奥沢美咲は、超能力者である   作:親指ゴリラ

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大きな輪になって 2

 

 カーテンの隙間から差し込んだ僅かな光だけが、部屋の中を照らしていた。

 

 ベッドに腰掛ける私の隣を、テディベアを抱きしめて眠るこころの上を通って。太陽の放つ輝きが生み出した、一条の煌めきが。私の心を照らすように、暗闇を切り裂いていく。

 

 いまの私たちのようだ、なんて。そんな風に思ってしまうのは、少しロマンチスト過ぎるだろうか。

 

 太陽が彼女で、暗闇が私の心の中。もっとも、それは既に過去のことだけど。

 

 光が差し込んだ先。照らされた卓の中心には、グラスがトロフィーのように堂々と鎮座している。部屋に差し込んだ光はグラスへと降り注ぎ、反射して、部屋の床に光模様を作り出していた。

 

 

 私が一昨日壊してしまった、あの思い出のグラスだ。

 

 修復不可能なほどに砕けていたはずのそれは、今ではもう傷一つ見当たらない。直せないと思っていたものが、失ってしまったと後悔していたものが。在りし日のように、輝きを放っている。

 

 取り返しがつかない、そう思っていた。だって私は、いつも間違ってしまうから。

 

 どれだけの後悔を重ねて、心を翳らせて生きてきただろうか。なにも失いたくないと思っていたのに、私の人生はいつだって…………喪失感に満ちていて。

 

 友達も、家族も、居場所も。自分自身の望みさえ。見失って、手放して。

 

 そうして歩いてきた道が、ここに繋がっていたのは…………いったい、どれだけの奇跡を積み重ねて出来た軌跡なのだろうか。

 

 

 弦巻こころという太陽に、出会えたのは。

 

 なにもかも取りこぼしてきた私の人生の中で。きっと、唯一と言っていいほどの幸運なんだと思う。

 

 

 時計の針の音だけが響く部屋の中で、瞳を閉じる。瞼の裏に浮かび上がるのは、昨日の出来事。想起するのは、彼女の言葉。

 

 私に過去(宝物)を取り戻させてくれた、魔法の一言。

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

「美咲、これはどうしたの?」

 

 

 珍しいと思った。こころが眉間にしわを寄せて、私の方へと視線を向けている。同時に、彼女にはその表情が似合わないな、なんて思いもした。彼女の言葉を借りるならば、笑顔が一番というやつだ。

 

 見られたくなかったな。そう思って吐き出しそうになったため息を、ぐっと飲み干す。彼女が指差した先には、割れてしまったグラスの破片が、袋の中に集められて放置されていた。

 

 少し目を離した間の出来事だった。

 

 予知夢を見てしまったから。そう言い訳するのは簡単だ。だけど、目の前の現実は変わらない。捨てることを忘れていた過去の誤ちが、再びその姿を現していた。

 

 トレーを持っている両手を、無意識のうちに握りしめていたのだろう。軋むような音がして、我を取り戻す。

 

 そして今度は、瞳を伏せて。深呼吸をするように、長いため息を吐き出した。片手で眉間を軽く揉んで、強張った顔を元へと戻す。

 

 瞳を開けば、彼女は心配そうな顔で私を見つめていた。安心させようと、笑顔を浮かべる。

 

 先ほどまでの私だったら、もっと取り乱していたのだろう。みっともなく呼吸を荒くして、尻餅をついていてもおかしくない。それくらい、私は余裕を失っていたのだから。

 

 でも、それは既に過去のこと。

 

 今の私には、彼女の温もりがついている。あの優しさに触れて、その想いを信じることができたから。だから私はもう、心を乱すようなことはないだろう。

 

 まぁ、あまり愉快なものでもないけど。

 

 見つかってしまったのなら、仕方がない。いっそのこと、全部吐き出してしまうのも吝かではない。

 

 どこから話せばいいだろうか。そんなことを考えて。

 

 卓の上に飲み物を置きながら、私はなるべく平静を心がけて口を開いた。

 

 

「それね、割っちゃったんだ…………私の不注意。尖ってて危ないから、触らないように気をつけて」

 

