてあげたい。
でも、それじゃダメだ。ダメなんだよ、こころ。
それは結局私のエゴで、私の欲求で、願望で。どこまでいっても、自分のための行動で。
君の隣に立つことで、自分の価値を認めたい。だなんて、そんな独りよがりの感情から出たものだから。
ここで手を離すことができなかったら、私はあんたが欲しいという気持ちを、抑えられなくなってしまう。
だから、お願い。
「…………はなして」
「いやよ。絶対に、はなさない」
その返答は予想通りのものだったから。だから私は、彼女に見えないように瞼を強く閉じた。歯を食いしばって、荷物を持つ手を握りしめた。
あんたの方から手を離してくれなかったら、私は一歩も動けないんだよ。
「…………お願いだからさ。はなしてよ、こころ」
「じゃあ、あたしの話を聞いてくれる?」
「…………それは、明日じゃダメなことなの?」
「ダメじゃないわ…………でも、あたしは今すぐ美咲と話がしたいの」
「…………なにそれ、意味わかんないよ」
「だって、美咲…………ううん、そうじゃないの。やっぱり、今じゃないとダメ! 絶対に、今じゃないとダメなのよ!」
「…………なんで、そんなに必死なの」
「もしかして、気づいてないの?」
何を言われたのか分からなくて、何が言いたいのか分からなくて。私はこんなに苦しい気持ちを抑えているのに、彼女があまりにも呆けた声で言ったものだから。
私は一瞬だけど、彼女のことを鬱陶しいと思ってしまった。
愕然とした。まさか、そんな。彼女のことを、弦巻こころのことを。私の大切な友達を、私はいま…………なんて、思った? 自分は心配をかけているくせに、呼び止められただけで、手を引かれただけで。邪魔だと、そう思ったのか?
…………そんなんだから私は、自分を信用できないんだ。両親にまともに愛してもらえなかった私に、人を正しく愛することなんて出来るものか。
私の彼女に向けたこの気持ちはきっと、間違えているんだろう。間違ってばかりの私だから、人を愛するやり方も知らないから。
でも、私はそのことを認めたくなくて。そんな感情を振り払うように。
ほんの少しの苛立ちを彼女へと向けて、それよりも遥かに大きな嫌悪を自分へと向けて。
なんのつもりなんだと。
正面から彼女に言ってやろうって、そう思った。動かない体を怒りで無理やり動かして、彼女の方へと振り返って。
迷惑なんだと。
そんな、心にも思っていない一言を口にしようとして。
「美咲、あなた…………ずっと、笑いながら泣いているのよ?」
その言葉で、頭が真っ白になった。
☆ ☆ ☆
涙なんて、とっくに止まったもんだと思っていた。だから、不器用でも、笑顔を作れていると勘違いしていた。
瞳から溢れた雫が頬を伝い、コンクリートの地面へと落ちる。何滴も、何滴も。つまみの壊れた蛇口のように、後から後からあふれて止まらない。
その事実が受け入れられなくて、手から力が抜けた。持っていた荷物が地面に落ちて、中身がそこらへと散乱する。でも、今はそんなことを気にしていられなくて。
空いた片腕を目元へと持っていって、無理やり顔を拭った。服の袖にいくつものシミができて…………それでも、涙は無くならなかった。
もう一度、服で顔を拭った。今度は染みが広がって、それでも、涙は止まらない。
なんで、どうして。そう思って止めようとしても、タガが外れてしまったように涙が流れて、思うようにいかない。
まるで、感情の濁流が瞳を通じて外へ出たがっているみたいだ。
私が押し殺して、胸の奥に閉じ込めようとした苦しみが。胸の内で増えてしまった悲しみが。自ら助けを求めて、体から逃げようとしている。
彼女が私に与えてくれたものは、笑顔だけじゃなかった。
彼女と一緒にいたい。その想いのために、私は弦巻こころがくれた言葉を歪めて、自分を縛る呪いにしてしまったのだ。
「笑顔」でいたい、という気持ちと。「笑顔」でなければならない、という気持ちは似たようで異なる。前者は願いでもあるけど、後者は脅迫でもあるのだから。
私は自分が信じられなかった。
だから、彼女から与えられたものに縋った。
彼女は私とは違って、間違えないだろうから。そう思ったこと自体が、私の犯した誤ちであるということにも気付かず。
やっと、気づいた。
私はこんなにも寂しくて、こんなにも泣きたかったんだ。
