「あの、こころ…………」
「ん、どうしたの美咲?」
「そろそろ…………その、手…………はなしてくれても」
「いやよ、絶対にはなさないわ」
「あ、うん…………わかりました…………」
どうしてこうなったんだろう。いや、理由はわかっているんだけど。それでも、疑問に思わずにはいられなかった。
視線を横へと向ければ、私の大切な友達がそこに座っていた。片手で私の手を握って、もう片方の腕を私の腕に絡めている。
それはまるで、彼女が私に甘えているように見えて。さっきまでとは立場が逆になっちゃったな、なんて頭の片隅で考えながら。
こころはいま、私の部屋の中にいる。それ自体は、いつものことだけど。でも、私はいつもとはちょっと違う気持ちで彼女からの好意を受け止めている。
何がそんなに嬉しいのか。目を細めて微笑む彼女の横顔を、それとなく見つめる。
今更ながら思うことだけど。これ、本当に友達の距離感なんだろうか。友達が少ない私には判断がつかないけれど、少なくとも普通の友達はこういう繋ぎ方をしないんじゃないかな。いや、そこら辺の知識は全部創作物から補完したものだから、現実が全くその通りって訳でもないんだろうけど。
今のところ、他の人たちが友達同士でこんな風に接しているのを見たことがないから、よほど親しい関係じゃないと出来ないことなんだろう。
だからもし、彼女がこんな風に振る舞う「友達」が私一人なら。それは、とても嬉しい。
私が彼女を特別な存在だと感じているように、彼女もまた、私のことを特別な存在だと感じてくれているんだったら。私はそのことを、誇りに思う。
でも、この状態になってからすでに三十分は経ってしまっている。
もともと日が沈みかけていた空は、既に星が見えるほど暗くなり、建物から漏れる人工的な光が街を照らしている。
私は別にこのままでも構わらないけど、流石にそろそろ話をしないとダメだろう。明日も学校があって、やらなきゃいけないことは沢山あるんだから。
いや、というかアレだ。私ってさっきまでキグルミの中に入ってバイトしていたわけだから。
いくら超能力である程度温度が調整できていたとしても、その、汗はかくわけで。
もしかして今の私、ちょっと汗臭いんじゃないか? いや、ちゃんとバイトが終わった後にそこら辺はケアしたけどさ。
でも、女の子としてはやっぱり気になるわけで。いや、うん、ああ、ひょっとしなくても私…………こんな状態で彼女に抱きしめられたんだよね? なんなら、今も抱きつかれているようなものだし。
うん、ダメだこれ。
お風呂はいってこよう。
「ねぇ、こころ」
「いやよ」
「いや、まだ何も言ってないじゃん」
「だって美咲ったら、手をはなして〜って意地悪ばかりいうじゃない? さっきはあんなに激しく抱きしめてくれたのに」
「事実だけど、言いかたってものがあるでしょ…………お風呂、入ってきちゃうから。私いま、ちょっと汗臭いし」
「そうかしら、あたしは気にならないけど」
「あんたが気にしなくても、私が気にするの。ほら、話なら出た後に聞いてあげるから」
「仕方ないわね…………残念」
こころは名残惜しそうな声を出しながら、私の腕に絡めていた手をゆっくりと解いていく。その動きがなんだか、おもちゃを取り上げられた子供のように見えてしまって。なんだかおかしくって、思わず笑い声が漏れそうになった。
彼女が拗ねたりしたら困るから、必死で抑えたけれど。いや、そもそもこの子は拗ねたりするのだろうか。それっぽい感情は見てて感じるけど、どちらかというと…………まぁ、子供っぽい彼女のことだ。自分が何を感じているのかさえ、よく分かっていないのかもしれない。
人の心の機微には鋭いくせに、自分のことは鈍感なんだから。そういうところがあるから、目を離せない。