 マグカップから漂う甘い匂いが、心を落ち着かせる。ココアは好きだ。妹たちもそうだった。私は断然ホット派だったけど、二人はいつも冷たいものを飲んでいた。

 

 少しだけ口にして、隣にいる彼女へと視線を向ける。パジャマ姿の彼女は、とても可愛らしい。

 

 さらにいえば、すごくお金持ちに見える。天幕付きのベッドで横になっている姿が、容易に想像できた。庶民的な私の部屋で、彼女だけが浮いてしまっている。ワンピースかぁ…………私には似合わないだろうな。妹には、着せてあげたいけど。

 

 そんな風に考えて現実逃避をしていた私を、咎めるように。彼女は疑問に思ったことを、そのまま口にした。

 

 

「これ、どうするの?」

 

「捨てるんだよ。使い物にならないからね」

 

 捨てる、と。そう口にした時の私は、どんな顔をしていたのだろうか。胸の奥をチクリと突き刺した痛みが、ジワジワと広がっていくのを感じる。

 

 ただ、その痛みもすぐに消えてしまう程度のものだ。今日寝て、明日起きた頃にはもう無くなっているだろう。

 

 だって、今の私には必要ないものなんだから。捨てられなくて、諦めたくないものだったけど。その想いも結局、ただの未練に過ぎない。

 

 諦めが早いところだけは、幾つになっても変わらない。欠点でもあるこの性格が、今はありがたかった。

 

 

「美咲はそれでいいの? 大切なものじゃなかったの?」

 

 そう聞いてくる彼女の瞳には、なんとも言えない感傷が映り込んでいる。いや、それは正しい表現ではないのかもしれない。

 

 彼女の瞳に映っている私の浮かべる表情こそが、ひどく感傷的なのだ。落ち込んでいることが、一目でわかってしまうほどに。

 

 だから、彼女が感傷的であると錯覚してしまったんだ。そんなこと、あるはずがないのに。

 

 彼女にはまだ家族のことも、妹たちのことも話していないのだから。あの夏の夜の経験から、少しは伝わっているのだろうけど。でも、あの時は私の寂しさや苦しみが占める部分が大きくて…………詳しいことは何も知らないはずだ、たぶん。

 

 だから彼女は、私がどうして悲しんでいるのか分からないんだと思う。大切なものが壊れてしまった、そういう時の気持ちは理解しているんだろうけど。

 

 だからこれは私だけの悲しみで、私だけに与えられた苦しみで。私自身の気持ちの問題に他ならない。

 

 彼女はただ、私に尋ねているだけ。

 

 本当に、それでいいのか。大切なものを、捨ててしまえるのか。そんな、単純な問い。それを投げかけてきた彼女の瞳は、とても澄んだ色をしていて。

 

 ああ、私はきっと…………この瞳の前では、嘘をつけないんだと思う。私の心の奥底を覗き込むような、この黄金の輝きの前では。私の強がりなんて、張りぼてのようなものだろうから。

 

 舌の上に残るココアの甘さを、なんとも言えない苦味が上書きしていく。やるせない思いとは、こういう気持ちのことなんだろう。

 

 その苦味を吐き出すように、膿を体から取り除くように。

 

 色々な感情を込めて、たった一言を呟いた。

 

 

「捨てたく、ない」

 

「じゃあ、直しましょう! もう一度使えるようになれば、悩む必要もないじゃない!」

 

 君があまりにも、当たり前のようにそう言うから。だから私も、前を向いて歩くことができる。後ろを振り向いたり、立ち止まっている余裕はないんだ。

 

 だって、君の隣を歩いていきたいから。

 

 君がくれた勇気と、あの人がくれた勇気を。ここで使おうと思う。

 

 

 

「…………そうだね。こころの言う通りだよ」

 

 

 これは私からの、過去との決別。でも、それは大切な思い出を諦めるという意味じゃない。

 

 なんでもすぐに諦めて、出来ることをやろうとしなかった。そんな、怖がりで臆病で心配症な…………心の弱かった私との、別れの儀式。

 

 失うことを考えるんじゃなくて、取り戻すことを考える。溢れ落ちてしまったのなら、拾いにいけばいい。

 