だからこれは簡単なことで、当たり前の結果なのだろう。
単に私が、これ以上我慢できなくなったという。それだけのことなんだ。
確かに。あの人が与えてくれた魔法の言葉は、これ以上私の心に負の感情が芽生えることを止めてくれた。
こころが私以外に笑顔を向けても、私のいないところで楽しいことを見つけても。私は昨日のように、暗い感情に心を支配されることはなかった。
だけどそれは、決して無関心になったわけではない。悲しいことは悲しいし、寂しいものは寂しい。ただ、それが度を過ぎた激情ではなくなっただけの話で。
いままで溜めてきたものが。私自身がツケにしていたものが、全て消え去ったわけではなかったんだ。だから私は、彼女のあの言葉でこんなにも動揺してしまった。
心に閉じ込めていたものを、解き放ってしまった。
この涙は、私がいままで溜めてきた色々な想いが詰まったものなのだろう。それは私が想像していたよりも膨大で、想像できないほど激しくて。
ああ…………でも、それでも。
それが私の勘違いであっても、思い込みが生み出した虚像であったとしても。
彼女の、弦巻こころの前だけでは────。
「とまって、とまってよ…………」
情けない声だった。幼子のような、迷子のような。自分でもそう思うんだから、彼女にはもっと頼りない姿に見えたことだろう。言葉にして、後悔した。だけど、止まらなかった。言葉も、涙も。
笑顔じゃないと、笑っていないと。
誓いとか、約束とか、責任とか。そういうものが関係なくても、私は自分の意思でそうしたい。彼女に笑顔を見せたい。私だって笑えるってことを、証明し続けたい。
だけど────。
頭も、心も。泣きたくないって、そういっているのに。
肝心の体だけは、いうことを聞いてくれなかった。足からも力が抜けて、思わずその場にへたり込む。彼女と繋いでいた腕だけが、釣り糸で垂らされているかのように、宙ぶらりんになって揺れている。
そこで、悟った。
両親が離婚した時も、妹たちと離れ離れになった時も。
友達を失ったあの時でさえ、私は泣かなかったというのに。泣けなかったと、いうのに。
だから、大丈夫だって。私は弱くないって、そう思っていたのに。
彼女の前の私は、こんなにも無力だ。
☆ ☆ ☆
「
ふわり、と。私の顔を何かが包み込んだ。
それは柔らかくて、温かくて。ほんのちょっぴり、いい匂いがして。
とても、優しい感触だった。
誰かの腕が、私の頭の後ろへと回されている。傷つけないように、痛みを与えないように。そういう風に気を使った、気持ちのこもった抱擁だった。
まるで、親が子供にするような。そんな、慈しみに溢れた。私は、わたしは、これを、どこかで。わたしは、この感覚を、知って…………?
「────おかあさん?」
そんなことはないと知っていながらも、そう口にすることを止められなかった。舌がもつれて、ハッキリとした声にはならなかったけど。それはまるで、子供の頃に…………いや、もっともっと、幼かった頃に戻ったみたいで。
相手が誰だか知っているのに。わたしはその人から、今は変わってしまった…………優しかった頃の母親の面影を感じて、仕方がなかった。
自由のきく範囲で顔を動かして、上を見上げる。
そこにあった顔は、やっぱり…………彼女のものだった。地面に膝をついたわたしのことを、見たこともない表情で見つめている。
不思議だ。この子のことは何回も、抱きしめてきたのに。いま感じているものは、これまで彼女から感じたことがないものだ。
トクン、トクンと。わたしの耳を打つ、この音は。
そっか。わたしの方が身長が高いから、こんな風にされることはなかった。抱きしめたことはあっても、抱きしめられたことはなかったんだ。
わたしの頭が、彼女の胸元へと収まっている。聞こえてくる心音が、わたしの心を落ち着かせる。
わたしは、私は。ずっとこんな風に、抱きしめられることを────。
私の目の前で、彼女の口が言葉を紡いだ。
「泣きたいときは、泣いてもいいの。あたしは、そんなことであなたを見捨てたりしないわ」
「だって、どれだけ辛い時でも。あたしが美咲を…………笑顔にしてあげるから」
「だからほら、もっと強く抱きしめてもいいの。あたしに甘えても、いいんだから」
────ひとりで、苦しまないで。
その言葉を、理解して。
私は彼女の胸の中で、声を上げて泣いた。