「すぐに出るから、ちょっと待ってて」
それだけ言い残して、部屋を出る。後ろ手に扉を閉じて…………私は、その場から動けないでいた。
扉に背中を預けて、ズルズルと滑り込むように地面に尻餅をついた。
顔に熱が集まっていくのが、よく分かる。ここに鏡がなくてよかった。もしも今の自分の顔を見てしまったら、私は更なる羞恥心に襲われてしまうだろうから。
あんなに泣いたことなんて、いつ以来だろうか。分からない。少なくともあの夜からは一度もないはずだから、小学生の頃よりも昔のことになるのだろう。
あんな、誰が見ているかも分からない場所で。しかも、同い年の女の子に抱きついて。
幼い子供のように、親に慰められるように。
大きな声をあげて泣くなんて…………私はもう、高校生になったっていうのに。ほんと、恥ずかしくて仕方がない。
私は自分で感情をコントロールできている気になっていて。その実、心に押し込めた気持ちを無理やり抑えつけていただけだった。
悲しかった。
両親が私たちを愛していなかったことも、妹たちと離ればなれになってしまったことも、大切な友達を失ってしまったことも。
後悔していた。
なんでも出来るのに何もしなかった自分自身に、傷つくことを恐れて行動しなかった自分に、人を信じようとしなかった自分に。
それはずっとずっと、私の心の中で燻っていて…………そして、私が見ようともしなかったものだから。だから私は、こうして無様にも、彼女の目の前で泣いてしまった。
そのことが恥ずかしくないといえば、嘘になってしまう。これ以上涙が出ないってくらい泣いて、これ以上声が出ないってほど叫んだ。それが恥ずかしくないんだったら、この先の人生で羞恥心なんて感じる機会は一生訪れないだろう。
彼女の顔を正面から見られなくて、彼女の胸元についた涙の跡を見るだけで、火が出そうだった。例え話じゃなくて、本当に超能力が暴走しそうなくらい恥ずかしかった。
だけど、後悔はしていなかった。
自分の胸元に手を当てて、目を閉じる。それまで感じていた重みが、心に蓄積していたありとあらゆる蟠りが。全てなくなったように感じる。
これ以上ないほど、晴れやかな気持ちだった。
自分が抱えていたものが、勝手に積み重ねていたものが。涙と共に、叫び声と共に吐き出されて…………どこかに消えていったみたいだった。胸の中を占めていた想いはなくなって、そこにはぽっかりと穴が空いてしまったようだった。そして────。
そのかわりと言っては、なんだけど。
『泣きたいときは、泣いてもいいの。あたしは、そんなことであなたを見捨てたりしないわ』
『だって、どれだけ辛い時でも。あたしが美咲を…………笑顔にしてあげるから』
『だからほら、もっと強く抱きしめてもいいの。あたしに甘えても、いいんだから』
────ひとりで、苦しまないで。
こころ、君はいったい私になにをしたんだ。いや、違うんだろう。彼女が何かしたんじゃなくて、私の方が変わってしまったんだ。
君の言葉を思い出すだけで、君の事を想うだけで、君の笑顔を見るだけで。
全て吐き出して軽くなってしまった胸の空白が、熱いもので満たされていくのを感じる。
心が、温かい。熱くて熱くて、火傷してしまいそうなくらいだ。
これが、満たされるという事なのだろう。
胸の中から溢れてくる熱が、想いが、身体中へと巡っていく。全身が火照って仕方がない。
この熱こそがきっと、私が失ってしまったもの。そして、心の底から取り戻したいと思っていたもの。
こころ、君はまた一つ…………私に大切なものを取り戻してくれた。
この感情に名前をつけるとしたら。
────人はきっと「愛」と呼ぶのだろう。