 好きなものを諦める意味も、そのための言い訳を探す必要もない。

 

 始める前から諦めてしまうなんて、もう二度としたくないから。

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

 何を悩んでいたんだろう。本当に、そう思う。喉元過ぎればなんとやら、というやつだ。

 

 私の抱えていたあの葛藤は、なんだったんだろう。そういう風に考えることができるのも、全てが終わったことだから。

 

 諦めなかった先に、どんな結果が待っていたのか。

 

 それは私の目の前にあるこのグラスが、証明してくれている。

 

 

 正直、どういう理屈で直ったのかは私にも分からない。念動力とか、テレパシーとか。そういう分かりやすい超能力とはまた別の何かによって、私の思い出は息を吹き返した。

 

 直したい、取り戻したい。

 

 諦めたくない、捨ててしまいたくない。

 

 未練でも感傷でもなんでもいい。私はただ、これ以上言い訳を重ねたくないから。

 

 諦めてしまったその先で、そのことを悔やむ日々を送りたくないから。

 

 夢中だった。というよりも、必死だったのかもしれない。どっちでもいい。こんな風に何かに取り組めるほどの熱意が、私の中にも存在していたことが何よりも驚きだった。

 

 何をしたのかは、覚えていない。

 

 ただ瞳を閉じて、強く念じた。妹弟たちと一緒に卓を囲んで笑いあった日々の光景を、心の中に思い浮かべた。

 

 閉じた瞳が燃えるように熱くて、心の中はもっと熱くて。その熱が引いていく頃には、もう全てが元どおりになっていた。

 

 

 念動力を使おうとして…………思い直す。ベッドに下ろしていた腰を持ち上げて、自分の足で卓に近づく。

 

 グラスを持ち上げて、少しだけ眺める。思い出というものは、物に宿るものではないんだろう。だけど私の瞳には、あの頃の思い出が映像のように流れていて。

 

 元どおりになったグラスを通して、私は過去を見つめていた。

 

 出来ないなんて、思い込まなければ。もしかしたらこの思い出は、今へと続いていたのかもしれない。

 

 これまで何度も考えた。私が勇気を出せていれば、何か行動を起こすことが出来ていれば。そんなありえない「もしも(if)」を、昼に夜に思い浮かべた。そんな事をしても、何も変わらないと知っていながら。私は自分に都合のいい空想へと逃げ続けていた。

 

 だから今度は、こちらへと引っ張ってしまえばいい。手が届かないなら、届くところまで近づけばいいんだ。

 

 取り戻せばいいんだ。この手元にあるものと同じように。

 

 思えば彼女は最初から、そう言っていたではないか。

 

『あなたってとても心配性なのね。その気になればなんでも出来ると思っているのに、上手くやれるって自信はあるのに、それを行動に移す勇気がないの』

 

 本当にその通りだったよ。私に必要だったのは、行動する勇気だけだった。それだけで、こんなにも上手くいった。

 

 やってみなければ分からない。その言葉の意味を、ようやく理解できた気がする。

 

 

 自分の手で、グラスを食器棚へと戻す。

 

 時計の針は七時を回っていた。少しだけ、物思いに耽りすぎた。

 

 カーテンを開ければ、光が部屋の中を照らした。なんだか、いい一日になりそうな気がする。

 

 

「ん…………みさき? おきてるの?」

 

 眩しさで目が覚めたのだろう。ベッドの上で上半身を起こした彼女は、片手で目を擦りながら私へと話しかけてきた。片手にテディベアを抱き寄せた姿は、彼女の幼げな容姿に拍車をかけている。

 

 私は窓へと背を向けて、彼女へと振り向いた。そして、私なりの最高の笑顔を浮かべて…………声をかける。

 

 

 

「おはよう、こころ。今日はいい天気だよ」

 

 

 一緒に、楽しい事を探しにいこう。




 美咲が色々吹っ切れたというお話でした。

 実際、超能力という力を持っている彼女にできないことなんてほとんどないんですよね。これまでそうしていなかったのは、彼女が勇気を持てなかったから。自分の心に正直になれなかったから。ほんとうに、たったそれだけの理由なんです。
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