それがどんな意味を持っているのか。子供よりも愛情に疎い私には、きっとまだ分からない事なんだろう。自分で自分の気持ちが分からないなんて、おかしな話だけど。でも、人って多分…………みんな、そんなものだから。
家族のように、友達のように、恋人のように。その全てが正しくて、きっと全てが間違っている。
この気持ちは、この感情は。そんな簡単に言葉で表せるものじゃないと思うから。
だから私はただ…………君から与えられたこの気持ちを、君へと与え続けたいと思う。与える、だなんて。ちょっと傲慢かもしれないけれど。
たぶん、それくらいが丁度いいんだ。人を愛するなんて、私には不慣れなことだから。知らないということは恐ろしくて、少しでも躊躇ってしまったら、私は自分では前に進めないだろう。
いや、今の私だったら。あるいは、一人でも進んでいけるのかもしれない。彼女から貰ったこの熱を、私が忘れてしまわない限り。
熱を掴もうとして、服ごと胸元を強く握りしめた。すぐに戻るなんて言っておいて、あまり時間をかける訳にはいかないけど。
いまはもう少しだけ、この温かさに浸らせてほしい。
心地いいよ、こころ。これでいつでも君を、そばに感じられる。なんとなくだけど、そう思う。
────ああ、愛って。こんなにもあったかいんだ。
☆ ☆ ☆
ノズルから吹き出す水が、火照った私の体に降り注ぐ。冷たくて、気持ちいい。
顔から火が出る、なんて表現がある。主に恥ずかしいとか、そういう感情で顔が真っ赤になった人は、火が出てきそうなほど…………つまりは、顔が燃えているようにすら見える。ということだ、たぶん。
ただの水が私の体に触れるたびに、その部分から湯気が登っていくのが分かる。まるで、たくさん運動したあとのように。私の体は熱を持って、それが水で奪われいるんだろう。
風呂場の壁に手を当てて、頭からシャワーの水を被る。髪の毛が濡れて、毛先から水が地面へと滴っていく。
目の前の鏡に目をやれば、そこには嬉しそうに笑うひとりの女の子の顔が映っていた。いや、誰だよあんた…………って、ああ、私か。
私って、こんな風にも笑えるんだなって。その事実が嬉しくて、笑い声が出た。
狭くも広くもない浴室に、高い笑い声が静かに響く。一人で笑うなんて、なんか、バカみたいだけど。
こんな気持ちに向き合うのも、悪くはない。
シャワーの元栓を閉じて、軽く頭を振るって水気を飛ばす。こんなことをしなくても水滴は吹き飛ばせるけど、いまはこうしていたかった。
浴槽へと視線を向ければ、ちょうどいい塩梅に水が溜まっているところだった。
蛇口を閉じて、浴槽の水を視界に収める。
瞳に力を込めて、凝視すれば…………視点の先から泡が立ち、徐々に勢いを増して極所的に沸騰を始める。
感覚的に「もういいかな」と思ったところで目を閉じ、再び開ければ。それは立派なお湯となって、先ほどの私のように湯気を立て始めていた。
片足からゆっくりとお湯に浸かり、全身を入れる。湯加減は絶妙で、こんな風に使えるから超能力は便利だなって。そんなことを考えた。
あとはまぁ、少し体を温めてから出ればいいか。なんて、体から力を抜いて瞳を閉じようとして。
「美咲! あたしも入るわね!」
「…………は?」
突然開いた浴室の扉の方向へ視線を向けて、目を見開いた。なんか聞き覚えがある声が聞こえてきた気がするけど、えっ、いや、は?
身体がずり落ちて、顔の半分が湯船の中に浸かる。その状態にも関わらず、私の頭は混乱していて。
視線の先で楽しそうに笑う彼女の一糸まとわぬ姿から、私は目が離せないでいた。
えっ、なんで?
「ちょ、ちょっと、ま、えっ、こころ? なんで? あれ、ここ私の家…………あっ、いや、違う、そうじゃない! でも…………えっ、なんで!?」
「せっかくなんだし、一緒に入りましょ!」
いや、折角ってなにが!?
そう言いたいけれど、口は全く動かなくて。
浴槽の中で自分の体勢を整えながらも、私は彼女の体から目が離せなかった。いや、同性だから悪いことじゃないんだろうけど。それにしたって、もうちょっと遠慮しなよ。
冷静な部分の自分を押しのけて、冷静じゃない自分が彼女から視線を離そうとしない。
こころは私の目の前で、鼻歌を歌いながら自分の体を洗い始めた。どこから取り出したのか、見覚えのない石鹸とタオルが…………彼女、今日は手荷物がなかったはずなのに…………あっ、あの黒服の人が持ってきたのか! 余計なことを! でかした!! いや、なにがだよ!!
混乱している頭の中で、漫才を始めた自分を無視して。
ようやく自我を取り戻した私は、両目を閉じて彼女から背を向けた。そのまま、口を開く。
「いや、なんで普通に入ってきてんの!? 入りたかったんなら、言ってくれれば私の後に」
「だって、こうした方が早く済んでいいじゃない? あたし、早く美咲と話がしたいもの。それに、一人で入るより二人で入る方がきっと楽しいわ! 美咲も、そう思わない?」
「それは、そうかもしれないけど…………」
「じゃあ、いいじゃない!」
いやいや、なにをあっさり説得されてるんだよ。ダメに決まってるじゃん…………ん? 逆に、なんでダメなんだ? 私と彼女は同性なんだし、別になにもおかしいところは…………ない、よね?
うん。いきなりの事だったからちょっと…………というか、かなり動揺してしまったけれど。よくよく考えてみたら、別に構わないんじゃないだろうか。
だってほら、彼女も楽しそうにしているし。
誰かと一緒にお風呂に入るなんてすごく久しぶりだから。正直ちょっと、期待しているところもある。
その相手が友達なら、なおさら。
あとは私の理性さえ持てば…………いやまて、なんで理性が必要なんだ。
本当に一緒に入って大丈夫なのか?
そんなことを悶々と考えているうちに、シャワーの水温が止まる。でも、私はそのことに気づけなくて。
「おじゃまするわね」
いつのまにか目の前に迫ってきていた彼女の声を聞いて、目を見開いた。
身長に対して発育のいい肉体を、正面から見つめてしまう。やっぱり肌、白いんだなって。
そんな現実逃避をしている私をよそに、彼女は困惑していた。膝まで浴槽に入れた状態で、探るように中を見つめている。私の視線の先で、口が開く。
「あら、二人で入るのには少し狭いのね」
なるほど。そもそも一人暮らしが前提だったから、風呂場はそこまで大きくない。必然的に、浴槽も小さいものになる。彼女の家は金持ちなんだろうから、もっと大きな…………それこそ、温泉みたいな浴場があるんだろう。
そのことを思えば、この困惑も納得がいく。だから、私が出る。なんて考えはもう、頭の中に思い浮かばなかった。だってやっぱり、私も一緒に入りたいし。
「あ、うん、ごめん。ちょっと詰めるね」
「あっ、いいことを思いついたわ!」
「えっ、ちょっ、なに…………っ!?」
彼女が私に背を向けて、そのまま腰を下ろす。彼女がその言葉を口にしてから、すぐのことだったから。その突然の行動に私は、反応できなくて。
彼女の後頭部が、私の胸元へと収まる。
お湯の中でも感じる、人の体温が。私の体へと密着して、お互いに熱を伝え合う。
彼女は首を傾けて、呆然とする私の顔を見上げ…………そして、口を開いた。
「どう? こうすれば一緒に入れるでしょ? 美咲を近くに感じるし、いいことばかりね!」
彼女から漂う、私とは違うシャンプーの香いと。体の前面に感じる、彼女の体温が頭の中を埋め尽くして。
「…………うん、そうだね」
ようやく絞り出すように口にしたその言葉を最後に、私は考えることをやめた。